メデジンの被占領地帯

フォレスト・ヒルトン
2002年10月
コロンビア・レポート原文


「麻薬」関係ニュースで知られるようになったコロンビアのメデジン市。 この都市で、軍や準軍組織による、貧しいコミュニティーの殲滅作戦が行われています。 コミュニティーの住民の中には、もともと、多国籍企業による資源開発を容易にするために行われた準軍組織による虐殺や拷問で、地方から逃れてきた人々が、多数住んでいます。 大規模な軍事援助を米国ブッシュ政権から受けるコロンビアの「強行派」ウリベ大統領のもとで、2002年9月にブッシュが発表した「脅威が我々の国境に至る前に捕捉し殲滅してしまうことで、アメリカおよびアメリカ国民、国内外の我々の利益を守る」というブッシュ・ドクトリンを適用することの典型的な帰結が、コロンビアのメデジン市に示されています。 コロンビアで進行中の事態を見ていると、「最終解決」という言葉が、頭をよぎります。


はじめに
全方位からの圧迫:メデジン周縁の生活
メデジン:暴力の歴史
人民武装部隊
オリオン作戦:ウリベの賭




はじめに

今や、このシーンは、お馴染みのものである。 2002年5月21日の早朝、700人の兵士たちが戦車の援護をうけて侵入してきた。 これに対し、近隣の武装民兵は、マシンガンで侵入を阻止しようとした。 ブラックホーク・ヘリコプターからは、無差別に近隣地域に雨のように弾丸が発射された。 捜査状もないまま、銃口を突きつけて玄関口で宣言される家宅捜索が行われ、それは略奪へと変わった。 若者たちは路上へ引きずり出され、縛られ、殴打され、そして、子供たちが見ている中で殺害された。 近隣の住人たちは、勇敢にも、怪我人を助けようとし、国家機関が発射する銃弾の中で、医療処置を施そうとした。 人々は、停戦を望む意思を示すため、白いシーツやタオル、シャツを窓から下げた。 棒や石だけを手にした子供たちが、兵士や警察に対峙し、近所から撤退するよう求めた。 「僕らは平和を望むのだ。僕らは平和を望むのだ」と叫びながら。 包囲攻撃は12時間以上も続き、終わったときには、3名の子供を含む9人が死亡し、37名が怪我をし、55名が拘束されていた。

ナブラスやジェニン、ラッマラーの出来事ではない。 コロンビアはメデジン市中西部の丘にある、コムーナ13地区でのことである。 この地区は、約10万人が住む20の町区からなっており、住人の多くは追放されたアフリカ系コロンビア人で、コミュニティを組織化した経験を有している。 けれども、中東の出来事とは異なり、閉鎖されたこの地域に入ることを要求する国際的監視団は存在しない。 反対に、コミュニティの指導者たちは、「国内外の公式NGOや人道組織が、この都市部での戦闘の重大さに対応すべきだったにもかかわらず、何もしなかったことに、無気力」が示されていると述べている。

当時メデジンの市政府書記であったホルヘ・エンリケ・ベレスは、当局の手の届かない地域はメデジンには存在しないと主張するが、5月上旬に、メデジン市長ルイス・ペレスと取り巻きのTVレポーターや新聞記者たちが、コムーナ13の「6月20日」地区にバスで入ろうとしたとき、ゲリラの銃撃によって追い返された。 5月21日早朝に軍/警察の共同侵入作戦が行われて以来、コムーナ13は、止むことのない準軍組織の攻撃にさらされている。 また、何度も繰り返し、警察と軍による侵入作戦が行われた。 とはいえ、先週(2002年10月末)までは、5月21日に匹敵するような規模のものはなかったのだが。 今年に入ってから10月17日までに、コムーナ13では、450名の人々が暴力的に死亡している。 これは、世界的に最悪であるコロンビア全体の殺人と比べても6倍である。 そして、過去6ヶ月のあいだに、500家族が追放された。

国家が自らの権力を都市周辺部の貧しいコミュニティで示したこのやり方を見るならば、コムーナ13のある住人が述べた次のような見解に共感を持つのは容易である: 「私は子供も兄弟も友人も失わなかったけれど、いずれにせよ泣いた。 国家当局は、我々の憎しみを買わないなどと思うことができるのだろうか」。 けれども、準軍組織によるコムーナ13への攻撃は、国家機関が行った5月21日の虐殺とは違い、ニュースにはならなかった。 低強度紛争という作戦の意図通り、準軍組織の残虐行為は、地方紙の後ろに埋もれているのである。 都市部での戦闘が予想外に激化した最近になるまで、コムーナ13の未来について、公に議論されるそぶりすら見られなかった。 概ね、無関心と冷淡さが広まっているのである。 このことは、ルイス・ペレス市長が、コムーナ13のことを、「駆除しなくてはならない癌」と述べたことに典型的に示されている。


