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旅立ち | 遠い場所の記憶
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(第九章)中東を離れて合衆国に移ってからちょうど四十年が経過した一九九一年の九月初旬、わたしは来たる中東和平国際会議に向けてパレスチナの知識人や活動家に呼びかけてロンドンでセミナーを開催していた。湾岸戦争に際しパレスチナ指導部はサダム・フセインに与するという致命的な失策を犯したため、和平交渉におけるパレスチナ側の立場は非常に弱まっていた。会議の目的は、わたしたちの間に共通する一連の問題を整理して、一つの民族としての自治を獲得するという目標の達成に役立てようというものだった。四散したパレスチナ人の状況を反映して出席者は世界の各所から集まっていた──ヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)およびガザ地区に加え、故郷を追われたパレスチナ人が離散していった先のアラブ諸国、またヨーロッパや北米の諸国である。しかし、会議が進むなかで明らかになってきたのは、愕然とするような情けない現実であった。あいもかわらずおなじみ主張をはてしなく繰り返すばかりで共通の目標を定めることができず、自分たち以外の声には耳を貸そうとしないわたしたちの態度は、端的に言って、後のオ
スロー合意におけるパレスチナ側の敗北を不吉に予告するもの以外の何ものでもなかった。 議論が戦わされている途中の休憩時間を利用して、わたしはニューヨークにいる妻のマリアムに電話して、毎年定例の健康診断で行った血液検査の結果に問題はなかったかどうかを確認しようとした。わたしはコレステロール値を気にしていたのだが、それに対して妻は、その点についてはすべて順調だと答えた。しかし、彼女はためらいがちに付け加えた「チャールズ・ハッジ(うちのホーム・ドクターで、友人でもある)が、あなたが帰国したら会いたいって」。その声の響きから、決して万事が順調というわけではないとピンときたので、わたしは即座にチャールズの仕事先に電話した。「興奮するようなことは何もないよ。ニューヨークに戻ってから話そう」と、彼は言った。何が問題なのか明かすことを渋りつづける彼にわたしはついにしびれを切らし、「はっきり言えよ、チャールズ。子供じゃないんだから。僕には知る権利があるだろう」と言った。さんざん弁明を並べながら──そんなに深刻なことじゃないんだ、血液専門医にかかれば簡単に処置してもらえるさ、しょせん慢性なんだし──彼はわたしが慢性的なリンパ球の白血病(CLL)にかかっていることを白状した。この診断の意味すると ころをわたしが完全にのみ込むまでには一週間かかった。わたしに自覚症状はなかったが、この初期診断を確認するためにニュ―ヨークの大きな癌研究所で高度な精密検査を受ける必要があった。ある口達者な医師が無神経にも「ダモクレスの剣」〔栄華の極みにも危険はすぐそこに迫っていること:シラクサ王ディオニシウスにまつわる故事〕と呼んだこの病気が自分を根底から動揺させていることを悟るには、さらに一ヶ月が必要だった。そして、さらに六ヶ月かけて、ようやくカンティ・レイ医師にめぐりあうことが出来た。この傑出した医師は一九九二年以来ずっとわたしの主治医を務めてくれている。 この診断が下されてから一ヶ月後、わたしは、もう一年半も前にこの世の人ではなくなっていた母に手紙を書いている自分に気がついた。これは一九五一年にわたしがカイロを離れて以来ずっとわたしたちのあいだに続いてきた習慣だった。彼女に伝えたいというやむにやまれぬ衝動が彼女の死という厳然たる現実を乗り越えてしまったのだが、途中ではっと現実に引き戻されたわたしは、文の途中で筆を止めてどうしたものやら途方に暮れてしまい、バツの悪ささえ感じていた。どうやら、このことについて語りたいというぼんやりとした衝動がわたしの内部に渦巻いているようであったが、白血病を背負っていく今後の人生に対する心配と危機感でいっぱいになっていたわたしには、それにあまり注意を払うことができなかった。一九九三年になって、どうやら自分の人生は思っていたより短く、難儀なものになるらしいと、恐怖感を離れて悟るようになったわたしは、自分の人生に起こったいくつかの変化について思いをめぐらせた。学生時代を楽しく過ごした場所に戻ろうかとボストンへの引っ越しも考えたが、それが実はニューヨークに較べて静かなあの町に死に場所を求める後ろ向きの発想であると いうことは、じきに自分でも認めざるをえなかった。引越しの考えは捨てた。 過去への回帰、失われてしまった人生の断片や人々のところに戻ろうとする試みが数知れず繰り返された。これらは、次第に亢進してくる病に対するわたしの日常的な対処法の一部をなしていた。一九九二年、妻と子供たちを伴いわたしはパレスチナに赴いた。わたしにとってはじつに四十五年ぶりの帰還であり、家族のものにとっては初めての訪問であった。一九九三年六月には、今度はひとりでカイロを訪れた。古巣を再訪するという雑誌記事の企画にむけた取材旅行の一環であった。