Parallels and Paradoxes



音楽と社会







Music and Society
バレンボイム/サイード対談集

Chapter 2-2
New York、1998年10月8日

誰のために演奏するのか音楽は社会の発展を反映する芸術と検閲、現状への挑戦という役割調性の心理学

サイード: 今のは、ほんとうに説得力のある説明だね。ほんとうに、身を焼きつくすような直接的な経験だ。パフォーマンスの環境についていつも気になっていることの一つは、それが近代的なコンサートホールの機能になっていることだ。だが、そういうものは音楽史においてはごく最近に起こってきたもので、たとえばバッハの時代にさかのぼれば、事情はきわめて異なっている。バッハは、あらゆる現存の記録からみて至上のテクニシャンだった。対位法の最高峰で、みずからオルガンを弾き、とびぬけた妙技を使った曲を書いた──どれもみな、神の栄光を称える一種の宗教衝動で満たされていた。ベートーヴェンやハイドンの場合、彼らの活動はパトロンである貴族たちをはっきりと対象にしているという意識があった。ブラームスのような作曲家の時代になると、コンサートホールで行なうことには、聴衆や教会のような組織への配慮よりも、音楽に内在する特質の方にずっと多くの関心が払われるようになる。ここに見てとれるのは、音楽や演奏会機会がしだいに自立していく流れであり、その過程でパトロンはおろか聴衆さえも除外されていった。僕はかつて演奏会ことを極端な場と呼んでいた──人生で追求されるほかの要素(宗教的なものであれ、哲学的なものであれ)からは切り離されたものだからだ。演奏家には、自分が創造している特別なサウンドの世界だけに集中することができるという意識があるのかどうか、僕にはとても興味がある。

バレンボイム:
君の言ったことにはことごとく賛成だが、一つだけささいな違いがある。音楽の自立は、貴族社会に最大の関心を向けつつも、すでにモーツァルトの時代から始まっており、ベートーヴェンの時代にはもう確実にそうなっていたと僕は思う。

サイード: ああ、それはそうだね。バッハにだって、そういうところはある。『フーガの技法』のような後期の作品には自立したところが感じられる。彼は誰のために書いていたのだろう。

バレンボイム: そうだね。これは、その当時の社会や政治の展開に対してきわめて重要な並行関係にあると思う。バッハの音楽は、いろんな意味で、神の栄光をたたえるために書かれたものであり、そのために叙事詩的な手法を用いている。フーガは、建築石材の上に石材をつみ、いくつも層をつみ重ねていくように、実際に音楽で伽藍を築き、神の栄光、あるいは教会を称えるものとなる。ハイドンやモーツァルトに目を移せば、そこには革命の雰囲気がただよっている。それは異なる形式手段によって応用されている。ソナタ形式にうめ込まれた、対比の要素──男性的なものと女性的なものと呼んでもよいだろうし、活発なものと瞑想的なものと呼んでもよいだろう。ここ扱う要素はすでに並列の関係におかれ、たがいに衝突している。

サイード: ベートーヴェンにも同じことが言える・・・

バレンボイム: もっと強いくらいさ。けれど、そこにはまだ、人生の本質を全体として肯定的なものと見ようとする信念がある。つまり、『エロイカ』の葬送行進曲が第二楽章であって最終楽章ではないということは、偶然ではない。僕は、そこに象徴されるものがあると思う──深い悲しみもまた過渡的なものであると言っているのだ。

サイード: 言いかえれば、その体験を通りぬけてはじめて肯定的になれる。

バレンボイム: ベートーヴェンでは、ほんとうにそうだ。それから、後期ベートーヴェンと後期シューベルトを経た後には、ブラームス、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーなど、半音階を多用するいわゆるロマン派の世界が展開する。この流れの最後に現れるのが、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』という調性音楽の極限に位置する作品だ。