全方位からの圧力:メデジン周縁の生活

軍と準軍組織による共同攻撃作戦を隠す策動はまた、コムーナ13に隣接するコムーナ7で軍と警察が犯した虐殺にも蓋をして隠していた。 この虐殺では、合計11名の人々が殺されたが、全員が、14歳から17歳であった。 2002年2月27日、15歳の少女とその弟が、少女の誕生日に踏み殺され、遺体にはゲリラの服が着せられた。 同じ日、コロンビア第4旅団の兵士たちが、タクシーで近所から出かけようとしていた高校生4人を捕まえ、タクシーの運転手とともに拷問して殺害し、遺体に迷彩服を着せ、メディアに対して、戦闘中に死亡したゲリラであると発表した。 それから一月たった3月30日、コロンビア軍第4旅団兵士たちが、スキーマスクをかぶったりして身元を証さずに、近くのプールに無差別発砲し、4名の若者を殺害した。 それから、近所の住人が見ている中で、遺体に迷彩服を着せ、メディアを呼び出した。 メディアは、迷彩服が小さな遺体には絶対合わない程大きいものであったことを報道しなかった。 メデジン市の貧しい地域に侵入したときに、軍は、家を一軒一軒捜索し、略奪を行い、恣意的拘禁を加え、肉体的・精神的拷問を人々に加える。

予想できるように、コムーナ7の子供たちは深いトラウマを負うこととなった。 そして、コミュニティーの指導者によると、軍や警察を見かけると、近くの学校に通う950名の子供たちの中にはパニックが広がるという。 このトラウマを診療するために、メンタル・ヘルスの専門家はおろか、医者さえもコミュニティーにはいない。 教師たち−そのほとんどは高い資格を持ちながら劣悪な賃金で働いている−が、学校を維持するために心理学者の役割も果たさなくてはならなかった。 大多数の生徒が被る栄養失調も相まって、教育はほとんど不可能となった。 生徒たちは、恐怖にとらわれていないとき、気を失っていたり眠り込んだりしているのである。

生徒たちの親の8割は失業しており、仕事を見つけるために親たちは住所について嘘をつかなくてはならない。 というのも、軍と準軍組織は、コムーナ7とコムーナ13の住人全員を、ゲリラと見なしているからである。 準軍組織は、メデジン市の労働市場の色々な場面を取り仕切っている。 あるとき、準軍組織は、プラン・コロンビアの「社会投資」部門の一環として行われていた道路建設プロジェクトで働く労働者の一人がコムーナ7出身であることを知り、彼を殺害した。 コミュニティの指導者たちは、プラン・コロンビアがもたらしたものは、ブラックホーク・ヘリコプターの脅威だけであると述べる。プラン・コロンビアの一環として開始された道路や階段の建設は途中で放棄され、下請け業者は一月分の賃金を労働者たちに払っていない。

コムーナ7は、ラ・アバンサダ、バジェフエロス、オラヤ・エレラ、ラス・マルガリータス、ブランキサルという地区からなり、主として人民武装部隊(CAP)が支配しているが、オラヤ・エレラの低地部分は、コロンビア革命軍(FARC)が統制している。 オラヤ・エレラ、特にその低地帯は、地方といった色彩が強く、鶏や低塩、木々、木造の家、急で狭い階段の道などが多く見られる。 オラヤ・エレラをバジェフエロスとラス・マルガリータスから隔てる川の北岸は、メデジンを、アンティオキア州のウラバ地方を通過して太平洋およびカリブ海と結ぶための新たな高架交通路「西へのトンネル」の一部となることが予定されている。 このため、オラヤ・エレラはメデジンにとって「戦略的回廊」なのである。 武器と麻薬は、ウラバのアトラトとカリブ海に面した港トゥルボを通ってコロンビアを出入りしていた。 そのため、この地域を制圧するための戦闘は、1990年代前半以来激化している。

地元ブルジョアジーたちが夢見る、人々にとっては虐殺にも等しい計画が、「21世紀のアンティオキア」というパンフレットに描かれているが、それによると、輸送のための回廊と、まだ建設されていない太平洋岸の港、そして、それによりやってくる海外からの投資により、アンティオキアは「アメリカ最上の地域」となるとしている。 オラヤ・エリラのコミュニティー指導者たちは、自分たちのコミュニティーに地方政府も中央政府も投資をしようとしないのは、そうすると地価が上昇するからだと述べる。 国家は、土地をできるだけ安く買い取り、それを投機家そして最終的には多国籍企業にできるだけ高く売ろうとしているのだと、コミュニティーの指導者たちは推測している。

