Edward Said Extra サイード・オンラインコメント | |||||||||||||||||||||||||||||||
2004年春に寄せ場学会で発表する機会があり、今回それに加筆修正して、年報『寄せ場』に掲載していただけることになりました。帰還のない生き方を選択しながら帰還の権利を徹底擁護するエドワード・サイードの矛盾を通して、離散パレスチナ人の視点からパレスチナ人の帰還権の問題を考察したものです。アッバースがパレスチナ自治政府の長に選出されて以来、これで本格的な和平の道が開かれ事態は収束に向かうだろうというような見方がでているようですが、現在の構想のなかで長続きする和解がもたらされるとは、わたしにはとても思えない。そういうことも少々はいってます。
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
延期された帰還の物語 帰還権と領土なきネイションへの帰属 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
サイードの矛盾
パレスチナ出身の文芸批評家エドワード・サイードは、移動性を確保することへの強い執着を強調し、旅することへの脅迫的な衝動について語り続けた。さまざまな境界をまたぐことで、境界の内部にとどまっていては決して得られない多元的な視点と豊穣性を獲得したという彼の体験は、中東における帝国主義支配の影響を受けた特異な経歴を背景としたものだ。どこにも所属せず、積極的に複数のアイデンティティを受け入れていくという生き方、つねに変転し、混ざり合い、流動しつづける一かたまりの潮流という自己描写は、裏をかえせばホーム(本拠地、本国)を確立し、アイデンティティを固定することに対する警戒心や抵抗感のあらわれである。 ホームという観念に対して、彼は屈折した感情を持っていたようだ。ホームは、外国に滞在する者が自国を指すときにも用いられ、植民地のコンテクストにおいては支配者の側の本国(宗主国)のことである。イギリス支配下のカイロに住んでいた少年時代の思い出として、英国式の初等学校に入れられて、イギリス人のクラスメートたちが「ホーム」と呼ぶものに自分が属していないことを痛感し、「ホームとは自分がそこから除外されている場所のことだと理解した」というエピソードを述べている[i]。ホームとは、ここではない、どこか別のところだった。今いるここは、本来の自分の場所ではない。そこに戻ることによって、はじめて本来の自分になれるような起源の地。そういうものを奪われたがゆえに、自分が何者であるのかを答えられず、常に不確実であると感じ、決して埋まらない喪失感を抱え込む。だが帰るべきところがないと嘆くうちに、やがて帰るところを必要としなくなり、帰るところがないことを前提とした流動的な自己を受け入れる方法を身につけた、と彼は述べる。帰還のないホームレスの物語である。 だがこれは「帰還権」の要求と、どうつながるのだろう?このように語る人物が、一方では追放されたパレスチナ人が祖国に帰還する権利を譲れない基本原則であると強く主張し、イスラエルとの和平交渉でこれを譲歩しかねないヤーセル・アラファトをけん制しつづけたのだ[ii]。サイードにとって、この主張はパレスチナ人を代弁する一般論ではない。彼自身の生家も西エルサレムのタリビヤ地区にあり、一九四八年に同地区がシオニストの手に落ちて以来、一族の者はすべてそこを追われた。屋敷は今もそこにあり、他人の住処となっている。そこに帰りたいかと聞かれれば、実際に住めるかどうかは別として、心情的には「イエス」なのだ[iii]。だが、帰るべきところを持たず、永遠に流浪するのがよいとする境地と、故郷へ戻る権利については一歩も引かないという立場は、矛盾してはいないだろうか。帰還が許されたとき、いったい彼はどこに帰るつもりなのだろう? サイードに矛盾はめずらしいことではない。矛盾を抱え込むことを信条とするような人物の矛盾を突いてもはじまらないのだが、その矛盾がどこから生じているのかを考えることは無駄ではないだろう。上記の矛盾は、いくぶんは個人的な体験や資質に由来するものであり、いくぶんはパレスチナにルーツを持つ者たちの集団的な経験に重ねて説明されるもののように思われる。アメリカ人でありながらパレスチナ人であるというサイードの来歴は、パレスチナというネイション集団の中に位置づけたとき、なにを示唆するのだろうか?帰還権をめぐる問題を軸にパレスチナ人という集合体を分析し、そこにおける在外パレスチナ人サイードの位置を明確にしてみよう。以下は非常に大雑把な分類である。 パレスチナ人の三つの顔