サイード: ワーグナーで、いつも僕を感動させる、説得力はあるけれど同時に奇怪なところは、彼がそれなりに信頼できる世界が失われてしまったことに対する一種の極端な反応だ。とりあえずそれを外の世界と呼んでおこう。人間や慣習や制度などの世界だ。つまり、ベートーヴェンのように、あれほどの革命家であり、コントラストを使ったすごい作品──君が挙げた『エロイカ』のような、対比のドラマ──を創造した人物でさえも、そういうことが起こっている世界そのものは信頼しているという感覚がある。聴衆は、それがどこかで実際に起きていることだという感覚を受ける。ワーグナーについて、僕がいつも尋常でないと思うのは(同時代に活躍していたバルザックやディケンズなどの一九世紀後半の大型小説についても同じことが言えるけれど)、もはや世界を信頼することはできず、自分でそれをつくり出さねばならないという感覚があるところだ。僕にとって、ワーグナーにおけるもっともすごい瞬間は『ラインの黄金』の出だしだ。そこでは持続的なEフラット(変ホ音)を長いあいだ連続させることにより、ワーグナーは世界がいま生まれでようとしており、自分がそれに命を与えているのだという錯覚をつくろうとしている。でも、僕にはそれが孤立感をつくりだすように感じられる。つまり、ワーグナーの芸術世界ないし聴覚世界がワーグナーにとってきわめて特別なものであるのは、まさにそれが閉鎖されているからだということだ。

バレンボイム: そうだね。でも実際、進歩というものはすべからく過去に助けを求めることを断ち切る勇気を持っているのではないかな。バッハの世代から、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンらの世代への交替、そして今度は、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンたちからワーグナーの世代への交替を考えてみればよい。バッハの時代には神に頼ることができたのだが、ベートーヴェンの時代になると、もはや神に頼ることはできなくなったということができるだろう。死すべき運命の「人間」に頼るしかなくなったのだ。そしてワーグナーに至っては、もはやそれさえもできない。僕らは新しい種類の「人間」を作らなければならないというのだ。

サイード: おまけに、もちろんワーグナーは、ある程度までは自分自身がそのような新しい人間だと考えていた。つまり、彼のなかにもジークフリート的な要素があるということさ。いいかい、ジークフリートが、同名のオペラのなかで、剣を鍛造するとき、ワーグナーも同じことをしているんだ。でも僕が言いたかったのは、ワーグナーは断片から始めねばならなかったし、その断片は一部はどっかから受け継いだものだったということだ。だけど彼が聴き手に信じ込ませようとしているのは、自分はすべてをゼロからつくりあげたということだ。そして、この特異な幻想が──自分はほんとうにまっさらのところからはじまっていて、ほかのものは何も必要としない、というやつ──導いていく先が、僕にはとても問題を感じるところ、すなわち社会や文化の世界からの音楽の隔離なのだ。別の言い方をすれば、ここにある知的で審美的な孤立感は、たとえばバッハのような人物が、教会という安全な場所で、挑戦が存在しない安泰な社会の中で作曲していたのに比べれば、ずっと多くの努力を必要とする。バッハからは、権威に挑戦するという意識を感じることはない。だが、たとえば『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では、ワーグナーは新しいドイツをつくろうとしている。当時のドイツの分裂状態を踏まえてのことだ。それはずっと意欲的なことだ。

バレンボイム: そうだね。でも公正を期すために言えば、オペラを──特にワーグナーの思想や、その発展上にあるものを──絶対音楽やたいていのカンタータのようなものと比較するのは、あまり適切なこととはいえないだろう。

サイード: そうだね。でもワーグナーが『ロ短調ミサ曲』を書いているところなんて想像ができない。わかるだろう、僕はそういうことも含めて話しているんだ。ミサ曲には決まった手続きのようなものがあって、バッハはそれをもっと個人的なものにしている。けれどバッハの『ロ短調ミサ曲』と、たとえばベートーヴェンの『荘厳ミサ』を比較してさえも、すでにそこにはかなり大きな相違がある。『荘厳ミサ』には、とても奇妙なところがある──むろん、きわめて晩年の作品だ。それでもベートーヴェンが、宗教的にも、審美的にも、バッハのような完全な自信をこの題材に持っているようには感じられない。