オラヤ・エレラには大学で勉強した人はいないが、指導者たちは、ラス・マルガリータスやバジェフエロスの隣人たちと同様、オラヤ・エレラの住民が、国家が計画する資本投資にとって最大の障害となっていることを理解している。 国家が計画する投資は、そのほとんどすべてが海外資本によるものであり、中でも大部分は北米資本のものである。 オラヤ・エレラのコミュニティーの指導者たちは、このために、オラヤ・エレラが準軍組織に目を付けられていることを知っている。 準軍組織は、コムーナ7に出入りする通路4つのうち3つを支配し、そのため、住人たちが移動することは難しくまた極めて危険なこととなっている。 けれども、コムーナ7に住む人々のほとんどとまでは言えないにせよ、多くが、過去に準軍組織の暴力によってアンティオキアの地方部から追放された人々であり、今、彼ら/彼女らは、コムーナ7から再び移動することを拒否している。

どこへ行けばよいというのか? FARCと準軍組織(準軍組織は軍と警察と一緒に活動している)との間の、ウラバ−そして実際のところアンティオキア州全体−の争奪戦争が激化し、人々が地方から強制的に追放されるに従って、メデジンは、その収容力を越えて、追放された人々で膨れ上がってきた。 最近メデジンに追放されてきた人々の大部分は、コミュニティー組織化の歴史をもつアフリカ系コロンビア人の農民たちである。 しかしながら、追放された農民たちに対処する資源も政治的意思もない状態で、都市暴力により地元と家を追われた人々は、法的定義によると「避難民」の地位すら与えられない。 「6月20日」に近いベレン・コラソン地区は、コムーナ13におけるゲリラと軍/準軍組織の対立の中心であるが、そこでは、1月から7月の間に60軒の家が放棄され、そして、近隣の住民によると、週末ごとに3軒が放棄され続けているという。 7千万ペソ(約350万円)と見積もられていた家々は、現在、3千万ペソで売られている。 6月から8月にかけて、FARCゲリラと準軍組織の戦闘を避け、エル・サラド高地帯から700名と推定される人々が逃げ出し、コムーナ13のラス・インデペンデンシアにある学校に避難した。 政府は、こうした人々の苦しい状態を緩和するための手だてを、まったくとっていない。


メデジン:暴力の歴史

今年(2002年)2月20日に、コロンビア革命軍(FARC)とパストラナ前政権との間の和平交渉が終了して以来、多くの分析家たちが、コロンビア人口の4分の3が暮らす都市部にも戦闘が広まると予測した。 この予測は、マグダレナ河沿いの石油港バランカベルメハを除いては、まだ現実かしていないが、ボゴタ西部の広大なサバンナ地帯の軍事化が強化されている兆しはある。 けれども、メデジンでは、5月21日の事件が、左派ゲリラと地方政府、右派準軍組織、ストリート・ギャングのあいだの込み入った戦闘の新たな段階が始まったことをよく示している。 戦闘犠牲者の大部分は若い人々であり、中には戦闘員もいるが、ほとんどは一般市民である。

ベタンクール政権とFARCの間で進められていた和平交渉が1986年に決裂して以来、コロンビアの産業中枢であるメデジンは、殺人事件の世界首都となった。 過去20年間で、メデジンでは、14歳から25歳の若者4万人が暴力的な死を遂げたと推定されている。 メデジン周辺部では、左派ゲリラとストリート・ギャングの間で、1980年代後半から1990年代前半に、地域制圧を巡る紛争が急速に広まった。 アンティオキア州の地方部では、牧場所有者や自由党のボスたち、退役軍人や警官、軍諜報部の主要メンバー、麻薬商人からなる対ゲリラ・ブロックが、反対派の愛国同盟に属する政治家や農民、炭鉱労働者を暗殺し、特にマグダレナ・メディオと北東部(セゴヴィアやレメディオス、サラゴサ等)で力をつけた。 この反ゲリラ・ブロックは、元アンティオキア州知事アレヴァロ・ウリベという強行派大統領に象徴されるように、全国レベルでも今や権力を握っている。 準軍組織の暴力を避けるためにメデジンに逃れた追放された人々の多くは、自分たち、そして子供たちが、激化する対立の新たな波の中に捕らえられてしまった。