パレスチナ人とはイスラエル建国に伴い自分たちの社会を破壊され、国を失った先住民であり、一九四八年と六七年に難民となって祖国を逃れた人たちのあいだから生まれた祖国解放運動(PLO)によって顕在化したネイションであると言えよう[iv]。「パレスチナ人」の存在は、国際的にも認知されている。パレスチナ難民の帰還権は一九四八年十一月の国連総会決議一九四でいちはやく認知されている[v]。だがネイションとしての認知は遅れ、長年にわたり民族自決権について国連決議に明確な言及はなかったが、七四年十一月にアラファトPLO議長が国連総会で演説するにいたって独立国家を作る権利が承認され(総会決議三二三六[vi])、国連でも準国家待遇を受けることになった。ただし国連決議に反映される国際社会のコンセンサスは、四七年の分割決議以来ずっとパレスチナをユダヤとアラブの二民族で分割することを前提としている。 パレスチナ人の数は世界全体で現在およそ九四〇 万人と推定されている。彼らは大きく三つのグループに分けられる。一九六七年以降イスラエルの占領下にある西岸地区とガザに住むアラブ人(全体の三割強)、イスラエル国内にとどまり、イスラエルの市民権を持つアラブ人(一割強)、旧パレスチナの外に離散した人々(五割強)[vii]。このうち難民は、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への登録者だけで四一〇万人を超え、ヨルダン、シリア、レバノン、およびパレスチナ領内(西岸地区とガザ)などに住み、その三分の一がいまだ難民キャンプに住んでいる[viii]。上記の三グループは、それぞれに異なった課題を解放運動に託している。 占領地に住むパレスチナ人にとっては、三七年にわたって続いている軍事占領から解放されることが第一の目標である。九〇年代のオスロ「和平」プロセスの下で、占領地の住民はイスラエルとの交通を遮断され、急速な入植地の拡大と入植者専用道路の建設、チェックポイントの増殖によって、占領地内部でも小区域への分断と移動の大幅な制限が進み、経済活動が阻害された。二〇〇〇年秋に第二次インティファーダが始まってからは、インフラは破壊され、民間人の死傷者が続出し、市民生活は破綻している。とりあえずは停戦の確立と和平の道をつけることが緊急の課題である。 離散パレスチナ人の大半はヨルダンを中心とする周辺アラブ諸国に住んでいる。非アラブ世界への流出は五%にとどまり、うち合衆国は二%(二〇万人強)にすぎないが、国際的な対抗世論の形成にはたすべき役割は大きい。とくに合衆国の世論に積極的に働きかける必要性は大きいと思われるが、今のところはイスラエル支持の声にかき消されているようだ。国を失ったネイションを代表する機関としてPLOを生み出し、六〇年代から八〇年代にかけての解放運動を担ったのは、この在外のパレスチナ人たちである。イスラエルの成立に伴い土地や財産を奪われ、追放された人々にとって必要なのは、この件についてイスラエルの責任を明確にし、故郷へ帰還する権利を認めさせることである。それを実現するためには人種差別主義に基づくユダヤ人国家を倒し、民主的な国家を樹立しなければならないという主張はいまも根強い。イスラエルという国家の存在を認め、四八年の停戦ラインに沿って別個にパレスチナ国家を樹立するという分割に基づく解決では、彼らの帰還権の要求を満たすことができず、結果的に在外のパレスチナ人の切り捨てにつながる可能性が高い。 イスラエル・アラブ イスラエル内部にも一〇〇万を超えるアラブ系の人々が住んでおり、同国の人口の約二割を占めている。イスラエル国民としての知識を身につけ、イスラエル人とパレスチナ人のダブル・アイデンティティを抱えたこの人々は、イスラエル国家を打倒せよというスローガンに同調するわけにはいかないし、たとえ占領地に独立したパレスチナ国家が誕生したとしても、必ずしもそれに一体感を持つわけではないだろう。イスラエルにおける二流市民という劣等の地位からの解放が、彼らの第一の望みである。イスラエルが普通の国になってほしいのだ。イスラエルという国家の存在を認めた上で、そのアラブ系住民が平等を達成し、真の民主主義が実現すれば、民族的な対立も緩和され、おのずと全体の問題を解決する方向も見えてくるだろうと彼らは考える。この人たちのあいだから、民族共生国家の考えが生じていることは注目される。晩年のサイードが提唱したバイナショナリズム(ユダヤとアラブが互いのネイションとしての存在を認めたうえで共存する)による解決は、この流れを汲んでいる。 以上のように、パレスチナの解放運動の中には、占領地、イスラエル国内、在外という三つのグループの異なる要求が混在している。むろん、それを超える同胞意識、自分たちになされた不当な仕打ちへの義憤というものがあるからこそナショナルな運動として成立しているのだが、後述するように、従来の国際コンセンサスに基づくパレスチナ国家の分離独立を推し進めれば、パレスチナ人相互の利害の不一致を先鋭化させることになるだろう。 アラブ人クリスチャン これに加えて宗教面でもパレスチナ人はムスリムとクリスチャンという二つのグループに大別される。アラブ人クリスチャンは、数の上では圧倒的に少数派であるが、パレスチナにおける歴史はムスリムより古く、社会的な地位においては決して劣ったものではない。解放運動においてもクリスチャンの貢献は大きいといわれるので、このグループについても概観しておこう[ix]。 クリスチャンは十九世紀にはパレスチナ人の約一五%を占めていたが、今世紀に入ってその割合はどんどん低下している。オスマン帝国末期(一九〇八年)にクリスチャンにも徴兵制が課されたため、兵役逃れにアメリカ大陸へ移住する者が増えたのが、パレスチナにおけるクリスチャン・コミュニティ縮小の始まりで、英国委任統治時代に一時持ち直したものの、全体としては減少の一途をたどっている[x]。出生率の差もあって、パレスチナ人に占めるクリスチャンの割合は三%強と、著しく低下している。