小泉首相は二枚舌、「虚言」実行!


「深い反省」、「平和への誓い」と言いつつ、侵略戦争を賛美する靖国神社に参拝!

−その狙いは米と共同しての戦争準備−


 小泉首相は8月13日、内外の批判に対して、参拝の日程を早めるという姑息な手段で参拝を強行した。

小泉首相は参拝にあたり談話を発表した。この談話は一国の首相が「熟慮に熟慮」を重ねた結果としては極めてお粗末なものである。自分の行為を正当化し、しかもそれを説得するために、質の悪い論理にもなっていないウソで塗り固めている。

首相は談話で「誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計りしれぬ惨害と苦痛を(アジア近隣諸国に)強いた」と言い、「戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧げたい」という。本心からこれを言うのであれば、何故真っ先に、膨大な被害を与えたアジア近隣諸国を訪問し、その犠牲者の墓前で慰霊し、遺族の前で謝罪しないのか。何故、天皇の軍隊として参戦し戦死したものだけを祀る、戦前・戦中の軍国主義国家神道の中枢=靖国神社にこだわって参拝したのか。

何故、「植民地支配」と「侵略」に対しての「深い反省」が、「祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊の前で」、「今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいた」すことになるのか。小泉にとって「植民地支配」と「侵略」に対するもっともらしい「深い反省」は、靖国参拝のためのとってつけたリップサービスであり本心ではないことは明らかである。

小泉の靖国参拝と「談話」は、アジア諸国と日本国内で、真に平和を願う広範な人々を愚弄する極めて悪質な行為である。

小泉は靖国神社が戦前・戦中において国家神道の中枢であり、天皇と国家のために忠誠を誓い、生命を顧みず侵略戦争に赴かせるためのイデオロギー装置であることを十分に知り尽くしている。韓国・中国が何故反対するか、その理由を十分知り尽くしている。その上で今日再び、国家に忠誠を尽くす人間を育て、憲法9条を改悪し、再び普通に「戦争できる国」を目指して国民をイデオロギー的に統合するために、首相として参拝した。いわば確信犯である。これを実現するために、本当の狙いを押し隠し感情論を前面に出し正当化しようとした。幾度となく繰り返されるマスコミからの質問に対し、「戦没者への慰霊」、「犠牲になった人に感謝」、「二度と戦争をおこしてはならないと言う気持ち」等々と感情論を前面に出し、靖国神社の性格や過去の戦争に対する認識について一言も触れることはなかった。

 しかし、この「感情論」で国内外の世論をだますことはできなかった。靖国神社そのものの歴史と、戦後も戦前と同様に続く国家神道的体質は、参拝が何を意味するか明白であり、アジア諸国民衆、国内の広範な市民、諸野党をはじめ自民党内部からも批判と中止の要求を生み出した。追い込まれた小泉は、とってつけたように95年村山談話を安易に借用し「植民地支配」と「侵略」に対しての「深い反省」を持ち出した。これを言えば、あとはどんな行為をしてもごまかされるだろうと。95年村山談話そのものは、戦後50周年に向けてアジア諸国や国内の戦争責任追及の粘り強い運動の力を背景に生み出されたものである。しかし小泉はこれを、自らのどす黒い意図を押し通すための方便として利用しようとした。国内外の戦争責任追及の運動に対する極めて挑戦的なやり方である。

小泉の、本心を隠して「感情論」で煽って大衆をごまかそうとするやり方、過去の運動の力により生み出され、いわば国際公約にもなった「首相見解」を方便として使う汚いやり方。この二重の犯罪性を断固糾弾する。

しかし小泉のこの犯罪的なやり方は、一方で極めて傲慢でずさんなものである。多くのマスコミさえもが今回の談話と靖国参拝の間にある大きな溝を指摘している。小泉の今回の靖国参拝と談話は、アジア諸国民と国内の広範な人々に小泉に対する不信と新たな憤激をもたらした。

小泉を先頭として、最近の「つくる会」教科書にも見られるような、日本の新たな国粋主義的傾向、軍国主義強化、右傾化の動きに対しては不断に監視して小さな芽のうちに摘み獲らなくてならない。政治権力者の誤った道を正すことができるのは、私たち大衆の力です。

―小泉首相の二枚舌、虚言実行政策に気をつけろ!−(2001.8.14)

●今話題の「靖国神社」とはどんなところか(2001.8)


[資料]
「発言撤回は慙愧にたえない」 小泉首相の談話全文

 小泉首相が13日、靖国神社参拝にあたり発表した談話の全文は次の通り。

 わが国は明後8月15日に、56回目の終戦記念日を迎えます。21世紀の初頭にあって先の大戦を回顧するとき、私は、粛然たる思いがこみ上げるのを抑えることができません。この大戦で、日本は、わが国民を含め世界の多くの人々に対して、大きな惨禍をもたらしました。とりわけ、アジア近隣諸国に対しては、過去の一時期、誤った国策にもとづく植民地支配と侵略を行い、計り知れぬ惨害と苦痛を強いたのです。それはいまだに、この地の多くの人々の間に、癒(いや)しがたい傷痕となって残っています。

 私はここに、こうしたわが国の悔恨の歴史を虚心に受け止め、戦争犠牲者の方々すべてに対し、深い反省とともに、謹んで哀悼の意を捧(ささ)げたいと思います。

 私は、二度とわが国が戦争への道を歩むことがあってはならないと考えています。私は、あの困難な時代に祖国の未来を信じて戦陣に散っていった方々の御霊(みたま)の前で、今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし、年ごとに平和への誓いを新たにしてまいりました。私は、このような私の信念を十分説明すれば、わが国民や近隣諸国の方々にも必ず理解を得られるものと考え、総理就任後も、8月15日に靖国参拝を行いたい旨を表明してきました。

 しかし、終戦記念日が近づくにつれて、内外で私の靖国参拝是非論が声高に交わされるようになりました。その中で、国内からのみならず、国外からも、参拝自体の中止を求める声がありました。このような状況の下、終戦記念日における私の靖国参拝が、私の意図とは異なり、国内外の人々に対し、戦争を排し平和を重んずるというわが国の基本的考え方に疑念を抱かせかねないということであるならば、それは決して私の望むところではありません。私はこのような国内外の状況を真摯(しんし)に受け止め、この際、私自らの決断として、同日の参拝は差し控え、日を選んで参拝を果たしたいと思っています。

 総理として一旦(いったん)行った発言を撤回することは、慙愧(ざんき)の念に堪えません。しかしながら、靖国参拝に対する私の持論は持論としても、現在の私は、幅広い国益を踏まえ、一身を投げ出して内閣総理大臣としての職責を果たし、諸課題の解決にあたらなければならない立場にあります。

 私は、状況が許せば、できるだけ早い機会に、中国や韓国の要路の方々と膝(ひざ)を交えて、アジア・太平洋の未来の平和と発展についての意見を交換するとともに、先に述べたような私の信念についてもお話ししたいと考えています。

 また、今後の問題として、靖国神社や千鳥ケ淵戦没者墓苑に対する国民の思いを尊重しつつも、内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を捧げるにはどのようにすればよいか、議論をする必要があると私は考えております。

 国民各位におかれては、私の真情を、ご理解賜りますよう切にお願い申し上げます。