ビアク、1998年
東チモール1999年のリハーサル

ケル・ダメット
2003年11月
ユリイカ・ストリート


7月6日は、オーストラリアの対インドネシア関係における最も恥ずべき出来事の一つを記念する日である。1998年7月、ビアク---オーストラリアの北にある小島---で、インドネシア軍が100人以上の人々を虐殺した。犠牲者のほとんどは女性だった。さらに、オーストラリアにとって恥ずべきことに、虐殺が起きたことを確認する諜報部の調査があったにもかかわらず、オーストラリア政府はこの虐殺を批判せず、さらには、今日まで、報告の公開を拒否している。

私は昨年ビアクを訪れた。ビアク島は、一見したところ熱帯パラダイスのように見えるが、そこでの経験は心穏やかでないものだった。5年半前の7月6日に起きた恐ろしい出来事の傷は今も癒えていない。そして、40年におよぶ、インドネシア警察と軍による、日常的な、そしてときに致死的な、脅迫の傷も、癒えていない。ビアクでは、恐らく私が訪れた西パプアのどの場所と比べても、インドネシアの脅迫と暴力への恐れがすぐに感じられた。ビアクを妻とともに旅する中で、私たちが旅した他の場所と何か得体の知れない違いがあることを感じた。10代の少女や若い女性たちは、我々と目を合わせようともせず、微笑みもしなかった。恐怖と恥が顔から読みとれた。

オーストラリアから200キロと離れていない西パプアは、1963年、ニューヨーク合意後、インドネシアに引き渡された。これにより、元オランダ植民地だった西パプアをめぐるオランダとインドネシアの長きにわたった論争が終わりを告げた。1969年、インドネシアが選び出したたった1025人のパプア人の投票という大きく物議をかもした投票で、西パプアはインドネシアの一部としてとどまることが確認された。最近では、この投票は、西パプアのインドネシアへの引き渡しを監視した国連事務総長補佐による「ごまかし策」であると言われている。

虐殺の犠牲者を支援するためにパプア女性連帯グループが結成された。ビアクの街で開かれたこのグループの会議で、私は、ビアクの女性たちは、全員が、毎日、肉体的あるいは性的な暴力を受けるまったく現実の危険の中で生きており、しかも、そうした生活が40年間続いてきたことを教えられた。女性たちは、遠くの村々でインドネシア軍が組織する毎月のダンスについて語った。そのダンスには、既婚者も含めて、全ての女性が参加を強要された。こうしたダンスの際、あるいはその後、しばしば自宅で、こうした女性たちは兵士に強姦される---家族や夫たちは、何をすることもできない。

この会議の翌日、インドネシアの準軍事警察であるBrimob(警察機動隊)の隊員が休日に運転している込み合った乗り合いタクシーで、私は、ビアクで日常的なこうした嫌がらせの小さな例を目にした。地方の市場で取り立てのサカナのカゴを持った若い村の女性がタクシーから降りたとき、ドライバーは手を伸ばして、そのカゴから2匹のサカナを取り上げたのである。

1998年におきた虐殺は恐ろしいまでのものだった。パプア女性連帯グループのミーティングのために、20人以上の女性と数人の男性---残虐行為の犠牲者や目撃者だった---が、コーディネータの家に詰めかけた。これらの人々は、朝の5時に軍が、数日前に掲げられたモーニング・スター旗[独立パプアの旗]を守るために港で寝ている若い人々に向けて発砲し始めたと私に語った。ビアクの街の全員が銃を突きつけられて狩り出され、港に連れて行かれ、丸一日、身体的・性的な虐待を受け続けた。小さな子供たちも含まれていた。100人以上---ほとんどが若い女性で乳児や子供を連れている者もいた---が狩り出されて二隻の船に乗せられ、そこで裸にされて殺され、体を切り刻まれて海に投げ捨てられた。

虐殺後3日間、数百人が、警察署と軍基地に拘留された。インドネシア軍が病院に怪我人の処置をさせなかったため、怪我人の多くは、治療もなしに家に戻らなくてはならなかった。いまだに行方不明なままの人も多数いる。

ビアク島のコミュニティは1998年7月、西パプア全体に広まっていた独立デモに参加していた。スハルト大統領追放の後で、当時、開放感と希望が広がっていた。新大統領ハビビは、東チモールをめぐる対話を促していた。ビアクの女性たちは旗やバナーを作り、港にモーニング・スター旗が掲げられた。

7月2日、インドネシア警察と軍は、この旗を撤去し、祝福を止めようとしたが、圧倒的多数のデモ参加者により、あきらめた。それから、アンボンから100人以上の軍増強部隊がビアクにやってきて、7月6日朝5時に、デモ参加者とビアク街の人々に軍事攻撃を開始したのである。

