10章 希望はどこに

 何年か前、こっけいなCMが放送されていた。それは「牛肉はどこにあるの」だった。それに倣い、少しひねりを加えて、エホバの証人にこう尋ねたい――希望はどこにあるの。
 私たちはイエスに出会うまでは罪のために死んでいたと、聖書に書かれている。ほとんどのエホバの証人も、その他の地上の善良な人たちも、それを理解していない。現実に私たちは霊的に死んでいたのだ。
 かつて神はアダムにこう言った――善悪の知識の木の実を食べると死ぬだろう。
それを忘れてはならない。たいていの人は、木の実を食べた直後に死ななかったのはなぜかと、不思議に思う。実際、二人はその後も生き、アダムは930歳になると死んだ。
 何が問題か。神が木の実を食べたときに死ぬとアダムに告げたとき、神は嘘をついたのだろうか。そうではない。木の実を食べたあの日にアダムは霊的に死んだのだ(ところでアダムが食べた木の実が何だったのか、誰でも知りたいところだ。それは西洋なしに違いない)。
 ともかく、私たちは全員、生まれてからアダムと同じく霊的に死んだ状態を相続していると聖書には書かれている。それはイエスを「主」とし、「救い主」として受け入れるときのみ、私たちは生きている。私のことばではない。それが聖書の御言葉だ。次を見なさい。
エフェソ2:1 あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって
エフェソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威をもつ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。 
エフェソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながらみ怒り
を受けるべき子でした。
エフェソ2:4 しかし、あわれむ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに
エフェソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちを、キリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。
エフェソ2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に坐らせてくださいました。
エフェソ2:7 それは、あとに来る代々において、このすぐれて豊かな御恵み
を、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした
エフェソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たものではなく、神からの賜物です。
エフェソ2:9 行いによるのではありません。それはだれも誇ることのないためです。
エフェソ2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのであす。神は私たちが、良い行いを歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです。

 神の御言葉は、どれほど行いを重ねても、神との関係は築けないし、生かされないと伝えている。それは霊的な問題だ。神は問題を解決した。神は私たちのために死なれる「神の子」を遣わし、私たちの罪を帳消しにした。命を得させた。「主」を誉め称えよ!!
 現代のエホバの証人はその概念を理解しない。生きている霊はないと信じているからだ。未だに偽りのアドバンティストの教義に従っている! 彼らは霊は基本的に息だと信じている。神はアダムに息を吹き込んだというのだ。エホバの証人はその教義に従っている。
 エホバの証人のミスは次の通り――神がアダムに息を吹き込んだとき、神は霊を与える命をアダムに与えた。アダムは霊を持ち、生きた。パウロは「体がなくなると、『主』と共に居る」と言った。霊が生きないとしたら、なんの意味もない。「主」と共に天に行くとしたら、行くのは何か。
 使徒行伝によると、ステファノは死ぬ間際、「イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。霊が生きないとしたら、ステファノは何の意味でそう言ったのか。イエスはステファノの何を受け取るのか。イエスはステファノの息を受け取るだけなのか!!
 だから生きているうちに何が起こるか――霊が生きているのだ。私たちの霊が生きている可能性を考えてみよう。聖書には私たちは神と交わりを持つと書かれている。ローマ8:16には、神の霊は私たちは神の子であると、霊と共に証明すると書かれている。
 霊が生きているとき、聖霊はあなたを神の子として遇する。聖霊は後押しする。誤りを悟らせる。あなたを励ます。聖霊は教える。影響を与える。イエスを想像させる。ローマ8:29はそういう意味だ。「神は、あらかじめ知っておられる人々を御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」。
 イエス信仰は口先だけであってはならない。信仰の目的としてだけではだめだ。エホバの証人は「私はイエスを信じます」とは言う。エホバの証人がイエスを信じると言うのは、サタンがイエスを信仰するのと同じだ。エホバの証人はイエスがいるとは知っていても、イエスを個人的な「救い主」としては受け入れていない。忘れないでもらいたい。エホバの証人が「イエスを信じます」と言うとき、本当は、「私はイエスが天使長ミカエルであると信じています」と言っているのだ。
 ここから救いを考えてみる。もしあなたが証人なら、未信者との違いは何かを考えてみなさい。未信者はイエスを知らないし、エホバの証人もイエスを知らない。エホバの証人も、未信者も、どれほど善良であり、一生懸命になって働いても、神の目から見れば死んでいる。「善良な人たち」だけでは神の家族にはさせてもらえない!!
 唯一の救いの道がある。神から見て死んでいない唯一の道がある。それはイエスだ。イエスが道であり、真理であり、命である!! 「イエスを信じる者はすべて救われる」。次の質問に移る。
 質問14:ものみの塔は、「大群衆」のメンバーは黙示録20:5に書かれている民だと言う。「残りの死人は、千年が終わるまで生きかえらなかった」(新世界訳聖書)。ものみの塔は、神から見るとエホバの証人は死んでいると言っているのだ。

