1998年(1999寒中見舞)
寒中お見舞い申し上げます
昨年(1998)4月27日夫の妹が乳癌で42歳で亡くなりましたので、新年のご挨拶は控えさせて頂きました。
義妹は結婚1年後発病し、12年間入退院を繰り返し、最後はホスピスに入院を希望し、心の安らぎを得て亡くなりました。43歳の誕生日を目前に控えてのことでした。
年が明け、マスコミはヨーロッパのユーロ導入を連日報道していましたが、生活には何の変化もありません。2002年1月から6月末の期間で通貨が交換されるので、それまではこのままだろうと思います。それよりも2002年には我が家はどこに住んでいるのであろう、というのが重大関心事。毎週郵送されてくる銀行のステートメントには残高がギルダー表示とともにユーロ表示が加わったくらいが目新しい変化でしょうか。
1990年2月にオランダにやって来て満9年、今年は10年目になります。初めての海外生活をカリフォルニアで送ったのはまだ子ども達が小学生の時でした。今はもうすっかり成長して、社会人と大学生です。当時は私たち夫婦もまだ30代半ばでしたので、まだ体力的にも頑張る気迫がありました。今はもう50前後ですし、子どもも全員親元を離れている現況に、新しいものに挑戦していく気概にちょっぴり欠けているような気がします。つまりは老化現象というわけです。
さて、昨年(1998)はアムステルダムでさまざまなイベントがありました。
ひとつは同性愛者のオリンピックといわれた
Gay Games Amsterdam 1998、もう一つは International
Documentary Film Festival Amsterdam 1998
です。
★ Gay Games Amsterdam 1998 (8/1〜 8/8)
アムステルダムのゲイ人口が多いことや、ゲイのコミュニティが形成されているは世界的に知られていることですが、まさかご当地でオリンピックまでやっちゃうとは、驚きです。好奇心旺盛が取り柄の私はさっそく情報収集に勤めました。
ワールドカップの頃は、オランダ中オラニエ王家のシンボルカラー、オレンジ色のグッズが氾濫していました。ケーキやピーマンまでオレンジ色なのには呆れてしまいましたが、それほど国を挙げての応援でした。オランダチームが出る時はテレビの実況中継の時間に合わせてきたくを急ぐため、放映中道路はガラスキ。
そして、今度はピンクと黄色、それにレインボウカラーのオンパレード。アムステルダムの街中、商店、カフェ、バー、レストラン、デパート、スーパーなどは黄色の地にピンク色で輪郭されたチューリップと三角形の模様の公式旗が掲げられ、オフィシャルスポンサーは有名企業が軒並み名を連ね、開会式ではアムステルダム市長が「過去4回北米で開催されたゲイゲームスをヨーロッパで初めて、アムステルダムで開催できることを誇りに思います。」と歓迎の挨拶をしました。
報道では参加者15000人、見物客20万人とか。ものすごい規模です。ホテルは当然足りないので、アムステルダムの学校施設5校分の教室を宿泊施設に提供されました。その他キャンプ場やバンガローも予約を取っていました。どういうわけかホテルは高いところから埋まって行くようです。
当初(1986)『ゲイのオリンピック』と名乗りたかったのだけど、オリンピック委員会からオリンピックという名称は使っちゃダメ、というお達しが出たそうです。それでゲイゲイムスとなったのです。しかしプログラムを見るとスポーツだけでなく、シンポジウム、芝居、バレー、映画、フェスティバル、パーティーなど盛りだくさん。テレビでもその日何があったかレポートされ、参加者のインタビューもあり、毎日放送されていました。
世界中から集まったゲイや見物人のため、アムステルダム市庁舎とミュージックシアターが期間中、フレンドシップビレッジと称するイベント会場兼ミーティングポイントとなっていました。"the
Daily friendship" という
日刊新聞も発行されました。もちろん時代はハイテク。インターネットでも日々情報が流されていました。公用語は英語。
町を歩いていると、男・男、女・女といった同性カップルばかり。異性カップルの方が少数派に見えました。まったく「普通」って何?と考えさせられる光景でした。(男同士のカップルのほうが、女同士のカップルよりも8:2で多かった。)
連日、野外映画祭もあり、フェミニズムやホモセクシュアルの政治的な事件の映画も扱っていました。東郷健のシャドウシアター(*)を見ましたが、なんと日本語!観客は日本人が非常に少ないのに理解できたのかな?
(*)日本の同性愛の歴史を影絵と芝居で構成したもの
有名企業はスポンサーになりました。KLMオランダ航空は
"It's good to travel with friends"
とゲイゲイムスのキャッチフレーズ、フレンドシップに引っかけて広告を出していました。HOTEL
IBIS のレストランフレンドシップビュッフェと銘打ってのメニューに
"Pink soup, exciting salad, cock au
vin, spicy meat balls, spotted dick and many
more lovely desserts." と宣伝し、ずいぶん思わせぶりな配慮(?)をしました。他の名だたるスポンサーには、電気会社、電話会社、バス会社、為替両替商、ビール会社、ジーンズのリーヴァイス、フィルムメーカーのコダック、エイヴィス(レンタカー)、などが目立ったところでしょうか。
全体の感想ですが、もうセクシュアリティーの問題を飛び越えて、一大ビジネスに育ってしまっている、と思いました。ウーーン!!
