●戦争と言うものは人を非人間化するものです。 ●平和憲法の空洞化は、昨年のテロ特措法の成立とそれに基づく自衛隊の海外派兵によってその極みに達しました。 ●こうして語っているこの瞬間にも、何の罪もないアフガンの子ともたちの命が奪われているかもしれないことを思うと、私たちは居ても立ってもおられません。 ●平和憲法の原点に立っての、司法の良識ある判断をお願いする次第です。 |
「テロ特措法・海外派兵は違憲」 市民訴訟 第一回口頭弁論 原告団長 尾形 憲 さんが意見陳述 |
10月30日 さいたま地裁第4民事部法廷 |
10月30日、さいたま地裁において、「テロ特措法・海外派兵は違憲」市民訴訟の第一回口頭弁論が行われました。米の非道なアフガン報復戦争と、憲法を蹂躙してそれに自衛隊を派遣して参戦した政府に憤りを感じたさいたまの一人の主婦の訴えから、この裁判は始まりました。
自衛隊の海外派兵を止めさせたい、憲法の平和主義を何とかして守り抜きたい、そうした市民一人一人の思いが、253名の原告を集め、市民訴訟が始まりました。
市民訴訟の会では、更に多くの原告を集めて、この訴訟を闘おうとしています。是非一人でも多くの人が原告になってください。あなたの平和への思いを、原告になることで国・政府に訴えてゆきましょう。
テロ特措法・海外派兵は違憲 市民訴訟の会 | ●この裁判についてもっと知りたい方はここをクリック。 ●原告になりたい方はこちらをクリック。 ●裁判を支援したい方はここをクリック。 |
原告団長 尾形 憲さんの意見陳述 (見出しはピース・ニュース) |
天皇陛下の御為に死ぬのはごく当たり前、という教育を受け陸軍士官学校に
原告団長の尾形憲です。私が生まれたのは1923年、典型的な戦中派で、天皇陛下の御為に死ぬのはごく当たり前、というより名誉なこと、という教育を受け、陸軍士官学校に入りました。
私が今住んでいる入間市には昔士官学校の航空の本科、航空士官学校があり、ここに2年間おりました。操縦、技術、通信という三つの分科があり、私は通信で、卒業後航空軍の司令部や航空通信部隊に勤務して生き長らえましたが、操縦の仲間はおおかたフィリピンや沖縄の特攻で死にました。
フィリピンの第4航空軍司令部にいたときは情報担当だったので、特攻に出かける同期生らが私の所へ米軍の艦船情報などを聞きにやって来ます。「おっ、今度は貴様か。行って来いよ」と言えないんですね。もう帰ってこないんです。「成功を祈る」と送り出した翌日、「ワレ トツニュウス」という電報が入ります。「ああ、あいつも死んだか」それが毎日ですからだんだん馴れっこになって、なんとも感じなくなってしまう。戦争というものは人を非人間化するものです。
不時着して生還したら処刑飛行
同期生の特攻の1人は、出撃したが、離島に不時着して、基地に生還しました。ところが、すでに敵艦に突入したものとして、2階級特別進級、天皇に上奏されていました。生きていた英霊があってはならないと、航空軍の参謀の手でマラリアの病室から引きずり出され、単機出撃させられました。「処刑飛行」です。
また第4航空軍の田中軍曹というパイロットは、離陸しようとしたら、操縦を誤まって草原へ突っ込んでしまいました。座席から投げ出されて、奇跡的にかすり傷一つ負いませんでした。軍司令官の富永恭次はいつも特攻隊員を送り出すとき、「お前たちだけを行かせはしない。最後には自分も参謀長の操縦する飛行機に乗って、お前たちの後に続く」と言っていながら、米軍がルソン島に上陸すると、部下を見棄てて、台湾に逃亡した人です。その富永さんに「お前は特攻のくせに、命が惜しいのか。すぐ出撃せい」と叱りつけられた彼は、別の飛行機に乗って「田中軍曹、ただ今から、自殺攻撃に出発します。」
