Edward Said Obituaries

映画「D・I」とスレイマン監督についてはじめて知ったとき、直感的にサイードにつながるものを感じたのですが、思ったとおり二人のあいだには交流があったようです。ひねくれ者のスレイマンの行間から読み取れるのは、サイードがこの生意気な、どこの馬の骨ともしれない映像作家志望の青年をけっこう気に入って援助していたこと、アメリカにおけるパレスチナ人の芸術表現を増進するために積極的な援助を惜しまないという一面です。その一方で、パレスチナ人の若いアーティストから見れば彼は崇拝とともに畏敬の対象であり、その名声の恩恵に浴することにある種の屈折、うしろめたさのようなものがあったようにも思われます。スレイマンのひねくれた書き方に、かえって真実が見えるような気がします。


延期された帰還のドラマ
The Postponed Drama of Return


エリア・スレイマン
2003年10月27日

彼のアシスタントを根負けさせたのは、ひとえに僕のしつこさだった。何度も挫折をくりかえした末に、ついに僕はエドワード・サイードとの面会を許された。僕に与えられたのは15分間。15分かっきりで、それより一秒でも延びてはならなかった。短くなるのは歓迎だったが。

そのころ僕は二十代の半ばで、開かれぬ扉を叩きつづけ、ほとんどそれ自体が目的になるまでやりつづけるのが習慣になっていた。それをバネにして確信したかったのは、自分でもいまいち不確かだったもの──映画づくりへの情熱だった。

それに扉が開かれねばならぬ理由もなかった。 僕には映画について教育がなかった。正規の教育はまったく受けておらず、かろうじて映画というものの本質がなんたるかを知っていただけだ。 要するに、僕には実績として示すものはなにもなく、あるのはただ、つくる見込みもない──結局ものにならなかったが、それは当時からわかっていたはずだ──映画の「あらすじ」だけだった。そこで、その「あらすじ」をひっさげて、僕は出かけた。

扉を叩いて入室した僕は、その場で引き止められた。 はるか遠く離れたところからエドワード・サイードが、コロンビア大学の彼の巨大なオフィスの向こうの端にあるデスクに座って、鼻の先までずり落ちためがねを通して僕を見つめていた。「そこにいなさい。 君が何者で、わたしに何を望んでいるのかは知らないが、どのみち力になれるとは思えない。だったら、君の時間も、僕の時間も、むだにすることはないだろう?」

いろいろな答えの可能性を勘案したすえに、僕は言った。「いいでしょう。でも、この15分間は僕の権利だと思います。これだけがんばって手に入れたのだから。あなたにお願いできるのは、この15分間を余すところなく僕がここで使い切るということだけです。使い切ったら、僕は帰ります」。「それが望みなら、好きにしなさい」と、いろいろな答えの可能性を吟味してから、彼はそう答えた。

僕は彼に歩み寄り、彼のデスクの向かい側の椅子に座った。僕は腕時計を出して、じっと見守った。僕は自分の背後にある棚から雑誌を引っ張り出して、パラパラとページをめくり始めた。 彼は自分の仕事に戻り、書類に没入した。 沈黙が訪れた。

が、長続きはしなかった。 エドワードは書類の陰から顔をのぞかせると、やおらそれらを傍らに置き、敗北を宣言した。「降参だ」と彼はにこやかに言った。「昼飯まだなら、一緒にどう?」

僕らは近所に住んでいた。約束しなくとも、よく顔を合わせた。 つながりたい意志はあったが、そこには相互依存性や共通項らしいものはまったくなかった。彼は、僕の趣味に合っていた、あるいはなんとはなしに、そうなりたがっていたようだった。僕の方は、彼によい印象を与えたくて、いつもなにか気の利いたセリフはないかと探していた。いつも威圧されていた。だが、うまくいったためしはない。

けれどエドワードの勘のよさは、僕が下層(少なくとも彼よりは)の出身だという、僕には自明のことを見抜くには十分だった。僕はパレスチナの大ブルジョワ家系の出身ではないし(彼は僕の名前より先に、どの一族に属してしているかを聞いた)、経歴から見れば、僕はおよそ「チンピラ」というのが相応しい。

