第11章 復活を話そう

 エホバの証人は復活についてひどい嘘を教えられてきた。まずこ
の話から始めよう。
 エホバの証人によると144千人は霊を持っているはずだ。144千人は死ぬとすぐに天国に行くからだ。「大群衆」は死ぬと消え去ってしまう存在にすぎない。面白いことに「大群衆」は本当は「大きな希望」を抱いている。
 それが正しいか考えてみよう。私が「大群衆」のひとりとして死ぬとしたら、消え去る。それで希望が持てるか。違うと思う。邪悪な考えを取り入れてはならない。もしエホバの証人に話をする機会があれば、彼らは復活を信じていると言う。それは分かってもらいたい。
 しかし彼らの信じているその復活は、本物だろうか。エホバの証人のほとんどの教義がそうであるように、平均的なエホバの証人は復活をまともに考えていない。死ぬと「大群衆」に何が起こるか。エホバの証人は次のように考えている――死ぬと存在しなくなる。体は墓に入り、無となる。エホバの証人の希望は神が生きかえしてくれるという黙示録に語られている千年である。
 何が問題かと言うと、特別、そのように書いている聖句はひとつもないのだ。だからエホバの証人は「ものみの塔の教義」に復活の望みを賭ける。その望みは聖書には書かれていない。
 ここでエホバの証人の「復活」を調べてみよう。エホバの証人の宗教に従うと、「大群衆」が死ぬと存在しなくなる。そしてエホバの証人の希望は新しい世界における生活だ。神はエホバの証人のために新しい体を作り、その上で地上で生きていたときの記憶を埋め込む。
 それは復活ではない。単なる再生だ。私の証しでも書いたように、他人の体を選び、その中に記憶を埋め込む。あたかもロボットを作ってその中に記憶を埋め込むようなものだ。あなたもやってみては。自分の記憶を持った他人の体だ。そんな希望があるとしたら、薄気味悪い!!
 本当の復活とは、何かを教えよう。キリストを知っている者が死ぬと体は墓に入る。知恵も、知識もない。考えないし、語らない。しかし生きている霊は主の許に行く。前にも書いたとおり、パウロは、「体を離れて、主のもとに住む」と言った。
 一テサロニケ9:13から18には、キリストが再臨されると神は物理的に死んだ者を連れて来られると書かれている。キリストが再臨されるとき神は何を連れて来られるのだろうか。亡くなった者全員の霊である。
 キリストが再臨されると、それ以前に死んだ者の霊を連れて来られる。そのときイエスは地上に生き残っている聖徒はすべて集められ、空中に引き上げられる。死んで復活した体は空中で主と出会う。私たちすべては同時に復活した体を受取る!!
 一コリ15章には一瞬のうちに変えられると書かれている。死ぬべき運命にある体は不滅となる(復活した体)。なんと素晴らしい希望なんだ!! 死んでも私たちの霊は生きる。直ちに主と共に生きるために行く。将来、キリストが再臨されるとき、復活した体を与えられる。その体には生きた霊があり、主と共に永遠に生きる!!
 聖書にはそう書かれている。私が書いているのではない。あなたも自分でチェックしてみなさい。クリスチャンには生きる希望がある。イエスが言われた言葉である。体が眠りについても私たちは決して死なない。その望みがある。
 「エホバの証人には答えられない20の質問」の次の問いは復活を扱う。あなたの将来に関わっているから、とても大切な質問だ。さあ、聞いてみよう!

質問18:あなたが「大群衆」の一員であるなら、ものみの塔はあなたが今、死んだなら千年間、あなたは復活すると教えている。
 ハルマゲドンの前までに死ぬと千年間、復活すると聖書のどこに書いてあるのか。
 
 自問するはずだ。「私も、妻も、家族も、聖書とは異なることを教えているこの組織を信用していいのだろうか」と。驚くかもしれない。しかし「大群衆」は地上で生きると書かれている聖句は無い。「「大群衆」は千年間、復活する」と書かれている聖句は無い。これはものみの塔が選んだ「地位」に過ぎない。ものみの塔が選んだものであり、可能性としては、大酒呑みで、おいぼれの、死んだラザフォード判事が創作したものだ。
 ものみの塔の教義に従うと、「大群衆」、即ちあなた方は、神から見て死んだままであり、霊が無く神から非難されている。聖書に書かれていない信仰に基づいて、あなたの人生を喜んで捧げていいのか。無意味だ!!
 聞かせてほしい。聖書を開いて、ものみの塔が正しいか証明してみなさい。
 ものみの塔が出版物の中で何かを語り、聖句を参照するとき、その信仰の典拠としている聖句を読んでみなさい。ものみの塔が言うことが聖句にその通り書かれているか確かめなさい。ものみの塔の神学がどれほど恐ろしいものか驚かされる。
 当てはまらないものみの塔のたよりを裏づけるためにエホバの証人は文脈から外れ、聖句を用いる。
 その出版物の中でどのようにエホバの証人が誤用したかを調べ始めたらとんでもない発見をした。
 忠実に研究する「ものみの塔」誌の中では、彼らが書いた記事の隣に参照聖句が書かれている。聖句を調べると、その参照された聖句が記事とは何の関係も無いか、参照された聖句は全体的に文脈から外れていることが分かる。
 新世界訳聖書についても一言、言いたい。私が知っている聖書学者全員が新世界訳聖書は劣悪な書だと非難する。確かに期待はずれだ。元来のテキストに問題があるのではない。告白するが、私は新世界訳を読んでイエスに出会った!! いかにその聖書が劣悪であろうと、それでも福音は発見できる。
 どうか聖書を注意深く読むように。それが大切だ。あなたの人生と家族の人生が危機に瀕しているのだ。



 


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