ハイチからイラクへ
水を埋める

キャシー・ケリー
CounterPunch原文
2004年12月10日


1994年の夏、私は4人からなるクリスチャン平和構築チームの一員として、ハイチ南部に突き出た町ジェレミーの人権状況をめぐる報告書の作成に従事していた。ハイチに着いてポルトープランスで一日を過ごし、小さな海辺の町サン・エレーヌへのフェリーを待っていた。その日、手助けをしたいと燃えていた私は、地元の少女たちがヒンクリー・シュミット(飲料水会社)型水ボトルを引きずっていく仲間に入った。山峡を抜けて、ポルトープランスの、ひどい状況にあるシテ・ソレイユに持っていく水だった。はじめてすぐに、私の腕はふるえはじめた。セメントのでできた棚に着いてボトルを船に積み込む段になったとき、私は憑かれきって自分の分を落としてしまい、水が流れ出すのを愕然と見ていた。少女たちが飛びついて、貴重な水の一部を救い出そうとしていた。「Si ou cache verite, ou enterre dlo」。ハイチの諺で、真実を隠すのは水を埋めることに似ているという意味である。真実は流れ出る。その夏中、私は女性たちが水を頭の上に乗せ、何マイルも丘を登って運ぶ光景を見続けた。ある日などは、友人のマダム・ティ・パが過労で気を失いかけた。

マダム・ティ・パは3人の子どもを育てようと奮闘している。8歳のナターシャ、2歳のペティアーソン、1歳のパトリシア。ナターシャは孤児だった。両親は、人が乗りすぎた船がハイチ沿岸で転覆した際、命を失っていた。マダム・ティ・パは、ナターシャが泣きながら路上をさまよっているところに出くわし、彼女を家に連れ帰った。ナターシャは学校に行くための経済支援を受けられることになったが、マダム・ティ・パは彼女に制服と靴下、靴を買ってあげることができなかった。子どもたちを十分に食べさせるお金もなかった。子どもたちは栄養失調気味で、しばしば熱を出した。それでも子どもたちは、マダム・ティ・パの自然な陽気さに応えるように、歌を歌い、笑い、お互いに抱き合って暮らしていた。

サン・エレーヌの坂道は、岩だらけでごつごつしており、車輪にも、靴にも裸足にも厳しい。サン・エレーヌの向こうには、平らな舗装された道が「アドークン」と呼ばれる魅力的な岩並に続いている。素晴らしい植物と木々、花々が両脇に植えられたその道は、ジェレミーで最も裕福な地域を抜けて通っている。

私たちクリスチャン平和構築チームは、週二回、朝、ポルトープランスとラジオでコンタクトをとるためにこの道を飛ばしていた。「よき羊飼いの家」のシスターたちが機材を使わせてくれたのである。それから、穏和なシスターたちと話し、彼女たちが支援している協同組合農場の展開について聞くのはいつも楽しいことだった。シスターたちの家に隣接する畑で作物を栽培することで、65家族が女性たちにより支えられていた。

ある日、マダム・ティ・パは私に、プロジェクトに参加する可能性についてシスターと話をするために一緒に来てくれと言ってきた。ポルトープランスのある女性が彼女の推薦状を書いたのだった。タイプ打ちされたその手紙を見せてくれたとき、マダム・ティ・パの両目は期待で輝いていた。それから、彼女は石鹸をもらえないかと聞いてきた。石鹸を買うことさえ贅沢になり、何週間も服を洗えないでいたのだ。

手紙を手に、さっぱりしたスカートと上着を着て、マダム・ティ・パは私と待ち合わせて「よき羊飼いの家」に向かった。平らな道に出たとき、マダム・ティ・パはその道ができたいわくを教えてくれた。「アドークン」のためのレンガを注文したのはジャン・ベルトラン・アリスティド神父で、その道はサン・ヘレーヌを通ることになる予定だったが、到着が遅れて、到着したのはクーデター後のことだった[1994年のクデーターまでについては「ハイチ:1986年〜1994年」をご覧下さい]。そんなわけで、レンガは没収され、町の裕福な地域の、既に舗装されていた道を際舗装するために使われることになった。サン・エレーヌの人々は失望し騙されたように感じた。

さらなる失望がマダム・ティ・パを待ち受けていた。「よき羊飼いの家」に着いたとき、シスタ・アンジェリーヌはきっぱりと、これ以上プロジェクトに新しい女性を受け入れることは不可能だと言ったのである。マダム・ティ・パのほかにも沢山の女性が参加を望んでいた。