この旅行のあいだじゅう、レイ医師は、治療は施さないもののずっとわたしの病状を監視し続けていた。いずれは化学療法が必要になるだろうと、おりにふれて彼はわたしに念を押した。一九九四年三月、ついにわたしも化学療法を受けるようになったが、その頃までには自分が、人生の最終段階とまでは言わぬまでも少なくとももう二度と昔の生活には戻れないような──アダムとイブが楽園を追放されたように──段階に入ったのだということを自覚していた。一九九四年五月、わたしはこの本の執筆にとりかかった。 このようないきさつを克明に記述したのは、この本の時間の経緯が、わたしの病気の時間の推移──進行状況や起伏や変化──に密接に結びついていることを自分自身にも読者にも明らかにするためである。身体が弱まるにつれ、感染症にかかったり副作用の出る期間が多くなっていき、わたしにとってはこの本を書くことが、身体的・感情的な側面では身体の衰弱による苦痛や不安と格闘しつつ、それと並行して散文で何かを構築するという手段になっていった。この二つの使命はともに細目をひとつひとつたどっていくことに帰着する──記述することは言葉から言葉へと進んでいくことであるが、病いを病むということは、ある状態から別の状態へと移行するあいだの数限りない歩みをひとつひとつ経験するということである。他の仕事(エッセイや公演や授業やジャーナリズム関連の活動)においてはわたしは仕事を病気に優先させ、締め切りや開始・中途・終了のサイクルに病気の方を強引に従わせていたが、このメモワールの記述に関しては、さまざまな治療や入院、身体の痛みや精神的な苦痛などに寄りそうようにして、歩調を合わせて進めることとし、それらの都合に従って、どこでどのくらい の時間を書く作業に費やすかを決定した。わたしはどこへ行くにも手稿を携えていたので、旅行中は滞在先のホテルや友人の家で機会を見つけては書くことができ、とりわけ仕事がはかどった。そういうことだったので、わたしは一つの節を終わらせようと急ぐようなことはめったになかったが、そこに何をいれるかという構想はきわめてはっきりしていた。奇妙なことに、このメモワールの執筆とわたしの病気の進行段階はまったく同じ時間を共有しているのである(とはいえ、この幼年時代の物語からは、自分が病んでいるという痕跡はほとんど拭い去ったつもりであるが)。この一つの人生についての記録と今現在の病気の進行(不治の病であることは最初からわかっていた)とはおなじ一つのものであり、同じものが異なる表現を取っているということもできよう。 この関係が深まるにつれ、それはますますわたしにとって重要なものとなり、またわたしの記憶力(集中した内省と、遠く隔たり基本的に回復不能な過去についての考古学的な掘り起こしだけが頼りである)も、あつかましくなりがちなわたしの要求に気前よく応えてくれるようになった。病気に伴う煩わしさや、子供時代に過ごした場所を離れてしまったことによって課された制約にもかかわらず、わたしの気持ちは次のような詩に託することができよう。 「このあずまやに、この小さな菩提樹のあずまやの中にいながらも、心を癒されるものを数多く目にとめたではないか」〔コールリッジ、「菩提樹のあづまやは、わたしの牢獄」一七九七年七月九日チャールズ・ラムに宛てて〕。六〇年代の初めまで、わたしには自分の過去に思いをめぐらすことが耐えられなかった。とくにカイロとエルサレムについては、それぞれ別の理由によってであるが、わたしには近づけない場所になってしまっていたのでなおさらだった。後者はイスラエルに取って代わられ、前者は残酷な偶然の重なりによってわたしには法律的な理由から入国できないところになった。一九六〇年から一九七五年にかけて十五年間にもわたりエジプトを訪問することができなかったわたしは、あの地における幼年期の思い出(かなり細切れになっていたが、ニューヨークの生活に感じられきびしい疎外感とは対照的なぬくもりと慰みの雰囲気に満ちていた)を、入眠時の営みとして割り当てていた。眠りにつくことは、時とともにわたしには次第に困難になっていった。時間の経過はまた、幼年期をつつみこんでいた幸福感を拭い去り、より複雑で困難な時代として改めて幼年期を提示した。それを理解するためには、あやふやなまどろみを払いのけ、きっぱりと覚醒している必要があった。実際わたしの認識では、この本が根源的なところで主題としているのは不眠というもの、ひとり覚めていることの沈黙、またわたしの 場合に限って言えば、睡眠を置き換えてきた意識的な回想や言語化の必要性である。置き換えたのは睡眠だけでなく、十年ほど前から無意識のうちに背をむけるようになった休日や息抜きの時間、中・上流階級のあいだで「レジャー」とされるものすべてである。自分の病への対処法の一つの柱として、わたしはこの本に従来とは異なるやりがいを見出した──これまでとは違った覚醒状態であるというだけでなく、自分の職業や政治活動から離れて極限まで遠いところまでいってみようというプロジェクトでもあった。 わたしにとっての根源的なモチーフは、後天的に獲得された社会的特性(ときどき言及される「エドワード」という両親がつくりあげようとした人格に属する)という表層のかげに長いあいだ埋もれていた第二の自我の出現というものであった。