メデジンにおけるギャングとゲリラの間の市街戦はブロック単位で行われたが、こうしたローカルな対立には全国レベルの関係者も関与していた。 ギャングの一部は、全国的な影響力を持ったパブロ・エスコバルと関係があったし、別のギャングたちは、1993年にエスコバルを破壊するためにその元関係者−その多くはカルロス・カスタニョやフィデル・カスタニョのように強硬な反共主義者であった−を使った、コロンビア政府の抑圧的組織と関係をもっていた。 一方、ゲリラ組織のすべてではないが一部は、FARCやELN(民族解放軍)といった、1980年代末には全国的な部隊となったゲリラ組織と関係をもっていた。 ギャングたちと地域ゲリラとの対立が激化した1991年には、メデジンで7千件の殺人事件が起きた。 殺害者も犠牲者も、大部分は、25歳以下の貧しい青年たちだった。 FARCやELNと関係を持っていない独立ゲリラ・グループが1994年から1996年に交渉と「復帰」プロセスに入ったため、対立はわずかにその後緩和したが、「治安組合」(COSERCOM)設置プロセスの結果、多くの元地域ゲリラ指導者たちが殺害され、また、他の多くが準軍組織に転向した。 1990年代から殺人は再び増加しており、2001年には3445人が、2002年には10月12日時点で既に3790人が殺されている。

今年に入ってからメデジンで起きた殺人のほとんどは、3月以降に起きている。 これは、選挙日程に従っている。 アレヴァロ・ウリベが大統領となった今や、1980年代後半から1990年代前半と同様に、殺人件数は指数関数的に増えるかも知れない。 ウリベは1995年から1997年にアンティオキア州の知事であり、その時代に、ギャングと国家の抑圧機関との同盟関係がかたちづくられ、1995年の悪名高いCONVIVIR(すなわり市民防衛パトロール)により合法化された(1999年にCONVIVIRはようやく、準軍組織との関係が証明されたため不法なものとされた)。 準軍組織は、ウリベがアンティオキア州知事だった時期に、全国的な勢力となった。 カリブ海への回廊であり米国が所有するバナナ農園が広がるウラバでは、ウリベが州知事だった時代に、準軍組織がFARCを追い出し、何千人もの人々を虐殺した。 CONVIVIRのメンバーは、何百人もが、その後、直ちに、準軍組織コロンビア自衛軍連合(AUC)の司令官となり、他のメンバーは、あからさまな法的保護はないが暗黙の了解のもとで、これまでと同様の活動を続けた。

メデジンでも地方部でも、準軍組織は規模を拡大し、戦闘能力も増強し、さらには、ますます多くの虐殺を行っているにもかかわらず、1990年代後半には政治的正当性も手にしてきた。 ある公式の諜報報告書によると、コロンビア最大の準軍組織であるコロンビア自衛軍連合(AUC)は、現在、メデジンの70%を支配している。 まだ征服されていないのは、中西部のスラム街(ここはウラバへ抜ける道となっており、ウラバでは、FARCとAUCが、カリブ海とパナマ境界へのアクセス路を巡って戦闘を繰り広げている)と、中部及び北東部(ここからAUCが支配する重要な金鉱地帯への路が続く)のいくつかの地区である。 AUCはアンティオキア州郊外で農民たちを虐殺してきたために大きな批判を浴びているが、メデジン市自体での準軍組織の拡大については、沈黙が広まっている。 ウリベがアンティオキア州知事だった時代にウラバから国軍と準軍組織により追放された人々の胃痴愚は、ウリベが大統領の地位にあるあいだに、抹殺されることが予定されている。 ウリベは、メデジン市を、コロンビア全体とともに「平定」するだろうという予測の中で、アンティオキア州の投票の7割を手にした。

今や、メデジンの中西部でも中部・北部郊外でも、戦闘は日々の生活の一部となったのであり、当局筋は、こうした状況が続くだろうと見なしている。 軍第四旅団の司令官であり2000年から2001年にプツマヨでの焦土作戦を指導したマリオ・モントヤ将軍は、5月21日のコムーナ13における作戦を、無条件の成功と述べている。 「我々は、メデジンで活動する犯罪者の諸グループに対してすばらしい成果をあげた。 我々はここに留まらない。」 また、メデジン市警の総監でやはりプツマヨ焦土作戦に参加したレオナルド・ガジェゴ将軍は、5月21日に過剰な攻撃が行われたという批判を否定し、ゲリラこそが、軍と警察に対し過剰な暴力をふるったと述べた。 メデジンの元市政府書記であり現在有力な市長候補であるルヘ・エンリケ・ベレスは、コムーナ13について、「カグンやスマパス(ともにFARCの拠点)のような戦闘地帯と見なす必要がある」と述べている。