クリスチャンは現在、ナザレとその周辺(約一〇万)、ベツレヘム周辺(約三万)、エルサレム周辺(約二万)などに集中している。第二次インティファーダによる生活の破綻から占領地ではクリスチャンの流出に拍車がかかり、ベツレヘムではコミュニティの存続さえも危ぶまれる状態になっている。現在までに旧パレスチナを離れた在外のパレスチナ人の割合はムスリムもクリスチャンも同じ五割程度であるが、前者は主にイスラム圏、後者は欧米に移住している。 ミトリ・ラヘブはアラブ人クリスチャンの特徴として、エクメニズム[xi]と並んで、常にマイノリティであったことを指摘している。従って、権力と結び、支配者の側に立つようになった西洋のキリスト教会とは異なるメンタリティを彼等は形成してきた。オスマン時代にはイスラム帝国の中の二級市民として扱われてきた周辺的存在であったことから、十九世紀以降に欧米の影響が強まると、アラブ人クリスチャンたちは旧体制の改革と近代化を推進する文化エリートの役割を担うようになる。少数である彼等は国家と宗教の分離を唱え、宗派にかかわらず市民として同等の権利を持つ世俗主義のアラブ国家を目標に掲げた。このような世俗主義ナショナリズムがPLO(パレスチナ解放機構)に継承されており、とりわけPFLPやDFLPにはクリスチャンの活躍が目立った。とはいえ、世俗主義がクリスチャンの専売品だったと言っているわけではない。占領地においてハマスのようなイスラム主義が台頭してきたのは、このような世俗主義ナショナリズム運動が挫折したことを受けた結果である。イスラム主義の台頭は、アラブ人クリスチャンにとって大きな脅威となっている。 以上のように大別される集団の中で、エドワード・サイードはどこに位置しているのだろうか。彼の父はエルサレム生まれの英国教会派(聖公会)クリスチャンで、氏族的なルーツはナザレにあったらしい。母方もナザレのプロテスタント(祖父はバプティスト派の牧師で一時アメリカに住んだことがあるらしい)で、親族の半分はレバノンに住んでいた。まさに、旧体制の改革と近代化を推進する文化エリートというラヘブの描写どおりの存在である。エドワードの父親ワーディーはオスマン帝国の徴兵を回避するために若くして渡米し、第一次大戦に従軍した功績でアメリカ市民権を得た。パレスチナにおけるクリスチャン・コミュニティの海外流出のハシリである。ワーディーは英国委任統治時代に帰郷したが、古色蒼然としたエルサレムの停滞には早くから見切りをつけ、カイロへ事業家として進出した。四八年に一族全員がパレスチナを追われたとき、ワーディーはすでにカイロで事業を確立していた。その後エドワードは単身アメリカに渡り、そこでキャリアを築くことになったが、家族はレバノンに落ち着いた。母親や妹たちにとってはむしろレバノンへの帰属意識が強かったようだ[xii]。 カイロのヨーロッパ租界という人工的環境で育ったエドワードにとっては、パレスチナが失われるずっと前から、すでに自分のルーツとの断絶は始まっていた。彼に生涯まとわりつくことになる「アウト・オブ・プレイス」(本来あるべきところから外れている)という感覚は、英米的な部分とアラブ的な部分を等しく自分の中に抱え込んだことによるところが大きく、四八年の事件とは別のところで発達したものだ。パレスチナの喪失は、その根源的な原因であったのかもしれないが、直接のトラウマ体験だったわけではない。この故郷喪失の意味をほんとうに理解するまでには長い時間がかかったと彼は書いている。失われた故郷としてパレスチナが意識にのぼってきたのは六七年の戦争がきっかけだった。その頃にはすでにアメリカ東部の名門大学で有望な若手の学者としてキャリアを築きつつあった。そのまま平穏な人生を歩むこともできたはずなのに、あえてパレスチナ人というアイデンティティを引き受け、ナショナリズム運動にのめり込んでいったのである。パレスチナ人の物語を語りつづける人物は、客観的にはナショナリストだろう。だが彼をナショナリストと呼ぶことはためらわれる。ナショナリズムはサイードが抱えこんだ多くの矛盾のなかでも一番やっかいなものだったとさえ思われる。 ともあれ、エドワード・サイードは故郷が現在イスラエル領になってしまった離散パレスチナ人であり、パレスチナとレバノンにまたがるクリスチャン・コミュニティの一員である。先にみたように、集団としての彼らの目標は、イスラエルによってコミュニティを破壊されたという主張の正当性と、故郷への帰還の権利を承認させることである。それを実現する手段として、世俗主義と民主主義の推進により伝統社会を改革し宗派主義に対抗することがめざされている。だがこのような彼らの要求は、八〇年代後半のインティファーダ勃発とともに占領地の闘争に世界の注目が集まるようになると、次第に解放運動の中心から遠ざけられていくようになる。 三分の二の切り捨て
