TKOPEACENEWS
  3面 NO.26/02.3.27発行

「砂川基地闘争の記録」 故・石野昇さんの報告

土地に杭は打たれても心に杭は打たれない

石 野  昇 氏(元・砂川基地拡張反対同盟宣伝部長)(元・三多摩労働組合協議会議長)

 元三多摩労働組合協議会議長・石野昇さんが3月13日午後10時22分病気療養中、自宅で逝去されました。石野さんは、1955年米軍立川基地拡張計画が突然発表され、その反対闘争の先頭に立って「砂川闘争」を引っ張りその計画を断念させるなど闘志の人でもありました。その後、三多摩労協議長に就任され三多摩地域における労働運動、平和運動、とりわけ原水禁運動においては昨年の世界大会に参加されるなど核兵器廃絶には生涯かけて取り組まれました。核兵器をもつインド、パキスタンの対立、アメリカの核使用計画の策定、小型核兵器の開発など核をとりまく状況は非常に厳しいものとなっています。こうした中で石野さんが永眠されたことは残念でなりません。私たちは、石野さんが生涯平和運動にかけられた熱意を忘れずに運動を引き継いで行くことを決意したいと思います。
 標題は、石野さんが「砂川闘争」について闘いの足跡として書かれた報告書があります。米軍横田基地撤去など現在の運動にも非常に参考になると思い、全文紹介することとします。


                    故 石 野  昇さん
          ■略歴
          元砂川町議会議員、後に合併して立川市議会議員
          砂川闘争反対同盟宣伝部長
          全電通東京地方支部委員長
          三多摩労協議長
          全電通退職者会中央協議会事務局長
          法務省人権擁護委員

 飛行場をもって帰れ
 1955年(昭和30)4月30日、統一地方選挙が行われ、町長に宮崎伝左衛門氏が当選した。私も町議に立候補して当選した。5月4日、町長宅に調達庁の川畑立川事務所長が訪れ「この度は町長に当選し、おめでとうございます。」との表敬訪問をおこなったが、その中で「実は立川基地を拡張することになり、ぜひとも協力していただきたい」とのことで、つまり町の中心部である部落としては、四番組地区と五番組地区を接収するということであった。当選おめでとうまではよかったが、基地拡張案をぶらさげてくるとは何事だ、人を馬鹿にするのもほどほどにしろと町長は「ご返事しかねる」と受け流した。 この話しはただちに町中に広がり、5月6日の夜、拡張予定地内関係者が集まり、協議の結果、砂川町基地拡張反対同盟を結成。5月8日には砂川町基地拡張反対総決起集会を開催して反対決議を行い決議文を町長に手渡した。決議文要旨は、「いかなる理由があろうとも、土地取り上げを伴う基地拡張には絶対反対である。町当局もあらゆる手段を講じ、我らの意思が貫徹するよう協力願いたい」というものであった。
 すかさず五日市街道沿道に「基地拡張絶対反対」「土地取り上げ反対」の立て看板がはりめぐらされ、家いえの門口には「立ち入り禁止」の立札が立てられた。
 5月9日、東京調達局の矢崎次長と川畑立川事務所長が町役場を訪れ、計画案を伝えようとしたが、「そんな話しは聞きたくない」「反対だ絶対反対だ」と怒声がひっきりなしに湧きあがり、計画案の発表はおろか、話しを続けることもできなかった。「絶対反対だとあれば土地収用法によって二束三文で買い取られてしまうが、それでもよいか」という捨てぜふりに対し「何を言うんだ、飛行場を持って帰れ」の爆発的怒号で計画案の発表を断念し、ほうほうのていで引き揚げた。
 5月12日、選挙後初の町議会が開かれ「基地拡張反対」の動議が提出されて、代表して私が提案理由説明をおこなった。「基地拡張計画は、単に地元四番組、五番組だけの問題では決してなく、町自体が真二つに分断されてしまうことにもなる。まさに町全体の浮沈にかかわる重要問題であり、このさい、町をあげて断固闘う以外に道はない」との事を述べた。動議は満場一致で可決され、闘いは町ぐるみ態勢でいくことになった。そして町議全員が闘争委員となり、反対同盟はもちろんのこと、すべての公職者を含め、反対闘争の組織づくりが決定された。あわせて闘争資金として10万円が計上され可決された。さらに町長に対しては、基地拡張を用件とする調達局係官との会見はすべて拒否すること、万が一このことが困難な時は、闘争委員会立ち会いのうえ行うこと。の二点について申し入れをおこない、町長もこれを受け入れた。
 本格的反対闘争の組織づくりは着々と進められ、役員体制として次の者が選出されて陣容を完璧なものにした。

 
   ・闘争委員長    小林 皆吉(町議会議長)
   ・副闘争委員長   田中 君典(町議会副議長)
   ・  〃      鳴島  勇(町議)
   ・企画部長     荒井 久義(町議)
   ・宣伝部長     石野  昇(町議)
   ・調査部長     砂川 昌平(町議゛
   ・第一行動隊長   青木市五郎(五番組代表)
   ・第二行動隊長   宮岡 政雄(四番組代表)
   ・全町行動隊長   内野 茂雄(町議)


