ころころ変わる教義
1.ものみの塔は ローマ13:1の「すべての魂は上位の権威に服しなさい」(新世界訳)の「上位の権威」をどう解釈してきたでしょうか。
第一次大戦のころは「上位の権威」とは地上の政府を意味すると教えられていました。後になると「新しい真理」によってこの解釈は排除され、 「上位の権威」とはエホバ神とイエス・キリストを意味することになりました(“Make sure of All Things"1953年版、 p.369)
1950年代にものみの塔は昔をふりかえって次のように述べています。
第一次大戦後にものみの塔がいっそう伝道に励み始めてまもなく、自分たち自身にもさまざまな霊的束縛があったことに気がつきました。組織には、誤った教義や典礼が、未だ一掃されずに残っていたのです。ローマ13:1で述べられている、神によって据えられた「上位の権威」とは「地上の政府」のことだと誤解していました。
(Jehova's Winesses in the Divine Purpose,1959,p.91,英文)
上記の記述によれば1950年代までには「誤った教え」は「一掃されて」いたはずでしたが、1960年代になると「誤った教え」だったはずのものが再び導入されました。
「クリスチャンが従うべき『上位の権威』とは誰のことでしようか?
この世の地上の政府です。」
(「ものみの塔」1/1/1963,p. 31,英文)
「大いなるバビロンは倒れた」1963年。548頁
1914年の異邦人の時の終結にもかかわらず、神は、「神から定められた上位の権力、あるいは存在する権力」として、この世の政治権力が継続するように、許した。
神とキリストを一つの方法で説明しておきながら、
その後聖書の主要な教えや基本的な教理に関
する自分たちの理解が誤っていたことに気付き、
長年にわたる研究の末、誤っていると確信して
いたはずの教理に戻るとすれば、それは重大な
問題です。クリスチャンはそのような基本的な教
えに関して心の定まらない、「優柔不断」な状
態にあってはなりません。そのような人の誠実さ
や判断にどれほどの信頼を置けるでしょうか。
(「ものみの塔」1976/8/15,p.490)
2.ソドムの住民は復活するのか
ものみの塔は、かつては「まったく誤っているこ
とが明らか」だとした教義を一転して真理としたば
かりではなく、同じ教えを、真理だ、誤りだ、真理
だ、誤りだと繰り返し反転させたこともある。ソ
ドムとゴモラの人々が復活したかどうかという例
がその典型である。この問題について、 「神の伝達
経路」は、公に次のように教えてきたのである。
復活した:1879年
復活しない:1952年
復活した:1965年
復活しない:1988年
1879/7 Watchtower P.8
確かに彼らのあがないが記されていると私たちが発見できるなら、それで満足するでしょう。しかし、彼らがあなた方やユダヤ人と同じような永遠の命を保つ機会を持たないのはなぜでしょうか。彼らは律法も、十分な知識も持ち合わせていなかったのですから、正式な意味で罪人ではなかったのです。確かに彼らは正しくはなかったのですし、神があなた方に機会をお与えになるときのあなた方も正しくはなかったのです。彼らより多くの知識を持ち合わせていたユダヤ人と同じような罪が彼らにはなかったと、キリストご自身のみ言葉が教えてくださるでしょう。「またカファルナウム、‥‥‥お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行なわれていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない」。だから彼らには十分な機会を与えられていなかったことをキリストご自身のみ言葉が物語っています。「忘れてはならない」。キリストはソドムの住民のことを語ります。「火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった」。ですから、彼らの回復が語られているなら、彼らの復活を暗示しています。
エゼキエル16:48 以降の預言に注目しましょう。注意深くそれを読みなさい。神はここでイスラエルを語り、隣人のサマリアと比較し、ソドムとも比較します。神はソドムを「私は[良かれと]思い、取り除いた」と言う(注)。「唯一のみ名」の知識を得て永遠の命の機会を与えることなく、これらの人々を取り除くことを、神はなぜ良いことと考えたのでしょう。ふさわしい時ではなかったからです。復活するとき、彼らは真理の知識に至るでしょう。
(訳者注:上に書いた訳文はKJVを参考にした。原文に引用されているKJVではgoodはイタリック体)
1952/6/1 Watchtower P.338
千年王国の統治下、ソドムにもユダヤ人の町にも未来の裁きがあると言う人もいます。
もしそのような意味に取るなら、ソドムには既に「永遠の火の罪の責め」を経験していたとするユダの言葉と矛盾するでしょう。
ソドムは裁きの日を許されていなかった。それはことごとく失敗していた。そうした運命に定められていたことをユダヤ人は知っていた。
1965/8/1 Watchtower P.479
<試訳>そのため、ほかよりも「ソドムやゴモラの地のほうが軽い罰で済む」。それには裁きの日にその土地の元住民が存在する必要があるだろう。裁かれるべきは、文字の上での国ではなく、土地である。黙示録20章には、「玉座の前」に立っている者は、死から生き返った者たちであろうと書かれている。特定の土地の元住民として、集団として裁きを通過するのではないだろう。裁きの日の間、「彼らの行ないに応じて裁かれる」であろう。明らかに、そうした土地に住んでいた者は、復活させられるでしょう。
「ものみの塔」誌1988/6/1 P.31
このように見ると,ユダ 7節は,ソドムやゴモラの邪悪な人々が裁かれて永遠に滅びたという意味になります。
…… (中略)……ですから,それら過去の裁きにおいて神が処刑された者たちは,二度と命に回復できない滅びを被ったものと考えられます。
奇妙な教義に移る
トップページへ戻る