かつてパレスチナと呼ばれた土地は現在すべて(軍事占領も含めて)イスラエルの支配下にあるが、そこに住んでいるのはパレスチナ人全体の半分にも満たない。残りの半分は郷里を離れた在外のパレスチナ人であり、多くはいまだに難民である。彼らと郷里をつなぐのは「帰還の権利」という、一度は国際社会によって認めながらも強者によって否定されてきた権利である。否定された権利が否定されたネイションとしてのアイデンティティを形成したともいえよう。国家なきネイションへのアイデンティティを象徴するのが帰還権ということになる。だが、いまやこの権利の主張に最後のとどめがさされようとしているかのような宣伝が、マスコミを使って大々的に行なわれている。シャロン首相とアッバス議長によるロードマップの復活だ。 二国家か一国家か ロードマップとは九三年夏にブッシュ政権が打ち出した中東和平の展望で、基本的には九〇年代のオスロ和平プロセスを継承する企てである。かつてヤーセル・アラファトに代わるパレスチナ側の和平パートナーとして首相に就任し、ロードマップを推進したマフムード・アッバスが、アラファト死後の二〇〇五年一月の選挙で自治政府の首長に選出されたことから、マスコミ報道では今後ロードマップの進展に弾みがつくものと予想されている。これと並んで、アメリカ主導ではなく国際協調型(ヨーロッパ主導)で、在野の和平派を中心とした代案というふれ込みで同年秋に合意されたジュネーヴ和平案も、いまだダークホースとして健在のようだ[xiii]。パレスチナを分割してイスラエルとアラブがそれぞれに独立国家を持つ(二国家解決)というのは、長年にわたる国際社会のコンセンサスであり、九〇年代以降に打ち出されてきたオスロ、ロードマップ、ジュネーヴの各提案は、いずれもこの伝統的なパレスチナ分割案のヴァリエーションである。だがオスロ・プロセスの失敗は、分割による解決という伝統的な考えの実行不能性を一〇年を費やして実証する結果になった。近年、一国家解決案がふたたび脚光を浴びるようになっているのはそのためだ。 パレスチナの分割という国際コンセンサスを実行するにあたって最大の障害が、現在イスラエルの領土となっている故郷にパレスチナ人たちが帰還する権利だ。イスラエルは四八年にパレスチナ人が難民化したことについていっさい責任を認めず、彼らの帰還権も、それに代わる補償の義務さえも認識しようとしない。難民の帰還を認めればユダヤ国家としてのイスラエルは消滅すると思っているからだ。パレスチナ人はいずれ自分たちの国を持つことになる(ヨルダンがすでに彼らの国でないとすれば)のだから、そこに帰ればよいではないかと彼等は言う。だが、たとえばサイードにとって、故郷はあくまでも西エルサレムなのであって、西岸地区やガザにあるわけではない。ナザレのアラブ系住民にとっては、イスラエルにあるその土地が先祖代々の故郷であり、自分たちの国である。西岸やガザにできる(かもしれない)パレスチナ国家にあえて移住する魅力は小さい。イスラエルのような神話に基づくネイションとは異なり、パレスチナはかつて領土を持って存在していたのである。彼らの故郷は、この世に一つしかない特定の場所だ。領土分割による「解決」は、ふたたび多数の人々が住み慣れた土地から無理やり引き離される可能性を含んでいる。パキスタンとインドの分離独立の際に行なわれた大量の民族移動、あるいはバルカン半島で民族自決の大義のもとに行なわれた民族浄化と同質のことが、国連の分割決議から五〇年以上を経た今も同じように支持できるものだろうか? イスラエルの和平条件 イラン・パペによれば、イスラエルの和平案は伝統的に次の三つを前提としている。(1)四八年の建国時にパレスチナ住民が追放されたことは問題にしない、(2)交渉する対象は六七年に占領した西岸地区とガザの扱いに限定する、(3)イスラエル国内のアラブ系マイノリティ(パレスチナ人)に関しすることは包括合意に含まれない。すなわち旧パレスチナの領土の八割弱およびパレスチナ人の六割強は、交渉の対象から除外されるのである。第三次中東戦争以降、国連に代わって和平のイニシアティヴを握るようになったアメリカは、このようなイスラエルの要求を無条件で受け入れ、これが現実的に実行可能な最低ラインであるとして世界に売り込んできた[xiv]。 このようなイスラエル=アメリカの和平プランが交渉相手としてアラファトPLO議長を獲得したことの意義は大きかった。難民たちの亡命政府として出発したPLOの指導部が、在外パレスチナ人の権利を切り捨ててイスラエル側の提示する条件による和平を進め、イスラエルの承認のもとに占領地の住民を統治し、抵抗運動を取り締まるという役割を引き受けたのである。一九九六年に占領地で選挙が行なわれ、暫定自治政府の長が選出された。これによってアラファトの自治政府には正統性の根拠が与えられた。だが、この手続きからは在外パレスチナ人が除外されている。オスロ合意の枠組みに沿って作られた占領地の統治機関である自治政府に、彼らの帰還の権利を交渉で取引するような正統性があるだろうか[xv]。そのような矛盾もアラファトという個人のカリスマによってカバーされてきた。よかれ悪しかれパレスチナ人を代表する唯一の象徴として、民主的手続きを超えたところにある一種の君主的な地位を確立していたからだ。だが彼の死によって、その矛盾が露呈すことになった。「今後だれがアラファトに取って代わるにしても、ぼろぼろに叩かれ、貧窮化しながらも、なお決意の固い住民たちが示す寛容度は、ずっと低いものになるだろう。本質的に、その後継者はアラファトだけが持つ歴史的な影響力に欠ける。政治的な支持もアラファトほどは集まらず、大衆の支持ではもっと見劣りするだろう。