 どうしても必要と門前払い
 5月30日、バス3台で、政府と国会に対して請願行動をおこなった。政府は、鳩山首相が都合が悪く、重光外相と根本官房長官と会見した。重光外相は黙っていたが、根本官房長官は「国防上どうしても拡張を必要としているのでやむおえない措置である。絶対反対を伝えにきたのであれば、そのことを首相に伝えるのみである」とのことで、門前払いとなってしまった。「国会議員なんていうものは、選挙の時はペコペコ頭をさげるが、いったん権力の座につけば国民の苦しさにソッポを向くのがざらだ」と胸をえぐられる思いだった。国会では杉山衆議院副議長とあい、「趣旨についてはよくわかりなした」とのことで気分的に柔げられた。ついで都庁を訪れ都知事、副都知事とも不在のためあえなかったが、高瀬外務室長と会見し、室長の言葉として「都としても反対であり、その点話してきたが、今後とも政府に強く交渉していきたい」とのことであり、帰りのバスのなかで「高瀬という男は案外話しがわかるではないか」ということであった。
 6月3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、「手を結び合って共に頑張っていこう」と、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。
 反対闘争の背景にあって活躍したのは、砂川町勤労者組合の存在である。勤労者組合は戦後まもなくして地域組合として結成された。一時期アカの組合だとレッテルを貼られたが、住宅難解決のため町営住宅建設、公民活動強化のための公民館建設、幼児保護対策としての保育園建設、町民サービス向上のための出張所設置、民主教育委員に代表などと町長に申し入れ、約束させ遂次実現させていたことから、真面目な勤労者の集まり、町をよくしょうとする団体であることが理解されて認知された。私を含め町議2人、教育委員、公民館長を擁し、無視できない存在となった。基地闘争については、主要メンバーがしばしば集まって、政府を相手にしてのたたかいであり、敵の力、味方の力を十分に知って戦術をたてなければならない。政争の激しい町だけに町ぐるみ闘争にヒビがはいらなければよいが、ということで慎重に戦術を考えて対応した。


 非暴力、無抵抗の抵抗で
  反対同盟は基本方針として、
   ●個人の立場でいっさい話をしないこと。
   ●文書類などについては開封せず闘争本部に届けること。
   ●不審な者に対しては理由をただし、闘争本部に急報すること。
   ●反対同盟の情報以外はいっさい信用しないこと。
   ●すべてのことについてて反対同盟に白紙委任すること。
などを確認した。戦術としては非暴力=無抵抗の抵抗を貫き、具体的には、穴掘り作戦、煙幕作戦、黄金作戦で対抗していくことにした。
 6月9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、目印として三多摩労協旗一本が認められ、労働組合として初めて参加し労農共闘、共同して大会決議をおこない成功裡に終わった。
 警官が導入されての闘いは、9月13日、14日の阻止闘争である。田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。
 この間、条件派の動きも活発化し、12人が脱落して基地問題処理懇談会をつくった。その後、会長に若松元町長をえらんで基地拡張対策処理連盟を結成し本格的な活動を展開した。
 条件派ま要求は、(1)滑走路部分を地下道にする、(2)慰謝料として各戸に50万円、(3)農地補償として坪当たり4500円、宅地補償として5万円、(4)移築費用として3万500円、(5)税を10年間免除する、事などである。多分に反対派工作(宣伝効果)を意図したものと思われていた。


 荒れ狂う警察の暴力
 1956年10月13日、14日歴史に残る阻止闘争として、小雨降る中、抵抗闘争が展開された。マスコミの報道でも、「砂川に荒れ狂う警官の暴行」、「絶対許せぬ機動隊の暴挙」、「警棒の雨、突き破られたスクラムの壁」、「行き過ぎだ、警官の実力行使」などなど言語に絶するものがあった。この日の闘いの中で印象に残るものは、闘いの合間に自然発生的に合唱された「赤とんぼ」、「カラスなぜ鳴くの」、「ふるさと」であり、警官り良心をとりもどすものであった。
 日本人同志がなぜ闘わなければならないのか、憎しみを持ってなぜ血で血を洗うようなことをしなければならないのか、国民世論は逆上した。政府のこれ以上、測量を強行することは事態をますます悪化することになるとの判断から、14日午後8時、測量中止を決定し発表した。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。
 59年には反対派の基地侵入事件で、「憲法は安易な政策論で解釈されるものでなく、憲法9条規定は、武力保持を禁じており、外国軍隊の駐屯は、明らかに憲法違反である。よって刑事特別措置法も違反である」との判決が行われ、画期的な「伊達判決」として注目された。その後、検察側の上告により破棄されてしまい、伊達裁判長はこれを不服とし、裁判官を辞して弁護士となり、全電通労組(現NTT労組)の顧問弁護士団長として活躍され、1995年の春、惜しくも帰らぬ人となってしまった。

 ついに土地収容認定取り消し
 「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句をのこして闘われた砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いであった。不屈な闘いが功を奏し、1968年12月19日、基地計画中止発表。1969年4月18日土地収容認定取り消し発表が行われ、その後、基地三分割によって、基地東側地区を「業務地区」として、官公庁施設が使用。中央地区は「防災地区」して、実質的には自衛隊が使用。西側地区は「公園地区」として昭和記念公園となっている。
 残る激戦地の拡張予定地は、地権者を中心に1996年3月2日、砂川中央地区町づくり懇談会がもたれ、1998年6月21日、砂川中央地区町づくり推進協議会として発足し、砂川闘争の歴史を無にすることなく、平和利用を基本に協議がつづれけられ、近く第一次答申案が市長に対しておこなわれることになっている。答申案は、必ずや後世に生かされるものとなることを確信してやまない。

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