大住雄一氏文書をめぐる動き  

  日  付  発信者  タ イ ト ル
11/19 AM 瀬戸英治 総会傍聴記号外!
11/28 森 直樹 大住雄一氏への手紙
11/30 竹内富久恵 大住差別文書を許さない!!


大住雄一氏文書をめぐる動き (いちばん上が、最新の情報です。)

大住差別文書を許さない!!
--痛みの声をなぜ議長団は伝えない!!--


                                                  
TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT
1998年11月28日
前略、大住雄一様   神戸イエス団教会牧師 森 直樹

 突然のお便り、失礼いたします。

 先の教団総会で配布されたあなたの『同性愛者の教師資格について』という文書、お世辞にもわかりやすい文章とは申し上げられませんが、乏しい読解力を総動員して読ませていただきました。言わんとされるところは概ね次の通りかと存じます。

 同性愛者が教師になるべきでないというのは、差別でも人権問題でもない。教理と相容れないことを主張する者を教師として受け入れる必要はないという、教理上の問題である。なぜなら、聖書は同性愛者であるその人の自然な在り方をそのまま受け入れるよう教えてはいないし、まして同性愛者であること自体が教師になる資格だなどと言うのも間違いだからである。

 さてしかし、同性愛者であること自体が教師になる資格だなどといったい誰が言っているのでしょうか。あなたの主張はその点で全く転倒しています。おっしゃる通り、異性愛者であること自体をもって資格があるなどと誰も言わないように、本来同性愛者であることは教師となる資格とは何の関係もないことです。なぜなら、同性愛者であることは本人の責任ではないからです。人はなろうと思って異性愛者になるのではないのと同様、気がつけば同性愛やトランスジェンダーであったというだけのことなのです。

 しかし、その自分ではどうすることもできない「自然」な在り方が、圧倒的な異性愛社会の中で否定され続けてきたのです。まさにあなたの文書がしているようにです。そういう中で自分の在り方をそのまま受け入れることは、決しておっしゃるような自堕落なことではなく、それ自体命をかけた闘いなのです。あなたの文書はそれを全く愚弄するものです。とりわけキリスト者によるその闘いは、人は行いによってでなく信仰によって救われるのだという福音の真理を証するものです。ガラテヤの人々にユダヤ人らしくあることを強要した者たちに対して、パウロが主張した「信仰義認」の真理は、今も生きています。

 パウロが否定しているのは、同性愛一般でなく、神殿男娼制度や少年愛といった抑圧的な性のあり方です。そして、むしろ同性愛者に異性愛者らしくあることを強要することこそが否定されるべきですし、それでこそ正しくパウロを継承することになるのです。

 百歩譲って、聖書が同性愛一般を否定しているとしても、ならばもっとはっきり否定されている女性の教職をなぜ認めるのですか。社会がもはや露骨な性差別を許さないからではありませんか。女性に黙っていなさいと言わざるを得ない、教会の個別の事情があった。そういう「解釈」があることも承知しています。ならばなぜ、同性愛を否定せざるを得ない異教社会の個別の事情があった、とは考えられないのでしょうか。そもそも聖書を根拠に差別を正当化することを、聖書は許しているのでしょうか。

 同性愛者の苦しみは、差別という異性愛社会の罪が生み出したものです。罪の報いを異性愛者に代わって受けている、そういう苦しみをイエスは共に担われたのではないでしょうか。私たちはその苦しみを前に、罪を悔い改め、赦しを請い、罪から解放されなければなりません。キリスト者なら「十字架の苦しみ」を前に罪の悔い改めを拒むべきではありません。

 ところで、教理上の問題であると言うなら、同性愛者の自然な在り方をそのまま受け入れたいと願い、異性愛者である自分をそのまま受け入れている者たちも皆、残らず教師に相応しくないとされなければなりません。ところがあなたがたは結局のところ同性愛者であること自体を問題としているのです。それのどこが「人権問題ではない」のでしょうか。その人の多くの属性の中の一つだけを取り上げて、しかも自分の責任でどうすることもできない属性を取り上げて、その人を判断してしまうこと、それを差別と言わずして、いったい何を差別と言うのでしょうか。