映画「ホタル」に登場する朝鮮出身の特攻隊長は、出撃の前夜「自分は大日本帝国のために死ぬのではない」と言い、アリランを歌いました。翌日出撃、帰りませんでした。この映画を見ながら、私はやはり朝鮮出身の同期生の崔貞根のことを思いました。彼は陸軍士官学校にいたころ、仲間に「朝鮮民族の誇りにかけて、天皇陛下のために死ぬわけにはいかない」と言っていたということです。しかし、その彼も襲撃機を操縦して、沖縄で戦死しました。
彼らは自らの意に反して、靖国神社に合祀されています。今韓国の人たちから合祀取り消しの訴訟が行われています。
同期生のほぼ半数が最前線で戦死−6割が餓死
歩兵や砲兵など、地上の兵種の同期生も最前線で、多くが命を落としました。私たちの世代は56期といいますが、その前後と比べ、一番消耗が高く、ほぼ半数が戦死しました。フィリピン、ニューギニア、ビルマなどでは、戦死ではなく、餓死というのも多かったようです。
アジア、太平洋戦争での日本人の死者は約310万人といわれ、軍人・軍属は230万人ですが、その6割の140万人がなんと餓死です。
「聖戦」はまったくの嘘
こうした犠牲は何のためだったのか。私たちはこの戦いが「聖戦」であり、欧米諸国からアジアを開放するためのもの、東洋平和のためのものと教えられました。戦後になって私たちは、それがまったくの嘘だったことを知りました。
アジアの人たちの殺戮だけでも2000万人にのぼります。その中には中国の河北での、奪いつくし、焼きつくし、殺しつくすいわゆる「三光作戦」、今なお累々たる白骨が記念館に残る平頂山の3000人の虐殺、生体実験で3000人の"マルタ"を殺した731部隊、20万とも30万ともいわれる南京虐殺など・・・。物的損害はいうまでもなく、毒ガス作戦による被害者、"従軍慰安婦"という名の性奴隷、捕虜監視のため戦後BC級戦犯の罪に問われて刑死した台湾、朝鮮出身者などアジアの人たちに与えた損害は広汎多岐にわたります。最近北朝鮮との国交正常化にあたって、日本人の拉致、とりわけ8人の死者の問題が大きくとりあげられていますが、あの戦争の間に朝鮮から強制連行された人たちは80万から90万、あるいは200万をこえるとも言われます。こうした人たちへの公式謝罪、補償は戦後半世紀以上の今日になってもなされておりません。
アジアの人たちに対しては加害者だったことを免れない
この戦争で、日本の民衆は、天皇を先頭とする軍国主義者たちによって欺かれ、引きずり回されました。そうした意味では被害者です。しかし、戦死した軍人や軍属たち、広島、長崎での被爆者たち、一夜にして焼け死んだ10万人の東京大空襲の犠牲者たちなども、総力戦体制の一端を担ったという点では、アジアの人たちに対しては加害者だったことを免れるわけにはいきません。
この戦争のなかで、日本の人たちは、軍隊が民衆を守るものではないということを、骨身にしみて味わわせられました。ソ連が「満州」に進攻したとき、最強を誇っていた関東軍はいち早く開拓移民団などを置き去りにして逃げ出し、彼らを悲惨な目に遭わせました。
沖縄では一般の民衆の3人から4人に1人が亡くなりましたが、洞窟内で乳幼児が飢えのため泣くと、日本兵が「米兵に見つかる」と言って絞め殺したりしました。また多くの人たちが集団死に追いやられました。子どもたちは自決できるわけもなく、肉親によって鎌や石で殺されたのです。大声で泣きわめきながら、幼児の足をつかまえて振りまわし、いつまでも岩にたたきつけた人もいました。幼児の体はぼろ布のようになっていたといいます。殺戮が終わると、彼は猫イラズをあおりましたが、死にそびれて気がふれ、米軍に収容されました。