バレンボイム: それは十八世紀と十九世紀のあいだの相違だよ。音楽がその激しさや表現をほんとうに最大に発揮することができるのは、室内やコンサートホールに隔離されたときだというのは、大きなパラドックスだ。音楽をそれ以外のすべてのものから隔離している実際の要素はとても重要だ。というのは、ある意味で、それがサウンドの世界の創造だからだ。もし聴き手が、いわばパフォーマンスの最初の音から引き込まれ、そのまま最後まで気を散らすことなく密着しつづけることができるならば、その人は一つの宇宙を体験したということができるだろう。ショパンの小品であっても、ブルックナーの壮大な交響曲であってもそれは同じだ。音楽は、一方では孤立して存在するけれど、他方では、社会のできごとを忠実に反映しており、それを予言することも稀ではない。十八世紀には、いろいろな意味で、やみくもな信仰や、教会の教えに対する確信があった。それから、ハイドンやモーツァルトやベートーヴェンなどに始まる革命精神の時代がおとずれる。半音階が多用されるようになり、形式的な変化も起こった。ソナタ形式は、緊張や、闘争や、発展を表わすための形式だ。それでも展望はまだ前向きだった──社会や人間中心主義的な考えの健全さを疑ってはいなかった。だが、ワーグナーの時代が来る頃には、こうしたものはみな崩壊してしまう。君が言ったように、文学の世界では、バルザックやディケンズの時代だ。とつぜんソナタ形式は、ブラームスの時代までは通用したような表現の基盤を作曲家に与えてくれなくなった。それゆえリストやシュトラウスは交響詩というものを発明し、ワーグナーは彼の歌劇(music drama)をつくり出した。調性のヒエラルキー(特定の和音が他のものより重要性を持つということを受け入れることになる)が細かく分析されはじめ、とつぜん信用を失墜する。要するに、もう神の定めたヒエラルキーではなくなったのだ。王制国家の社会階級によるヒエラルキーすらも通用しない。いまや共和国の時代となり、主音(トニック)とか、属音(ドミナント)とか、下属音(サブドミナント)というような、秩序とヒエラルキーを示すような音楽用語が無力化し、最終的にはオクターヴの十二個の音のすべてが平等な無調音楽に到達するのだ。

サイード: 僕は、いま君が説明したような過程について、テオドール・アドルノが言ったことを信じている人間のひとりだ。つまり、僕らが後にしてきたのは、社会のために書かれた音楽というようなものであり、バッハのような古い時代の作曲家がそれにあたる。ベートーヴェンもそうだけどね。ベートーヴェンと彼の聴き手のあいだには約束事が成立しているのだけれど、それがつねにベートーヴェンの奇妙な行き過ぎと過剰なドラマによって挑戦をうける。このことが、ベートーヴェンを作曲家としてこれほど特異な存在にしているのだ。

アドルノが言うには、シェーンベルクのような人たちの時代にきて、すべての音が平等になってしまうと、音楽を聴くことがとても難しくなる。実のところ、そういう種類の音楽は、ほんとうに聴かれるためのものではないのだと、アドルノは実際に言っている。聴くことができない理由は、それが十二音技法の作品の、完全に細分化されて組み立てられた音の世界を理解するための試みでありすぎるからだ。そこにはドラマとか、対比といったような、ベートーヴェンのソナタにあるような感覚が欠けている。また、ワーグナーの作品にあるような、展開があり、肯定があり、最後には否定されるといったようなドラマも存在しない。君はシェーンベルクを演奏するとき、たとえばリストやバッハなどを演奏するときに比べて、自分のしていることに孤独や隔離を強く感じることはないのだろうか?