 罪を隠そうとするから前コペルニクス的に難しくなるのであって、正直に認めればいいのです。「悔い改め」はそこから始まるのですから。

 いきなりの不躾なお便り、失礼の段、重ねてお詫び申し上げます。しかし、ああいう文書を教団総会の場でばらまかれた以上、各方面からの批判は覚悟されておられることと存じます。また、それを受けて立つ責任もおありかと愚考いたします。

 誠意あるお返事を信じてお待ち申し上げますと共に、ぜひ反差別の戦列に加わっていただけることを願い、また切実にお祈りいたしております。これは信仰の闘いです。共に闘われませんか。

   在主

PS.この手紙と、これをぎりぎりまで縮めたものとを、同封の通り教団新報に投稿いたします。ご承知おきくださいませ。

----------------------------------------------------------------
1998年11月28日 教団新報編集部御中  神戸イエス団教会牧師 森 直樹
    
頌主

 この度私こと、同封の書簡を大住雄一氏にお送りいたしました。できればそれをそのまま掲載していただければ大変ありがたいのですが、何しろ本文が約2000字ありますので、これをぎりぎりまで縮めたものを下の通り投稿させていただきます。
 ご高配のほど、よろしくお願いいたします。

****************************************************************
前略、大住雄一様   森 直樹

 先の教団総会で配布された『同性愛者の教師資格について』という難解な文書、その意をくんで差し上げれば概ね次のようなことかと。「同性愛者に資格がないというのは差別ではない。間違った信仰を持つ者を教師にする必要はないという、教理上の問題である。聖書は同性愛者の自然な在り方をそのまま受け入れるよう教えてはいないし、まして同性愛者であること自体が教師になる資格だなどと言うのも間違いだからである。」しかし、いったい誰がそんなことを言っているのでしょうか。あなたの主張はこの点で全く転倒しています。おっしゃる通り異性愛であれ同性愛であれ、本来それ自体は教師となる資格とは関係のないことです。しかし、自らのどうすることもできない「自然」な在り方が、圧倒的な異性愛社会の中で否定され続けてきた。そういう中で自分をそのまま受け入れることは、決しておっしゃるような自堕落なことでなく、それ自体命をかけた闘いです。とりわけキリスト者によるその闘いは、「信仰義認」の真理を証するものです。パウロが否定するのは同性愛一般でなく、神殿男娼制度などの抑圧的な性のあり方です。正しくパウロを継承するなら、むしろ同性愛者に異性愛者 らしくあることを強要することこそ否定されるべきです。それはガラテヤの人々に割礼を強要することと同じだからです。同性愛者の苦しみは、差別という罪が生み出したものです。罪の報いを異性愛者に代わって受けている。キリスト者なら「十字架の苦しみ」を前に罪の悔い改めを拒むべきではありません。ところで、教理上の問題だと言うなら、同性愛者の自然な在り方をそのまま受け入れたいと願い、異性愛者である自分をそのまま受け入れている者たちも皆、教師失格であるはずです。ところがあなたがたは結局のところ同性愛者であること自体を問題としている。これを差別と言わずして、何を差別と言うのでしょうか。罪を隠そうとするから難しくなるのであって、正直に認めればいいのです。「悔い改め」はそこから始まるのですから。 (神戸イエス団教会牧師)
****************************************************************
LLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLLL

公開、瀬戸
注意! これ以降の文書は、今、不愉快になってもいいとだけお読みください。

 この文書は総会議場で各議員の席に配られたものです。執筆者は、大住雄一です。大住氏は、このごろ東神大教授会のスポークスマン的存在になった用賀教会牧師で、旧約の教授です。
許可をとって配ったかどうかは知りませんが、議場に配られたものだから、本人が公開してほしいのでしょう。思いっきり公開します。
 あまりのひどさにみんな驚いていますが、明日の議事の頭で大下議員が抗議することになっています。

同性愛者の教師資格について1

 1)同性愛者が教会の教師として認められるかどうかの問題は、同性愛者であることこそ自体が、教会において神学的に意味あることだと主張するものであるならば、いわゆる人権の問題として扱われるべきではない。これは教理的な問題であり、誤解を恐れずにわかりやすくいうならば、職業の適性の問題である。

