2003年ヨーロッパ旅行(報告編)

< ライプチヒからドレスデンへ >

小礼拝堂だけでも十分に満足だったが、
ここの聖堂は大オルガンが素晴らしかった!
それもそのはず、この大オルガンは名器として名高い
ジルバーマンオルガンだったのである♪
ドイツではシュニットガーやジルバーマンが名器として
世界的に知られている。

オルガニストなのでその両者の名前はよく聞いていたし
ディスクも何枚か持っていたがその違いは何だろうか?
以下に本からの引用を簡単にまとめてみた。




<ドイツのオルガンと製作者>
ドイツのオルガンは北部から中部にかけての地域と、
南部の地域とに分けて考えるのが適当である。
両者には相互の交流はあったが、歴史的に異なった成長の過程をたどった。
北部のオルガンはオランダ、デンマーク、スウェーデンと
共通の地盤で育って行った。その性格の決定に重要な役割を果たしたのは
宗教改革と30年戦争である。宗教改革によりルーテル派の地域となった
北ドイツでは、オルガンは会衆の歌うコラールの伴奏と
間奏という役割を持たされた。(中 略)
30年戦争(1618-48)は北ドイツを荒廃させた。多くのオルガンが破壊され、
オルガン製作の技術は途絶えてしまった。しかし戦争後は、
荒らされなかったデンマークやスウェーデンに残っていた伝統が復活し、
北ドイツに再びオルガン製作の火がともるようになる。
この時期の代表的な製作者が、ハンブルクを中心に仕事をした
アルプ・シュニットガー(1648-1719)である。
この人とその息子二人が残したオルガンは、シュニットガー・オルガンと
呼ばれて北ドイツのオルガンの代名詞とさえなり、
オルガン製作の一方の理想とされている。ブクステフーデ(1637-1707)
の音楽はまさにこのようなシュニットガー型に基づいて作られたのである。

シュニットガーのオルガンが北ドイツに浸透して行った頃、
中部ドイツのザクセン地方(旧東独)で一人の男が毛色の変わった
オルガンを作り始めた。アルザスのアンドレアス・ジルバーマンの弟
ゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)である。
彼は兄の下で数年間オルガン製作を共にしたのち、
故郷のフライベルクに帰りオルガンを作り始める。
彼のオルガンはイタリアやフランスの要素の入った、
或る面では南ドイツのオルガンと共通な点のあるものであった。
彼はドレスデン、フライベルクをはじめとして旧東独内に
多数の楽器を残した。J.S.バッハと最も関係の深い楽器は
このザクセンのジルバーマン型のオルガンである。
シュニットガー型とジルバーマン型はかなり異なる要素を持った
オルガンであるが、この両者が製作されていた17世紀後半から
18世紀の期間がドイツのオルガンの黄金時代であった。
20世紀の今日、オルガンの規範がつねにドイツに求められるのも、
この両タイプのオルガンの故と言っても過言ではない。

(「オルガン音楽のふるさと」 NHKオルガン研究会編
1975年初版発行 NHK出版)より



ジルバーマンオルガンは、J.S.バッハが活躍した
まさにこのザクセン地方で育ち花開いた。
当時オルガン鑑定家として名高かったJ.S.バッハも
きっと多くのジルバーマンオルガンを演奏したことだろう。
ちなみにドイツにはフライブルクという地名があり
例えば日本人オルガニストも多くが留学している
フライブルク音楽大学があるが、フライベルクはそことは別の地名。
ドレスデンからほど近いローカルらしい。




オルガンを観て、その美しさに久しぶりに感動しました!!
何という調和の取れた楽器と聖堂でしょう。
さすが「宮廷教会」ならではですね♪

ドイツのオルガンは、このようにきらびやかなデザインと
反対にごくごくシンプルでドイツらしいものと
割と両極端に分かれることが多いかもしれません。









ドレスデンは、ドイツ国内で最もひどい戦災を受けたそうです。
今もってその被害の数字は正確には把握されていません。
石造りの聖堂が破壊されるとは、
一体どんな攻撃だったのでしょうか・・。

空襲の恐れがあったので、この名器ジルバーマンは
早めに疎開していたので、幸い被害から逃れることが出来ました。
この他にどんなに素晴らしい楽器が人間と共に
命を落としたことか・・。
全く持って、人間の愚かしさです。(/_;)/~~
再びこのような悲劇を、私たちが起こすことがありませんように。
心から祈りつつ。



聖堂内にひっそりと置かれていたもの。
これも戦災のひどさを伝えているのかな。



こちらは内陣の様子。
こういう色使いは、日本ではなかなか見られませんよねぇ。






説教壇もあでやか!


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