さらにまた、わたしの人生がごく早い時期から数多くの、増加する一方の「旅立ち」によっていかに不安定なものであり続けたかということであった。わたしの人生を何よりも大きく特徴づけているのは、国家や都市や居住地や言語や環境などといったものからの幾重にも重なりあった追放という、苦痛であると同時に(矛盾するようだが)みずから追い求めた体験であり、これがずっとわたしを突き動かす原動力となってきた。十三年前わたしは『パレスチナとは何か』(After the Last Sky という本の中で、自分は旅行するときいつも荷物を持ちすぎる傾向があり、ほんのちょっと街へ出るだけでも、実際の移動期間に比較して嵩も数も不釣合いに大きい品物を書類カバンいっぱいにつめ込まなければ気がすまないということを書いたことがある。もしかしたらもう帰ってこないかもしれないという密かな根深い不安が自分にはあるというのが、これを分析した結論であった。その後から発見したことは、このような不安を抱えているにもかかわらず、わたしが旅立ちの機会をわざとこしらえ、それによってその不安を自発的にかきたてているという事実である。このふたつはわたしの生活のリズムを保つために絶対に必要なものように思われ、特に病を得てからはその必要性が急速に高まっているようだった。「この旅行を見合せてしまうならば、自分が動けることを証明せず、敗北の恐怖に身をゆだねるならば、家庭生活の普段のリズムを覆そうといま試みないならば、近い将来には確実にそれができなくなるぞ」と、わたしは自分に言い聞かせる。わたしはまた、旅につきものの不安に満ちたふさぎ込み(フロベールの言うところのla melancoliedes paquebots:汽船の憂鬱、あるいはドイツ語ならばBahnhofsstimmung:駅の情緒)を経験し、またそれと同時に居残った者たちに対する羨望の念も経験する。帰還したわたしを迎える彼らの表情には、ディスロケーション(本来あるべきところからの移動)あるいは強いられた流動性というようなものによる翳りがなく、心地よい衣服とレインコートに身を包み、家族のものに取り囲まれて幸せそうだ。かれらは「そこに」いて、誰もが会うことができる。旅立ってしまった者(死者)の不可視性、彼がそこにおらず、いないことが惜しまれているということに関係する何かが、なれ親しみ慰安を求め得るようなものの一切から引き離される「追放」という(強烈で反復的でもうおなじみの)感覚につけ加わって、旅立たねばならないという気持ちをかきたてるのである。そこには他に優先するある種の自前の理屈と、一種の恍惚感が働いているのである。だが、どのような場合も、恐ろしいのは、たとえ立ち去るのが自分であっても、旅立ちというものは遺棄された状態だということである。 一九五一年の夏、エジプトを離れたわたしは、レバノンに二週間滞在し、パリとロンドンに三週間、そしてサザンプトンからニューヨークに向かうニュー・アムステルダム号の船上で一週間を過ごし、残りの学校教育を受ける合衆国に到着した。ハイスクール、大学の学部課程、および大学院と合計十一年におよぶ教育期間が終了した後も、現在にいたるまでわたしは合衆国にとどまっている。夏のあいだの帰還をはさんだ家族との離別という、この長期にわたる経験を苦しいものにしたのが、母とのあいだの複雑な関係であったことは議論の余地がない。母は、わたしが彼女から離れていることは甚だしく不自然なことであり(「だれだって自分の子はそばに置いているのに」)、にもかかわらず避け難い悲劇的な運命の定めであると、わたしに愚痴をこぼすことを決してやめようとしなかった。毎年夏の終わりに合衆国へ戻るときがくると、そのたびに古傷がふたたび生々しく口を開き、母との別れを再び体験させられ、まるでこれが最初のことであるかのように、癒しがたい哀しみ、絶望的に後ろむきな失望と惨めさを味わうのであった。唯一の救いは、わたしたちのあいだの苦悩に満ちた、しかし饒舌な 手紙の交換であった。今日でもわたしは自分がこの経験の一面を追体験していることに気づく。すなわち、自分はどこか別のところにいたかった(「別のところ」とは、母により近いところ、母によって公認されたところ、彼女の特別な母性愛に包まれた、限りなく寛大で、献身的で、柔軟なところ、というふうに規定される)、なぜならば、「ここ」はわたし(たち)がいたいと望んだ場所ではないからだ(「ここ」とは亡命の地、排除されて、不本意ながら押しやられた場所というふうに定義される)という気持ちである。とはいえ、わたしと一緒にいたいという彼女の気持ちには例によってなにかしら条件付きなところがあり、わたしの方は彼女の自分に対する見方に同調させられるうえに常に彼女の味方であることを期待されていたが、彼女がわたしの味方となるかかどうかはそのときの気分次第なのであった。
『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright
2001 Misuzu>
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/Last modified: 25/01/2001