バレンボイム: 孤独感とあらゆるものからの隔離感をいちばん強く感じるのは、僕の場合ベートーヴェンの後期の作品だ──とても主観的な話で、客観性ふぁあるとはいわないけれど。『大フーガ』とか、『荘厳ミサ』とか、『ディアヴェッリ変奏曲』、あるいは最後の三つのピアノ・ソナタなどをみれば、そこは完全な孤独と世界からの隔絶がある。シェーンベルクなんかよりも、ずっと強烈なものだ。

サイード: 数年前に君のリサイタルでシェーンベルクを聴いたが、そこにはロマンティックなまでのあこがれと情熱的な探求心があった。それに対して、君がとりあげた後期のベートーヴェンには、力強さがあると同時に、君が言うとおり、なにかひどく荒涼としたものが感じられる。それは、そこになにかしら融和しがたいものがあるせいだ。別の言い方をすれば、解決に向かうどころか、すべてがばらばらに分解していくような気がするんだ。君が感じているのは、そういうことじゃないのかな?
バレンボイム: そうだよ。ただね、君が話しているのは、僕がシェーンベルクの作品十一[三つのピアノ曲]を演じたコンサートのことだろう?あれはわりと早い時期の作品で、まだどこかに表現主義的な欲求が残っていたんだ。

サイード: そうだね。

バレンボイム: 思うに、和声の緊張の積み上げとその解放という、調性音楽には欠かすことのできない構成要素は、十二音音楽の登場とともに、ほぼ終わってしまった。そこには疑問の余地がない。その一方で、十二音音楽ではアキュミュレーションがとても強いと感じる。たとえば、ブルックナーの音楽にみられるようなものだ。巨大なクレッシェンドのもとに、シークエンスが次々と上から積み重なるようにくり返される。ときには和声の発展がまったく欠けていて、ただひたすらモティーフがくり返されるなかで、緊張と音量がとめどなく増大して行く。アキュミュレーションの表現力がとても強いと思うのは、シェーンベルクやベルクだな。

サイード: でもウェーベルンはそうじゃない。ウェーベルンは、自分の同時代人を解剖し、レントゲン分析をしているのに近い。ある意味で、君の言うようなことへの反動みたいなものだ。

バレンボイム: 僕には、調性システムが人間によるまったくのでっちあげだという確信はないし、それが自然の法則であるとも確信できない。両方の解釈のあいだをゆれ動いているんだ。

サイード: その起源の話をしているの?

バレンボイム: 起源の話でもあるし、いま現在の話でもある。シェーンベルクの音楽で、調性のヒエラルキーを否定して平等を求める十二音に出会うとき、こういうものは、耳にしみついた一定の秩序、何らかの音調の調和を求めようとする要素に逆らうことができないと思うことがある。この不協和は、シェーンベルクがときどきやるように、極限までつきつめられると何らかの協和をうみだすことがあるのだが、たぶん作曲家はそんなものをまったく望んでいなかった。第二ウィーン楽派の音楽をたくさん聴くことがむずかしいのは、聴く側が慣れていないことに関係している。何度もくり返し聴いていると、それが単純なハイドンの交響曲よりずっと複雑であることがわかるようになるだろう。ハイドンの交響曲では、旋律を覚えるのはずっとかんたんだ。特定のリズムのパターンを覚えればよいのだから。シェーンベルクの作品十六[五つの管弦楽曲]を理解し、吸収するには、当然ずっと多くの努力が必要だ。でも、いったんのみ込んでしまえば、緊張とその解放という要素は昔のものとなり、あるいは後退し、その代わりに一つの表現としてのアキュムレーションという要素がもっと強くなる。となると、次のようなことを自問せねばならなくなる──音楽には社会的な目的があるのだろうか、あるとすれば、それはどんものか?なぐさみや娯楽を提供することなのか、それとも演奏者や聴衆の心の平穏をかきみだすような問いを投げかけることなのか。

音楽が、また音楽よりも多くの要素をふくむ演劇やオペラのようななものが、全体主義体制のなかではたした役割を考えてみると、それが政治思想や社会の全体主義を批判することのできる唯一の場所だったことがわかる。言い換えれば、ベートーヴェンを上演することは、ナチスの支配下、あるいは右でも左でも、どういう種類の全体主義の体制下で行なわれたとしても、いきなり自由への要求をつきつけるものとなり、現体制の政策に対するきわめて直接的な批判となりさえするものだ。それゆえ、はるかに不安にさせられるけれども、同時にまた、高揚させてもくれる。これはモーツァルトのディヴェルティメトやヨハン・シュトラウスのワルツが与える娯楽からは遠くへだたったものだ。