身体障害を抱えたある証人は、船に無理矢理乗せられたが、同情した船員に海へ投げ入れられたという。船に乗せられた人々に正確に何が起きたのかは、誰も知らない。誰一人、生き残らなかったのだから。教会の報告によると、それからの数週間、遺体が海岸に浮かんでいたという。その中には手足を切り取られた者や、胸を切り取られた女性、ペニスを切り取られた男性などがいた。別の島に流れ着いた二人の女性の遺体は、足を縛り付けられ、性器に新聞紙が詰め込まれていた。ビアクの教会は、海岸に流れ着いたり魚取り網にかかった、小さな子供の遺体を含む、合計で70人の遺体を確認したと記録している。

虐殺に関する表面的な報告はあった。けれども、オーストラリアのメディアで報告がいくつか現れだしたのは、虐殺の際現地にいた二人のオーストラリア援助ワーカー、レベッカ・ケーシーとポール・メイクスナーがオーストラリアに戻ってその話を伝え始めてからのことである。シドニー・モーニング・ヘラルド紙は1998年11月にこの話を掲載した。二人の援助ワーカーは、殺害や虐待を目撃したわけではなかった---ビアクの友人達は、二人に、三日間家に隠れているよう言ったのである。1975年の東チモール侵略を目撃した5人のオーストラリア人の運命が頭にあったに違いない[1975年、バリボでインドネシア軍に5人のオーストラリアTVクルーが殺された]。

駐ジャカルタのオーストラリア大使館付諜報オフィサであるダン・ウィードン少佐がまとめた公式の諜報報告を認めたにもかかわらず、オーストラリア政府はインドネシアの虐殺を公に非難することを拒んだ。また、オーストラリア西パプア協会が「情報公開」申請をするなどといった努力をしたにもかかわらず、ウィードン報告は公開されていない。

2001年11月にサン紙−ヘラルド紙に掲載された記事の中で、オーストラリア国防軍の諜報士官であるアンドリュー・プランケット大尉は、ビアク虐殺は、「TNI[インドネシア軍]にとって、東チモール作戦のリハーサルであった」と語っている。そしてこの記事が「現役士官による、すばらしい異例の外交政策への攻撃」と述べた中で、プランケット大尉は、さらに、オーストラリア政府が、ビアクにおけるインドネシアの行為に「公式の抗議を行うかわりに目をつぶったことで」、その後のインドネシア軍による東チモールでの虐殺に「青信号を与えた」と批判した。

インドネシア軍・治安部隊による永年の侵害にもかかわらず、パプアの人々が、1988年に約束した、「愛と平和」に基づく闘いを続けていることは、パプアの人々の強さと誠実さとを現している。

ビアクの女性たちとのミーティングの後、人々は私に、海外に行って、外の世界に、虐殺の話を伝えたいと語った。40年間、人々の苦しみを、無視してきた、外の世界に。そして私がビアクをあとにしたとき、女性たちは、連帯と決意の表明として、「ムルデカ!ムルデカ!ムルデカ!」---「自由!自由!自由!」と歌っていた。