アラファトの妥協と同程度のものを推進しようとしてさえ大衆の激憤を買う可能性は高く、ましてやイスラエルにもっと譲歩するという、イスラエルとアメリカから相手にされるための必要条件を満たすための提案をすれば、なおさらであろう」とオマール・バルグーティは述べている[xvi]。 アラファトの後継選挙で欧米のマスコミが、あらかじめ結果のわかりきったこの選挙を、素晴らしく公正な選挙であったと事実にかかわりなく好意的に報道することに決めこんでいるのをみれば、マフムード・アッバスにどんな役割が期待されているかがうかがわれようというものだ[xvii]。これから後に進められるロードマップによる二国家解決に向けた下地づくりなのだ。これをスムーズに推進するために報道というイデオロギー装置を用いて、パレスチナ人の再定義がなされる。あたかも占領地に住む人々のみがパレスチナ人であるかのような報道がつみ重ねられ、在外のパレスチナ人の存在が考慮の対象から外されていく。帰還権という都合の悪い問題にけりをつけるために、在外パレスチナ人を「パレスチナ人」のカテゴリーから外し、やっかい払いをするつもりなのだ。これはオスロ・プロセスの時代からずっと続いていたことである[xviii]。 パレスチナ人のあいだの分裂が深まり、ナショナリズム運動が分解すれば、イスラエル人は枕を高くして寝られるようになるだろう。ネイションなどしょせんは主観の問題だ。占領地の民は名ばかりの自治を得てイスラエルに隷属し、在外のパレスチナ人は失われた郷里に帰属する流浪の共同体という「妄想」から覚めるだろう。ナショナリズムの悪夢から覚めて、各人が現実に生活を築いてきた現在の場所を自分の属するところと認識するようになるだろう。だが──ほんとうにそうなのだろうか?アイデンディティを消滅させることができるのは、彼らのアイデンティティに対する攻撃がなくなるときだけではないのか。領土を分割しパレスチナ人の分断を図ることは、はたして彼らのアイデンティティを弱める効果があるのだろうか。これはかつて、ゴルダ・メイヤ首相が「パレスチナ人などいなかった」と述べ、一方的にパレスチナ人のアイデンティティを否定したときのことに似ていないだろうか。離散パレスチナ人に静かに消え去ってほしいと願うのであれば、彼らの権利を一方的に否定することはあまり賢明な方法のようには思われない。抑圧と抵抗は相対関係なのだから。 以上に述べてきたような構造が、サイードが帰還権に執着した理由を説明すると思う。 領土なきネイションへの帰属と延期された帰還
「パレスチナ人などいなかった」という先のゴルダ・メイヤ首相の一九六九年の発言は、サイードが、それに対する反発からパレスチナ人の歴史を語り、その存在を証明するという果てしのない企てにとりかかることになったとしてよく挙げているものだ[xix]。当時はヴェトナム反戦や公民権運動などでキャンパスにはリベラルな空気がみなぎっていたが、パレスチナ人の物語だけは受け入れられず、それを語れば反ユダヤ主義として左翼のあいだでさえも白眼視された。このような中でパレスチナ人の主張の正当性を語ることは、同胞に対する共感の表明であると同時に、知的な挑戦でもあった。 帰還権の主張はアイデンティティの問題である。そこに帰る権利が認知されることは、自分たちは不正に追放されたという主張の正当性が受け入れられることであり、自分たちはどこからきたのかを明らかにするパレスチナ人の存在の証明である。イスラエルが一九四八年と六七年のでき事についての責任を否認し、そこにはすでに人々が住み、社会があったことさえも否定してきたために、それに対する反応として、パレスチナ人というアイデンティティが強固なものとして出現してきた。それゆえ、帰還権は譲ることができない。帰還権の主張は、なによりも否定されたネイションの存在表明だったのだ。 だが、サイードが一体感を持っていたネイションは現実の領土を持つものではない。六〇年代から八〇年代までの解放運動の主体はおもに離散パレスチナ人であり、民族自決をめざす独立運動と並んで、祖国を追われた者たちの権利回復と向上をめざす難民の運動という側面があった。国がないゆえに身分を保証されず、移動や居住の許可や登録、身分証、旅券、労働許可、等々の煩雑で際限のない手続きを強いられる人々。「パレスチナ人の過半にとって異邦に暮らすことが常態化しており、このひとびとのためには祖国への郷愁や思慕や帰還の夢などに基盤を求めない、新しい共同体のモデルや存在様式を探求する必要がある」とサイードは述べている。彼に居心地がよかったのは、この領土なき共同体への帰属であり、自立国家建設をめざすナショナリズムに対してはアンヴィヴァレントな感情を持っていた[xx]。排外主義や自民族優先主義には嫌悪感を隠さない。 八〇年代末から解放運動の焦点が占領地に移り、その目標がパレスチナ国家の分離独立へと方向転換し、九〇年代になってオスロ和平プロセスとして現実化する過程で、サイードはアラファトと決裂して解放運動から身を引いてしまった。オスロ合意による和平交渉は真の独立国家をもたらすものではないというのがオスロ批判の理由だった。その判断が正しかったことは、現在までに西岸地区に出現したバンツースタンによって証明されている。だが、それではどんな国家なら彼は満足したというのだろう。むしろ、具体的な形をとった現実の国家が「故郷」として出現することに対する困惑が背後に働いていたとはいえないだろうか。