その後の報道によりますと、ゲイゲイムスの収支決算でアムステルダム市は480万ギルダーの損失を抱え込むことになったそうです。原因は運営委員のどんぶり勘定なのだそうです。
★ International Documentary Film Festival
Amsterdam 1998 (11/25〜 12/03)
毎年11月後半にアムステルダムの[City]という複合映画館と、フィルム博物館の2個所7ホールを会場に、国際ドキュメンタリー映画祭が開催されます。今年は200本上映されました。作品1本につき2〜3回上映されますが、すべて見るのは不可能で、あらかじめカタログで選んで見ます。毎年、一人の映画製作者にスポットを当て、その人の推奨する映画10本も上映されます。
1998年はアジアからはじめて、日本のドキュメンタリー映画監督、原一男さんが招待されまして、彼の作品と推薦フィルムが上映されました。日本でもこれだけ短期間にまとめて見ることは出来ないほどの作品ばかりで、私は地の利もあって、幸運でした。
出品作品の上映の時は監督(フィルムメーカーとも呼ばれる)もやって来て上映後の質疑応答もありました。日本の作品の時は通訳の制約もあり、あまり活発とは言えなかったのですが、あるユダヤ人の作品のときは映画論(カメラはパワーすなわち権力があるやいなや)が喧嘩腰でやられており、すごかったです。その映画はのちにノミネートされました。考えてみればドキュメンタリーは、ある事実と対象にカメラで迫って行くので、被写体である人物がカメラを意識して演じてしまうことはあるわけです。ことに犯罪をえぐり出していく場面ではことさらに権力をちらつかせた態度を民衆に示したがる英雄気取りの人物も出てくるわけで、そういった映像が自然ではない、作為がある、ととらえる監督が異議を唱えたわけです。それに対する賛否両論も噴出して、英語の議論が充分には理解できない私は、これぞ文化なんだわー、と感心していました。
原監督の選んだ10本:
テーマは 「70年代の熱情の高揚」 "The
effervescent ardourof the seventies"
*「あらかじめ失われた恋人たちよ」
*「痴呆性老人の世界」(羽田澄子監督)
「第二砦の人々」(小川伸介監督)
「どっこい人間節」(同上)
*「裸の島」(新藤兼人監督)
*「干潟のある海;諫早湾 1988」(Katsutoshi
Iwan Aga)
*「人間蒸発」(今村昌平監督)
「沖縄列島」(東陽一監督)
「おくみおもて」
「パルチザン前史」
*「極私的エロス 恋歌 1974」(原一男監督)
*「さよなら CP」(原一男監督)
*「行き行きて 神軍」(原一男監督)
*「全身 小説家」(原一男監督)
<*は私が見た映画>
ほかに「Un Crime a Abidjan」(フランス語)、
Dancemaker(米語)、My African Daily(英語)、
「ファザーレス Fatherless」(日本語、茂野良弥監督)の4本も見ました。
「ファザーレス Fatherless」は日本での上映が、登場者のプライバシー保護のため地域限定されているので、全編アムステルダムで見ることが出来たのはよかったです。現代日本の若者の抱えている内面と、自傷行為、過去を見つめる旅。日本映画学校の卒業制作なのだそうです。風景の映像はとても美しかったです。
☆戦争を記憶する旅-1998
*Hollandsche Shouwburg (Amsterdam)
*Memorial de la Deportation in Paris (Paris)
この冬は2年半ぶりに親子5人オランダに揃いました。しかし、出張先で風邪を移された夫が寝込んでしまい、直ったと思ったら今度は看病していた私に移ってしまい、子ども達がやってきた時は高熱でうなされておりました。楽しみにしていた家族旅行も私ひとりベッドの中で留守番。夫は4日ほどで直りましたが、私はその後もしばらく調子が出ませんでした。気合が足りん、のだそうです。
旅行を早目に切り上げて帰ってきたみんなと大晦日はカウントダウンをし、花火を盛大(?)に打ち上げました。元旦はホテルオークラに注文しておいたおせち料理(娘達によると、日本のデパートで注文するのより量が多くて安いのだそうです)とお雑煮を作り、祝いました。
我が家の親離れ二人目は次女。3月に無事大学を卒業できそうで、4月から就職です。相変らずの就職氷河期の中、とりあえず自活できるだけの収入への道が与えられて一安心です。あののんびりした娘が社会人とはちょっと想像がつきませんが。
長男はまだ海のものとも山のものともわからない状態で在学中。最後のすねかじりです。大学のプロジェクトの仕事で収入もわずかながらあるそうです。親の仕送りがまだしばらく続きます。金額が大きいためドル高になると苦境です。まだ為替相場から目が離せません。
昨年就職した長女は、研修に次ぐ研修で、まるで学生生活の延長みたいな生活のようです。つまり試験から逃れられない生活が今も続いているのだそうです。給料もらって勉強できるんだから、頑張ってね。東京の通勤地獄の只中、人であふれている駅の状況に「毎日が祇園祭みたいやわー」とは言い得て妙です。
夫は業界不況なのに、相変らず忙しそうです。日本への出張も年に数回あるので疲れるようです。時差のある出張はつらい。しかし仕事は面白いらしく、不在を愚痴る妻の厳しい視線をするりとかわし、いかに大変かを素振りで表現し、一瞬でも「がんばってるんやねぇ」と思わせる術はさすが営業で鍛えただけのことはある。我が国際ビジネスマンは演技派でもあります。しかし、妻に営業してどうする。
さて、私は子ども達からクリスマスプレゼントに、ホームページ作成ソフトをもらいました。「頭を使わなくてもすぐできる、1時間であなたもホームページが出来る」というキャッチフレーズなのに、私にはとてもそんな短時間には出来ない!わずらわしいコンピューター言語をわざわざ勉強しなくてもいいよ、というソフトで、私向きらしいのですがねぇ。今せっせと取り組んでいるところですが、、いつのことになるかなぁ。子どもたち3人ともホームページを作っているので、私もやらねば。
インフルエンザがまだまだ流行っているそうです。
時節柄どうぞお体をご自愛下さいませ。
1999年2月