サイード: 文学はきびしい検閲のもとに書かれたものの方がずっと面白いという説がある。そこでは作家が使うさまざまな工夫やごまかしに細かい注意を払うことになるからだ。問題だと思うのは、僕らが住むような社会では芸術や音楽が日常のぜいたくの一部になってしまっていて、たとえば、シンフォニーの連続公演予約という制度があり、所定の日にシカゴ交響楽団がベートーヴェンとブラームスのシンフォニーを演奏するということになる。このような環境の中では、どうしたら音楽の目的を規定することができるというのだろう。挑戦すべきものがないのだから、現状を肯定するだけということになるのだろうか。ベートーヴェンの九つの交響曲や歌劇『フィデリオ』が禁じられた自由の肯定となるような、君がさっき言ったような社会ではなされたような批判は、ここではなされない。僕らの社会のように、最低水準の自由みたいなものが許されているところでは、こうした作品はいったい何を意味するのだろう。ただ現状を肯定しているだけなのだろうか。オーケストラという、社会の繁栄を象徴するかのようになった組織の、力と魅力を確認しているのだろうか。知識人として、僕はそういうことを何度も確認することにはおもしろみを感じない。興味があるのは、あたりまえとされていることに、いつも挑戦することだ。音楽や音楽のパフォーマンスで、それにあたるものはなんだろう。いったいそんなものが、あるのだろうか。

バレンボイム:
あるよ。あると思う。議論のために、ベートーヴェンの話をつづけよう。ただし『フィデリオ』は置いておこう。あれは、思想やテクストのあるものだから。ここでは純粋な音楽だけに話をしぼりたい。『エロイカ』交響曲は、今日どのような役割をはたすことができるのだろうか。『エロイカ』の演奏は、それがとても有名な作品であり、確実にチケットが売れ、たくさんの人がコンサートを聴きに来るという、単にそれだけの理由で行なわれることはない。『エロイカ』は、かならずしも社会や政治体制への批判とみられていたわけではない。またフランス革命の栄光とか、そういうようなもののために書かれたわけでもない。ベートーヴェンの作品の一つ一つに、とても重要な個人的メッセージがあると思う。

たしかに西洋では、君の言うとおり、なんとか我慢してやっていけるだけの自由はある。だがいったい人間は、どれほど自由なのだろう。人間はどのように自分自身とつきあうのだろう。実存の問題とどうつきあうのだろう。社会における自分の位置という問題に、どうつきあうのだろう。自分自身をどう見るのだろう。不安や、苦悶に、どのように対処するのか。喜びには、どう対処するのか。そういうようなことすべてに、どう対処するのか。そういうようななにやかやが、僕にはベートーヴェンの交響曲の内実なのだ。そこには相似が、それこそ何百となく存在する。

たとえばベートーヴェンの第四交響曲を純粋に和声学的なところから見れば、導入のところは調性の模索だ。はじめは単独のBフラット(変ロ音)があるのみ。Bフラットでもよかっただろうし、Aシャープ(嬰イ)でもよかったのだろう。どんな調でもありえたのだ。やがて弦楽器がユニゾンで動き出すが、そこでは調性はまったくわからない。導入部分が終わるあたりで、基本的にBフラットのドミナントになる。これは曲がはじまったときの音だが、はじまりの時点では、これがドミナントになっていくのかどうかははっきりしていない。それから、この作品の中心となる「アレグロ」の楽章がくる。二つの主題を持った提示部は、Bフラットを追認するものだ。それを確立する目的は何なのだろう。それは本拠homeになる調という、大きな安心感をあたえるものを確立することだ。Bフラットがこの音楽の本拠地になったのだ。それから、巧妙な異名同音の入れ替えを通じて──つまり、BフラットとAシャープが同じ音なのだから──とつぜん、展開部の終盤になって、まったく異質でなじみのない領域に入っていくことになる。なぜそれが異質なものなのか?それは本拠がすでに確立しているからだ。

