占領?イラクの人々に聞いてみよう

エレイン・キャッセル
ZNet原文
2003年7月26日

7月25日、国際法違反の侵略軍を支援するための「イラク特措法」が日本の参議院で採択されました。そもそもが国際法違反(これについて、「難しい問題ではないか」とするメールを頂いたことがありますが、事実関係と法について調べてみれば、全く難しいことなどありません。実際、「法学者」を自称する御用学者以外の法学者はこの点について合意しているようです)の不法占領に対する支援という点で、国際法違反・戦争犯罪への荷担となり、日本国憲法にも完全に違反しています。これらについて、短・中・長期的な今後の対抗運動のために改めて整理しなくてはならないのですが(とりわけ私が頂いたいくつかの批判的メールに対しては整理したいとも思いますが)、とりあえず、現況記事の紹介を続けます。

この記事は、「国を愛すること」にも関連していますが、「他者を道具としてのみでなく目的としても見なすこと」、「相手の言葉に耳を澄ますこと」という文脈における議論であり、小泉首相や曾野綾子氏、石原慎太郎氏などが論ずる「国を愛すること」とは全く別のものです。エドワード・サイードに「私たちの民主主義を返せ」という記事がありますが、自分がその中で暮らしている直接的な政治・社会環境が自分にとっておぞましいものになったとき、民主主義や市民的自由や人権や議論の空間が圧殺されるようになったとき失ってしまうような(普遍的な)価値、この記事が「国を愛すること」を引き合いに出して論じようとしているのはむしろそのようなものであり、小泉純一郎氏の「国を愛すること」は、全く逆にそれらを圧殺するためのもの、と言うことができるでしょう。


2003年7月20日、ワシントン・ポスト紙の「アウトルック」欄に、米軍によるイラク占領を巡る4つの記事が掲載された。そのうち2つは、イラクをどのようにすべきかに関する米国の計画に対する評価である。選挙と民主主義には早すぎる、とカーネギー国際平和基金のトマス・カロサースは述べる[しかしこのカロサース氏、「民主主義には早すぎる」などと外部から決めるかたちで「民主主義」を語ることの単純な分析的矛盾をすら米国の人は見れないのでしょうか]。イラクの人々に選挙で自分の政府を選ばせることができるようになるまで、米国が---恐らくは自分が望む類の---行政機関とインフラを設置しなくてはならない。

退役軍士官のラルフ・ピータースは、占領は「うまく行っている」と論ずる。彼は、米兵とイラク人の殺害を、アメリカ人によってのけ者にされた少数のトラブルメーカーたちが引き起こす単なる厄介ごとに過ぎないとしている。しばらくすれば、イラクは上手く行き始め、自分たちがどれだけラッキーだった認識することになるだろう。そうなる前に、我々はイラクに10年いなくてはならないかもしれないが、そうなるのだ、と彼は我々に保証を与えている。

4記事のどれ一つとして(一つは新イラクにおける女性の役割、もう一つはイラクにもっと金をつぎ込むことについてのものである)、イラクの人々が自分たちのために何を望んでいるのかについては何も語っていない(実際、侵略を巡る「議論」の中でも、単純な質問、イラクの人々はどう考えているのか、については、全く何も語られないままでした)。サダム・フセインでなくても、イラクの人々にとってイラクは自分の国なのである。実際、こう言うと皆に批判されるかもしれないが、ブレマーとウォルフォウィッツが乗っ取る前の方が、イラクはまだイラクの人々にとっての国であったのである(これについては、「イラク:再構築か脱構築か?」の第一部第二部ともご覧下さい)。

米国と「有志の同盟」は、イラクを解放する/自由にするためにイラクに行ったということになっている。何のための自由か?電気も安全も仕事も全く持たない自由?石を投げている子供を米兵が射殺する自由?米兵が家宅捜索をする自由?米国の利益に対する脅威となりうるという理由で米兵が予防拘禁をする自由?