パレスチナはかつて存在した祖国でありこれから再び存在するようになる(かもしれない)祖国であるが、決して今ここに存在する祖国ではなかったのだ。そういう宙吊りの存在としてのみ、安心して「故郷」として肯定できたのではないのだろうか。祖国は永遠に失われていてほしかった。 このように思うのは、晩年のバイナショナリズムに基づく一国家解決という主張が、実現可能な利益だけでも確保しようというプラグマティズムを否定することによって、結局のところは解決を先延ばしにするものだからだ。パレスチナを分割することによって生じる国家は、サイードのような離散パレスチナ人にとってはどう見ても魅力的ではない。自立国家の体をなさないオスロ・プロセスのバンツースタンを拒絶するのは当然のこととして、たとえ国連決議二四二が厳密に実行されたとしても、イスラエル領(旧パレスチナの七八%)に故郷のあるパレスチナ人にとっては、故郷の回復にはならない。分割と並んで帰還権が承認されるのでなければ、彼らは救われない。かならずしも現実の帰還に結びつくとは限らないだろうが、少なくとも過去に不正な扱いを受けたことがイスラエルによって認知される必要がある。同胞の半分の自立と引き換えに、いや、誤解を避けるために厳密に言えば、「旧パレスチナの二割強の土地にパレスチナ人の三分の一強が自立すること」と引き換えに、残りのパレスチナ人たちが帰還権を放棄するというのでは、とうてい彼等は納得しないだろう。現実には、その程度の「独立」さえもイスラエルは認めようとしない。ロードマップの先にあるのは、占領地のバンツースタン化と引き換えの離散パレスチナ人の存在抹消である。そのような不本意な「国家樹立」を回避するための窮余の一策が、バイナショナリズムの提案とみることも可能なのではないだろうか。 サイードの死後、アカデミアでは一国家解決をめぐる議論が盛んになってきている。理屈の上ではバイナショナリズムは現実を重視した提案である[xxi]。だが、現実に一国家解決への転換をもたらすための具体的な手がかりが、なにひとつあるわけではない。二国家解決が国連決議に基づく長年にわたる国際的なコンセンサスを背景にしたものであるのとは対照的だ。それを承知のうえで、純粋に観念的な理想として一国家解決をあえて唱えたとすれば、それは禍根を残すような不十分な解決を回避して、あてどもない将来にナショナルな問題の解決を託したことになるのではないのだろうか。そうであれば、現状においてバイナショナル国家を主張することは、まやかしの祖国回復を拒絶し、無期限に帰還を延期するものに他ならない。 (二〇〇五年二月 中野真紀子) 注 ★タイトルはエリア・スレイマンのサイード追悼文にひっかけたものです。 [i] Edward Said, Out of Place: A Memoir, [ii] Edward Said, "The right of return, at last," Al-Ahram Weekly 10 - 16 February 2000 [iii] http://216.239.63.104/search?q=cache:EJQQACod_pUJ:www.one-state.org/articles/2000/shavit.htm+%22my+right+of+return%22+edward+said&hl=en Ari Shavit, "My Right of Return: An Interview with Edward Said," Ha'aretz magazine, 18th August 2000 [iv] パレスチナ人の定義はPLOのパレスチナ国民憲章に次のように定められている。 第5条 パレスチナ人とは、1947年まで正常にパレスチナに居住していたアラブ住民であり、その後この土地を退去させられた者であるか、あるいは留まった者であるかは問わない。また1947年以後、パレスチナ内であろうと外であろうと、パレスチナ人を父親として生まれたものは、すべてパレスチナ人である。 第6条 シオニストの侵略が始まる以前にパレスチナに正常に居住していたユダヤ教徒は、パレスチナ人と見なされる。 [v] http://christianactionforisrael.org/un/194.html General Assembly Resolution 194 [vi] http://www.sis.gov.eg/jerusalem/html/jer-un5.htm General Assembly A/RES/3236 (XXIX) 22 November 1974 [vii]図表1 [viii] UNRRWA http://www.un.org/unrwa/japanese/geneva/intro.pdf http://www.arts.mcgill.ca/mepp/new_prrn/background/
[ix] Mitri Raheb, I AM A PALESTINIAN CHRISTIAN, translated by Ruth C. L. Gristch,
1995 Augsburg (「私はパレスチナ人クリスチャン」 ミトリ・ラヘブ著 山森みか訳 日本キリスト教団出版局) [x] Ibid. 1908年の徴兵制実施により、ベツレヘムとベイトジャラでは15万人のクリスチャンがラテンアメリカに移住し、故郷にとどまったのは2.5万人にすぎなかった。英委任統治機関の1931年の国勢調査では、パレスチナのクリスチャンは8万人(アラブ人口の10%)だった。40年の調査では、135,000