メデジンの現市長ルイス・ペレスも、負けずに、さらなる作戦−おそらくは5月21日やオリオン作戦と同様の−が予定されていると発表した。 「転覆活動のために立ち入り禁止となるような地域をこの町に望まないならば、多くの暴力行動を行わなくてはならないだろう」と。 ベレスもペレスも、2000名の警察−ペレスによると「兵士でもあるような」警察−増強と、軍の都市機動部隊の創設、そしてメデジン中西部と北東部での軍基地建設を求めている。 ウリベ大統領が「国内動揺事態」を宣言した現在、ペレスは、未成年者を投獄する特別権限を求めている。 5月21日虐殺のあと、ともに右派であるメデジン市の主要日刊紙2紙、エル・コロンビアノとエル・ムンドは、「法と秩序」解決に揺るぎない指示を表明した。 ただし、これら2紙は、弾圧と同時に開発援助と社会プログラムの増大を提案していたのではあるが。 これら2紙は、市民に対し、国家の安寧のために軍と警察を支持するよう求めた。 つまり、ウリベ・プランの基本綱要を律儀に繰り返したのである。

コムーナ13と7の管轄だったホセ・ルイス・アロヤヴェ神父は、2002年9月に準軍組織によって暗殺された。 彼は、死ぬ前に、当局は対立を土地の観点から論じているが、社会負債の観点から考えるべきであると述べていた。 彼はある記者に、「現在の政権は、餓死し、子供はひどい栄養失調状態にあり、失業している人々に対する社会負債を負っている」と述べている。 今年1月から8月の間に800人以上が暴力的に死亡したメデジン北東の端に沿った戦争地帯サント・ドミンゴ・サビオのあるコミュニティー・リーダーは、ベレス=ペレスの枠組みに反対を表明している。 「この計画が実行できるとは思わない。 政府は自ら望むことを行うだろうが、基地を建設する必要はない。 我々は自分たちの地域を管理することができる。 秩序を重んじ、色々なことを進め、失敗を赦し、一緒に働くことができる。 そして、それはサント・ドミンゴだけではない。 エスペランサでも、カルピネジョでも、ブリサス・デル・オリエンテでも、ラ・アバンサダでも同じだ。」

内戦の構造的要因を知るために遠くを探す必要はない。 1980年代以来、約3百万の人口を擁する都市部のメデジンにおける富の分布は、コロンビアのどの大都市よりも偏っており、失業率も高かった。 現在仕事も持たず教育も受けておらず、どちらも受ける見通しのない若者は推定で7万人いる。 エル・コロンビアノ紙でたった一人で反対の声を挙げているアルベルト・アグイレは、この状況を次のように説明する。 「メデジンは若者にとって敵意に満ちた都市だ。統計は次の通り:13歳未満の人口の7割、そして人口全体の64パーセントが貧困層である。 13歳未満の子供の半分以上が1日1食しか口にせず、次の食事を取れるかどうかもわからない。 コムーナ[周辺部の貧しい地域]では、若者の失業は60パーセントに仕事がない。 小中学校の21パーセントは教師がおらず、35パーセントは図書館がなく、机の53パーセントは悪い状況にある。 夜学[日中働いている子供たちのための]は閉鎖される予定である。 コミュニティのカフェテリアは既に閉鎖された。 生徒の半数が医療を受けられず、貧しい層の生徒で学校を終えるのは半分しかいない。 そのうち20パーセントが大学にいくが、卒業するのは100人に1人である。」

1970年代後半にパブロ・エスコバルが権力を握って以来のコカイン貿易の中心都市であるメデジンには、現在、400のストリート・ギャングがあり、メンバーは合計1万人を越える。 「犯罪」産業 −コカインの精製・運送・売却、車やバイクの窃盗、武器取引、宝石窃盗、マネー・ロンダリング、契約殺人、誘拐など− は、他のどんな産業よりも多くの雇用を若者に提供している。 それとともに、ギャングの間で、市場の独占的統制を巡り、止むことのない戦いが続けられる。 準軍組織(パラ)の進出に対してなわばりを守ろうとするギャングもあるが、多くは、共通の敵である左派ゲリラ(右派の隠語では「反乱」と言われる)に対して、パラと協力するほうが有利であると考える。 中東部郊外のある地域では、1990年代前半から地区を統制していた11月6/7革命中枢という独立派民兵が、AUCの都市ブロックの指示のもとで準軍組織に転身した。