 質問14:あなたが「大群衆」の一員なら、あなたとあなたの家族は神から見ると死んでいるのです。これを聞いてどんな思いがしますか。

 次の質問はこれに関連し、「死」の問題を扱う。

質問15:エフェソ2:1には、キリストを受け入れる前は全員が罪のために死んでいると書かれている。地上で生きたいと望んでいる「大群衆」のメンバーとして罪のために死んでいる。神の目からは死んでいる状態をどのようにして乗り越えますか。

 これに答えるには真剣に取り組まなければならない大問題だ。
 次の質問を見よう。証人を辞めるときの証言として語ったことばだ。エホバの証人が答えられない手ごわい質問の観点からそれを見てみよう。
 
 質問16 ものみの塔は、エホバの証人は「神の子」ではないと言っている。144千人だけが神の子である。

 導いてくれるように神の霊に祈りますか。ローマ8:14には「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子であす」と書かれている。「だれでも」なんですよ!
 ローマ8章は、神の霊に祈り、導きを望むときは、「神の子」ですと言っている。聖書がそう言っているのだ。ものみの塔は違うと言う。ものみの塔は霊に導きを祈れると言う。しかし、神の子ではない。
 
質問16:何を信じますか。聖書ですか。ものみの塔ですか。

 大多数の「大群衆」は聖書よりもものみの塔を信じる――実に悲しい!

質問17:キリストにあって生きない。イエスの霊に満たさない。ものみの塔はどうして神から見て死んだ状態にさせるのですか。

 自分で考えなさい。エホバの証人の宗教の何に魅力があるのですか。霊的に死んでいるのです。異様だ。しかし、そこまで貶められるほどエホバの証人は正直だ。「大群衆」は、今のままでは、神から見ると死んでいる。
 エホバの証人の時代を思い出す。むなしかった。定期的な働きをしていた。毎回集会に出た。まじめにトークの準備をした。ものみの塔出版物を持って忠実にドアをノックした。長老として奉仕した。委員会の会合に出た。大会で語った。エホバの歌を歌った。善良な人間と思っていた。しかし、むなしかった。
 生きていて何かが間違っているとは分かっていた。素晴らしい妻を持ち、3人のきれいな子どもがいて、世俗で立派な仕事をし、新車を運転し、楽園のような良い気候の中で暮らしていた。しかし、むなしく続けていた。
 言わせてもらいたい。もし、この本を読んでいるあなたがエホバの証人であるなら、また正直なら、むなしく生き続けている。心の中に虚無感がある。何かが間違っているとは分かっている。しかしそれが何なのかが分からない。
 それが何なのかを教えよう。人生にイエスを迎え、虚無感を埋める必要がある。
 すぐにでもできる。私と祈りましょう。「主、イエスよ。イエスを無視してきた歳月を悔い改めます。『主』に『私は罪人です』と告白します。『主』に向かい、その罪を悔い改めます。『主』よ、私の罪を許してください。イエスを『主』とし、『救い主』として受け入れます。『主』よ、『主』と共にありますように。『主』と生かせてください。義で守ってください。『主』を愛します。イエスの御名において。アーメン」。
 友よ。言葉の上だけではいけない。言葉にはにはトリックは無い。心の底からの祈りなら、いまではイエス・キリトスを「主」とし、「救い主」と理解できる。
 神の家族にようこそ。神があなたを見るなら、こう言うだろう。「これは私の子どもだ」!! 「主」に賛美を!! あなたは生きているのだ!!

 


目次へ戻る

11章に移る