「アドークン」道路を歩いて帰る間に、マダム・ティ・パは弱って震えていた。彼女は、前の日の朝から何も食べていなかった。私は、マクート[ハイチのギャング支配者たち]が次のように言っていたことを考えていた:「貧乏人の奴らは怠惰で馬鹿なので国を運営することができない。奴らは他人を騙し盗むことだけを考えているんだ」。その道では、石さえも叫びだしていたろう(ハバクク書2:9−11)。

ハイチの人々を剥き出しの絶望に陥れた者たちについて、何を言うべきだろう? 数日後、私は、最悪の犯罪を犯したと言われているある男と会った。彼は、盗み、拷問そして殺人を犯したと非難されていたが、銃を持っていたため権力も手にしていた。この男はその権力を、何も持たず基本的権利以上のものを求めてもいない人々を弾圧するために使っていた。それでも私はこう問わずにはいられなかった。私が生まれ育った国は、この男が弾圧する人々とよりもこの男との間により多くの共通点を持っているのではないだろうか?

2000年夏にイラクのバスラで目にした水の力、銃の力、身を削り取るような貧困の力を思い起こすと、同じ様な冷たい震えが体を走る。私たちの小さな平和チーム----やはり4人のチームだった----は、アラビア語を学び、また経済制裁と独裁者の強圧支配の影響を被った住民の状況を理解するために、イラク南部の港湾都市バスラで最も貧しい地区に居を構えたいと考えていた。アラビア語で最初に学びたかった3単語は「Don't do that」だった。この言葉を、焼け付くような暑さの中、手でお椀を作り、道路脇を流れる下水のどぶに入れて水をすくい取り、頭から水をかけて冷をとる遊び盛りの少年たちに向かって叫ぼうと思っていた。夏の終わりになると、私の同僚も私も、目の上に手を当てて口をすぼめ、「こんどは私の番」と言って、少年たちに頭からどぶの水を掛けてもらうようになっていた。そうしなければ、気温が60度まで上がる過酷な日照りの中で気絶することになっていたろう。

毎朝、私たちが間借りしている家で、ナターシャ(「格別な」という意味)は4時に起き、家具の少ない家の壁を洗い始める。次の仕事は、井戸の口をふさぐ石をどけて電気ポンプを井戸に入れ、飲み水を汲み上げることである。電気ポンプを買えるのは、ナドラを含めごくわずかな人々だけだった。私たちチームのスタッフは、致命的な病気になることを恐れ、ポンプで汲み上げた水を飲まなかった。私たちはボトル詰めの水を飲み、そのためにたった2日間でナドラの家族が1カ月に使う以上の金を使っていた。ここから、「つつきの順序」がわかる:アメリカ人はボトル詰めの浄化された水を飲み、政権に気に入られた家族はある程度衛生的な水をポンプで汲み上げることができ、貧しい人々は、水から来る病気に最もかかりやすい。

再び、記憶が私を水をめぐる苦い対立の光景へと導いた。2002年4月、友人のカオイーム・バターリが、ボトル詰めの水6パックを2袋、西岸のジェニン・キャンプの瓦礫の中に徒歩で運んでいたときのことを思い起こした。すぐに小さな子どもたちが彼女のところに駆け寄って「カオイーム、カオイーム」と叫んだ。彼女は背が高かった。子どもたちに囲まれて、貴重な水を持って立っていた。家に水のボトルを持って帰ろうと懸命の子どもたちがいらいらしてお互いに諍いをはじめ、彼女が持っている水に飛びつこうとしているとき、彼女の目に涙が浮かぶのが見えた。

私がサン・エレーヌで出会った当時8歳だった孤児ナターシャは、どうしているだろう。輝く目と素敵な笑顔をもった18歳の女性になっているだろうか? 私が家から出るのを毎朝自分の家の外で待って駆け寄って挨拶をしたことを覚えているだろうか? 私が彼女の名前を呼んだとき、かがんだままで向こうを向いていたことを覚えていませんよう。そのとき私は、前の日に何か彼女を傷つけることをしたかと心配して近づいていった。近くに来て、ナターシャの唇に小石が付いているのが見えた。ナターシャが私に駆け寄って来なかったのは、土を食べていたからだった。