これと対照的なのが、渡嘉敷前島です。ここの国民学校分校長の比嘉儀清さんは、命をかけて日本軍の駐屯をやめさせたのです。文字通り決死の覚悟で日本軍の撤退を求める比嘉さんの熱望に、隊長はほだされて撤退を決断しました。米軍がほかの沖縄の島に上陸したころ、この島にも米軍がやってきましたが、日本軍もいないし、軍事施設もないことを確認して、彼らは島を去りました。阿鼻叫喚のほかの島々をよそに、この島には砲爆撃など一切なく、270人の島民はすべて無事だったのです。まさしく非武装・不戦の平和憲法を先取りしたものといえましょう。
悲惨な戦争の反省の上に作られた平和憲法
こうした悲惨な戦争の反省の上に立って、平和憲法はつくられました。
憲法制定の議会で、吉田茂首相は自衛のための戦争も認めないことを明言しました。また文部省が出した『新しい憲法のはなし』では、今度の憲法で、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは一切持たないことを、ほかの国との間で争いごとが起こったときは、戦争によってではなく、話しあいできまりをつけること、をきめたと述べています。
ところが、1949年中華人民共和国が成立し、翌年朝鮮戦争が起こると、新しい"国軍"の警察予備隊が発足しました。52年にはこれが保安隊、警備隊となり、54年にはついに自衛隊となりました。自衛隊はその後一貫して質的にも量的にも増強の一途をたどり、今日では日本はアメリカとロシアに次ぐ世界第三の軍事大国となっています。
テロ特措法と海外派兵により平和憲法の空洞化は極みに
このような平和憲法の空洞化は、昨年のテロ特措法の成立とそれに基づく自衛隊の海外派兵によって、その極みに達しました。平和憲法によって、少なくとも国の名において他国の人を殺傷することのなかった日本が今やアメリカのアフガンに対する戦争に加担することになったわけです。こうして語っている瞬間にも、何の罪もないアフガンの子どもたちの命が奪われているかも知れないことを思うと、私たちは居ても立ってもおられません。
今こそ平和憲法の旗が高くかかげられなければならない
9.11事件は、あれだけの絶大な武力を持っていながら、所詮武力を以ってしては民衆の安全と平和を守れないということを、如実に示しました。
今こそ平和憲法の旗が高く掲げられなければならないと思います。
朝鮮戦争のとき、戦闘機のパイロットとして参戦したチャールズ・オーバービーさんは、戦争は殺戮と破壊をもたらすだけと知りました。現在オハイオ州立大学の名誉教授ですが、憲法9条のことを知り、1991年に「憲法9条の会」をつくって、これを世界に広める運動を続けています。
1999年ハーグで開かれた「平和市民会議」では、今後の行動のための10の原則のトップに各国が日本の憲法9条のようなものを決めることを挙げています。
私は97年に若者たちが主宰するピース・ボートでアフリカ西海岸のカナリア諸島を訪れました。ここは日本の遠洋漁業基地の一つで、人びとは日本に深い関心を持っており、ここのテルデ市には「ヒロシマ・ナガサキ広場」があります。この広場には、なんと、スペイン語で書かれた憲法9条の碑があるのです。
コスタリカは1949年に常備軍を廃止しました。国家予算の四分の一は教育費で、中米ではほかに見られない民主主義の国となっています。日本も1日の弾薬だけで5億円、年に5兆円にものぼる軍事費の無駄使いはやめて、第3世界のために使ったら、どれだけ世界の人々から喜ばれるでことでしょうか。
アメリカはさらにイラク攻撃を準備中で、日本政府もこれに対応するテロ特措法の改悪を検討しています。平和憲法の原点に立っての、司法の良識ある判断をお願いする次第です。
※引き続き、意見陳述を行った橘 紀子さんのページを準備中です。しばらくお待ちください。