メデジン郊外における武装左翼の戦略的方針である「丘の麓の貧困に追いやられた5地区における権威的社会主義」に対して反論することはむろんできる。 けれども、準軍組織が、ゲリラやギャングがいない場合にも、都市の諸地区に侵入するにあたって、銃を構えていたことも忘れてはならない。 たとえば、今年、準軍組織は、北西部の縄張り「10月12日」の明け渡しを拒んだギャング、ロス・デ・フランクと戦争に突入した。 コロンビアの地方部では、地元の自衛軍の長い伝統があり、それは、1980年代に、メデジンの丘の麓に追放された人々のコミュニティーに受け継がれた。 コミュニティー・リーダーたちが問題を話すとき、その原因として、都市ゲリラ −リーダーたちはそこに属してはいない− ではなく、国家と準軍組織をあげる。 これは、もちろん、ゲリラと、ゲリラが活動する地域のコミュニティーが、完全な調和をもって暮らしているということを意味しない。けれども、これらの関係は、最近学者回りで支配的な最新のフランス輸入品である「武装勢力」対「市民社会」理論よりもはるかに複雑である。 コミュニティー活動をゲリラ活動と結びつけるという、軍や準軍組織、地方政府や中央政府が抱いている、変質狂的な対ゲリラ戦略という見解は、むろん、単にシニカルで自分たちに都合の良いというだけの代物で、真面目な分析には値しない。

国家および準軍組織と対話する可能性について聞かれたとき、オラヤ・エレラのコミュニティー・リーダーたちは笑った。 国と準軍組織は言葉ではなく銃弾を使うとリーダーたちは言う。 国と準軍組織は特に裕福なアンティオキア人の利害を代表しており、オラヤ・エレラの住民を撲滅しようとしている。 準軍組織は、「ゲリラ地帯を一掃する」計画を宣言した。 これは、米軍マニュアルが1960年代と1970年代に大枠を描き出し、1980年代に実践で遂行した、対ゲリラ国家安全保障ドクトリンに従うものである。

コロンビア軍第4旅団の兵士たちは、ゲリラとギャングの戦士と一般市民を区別しない。 とはいえ、皮肉なことに、オラヤ・エレラのコミュニティー・リーダーたちによると、準軍組織と軍の兵士とも区別つかないのであるが。 リーダーたちによると、ある時には、軍がオラヤ・エレラにやってきて住民に嫌がらせをし、店や家を略奪して、撤退する前には、AUCの腕章をつけ、AUCのグラフィティを壁に書き、準軍組織のキャンプに向かって撤退していったという。 準軍組織は、小さな軍基地から道を隔てたところにキャンプを設置していた。 軍の基地と準軍組織のキャンプは、軍が、冗長になったためと思われるが、基地を撤収するまで、しばらくの間、並んで存在していた。 あるリーダーは、「軍がこれらの一人でも逮捕したところを見たことがない」と述べた。

5月21日の虐殺が行われた「7月20日」地区は、丘の上に向けて急な斜面に広がっている。 準軍組織は上から、軍と警察は下から侵入しようとした。 地形は、旧エルサレムやアルジェのカスバーに似ている。 狭い曲がりくねった階段や小道が多数あり、外部のものには侵入できない。 この場所は、メデジンが位置するアブラ渓谷が終わるところであり、丘が山岳地帯へと続いていく場所である。 CAP(人民武装部隊)のある兵士は次のように説明した。「軍第4旅団に訓練されたちょっとした準軍組織のギャングたちが上から侵入しようとするのは相手にできるが、同時に下から何百もの訓練を受けた兵士を戦車やヘリとともに送り込んでくるとなると、・・・」


人民武装部隊(CAP)

地域的な分断化、様々な権威的小国家、武装対立における技術的洗練により、メデジンの状況は独特である。 ベレンシト、ラス・インデペンデンシアスI、II、III、エル・サラド、エル・セイス、「7月20日」を含む20の地区からなるコムーナ13は、最近まで、3つのゲリラ・グループのいずれかにより統制されていた。FARC、ELN、CAPである。 FARCとELNというコロンビアの2大左派ゲリラの関係は、よく言っても緊張を含むものであるが、コムーナ13では、CAPと、FARCとELNとは、連合を構成していたのである。 これは、FARCとCAPが対立関係にあるメデジン北東部の状況とは大きく異なっており、また、そう遠くない過去にCAPとELNが衝突したアンティオキア大学周辺地域とも大きく異なる。 このことは、コムーナ13におけるいくつかのゲリラ・グループの連合が、現実的な要因から結成されたものであり、都市レベルあるいは全国レベルでの戦略的協力の印ではない。