「水を埋めることはできない」とハイチの人々は言う。「そして真実を埋めることもできない」と。英国の医学雑誌『ランセット』は、戦争のために10万人ものイラク人民間人が死亡したと推定している。子どもの栄養失調は激増し、肝炎やコレラといった病気の流行が定期的に起こる。

米国による戦争と占領から18カ月、井戸の汚染により水を原因とする病気が広まり、川はあまりに汚染されていて動物でさえ川の水を飲むことはできず、電力供給がないため食べ物と薬を保存することができず浄水も下水も処理できない。米国占領下での混乱と腐敗のため、イラクの人々は、仕事とサービス、安全を絶望的に欲している状態にある。

ハイチで最初に子どもたちに会ってから、10年が過ぎた。来月、「荒野の声」(Voices in the Wilderness)は、イラク訪問により米国で「犯罪者」となる意志を宣言してから10年目を迎えることになる。メンバーの数人が、ハイチから、10年前の私の話よりもひどい話を抱えて戻って来つつある。私たちが出会った子どもたち、そして公平さを求め渇望しているすべての人々が、私たちに真実の伝え方を教えてくれますよう、そして、水を埋めて何事もなかったかのようにできるなどと考えるほどアホにならないよう教えてくれますよう。ハイチやイラクの多くの人は真実を手にしているが水を手にしていない。私たちの手には水があるが、真実はない。


キャシー・ケリーは「荒野の声」のコーディネータ。「荒野の声」は、米国外そして国内での米国政府による経済・軍事戦争を阻止するキャンペーン。ケリーの著書「Other Lands Have Dreams: Letters from Pekin Prison」は2005年春に CounterPunch Books / AK Press から発売される予定。電子メールは kathy(atmarkhere)vitw.org。


ハイチでクーデターが起き、独裁政権時代の「死の部隊」の関係者が権力を握ったのは2004年の春のことです。これについては、「ハイチ:米国協賛のクーデター?」をご覧下さい。また、それ以前の簡単な歴史については、「ハイチ:1986年〜1994年」をご覧下さい。本記事で言及されているハイチのクーデターは1994年のもの。

水の支配については、国際調査ジャーナリスト協会著『世界の<水>が支配される』(作品社:2004年)に非常にわかりやすい、事例を含めた説明があります。訳文もわかりやすい好著で、1600円、ぜひお読み下さい。その中で南アフリカの事例が紹介されています。私的なことですが、クラークスベリーという(主に)貧しい地区の英国国教会主教は私の親友で、「主教」という座の限界を持ちつつ奮闘しており、現地の水状況も教えてくれます。水の支配について、もう一段値段的に手軽なものとしては、集英社新書から、『水戦争の世紀』が出ています(集英社新書はなかなか健闘しています)。

ファルージャの状況や行動案内については、Falluja, April 2004をご覧下さい。また、シバレイさんのブログ、現地取材を続けてきた人ならではの、重みのある貴重な情報を提供してくれています。ぜひこちらもご覧下さい。


国内の様々な団体・個人の活動の一部:

12月2日に毎日新聞朝刊(全国版)に掲載された「イラク意見広告の会」の意見広告について、14日まで募金を募っているそうです。詳細は、こちらをご覧下さい。募金先口座は左下のリンクをクリック。

辺野古関係では、「沖縄のジュゴンを守るために」のホームページに情報へのリンクや国際署名(左側)などがあります。ぜひご覧下さい。ボーリング調査をしようとしている側は強行な手段に出てきています。「ボーリング調査を許さない実行委員会」にも情報が色々あります。

東京では、次のような企画があります。。

派兵1年、期限切れ
撤退させよう自衛隊 終わらせようイラク占領
WORLD PEACE NOW 12.14
ファルージャで6000人以上が殺された!

◎日時:12月14日(火)
  開場17:30
  プレ企画18:00
  開会18:30
  パレード19:30
◎場所:日比谷野外音楽堂(地下鉄霞が関駅下車)
◎発言:
 小池清彦さん(新潟・加茂市長/元防衛庁教育訓練局長)
 池田香代子さん(翻訳家)
 イラク報告:熊岡路矢さん(JVC代表)、原文次郎さん(JVC)
◎演奏:TEX & the Sun Flower Seed
 http://trice.co.jp/tex/
※ 夜のパレードなので光り物などアピールグッズをお持ちください
詳細は、こちら
2004年12月13日

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