これが、調性の心理学と僕が呼ぶものだ。まず本拠という感覚を作りあげ、それから異質の領域へと進み、やがて元に戻って来る。これは勇気と必然のプロセスだ。そこには、主音となるものの肯定があり──自己肯定と言ってもよいだろうし、既知の領域の居心地よさの確認と言ってもよいだろう──それがあってはじめて、まったく未知のところに赴くことができるようになり、道に迷う勇気がでてくる。やがては、例の導入部のドミナントを、思いがけぬかたちで再発見し、それによって本拠homeに戻ってくることになるのだ。

これはだれもが内面生活において経験するプロセスの相似物だ。まずはじめに自分が何者であるかを断定し、その上で、勇気をもってそのアイデンティティを手放し、それによって帰還の道を見出す。これが音楽の本質だと思う。音楽がつねに社会や人間への批判であるとは思わない。そうではなくて、人間のいちばん奥底にある思考や感情の内面的なプロセスに相似したものだと思う。それがベートーヴェンというものだと思う。納得してもらえたかどうかわからないが。

サイード: そんなことはないよ、すごく説得力があると思う。君が説明したことは、文学にみられる最大の神話の一つに相当するような寓話だ。それは故郷homeと、発見と、帰還の神話、つまり、長い冒険と放浪の旅の物語《オディッセイ》だ。ベートーヴェンの探求と、ホメロスの探求のあいだには、まちがいなく相似がある。だが出発する勇気をもち、帰還する勇気をもつということは、単にふらふらと迷い出した末に帰ってきたということではない。そこにはひどくこみいった段取りがある。オディッセウスは故郷homeを出る。ペーネローペや安楽な生活をイタカに残して旅に出る。戦争に行き、それが終わると帰ってくる。けれども、それはただの帰還ではなく──そこが『オデュッセイア』のすばらしい魅力だけれど──帰還の過程で次から次へと冒険に誘われる。彼には、まっすぐ家に帰ることもできたはずだ。けれども彼はせんさく好きな男なのだ。それは単に故郷を出るという問題ではない。故郷を出て、自分を惹きつけると同時に脅かすものを発見することなのだ。それが肝心なところだ。彼は一つ目の巨人ポリュペモスとの冒険を避けることもできたはずだ。けれども彼はこの巨人と話をしなければならないと感じる。この恐るべき怪物に挑戦するという直接の体験を踏まなければ、そういう冒険を積まなければ、最終的な帰還が果たせないのだ。これは仕事場で一日すごして帰宅するのと同じことではない。

バレンボイム: もちろんさ。それはソナタ形式でも同じことだ。音調は同じでも、再現部は提示部と同じものではない。

サイード: その通りだ。だからこそ、たとえ故郷homeにあっても、彼がそこに戻ってくると、そこにはやっかいな問題が待ち構えている、そういう感覚がある。そこは違った場所になっている。以前よりも豊かであるかもしれない。でも、そこにはたぶん怖さもある。アレクサンドリアの詩人カヴァフィスが指摘するように、もう少し複雑なものなのだ。そこですべてが終わるというような、しっかりした帰還じゃない。なにか新しいものが始まるかも知れないと予感させるような帰還なのだ。だから、とても強烈な経験の一種なのだ。

『イリアス』にはもう一つのタイプがある。それは彷徨と、帰るところのない状態homelessnessだ。つまり、ここに描かれている人々は──ホメロスが描いたのは、もっぱらギリシャ人だったが──故郷を遠く後にしており、その多くはアキレウスのように異郷で死んでしまう。彼らが帰還することはない。ここには帰還がない。あるのはただ、すさまじい、終わりのない終局性だけだ。これはものさびしいというだけの経験ではない。ものさびしいのではなく、ほんとうは並はずれた冒険の体験でもある。ただ、そこでは死がたえまなく体験される。

バレンボイム: マサダ砦だ〔死海南西部の山頂にあった古代の砦。西暦七三年、ローマ軍による二年間の包囲の果てに、ゼロテ派のユダヤ教徒たちが降伏を拒絶して集団自殺を遂げた〕。