CAPは、ELNのMPPの反対派派閥からCAPが結成された1996年以来、「7月20日」地区にいた。 当初は高圧的に罰を与えたことを認めているが、CAPの創設者たちは、その運動が、MPPや、そしてある程度はELNも特徴づけることとなった、恣意的な権威主義を避けることを意図していた。 CAPの戦闘員たちは、初期の民兵達と異なり、CAPは「社会浄化」を行わないと主張する。 これは、CAPが、麻薬売人や女装するもの、麻薬中毒者、小泥棒たちを、政策として殺害しないことを意味している。 そのかわりに、CAPはこうした人々の自己変革を支援し、現実主義的に、麻薬消費と売買を、地域の外で行うように主張する。

けれども、CAPは、強姦者や密告者は殺害する。7月には、「革命的正義」と呼ぶ行為で、自分たちがコントロールしている中西部の地区(ラ・プラデラ)で、準軍組織のために情報収集をしていたとされる9名の若者を殺害した。 そのうち8名は少女だった。 CAPは、実行者を特定し裁くにあたってコミュニティーが参加しており、それゆえ、CAPはコミュニティーの意思に従って処刑したのだと主張する。 CAPのスポークスウーマンによると、当初人々はCAPに、家庭内や近隣との紛争を調停するよう求めていたが、そうした問題は自分たちで解決するようになったという。

「7月20日」地区のコミュニティーは自らの組織を有しており −たとえば、17の青年委員会がある− インフラや子供の世話、医療、教育、そして水道や電気、下水などの公共サービスに対処している。 すなわち、「7月20日」は、コミュニティー・リーダーたちや組織者たちがたくさんいる地域であり、その多くは女性である。 こうした女性たちは、国に、基本的な要求のいくつかをやらせようとしている間に、地元の自治経験を積まざるを得なかった人々である。 こうしたレベルでの自治組織が、ゲリラそのものよりも当局を恐れさせたと考えるのが妥当であろう。

コミュニティーにおける活発な自治活動が行われている状況で、CAPの戦闘員や準戦闘員、そしてその協力者たちは、地域を、国と準軍組織の部隊から防衛することに集中してきた。 CAPのスポークスウーマンは、コミュニティー・オーガナイザーたちは、ゲリラからは離れており、自律していることを強調した。 それゆえ、CAPは、FARCやELNと動揺、反乱前衛組織なのである。 CAPのスポークスウーマンは、すぐさま、CAPは武器ではなく政治を重視していると主張したが、その予算はメンバーを養い、具機や弾薬、通信、移動手段などに費やされ、コミュニティーの組織化やインフラには使われない。 スポークスウーマンは、CAPには、コロンビアの歴史やマルクス=レーニン主義、現代政治などに関する学習グループがあると強調している。 また、コロンビア・ゲリラにとっての悪夢(そしてしばしば現実となる)である、ゲリラから準軍組織への転身を避けるために、民兵のメンバー候補を注意深く選ぶが、戦闘員が貧しい学校教育しか受けていないことが問題であるという。 けれども、CAPが統制する「7月20日」で裏切り者は2人しか出なかった。 リクルートについて、CAPのスポークスウーマンは、ブルジョア地区の子供たちが医者になることを夢見るように、「7月20日」では子供たちはゲリラになるのを夢見るという。 私が話をした指導者3名のうち2名は女性であり、さらに、写真撮影のために、2人の重武装し覆面をした女性がインタビューの場に現れた。 武装都市左翼は、もはや全て男性の仕事であるという時代ではない。


オリオン作戦:ウリベの賭

コムーナ13の住民はいうまでもなく、CAPとELN、FARCという3つのゲリラ・グループにとっても、将来は荒涼としている。 10月13日と14日に、警察官1名と3名の市民(そのうち一人は19歳の少女ラウラ・セシリア・ベタンクール)がコムーナ13で死亡してから、ウリベ大統領は「オリオン作戦」を発令した。 この作戦行動の中で、軍と警察、空軍と特殊部隊、そして諜報サービスのメンバーによる共同攻撃により、CAPの指導者とされる「マソ」が殺害された。 この作戦の第一段階では、合計1000名の兵士が投入された。 戦車とブラックホーク・ヘリコプターを利用し、銃をかかげて10月15日午前4時に侵入してきたコロンビア軍は、コムーナ13の中枢地域であるベレンシト、ラス・インデペンデンシアス、「7月20日」、ベレン・コラソンに、2時間もたたずに到達した。 そこで、部隊は一軒一軒家宅捜索を行った。 41時間続いた作戦の第一段階が10月17日午後に終わったときには、別の2000名の兵士たちが一帯を封鎖しており、1名の軍士官、2名の兵士、1名の警官、1名の市民、そして10名のゲリラ戦士が死亡した。 40人以上の市民が怪我をし、少なくとも176名のゲリラ兵士と疑われた人々が拘留された。 けれども、これまでのシナリオを考えると、公式発表数値には疑問を付さなくてはならない。 本当のところ何人が死んだのか、そのうちどれだけがゲリラ戦士で、どれだけが若い一般市民だったのかはわからない。