人に増加している。かつて流出したクリスチャンが戦後に帰還することを英委任統治機関が許可していれば、もっと増えていただろう。 1948 年の戦争で712,000のパレスチナ人が難民となったが、そのうち50,000 人がクリスチャンだった
(クリスチャン人口の35%)。その半数はレバノンに逃れ、残りは西岸とヨルダンに滞留した(東エルサレムに7000人、ベツレヘム
4500人、ラマッラー 5500人、アンマン等9000人)。67 年にかけてクリスチャン人口はイスラエルでもヨルダン(西岸地区を含む)でも増加した(イスラエル30,000→60,000,
ヨルダン1951年93,000 →1964年の115,000) が、人口比では下落した(イスラエルでは1949年の2.9%から1965年の2.2%へ、ヨルダンでは1951年7.5
%から1964 年6.6%へ)。アメリカ、オーストラリア、湾岸諸国への移民が続く。1967年の戦争で数千人が難民となり、86年までに269,000人のクリスチャンが占領地から移民した。. 現在パレスチナ人クリスチャンの 55% (175,000人) が故郷を離れており、パレスチナに住むのは145,000 人となっている。この割合は、パレスチナ人全体における在外者とパレスチナ在住者の比率にほぼ等しい。 [xi] Ibid. パレスチナには古来さまざまな宗派が共存しており、東方教会、ローマ教会、プロテスタント諸派などを次々と受け入れてきまた。従ってエキュメニスムの伝統が強く、パレスチナ人クリスチャンには、キリスト教の諸派のみならず、イスラムもユダヤ教も包含した共生を視野に入れている。 [xii] 妹のジェーンはレバノンで結婚し、レバノン人として、また女性としての視点から同じ家族の歴史を語っている。(ちなみに、拙訳『遠い場所の記憶』に「ナッサール家のアルフレッド」と結婚とあるのは、「サミール・マクディシ」の間違いです。) Jean Said Makdisi , Teta, Mother And Me: An Arab Woman's Memoir, Al Saqi, Beirut 2004 [xiii] http://www.lrb.co.uk/v26/n01/print/papp01_.html Ilan Pappe, "The Geneva Bubble," on the prehistory of the latest proposals [xiv] ibid. [xv] カルマ・ナブルシKarma Nabulsiは、恒久的な問題解決のためには、究極のところ在外共同体の全体を含めた意思決定システムの樹立が必要となる。そこでは無国籍=無権利の状態におかれた難民キャンプの人々だけでなく、ホスト国の市民権を獲得した帰化者たちがそれぞれに「故郷」への帰属の仕方を選択する機会が与えられなければない、と論じている Karma Nabulsi、 "Popular Sovereignty, Collective Rights, Participation
and Crafting Durable Solutions for Palestinian Refugees", a working
paper submitted to The Role of International Law in Peacemaking and Crafting
Durable Solutions for Palestinian Refugees, 22-23 May 2003, University
of Ghent/Department of Third World Studies [xvi]
http://www.zmag.org/content/print_article.cfm?itemID=6646§ionID=107 Omar Barghouti, "With Arafat dies the Two-State Solution, November 14, 2004, ZNet [xvii] 例えば、DemocracyNow!では、エミイ・グッドマン(キャスター)に選挙についての意見を問われて、アリー・アブニマール(エレクトリック・インティファーダの創設者の一人)が次のように回答している。 ALI ABUNIMAH: 西岸やガザなどパレスチナの人たちと一日中連絡を取っているのですが、集まってくる情報はみな、あちこちで相当な不正が行なわれていたことを示しています。多くのパレスチナ人が感じているのは、メディア、アメリカ政府、群れをなす国際監視員たちがどっと押しかけてきて、あらかじめ決まっていた勝利にお墨付きを与えたということ、選挙は好材料として報道されなければならなかったということ、パレスチナ人が選挙そのものにおいて、また大局的にはイスラエルの攻撃がまだ続いているという状況の中で、実際にどんな体験をしたかということには、彼らは興味がないということです。私たちがみな選挙に目を取られている隙に、Al-Haratが土曜日に長い記事で伝えたところでは、イスラエルはひっそりと入植地を占領中の西岸地区のいたるところで拡大し、それに対して合衆国、とくに次期国務長官コンドリーザ・ライスが完全な支持を与えていたのです。