彼にとって、それは魅力がないことではなかった。 むしろ、使い道があった。彼は、僕らがときどき散歩で行き合わせ、話を交わすような折に、僕を練習台にして、自分の架空のストリートキッドぶりを取り戻そうとし始めた。想像上の自分の「チンピラ」時代の名残のために、それを利用したのだ。

最近○○に会ったかと、彼はよく僕に聞いたものだ。彼がいけ好かなく思っている人物、僕が会ってもおらず、好いてもいないことを彼がよく承知していた人物だ。この質問は、アラビア語の語彙を増やすための口実だった。○○に対して彼は長たらしい文法はずれの悪態をつき始める。もてる限りの語彙を一気に出しきって、ありったけ露骨で、品のないやつをかます。

知っている言葉を使い果たすと、今度は二番煎じを試みた。あれから彼が少しでも上達したかどうかはわからない。僕はかなり前にニューヨークを引きはらったからだ。少なくとも記憶にある限りでは、彼の悪態はいつも鈍重で、混乱しており、適切な間がとられていなかった。その結果、流れはぎこちなく、ひびきも悪かった。要するに、延々と繰り広げられる悪態は、いまいち迫力がなかった。だが僕にはあやまりを指摘する勇気がなかった。そうすることはふさわしくなかった。

たしかに僕は「チンピラ」あがりとして、存分に彼を楽しませてやった。だがその一方で、僕は遠慮なく彼から盗んでいた。最初は単語だけだった。だが、それはやがて文章になり、後にはパラグラフをまるごと頂戴するまでになった。彼が他の作家を引用したところも頂戴した。彼のテクストから必要なところを引き抜いて、言葉の順序をならべ換え、圧縮した。それらがいつも新しい意味を獲得したわけではない。でもそれらは、それらしく響いたし、かっこよかった。それに、彼には有り余っていたけれど、僕には欠乏していたものだった。それゆえ、不公平だったとはいえず、敬意も払われていた。僕は祭壇からものをとる盗人のようだった。自分に必要な分だけを盗り、退散する前にちゃんと十字を切ることを忘れなかった。

だが僕は忠実ではなかった。エドワード・サイードを読んでいると、ときどき途中で興味を失った。最後まで読み通すことができなかった(『オリエンタリズム』を、僕は自分が読んだ大作家たちのうち「誰が、どのように」「僕ら」に対して罪を働いたかを調べる辞書の代わりに使っていたものだ)。 彼の著述は学者風に染まっていると感じることがおおかった。一定の意図に基づいて書かれ、直線的なナラティブによって脈絡を与えられたものであり、詩的な無/秩序の宇宙に解放されることはなかった。

とはいえ、そうした大きな制約の枠内においては、欄外や目立たないところに宝物が見つかった。『延期された帰還のドラマ』は、ある論文のあるパラグラフの締めくくりの文句にすぎないが、それをかつて僕は自分の最初の長編映画『消滅の年代記』の仮タイトルとして使っていた。サイードにはこういう文句もすらすら書けただろうし、とくに注目すべきものと考えてもみなかっただろう。けれど、僕の「あらすじ」には、こういう言葉がコピーライトなしにコピーされ、そこらじゅうにふりまかれていた。

生まれのせいか育ちのせいか、僕には彼の著作を最後まで読み通したり、ナラティブを理解するだけの集中力がなかった。ちゃんとした読者とはいえなかったので、僕は自分を特権のない特権的読者だと考えていた。僕はサイードのテクストの詩的な表層だけを抜き出し、キツツキが木をつつくようにそれを細かく砕いてはじき出して、自分流のこだわりと喜びに従ってそれらを編み合わせた。