10月15日、アムネスティ・インターナショナルが、軍と準軍組織の間の「制度化された同盟」を報ずる多数の報告に付け加えられた最新の報告を発表したその日に、米国訪問から帰国したばかりのルイス・ペレス市長は、「左翼と右翼の武装集団」という公式理論を繰り返した。 「ゲリラと準軍組織は、戦争を山岳部からメデジン市に持ち込もうとしている。 これらの集団は、自分たちにとって都市が重要であることを示したがっており、都市部を開放できるかどうか部隊を、国軍をすら、測っているのだ。」 準軍組織がメデジンの7割を支配しているにもかかわらず、軍による弾圧を加えて準軍組織を一掃しようとすることはまったくなされず、また、「オリオン作戦」で殺害された準軍組織兵士は一人もいない。 コムーナ13が再び攻撃されたのは、まさに、準軍組織が、5月21日の虐殺以来も、自力ではコムーナ13を統制できなかったからである。

それゆえ、「オリオン作戦」はまったく終わっていない。 コムーナ13の80パーセントは、現在、1500人からなる軍兵士の直接的な支配下に置かれており、兵士たちは家宅捜索を続け、目出し帽と迷彩服を着た通報者を従えて、容疑者を狩りだしている。 これに対抗して、FARCは、軍と準軍組織が、サンタ・フェ・デ・アンティオキアとウラバへと続く戦略路を軍と準軍組織とが支配下に収めることを阻止するために、コムーナ13に南部のFARC拠点カグンから250名の戦士を送り込んだ。 一方、コロンビア国防相マルタ・ルサ・ラムレスは、オリオン作戦は「永続する」ものと述べ、コムーナ13を占領している部隊のかなりが、無期限にそこに止まるだろうと示唆している。

オリオン作戦開始のあと、エル・コロンビアノ紙は、5月22日社説の方針を繰り返し、軍事的弾圧には社会投資が伴わなくてはならないと述べている。 コムーナ7とコムーナ13を地図から消し去ることになる「西へのトンネル」が、エル・コロンビアノの創設者であるフェルナンド・ゴメス・マルティネスの名前を付けられる予定であるのは、偶然ではない。 「一軒一軒の家宅捜索が続くであろう。そして、一帯の統制を国家が取り戻したあかつきには、社会的労働と雇用創生がなされるだろう。」 ウリベは、典型的オーウェル風に、次のように述べた。 「当局は、コムーナの住民に、平和に暮らす権利を返還しようという全面的決定を下した。」

悲しいことに、オリオン作戦は、予告された殺人のまた一つの事件なのである。 メデジン市政府書記官ホルヘ・レン・サンチェスは、市議会とコムーナ13の外出禁止令の利点について議論する中で、10月12日に、さらなる軍事作戦が進められつつあると述べていた。 「コムーナ13において外出禁止令と軍部隊の駐屯を解除することはない」とサンチェスは述べた。 「というのも、メデジン市政当局は、武器の合法的な独占を回復する決意だからだ」と。 予想通り、10月18日金曜日に、ルイス・ペレス市長は、コムーナ13における外出禁止令と酒類販売消費禁止令、武器使用禁止を週末にも継続すると発表した。

コムーナ13における外出禁止令が発布される可能性を予期して、大衆訓練機構(Popular Training Institute: IPC)が中心となり、NGOや人権団体から何百名もの人々が、オリオン作戦が実行される1週間前に、路上で抗議行動に出た。 コロンビアのNGO、CORPADES(平和と社会開発協会)の代表フェルナンド・クイハノによると、「外出禁止令は、メデジン市を「社会復帰地域」および軍事作戦地域とするための第一ステップであり、そうすると戦闘が悪化するだけである」。 現在、ウリベ大統領が発した「国内(社会)動揺事態」宣言により、コロンビア地方部に、既に2つの社会復帰地域が設置されている。 メデジン市が、地方部と同じ運命をたどることになる多くの都市の皮切りとなり、コロンビアが、追放された人々が逃げ出す場所も隠れる場所もないような国になったとしても、驚くべきではない。


情報源:エル・コロンビアノ、デスデ・アバホ、エル・エスペクタドル、エル・ティエンポ、ラ・オハ、クロモス、および著者による諸インタビュー。

フォレスト・ヒルトンは、南アメリカを拠点とするフリーランス・ジャーナリスト。 Against the CurrentLeft TurnAsi es Bolivia、コロンビアの雑誌Desde Abajo等に寄稿している。


益岡賢 2002年11月5日

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