アッバースの勝利によって作り上げられた誤った楽観論──新しい夜明けだとか新たな和平の開始だとか、識者達はこぞって言うのですが、実際は、多くのパレスチナ人は今度もまたハメられることになるだろうと恐れているのです。いずれは、避けられぬ破綻がイスラエルの非妥協的な態度によってもたらされ、またしてもパレスチナ人を非難する機会を与えることになるだけではないかと。パレスチナ人はまたもやチャンスをだめにしたと言って。 Democracy Now! Monday, January 10th, 2005 Palestinian Elections "Taking Place Under Continued Heel of Israel's
Military Tyranny" [xviii]
http://www.zmag.org/content/print_article.cfm?itemID=6973§ionID=107 Omar Barghouti, "Slave
Sovereignty :Palestinian Presidential Elections Under Occupation," January
07,2005, ZNet [xix]
http://www.lrb.co.uk/v20/n09/print/said01_.html Edward Said, "Between Worlds," London Review of Books, Vol. 20
No. 9, 7 May 1998 There are no Palestinians,' said Golda
Meir in 1969, and that set me, and many others, the slightly preposterous
challenge of disproving her, of beginning to articulate a history of loss and
dispossession that had to be extricated, minute by minute, word by word, inch
by inch, from the very real history of Israel's establishment, existence and
achievements. I was working in an almost entirely negative element, the
non-existence, the non-history which I had somehow to make visible despite
occlusions, misrepresentations and denials. [xx] エドワード・サイード『ペンと剣』クレイン 一九九八年 [xxi] 実態として、すでにパレスチナ=イスラエルにおけるユダヤ人とアラブ人は混ざり合って生活しており、経済的にも相互依存の関係を築いているため、いまさら線を引いて分離することは現実的ではないということを、サイードは90年代初めにおよそ45年ぶりに同地を訪問した折に痛感したようだ。ハイファ大学のイラン・パペなどは、すでにバイナショナリズム国家はそこに存在していて(旧英国委任統治領全体に)、ただアラブ人の一部が占領下に置かれ、残りは完全な市民権が与えられていないという状況があり、バイナショナリズムはこの状況を是正するために現状の権力構造を調整しようという主張にすぎないと言っている。国民国家の概念を肯定的にみているというよりも、ユダヤ人のネイションの破壊を意図するものではないと言明することが、シオニストからの攻撃をかわす上でも重要なのだろう。古今の「一国家VS二国家解決」の論争で明らかにされているように、シオニストの思考回路では「一国家解決」イコール「イスラエルという国家の終焉」ということになり、従ってイスラエルの存続を脅かす反ユダヤ主義的な主張というふうに攻撃されるからだ。これについては、コロンビア大学で二〇〇五年一月三一日に開かれた“One
State or Two? Alternative Proposals for Middle East Peace,”という題のパネルディスカッションが、その「偏向」を問題視するようなコメントを多数誘い出すことになった騒動(http://www.columbiaspectator.com/vnews/display.v/ART/2005/02/01/41ff349f8b179)などが、この問題をめぐるぴりぴりした空気をよく物語っている。例えば、次のようなタイトルの記事がプロ・イスラエルの雑誌に載るのである。 "Columbia University Considers the Elimination of Israel" http://www.frontpagemag.com/Articles/Printable.asp?ID=16882、 |
|||||||||||||||||||||||||||||||
>
|
|||||||||||||||||||||||||||||||
|
Link free
(=^o^=)/ 連絡先 8