サイード:
でもマサダ砦のような場合は、ちゃんと目的意識があっただろう。ローマ人に殺されるのはごめんだというような。けれど『イリアス』の場合、ホメロスはほんとうに純粋な死神のような力について語っているようなところがある。そこには意味のなさのようなものがある。この戦争は一〇年も続いている。いったいなんの意味があるのだろう。戦っている者たちは、そもそもの戦争の理由を、ほとんど覚えていない。武器の行使、軍事精神、一種の無謀さなどが描かれているのだが、そういうものは結局、戦いそのものをのぞいては、何の目的もない。これに相似するものは、音楽の世界にあるのだろうか。新ウィーン楽派における調性の不在は、いわば帰るところのない状態homelessnessだ。帰還することはないのだから、永遠に追放されたようなものだ。このような類型は人間の経験にも存在するだろう。

バレンボイム: 新ウィーン楽派は、難民音楽だというわけだね。

サイード: そう、追放された者の音楽だ。社会生活からの追放だけでなく、調性の世界からも──もし音調の世界が、彼らが受け継いだころまでには一般に認められ、習慣や慣習として、なんらかの実質をそなえるようになっていたとしたならばだが。

バレンボイム: そんなふうに考えたことはなかったけど、その言い方にはとても説得力があると思う。

サイード: もう一つは、当時のモダニスト文学にあるような、回復しようとするのだけれど、それができずにいるという感覚だ。たとえば、プルーストやジョイスやエリオットなどの作品に見られるものだ。
バレンボイム: 特定の用語を使った連想には限界がある。たとえば、救済、栄光、革命というような言葉だ。こういう言葉がもちこむ危険は、音楽を、潜在意識のレベルであっても、そのような観念の説明に使ってしまうことだ。絶対的な音楽の真の表現は、サウンドの世界で、サウンドそのものの関係に見いだされるべきだと思う。その上で、それぞれの聴き手は自分の置かれた状況にそれをあてはめることができる。人によって、ここちよい状況だったり、帰るところのない状況だったり、闘争の状況だったりするのだろうけれど。

サイード: 演奏家としての君の思考には、そういうイメージは去来しないということだね?

バレンボイム: しないね。イメージというものはいっさい持たない。ワーグナーにさえも、抱いていない。もちろん、テクストは読んだし、テクストにあらわれている思想も分析した。でもそういうもののほんとうの表現は、音楽そのものの中に見つけようと僕はいつも心がけている。実際、その音楽のほんとうの意味だと自分が思うものをつかんだときには、それはテクストとも一致していることが非常に多い。逆に、それがうまくいっていないときには、テクストがとつぜんフィットしなくなり、なにかが間違っているとわかる。けれど、先にテクストを研究し、それにあわせて音楽を考えようとするようなやり方が正しいとは思わない。たしかにワーグナーは歌詞をはじめに書き、それから音楽を書いた。けれども彼は、それらを統合する芸術形式を模索していたのだ。そうして彼は、音と言葉が分かちがたく完全に合致した統一体をつくりあげた。その表現が出てくるのは、そこに愛なり、死なりという何か重要なことが表現されているからばかりではなく、ほとんど擬声語に近いようなかたちで起こっている。音節の響きが、音楽のなかで一定の音とむすび合わさって、すでに表現の一部となっているのだ。

思うに、はじめにテクストを研究し、それにどう音楽を適合させるかという方法をとったとするならば、もちろん、それは適合するだろう。だって、そのつもりでつくっているのだから。でも、そういう方法をとってしまえば、それぞれを切り離して研究したときのような音楽表現の深みには到達できない。音楽のテクストと文学のテクストは完全に別々のものとして研究し、その上でそれらをすり合わせていくべきだと思う。テクストの分析に音楽を適合させるような方法では、表現の幅を狭めてしまうのがおちだろう。僕がイメージを避けるのはそのためだ。使えばとても効果的な場合もあるだろうとは、わかっているのだけれど。オーケストラに教えることは六つしかないと言ったのはカラヤンだったと思う──うるさすぎる、弱すぎる、遅れすぎる、早すぎる、速すぎる、のろすぎる。むろん、それを言うためには、作品の内容全体を消化していることが前提だ。

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『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みずず書房 2004)からの抜粋 All Rights Reserved


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Posted on 19 July, 20041