僕の最初の短編映画『暗殺による忠誠』の製作中に、高利貸しのプロデューサーのおかげで僕は一文無しになった。 映画が借金のかたにとられるに及んで、僕はサイードにS.O.S. を送った。「今晩、al-Fonoun al-Shabyaのダンスショーで会おう。そこで問題を片付けよう」。ダンスホールのロビーでは、彼は自分をえさに金持ちのパレスチナ人たちをおびき寄せ、第一次インティファーダへの精神支援を引き出そうとしていた。かれらはまんまと罠に落ち、エドワードは彼らの精神支援を物質へと変身させた。人々が彼に敬意を払おうと押しかけると、彼は彼らの挨拶の言葉をさえぎって、僕を「最高に有望な同胞のひとり」として紹介した。彼らは小切手を切ってくれた。正確に言えば二人の人物が。支援者の一人は、エドワードがひどく嫌っている人物だったが、「大義のための資金が滞らぬように」と彼にあたたかい挨拶を述べた。

サイードは映画というものにあまり興味がなかった。彼には、あまりに大衆的な芸術でありすぎた。それほどよくあることではなかったが、彼はパレスチナの大義を推進するとされる映画を観たときには、みずから積極的にその映画を売り込んだ。だが愛はときに盲目となることがあり、パレスチナについても同じことが言えた。

僕は、エドワードに少しは自分の力量を示してやれる日が来るのをずっと待ち望んでいた。むかし僕に助け舟を出したことが無駄ではなかったことを彼に悟らせ、あれからどんなに僕が進歩したかを見せてやりたいとずっと思ってきた(それに加えて、本物の悪罵がどんなものかを──僕の最新作に描いたように──彼に見せてやり、僕らが昔やったことを一緒に笑い飛ばしてやりたかった)。

だが、僕には十分な時間がなかったし、彼にはもちろん不足していた。サイードがダンスショーで僕の映画の資金を調達してくれた例の恥ずべき一日の後、彼は僕に、自分はちょうど医者に行ってきたところで、余命6ヶ月と告げられたと打ち明けた(なぜ医者というのは、死刑を宣告するときいつも6ヶ月という数字に固着するのだろう)。それは12年前のことだった。

僕にとって最後のチャンスは、『D・I』Divine Interventionがニューヨークの映画祭で封切られ、それに続いて劇場公開されたときだった。この映画は、コロンビア大学でも、サイード自身が開始式を行ったパレスチナ文化についての催しの一環として上映された。けれども、僕が聞いている限りでは、彼にはそれを見る機会がとれなかった。

サイードの情熱は正義に注がれており、彼は今すぐにそれを要求した。映画には愛することができるし、一目ぼれも多い。けれども正義というのは、映画におさめることができないものだ。それはいつもフレームの外にある。

映画は不向きでもある。時間の価値の切り下げや空間の縮小についていくことができないためだ。映画の勃興を招いた産業革命そのものが、両者を破壊しているのだ。カメラは戦争の道具として生まれたが、革命家が意図したような方法で銃として用いられることはなかった。詩的な抵抗、前進しても輪を描くだけで、「現在」とは同調しておらず、即時性はない。映画が「わたしたち」とともにあるという信念は動かないが、それは長い目で見ればのはなしだ。

僕だって、いらだちを感じることは多い。期待は裏切られ、信念は失われる。

こんなことを書くのは、僕がほんとうにエドワードを惜しんでいるからだ。長く連絡が途絶えていた後、彼の記事が『アルハヤット』紙に掲載されはじめると、僕はあたかも彼が僕を救いに来てくれたかのようにそれを読み、彼がそこにいて僕に語りかけているかのように感じた。苛立ちも多いこの即時性の欠如を、彼が穴埋めしてくれた。暴力をいっさい打ち捨てて、彼はリングに上り、権力に対し鉄拳を振るいつづけた。このような知識人の力は、道徳的な立場を活力の源泉としており、風車が生み出す力ように自然で純粋だ。

2003年11月、アラビア語の隔週刊行誌『al- Adab』(ベイルート)に掲載の予定。


Home| Edward SaidNoam ChomskyOthers | LinksLyrics

Presented by RUR-55, Link free
(=^o^=)/ 連絡先:
8