ケル・ダメットはメルボルンの学者で著述家。
kel.dummett@rmit.edu.au


私もお手伝いをしているティモール・ロロサエ情報ページに掲載してもらった記事の転載です。しばしばまったく歴史関係を無視した大新聞や「評論家」、「学者」たちが、「東ティモールの独立は西洋のインドネシアいじめ」といったトーンでものを書いていることがあります。さらには、自称進歩派の物書きが、NGOは西洋メディアに踊らされて1999年の東ティモール独立を支援したとか。長くなりますが、いくつか、事実関係を整理しておきます。
  • 1965年のスハルトによるクーデター(100万人もの犠牲者を生みだした)を米英をはじめ日本も含む各国が支持したこと。それ以来、豊富なインドネシア資源の掠奪が大規模に始められたこと。その後の32年間にわたるスハルト独裁時代、米英豪日はインドネシアを外交的・経済的・軍事的に支援し続けたこと(日本政府はインドネシアの最大のスポンサー、米国は最大の武器・軍事援助提供国)。
  • 1975年のインドネシアによる東ティモール侵略とその後の不法占領は、米国フォード大統領とキッシンジャー国務長官(ともに当時)のゴー・サインを出していたこと。インドネシア軍は、その翌日に東ティモール全面侵略を開始した。
  • 国連・国際法ではインドネシアによる東ティモール侵略とその後の不法占領が認められたことは一度もなく、日本政府も公式の立場では東ティモールはインドネシアの一部であるかどうかについては判断を下す立場にないとしているが、実質的には日本政府もメディアも米英豪等の政府も、インドネシアによる東ティモール不法占領を認め、あらゆる国際法の原則と常識的なバランスに反して、東ティモールを「インドネシアの一部」と扱ってきたこと。ちなみに、これは、現在の米英によるイラク侵略と不法占領を「イラク侵攻」「復興」などと語ることに似ています。
  • 不法占領下でのインドネシア軍に対する東ティモール解放勢力の抵抗運動を、朝日新聞などをはじめとするメディアは平然と「テロ」と呼んだこと。イラク人による占領軍への抵抗運動や被占領地でのイスラエル軍に対するパレスチナ人の抵抗をもテロと呼ぶ現在の日本の多くのメディアの姿勢は、そのまま東ティモール報道にもあてはまっていました。
  • 1999年当時、米英豪各国は「東ティモールの自決権行使を支持し、インドネシアに対立し」などまったくしなかったこと。国連合意の枠組みで不法侵略者であり東ティモール人に拷問・強姦・強制失踪を加え、人口の3分の1にのぼる20万人もの人々を殺害してきたインドネシア治安当局に、住民投票の「治安維持」役割を与えたこと。侵略者・不法占領者である米軍があたかもイラクの「治安維持」にあたっているかのように見なす日本政府やメディアの立場に似通っています。
  • オーストラリアとインドネシアは共謀して、本来は東ティモールの経済水域に属すべき海底油田・ガス田を掠奪してきたこと。このとき、「共同開発地域」のオーストラリアとインドネシアの「配分」は50%ずつだったこと。東ティモール独立後は、オーストラリアと東ティモールの配分は10%対90%となったこと。むろん、本来100%東ティモールのものであるべき資源の10%をオーストラリアが掠奪しているという点ではオーストラリアの強欲は否定すべくもないけれど、歴史を見ない一部報道が報ずるのとはまったく逆に、オーストラリアはインドネシアとの共謀からの方が多くの利益を得ており、「東ティモールをインドネシアから独立させてインドネシアの利益を奪った西洋の陰謀」などという主張はまったく成り立たないこと。

とてもおぞましい話ですが、1999年、インドネシア軍が手先の民兵とともに東ティモールで破壊と殺害を進めていたあいだ、「重ねて治安をインドネシアにお願いする」と、実質上破壊と殺害を公認するような発言をしていた日本政府は、東ティモールの独立(インドネシアからのではありません:東ティモールはインドネシアの一部であったことなどないのですから)後は、国連を利用して、ムダで理もない東ティモールへの自衛隊派遣を推し進めました。

こうした状況の延長上に、日本政府による今回の米英のイラク侵略に荷担した自衛隊派遣があり、また、メディアでよく目につく抵抗運動への「テロ」呼ばわりがあるわけです。

例えば、テレビ朝日1月16日夕方のニュースでは、バグダッドからの特派員が「各国がテロを恐れて復興支援に二の足を踏む中で」自衛隊派遣が歓迎されている云々と、まったく論旨として無茶苦茶、かつ言葉遣いを反転させた発言をしていました。12年におよぶ破壊の後、さらに国際法に違反して侵略しイラクを破壊して不法占領し、石油利権を掠奪しようとしている軍の行動を「復興支援」と述べる倒錯。また、そもそも歓迎されている存在ならば、テロの標的となる恐れなどないのでは?「各国」はまともな立場から侵略支援を恫喝する米国に何とか抵抗しており、日本政府は単に尻尾をふって米国に追従しているだけなのでは?

日本政府は既に、侵略戦争への経済的支援だけでなく軍事的参加に踏み出しました。つまり、日本は、あからさまな国際犯罪行為を進行中ということです。歴史を振り返れば、侵略戦争や武力侵攻が、侵略戦争、攻撃という名目でなされたことなどほとんどまったくありませんでした。「人道的介入」について調査した英国の国際法学者イアン・ブラウンリーは、人道的介入の名目でなされた介入の中で本当に人道的介入であったものなど実質的に存在しないと結論しています。

侵略・破壊・占領・掠奪・殺害・不法拘留といった犯罪行為を進めるだけでなく、それを「復興支援」「民主化」「人道的」といった用語で塗り固めるおぞましさ。

東京の日比谷公園では、1月25日「自衛隊のイラク派兵中止を求める」ラリーとパレードがあります。また、「自由法曹団」という弁護士の団体が、2月5日夜に「防衛庁を平和の灯火で包囲を」と企画しているようです。

益岡賢 2004年1月17日

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