ここに一貫性を見てとっていただけだだろうか?はっきりしているのは、サダム・フセイン支配下でイラクの人々には市民的自由があまりなかったかも知れないが、米国占領者のもとでも市民的自由を全く持っていないということである。さらに重要なことは、現在、イラクの人々は国をすら持っていないということである。

米国が例えばイタリアか中国、日本に占領されたら、米国人たるあなたはどう感じるだろうか?好きな国を選んでよい。占領者たちが、自分のメディアと言葉と軍隊と法律とマネージャーと企業とを勝手に持ち込んで、皆さんはただ座ってそれを見ていなくてはならないとするならば。皆さんの国と文化と生活を奪い取るならば。

愛のバリエーション(国、友人、恋人、神)に関する『4つの愛』の中で、C・S・ルイスは、家と祖国への愛について書いている。20世紀初頭の英国の詩人で戯曲家でジャーナリストだったG・K・チェスタトンの言葉を引用して、ルイスは、「自分の国を他国の人に占領されたくないことに関する理由は、自分の家を焼き払われたくないという理由と同じであろう。というのも、失って悲しむことが多すぎて、数えようとすることすらできないからである」。

よく考えてみよう。家を焼き払われたとき、どう感じるだろうか?占領された国に住むというのはどんな感じであろうか。それにもっとも近い経験として私が持っているのは、地上で最も愛していた家を失ったときだった。とはいえ、それは自分でやったことだった。売らなければならなかったために売却したのであり、強制的に取り去られたわけではない。不法侵略者や家宅侵入者に占拠されたわけでもない。焼き払われたわけでもない。

こう言った上で、私は、2001年9月11日以来、自分が占領された国に暮らしているようにますます感じている。議会が戦争に賛同する投票を行い、愛国法に投票し、文字通り手に負えない子供のように争うという異常さを目にして、私は、ここが自分の国ではないと感じている。身体調査を受けるために空港や美術館、コンサートで列にならんで、ここは米国ではないと感じている。イラクに関する諜報から貿易赤字、そして私の子供や孫たちに何をするかに至る全てのことについてジョージ・ブッシュが嘘をつき、高齢者医療保障や低所得者医療扶助、教育に対する空疎な約束をするのを聞いて、これが私の大統領ではあり得ないと考えている。

憎悪に満ちた二枚舌の他人を中傷する右翼的トークショーのホストで満ち満ちたラジオ放送を聞き、アメリカ人の無知について首を傾げざるを得ない。私は間違った国に住んでいるのだろうか。米国憲法を一条また一条と(政府に関係する条件以外は)破棄し、権利章典の修正を一つ一つずたずたに引き裂いていくような連邦上訴裁判所の決定を読んで、どうやって司法がたった2年間で消滅するのだろうと思わざるを得ない[ウィリアム・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』(作品社・2003年・2000円)からわかるように、実際には長期にわたって同様の状況があったのですが]。

むろん、米国はイラクではない---少なくとも、まだ。けれども、ジョージ・ブッシュとトニー・ブレア(ものすごい図々しさである)が(そして小泉純一郎が)この永続的戦争からなる新世界秩序の中で、ブッシュ政権がいかにすばらしい仕事をしているかと言うとき、私は彼らが私の意見を求めればと願う。

そしてまた、ブッシュ政権の公式見解を支持する報告を書く保守的なシンクタンクのお識者たちに金を払うワシントン・ポスト紙が、イラクの人々に、「米国による占領をどう思うか」と聞くことを願う。

イラクの人々は、悲しみの中で失った無数のことについて、我々よりも多くを感じているに違いない。

エレイン・キャッセルはバージニア州とコロンビア特別区で法律家として活動すると同時に法律と心理学を教え、また、ブッシュ政権による憲法の解体を監視している。メールはecassel1@cox.net。

益岡賢 2003年7月27日 

イラク侵略ページ] [トップ・ページ