 2)教会においては、男であること女であることそれ自体に神学的に意味はない。男であるから救われているわけでもないし、女である救われるわけでもない。それゆえ、主にあって男なしには女はないし、女なしの男はない(!コリ11:11)と言われる。しかし同性愛の牧師を認めるべきだという主張は、教会において、同性愛者であることそれ自体が神学的に意味あることだという主張なのである。この主張は、人間存在そのものの根底にある罪の赦しをもたらす福音と相いれない。たとえば同性愛者であること自体が教師になることの理由だとするならば、そこでは人間存在の根底にある罪の支配から神の支配へと悔い改めることは、もはや否定されることになる。事実、この主張をする人々は結局は罪の悔い改めを拒絶する。

 3)同性愛は自然であって、本来神が造ったものだという主張は、同性愛である教師がいてもよいということの根拠にはならない。聖書は、その自然が人間の罪によって歪められ、すべての被造物が虚無に服している(ロマ8章)と言うのあって、それゆえ、男であること女であることも、神学的には意味がないと言ったのである。それが自然だということは、それでよいということにならないし、ましてや、「自然」をそのまま受容しようとする人を教師として認めることはできない。「ありのままの自分のよいのだ」などということは、聖書は決して言わないし、教師のありのまま、思い通りになどされたら、教会は、いわば、教師に食い潰される。
 (ちなみに同性愛者はやはり人間が造りだしたものと言わざるを得ないのではないか。なぜなら同性愛者だけでは、子供を産み出すことができないからである。実際に同性愛である人達は、被害者であると言えよう。しかしこの世界になぜそのような被害者がいるのかという根源をたどると、人間の<同性愛者個人個人のではなく!>罪に行き着くほかない。)

 4)同性愛者が教会に来てはいけないなどとということはありえない。しかし、上記のような主張は、教会の在り方ないしは教理そのものとあいいれず、そのような主張を持つものは教師として相応しくないのであって、教会はそこまで受け入れる必要はないし、教師として受け入れを拒否しても、人権を損なったことにはならない。たとえば、日本国憲法に従わないことを明らかにしている人を裁判官にしなかったとしても、思想信条の自由を犯したことにはならないというのと同じである。


同性愛者の教師資格について2

 この件に関する1998年4月1日付け教師検定委員会のコメントは、問題の所在を全く見誤り、あるいは隠蔽するものである。

 1.「性的少数者の問題」とは、本来、女性に対する暴力や女性の権利の不全の問題であって、同性愛者や性のアイデンティティの不一致の問題をこれに含めるべきではない。別紙の論議に述べたように、同性愛問題は、その存在主張に問題がある。それは性的少数者の主張ではなく、強者の主張である。
 本来の意味での性的少数者の問題に対してキリスト教は、男女一対一の平等で自由な契約関係である(はずの)結婚を社会の基本の戦いの場である。同性愛や性のアイデンティティの不一致は、男女一対一の結婚を基本的な秩序とすることへの根源的な否定を含んでいる。同性愛問題と性的少数者の問題を混同してはならない(教団新報4412号4頁の「戦後補償を求める六委員会連絡会」の要求書は、この二つのものを同一視することによって問題を作り替え、政治的攻撃のために利用している)。

 2.教師検定委員会は、同性愛への敵意が中世になって、少数者グループに対する不寛容の傾向に伴って現れたと言っているが、そのような観察はどこから得たのか説明すべきである。

 3.同性愛への不寛容は、旧約・新約に一環している。たしかに同性愛者として特定の個人を非難することはない。しかし人間の罪人としての神無き生の現れとして、また関係の捩れの典型として見ているのであって、あってもよいとしているところは一箇所もない。もちろん同性愛者や性転換者が教会に来てはならないと言ってはならない。しかし同性愛そのもの、性転換そのものは、あるべきことではなく、このことについて悔い改めを要する。別紙2)と3)参照。

 4.同性愛ないし性のアイデンティティの不一致は、病的なものであるのか、普通の現象であるのかについて、まだ医学的に明らかにされていない。もちろん、病的であると判断することがその病を負う人を罪人と断定することにはならない。もしもこれを自然の普通の現象だと主張するのであれば、聖書は、自然そのものが人間の罪によって歪んでしまったと告げているのだということを、真剣に聞くべきである。別紙3)参照。

 5.同性愛や性転換の主張は、神と人間の関係に基づく人間の基本的な関係を、むしろ積極的に否定するものであるゆえに、同性愛者や性転換者を教師とすることはできない。教会の存在の根源にあるものを否定する人を教師として迎える義務は、教会にはない。別紙4)参照。

   教団総会のトップへ   竹佐古真希のコンテンツへ