「家畜として死んでいくものたちへの弔鐘は何か」と第一次世界大戦時の偉大な詩人ウィルフレド・オーウェンは書いた。
彼のこの著名な句は、今日、秘密戦争とテロリストの暴力で命を落とす人々のものだったかも知れない。
彼の世代は「テロリズム」という言葉を用いなかったが、人々が被った虐殺は非常な規模のテロリズムであった。 そしてそれを実行したものは、陰に隠れた狂信者たちではなく、政府であり、人々は、王や国家のために声を挙げる一方、何百万人もの人間を粉々にしていたのである。
10月12日にバリ島で起きた残虐行為は、2001年9月11日の米国攻撃同様、孤立した出来事ではない。 他のすべてと同様、これらは、過去の産物であった。 ジョージ・W・ブッシュやトニー・ブレア、そして現オーストラリア首相のジョン・ハワードによれば、我々にはそれを理解する権利はない。 我々がしなくてはならないのは、犯罪者を、生きていようと死んでいようと、捕らえることだけだ。
ブッシュの保安官部隊が2001年9月11日以来はっきり重要な地位にあると証されたテロリストを一人も捕まえていないことは、ブッシュとブレアが、バリの何倍も大きな残虐行為となるだろうイラクへのテロリスト攻撃を準備している現在、ブッシュの半ばしか理解しがたい脅迫やブレアーの使命を負った偽りの薄気味悪いパロディとなっている。 「テロリスト攻撃」という言葉は修辞的に使っているのではない。 検事総長ゴールドスミス卿は、攻撃を進めるならば、国際刑事裁判所に出頭しなくてはならなくなるだろうと政府に語っている。
国家テロリズムという言葉はタブーとなっている。政治家は決してこの言葉を口にしない。 新聞もほとんどこれについて述べない。学界の「専門家」もこれを黙殺する。 けれども、それにもかかわらず、多くの場合において、この言葉は、バリや2001年9月11日の事件のような、国家によるものでない残虐行為の原因を理解する助けとなる。 国家テロリズムは、圧倒的に恐ろしいテロリズムの形態である。というのも、国家テロリズムは200人どころか何十万人もを殺害することができるからだ。 イラクに落とされるクラスター爆弾一つ一つの下に、数え切れないほどのサリー・クラブ(バリ島で爆破されたクラブ)がある。 広島に落とされた原子爆弾は、ニューヨーク、ツインタワーの虐殺の100倍もの規模なのである。
米国や英国、そしてオーストラリアの支援を受けた国家テロリストたちは、過去40年にわたり、インドネシアを傷だらけにした。 たとえば、インドネシア最悪の暴力の大元はインドネシア軍であり、この軍は、西洋諸国の支援と武器提供を受けてきた。 今日、インドネシア軍は、米国エクソン石油の油田とフリーポートの鉱山とを「守る」ために、アチェと西パプアで人々にテロを加え恐怖におとしいれ続けている。
西パプアで、インドネシア軍は、おおっぴらに、イスラム集団ラスカル・ジハードを支援している。 このグループはアル・カイーダと結びついている。
オーストラリア政府は、まさにこのインドネシア軍を、何十年にもわたり訓練し、そのテロリズムがあまりにひどくなったときにもおおやけに援護してきた。
1999年に、インドネシアの独裁者スハルト将軍により侵略され不法併合された、オーストラリアのすぐ北の隣人東チモールの人々が、ついに、独立と自由への投票機会を手にしたとき、東チモールの人々を裏切ったのは、ジョン・ハワードの政府であった。 オーストラリアの諜報機関が、インドネシア軍が人々にテロを加えるために民兵を創設していると警告していたにもかかわらず、ハワードとその外相アレクサンダー・ダウナーは、何もしらなかったと主張した。 そして、虐殺が実行されたのである。 その後になってリークされた文書が示しているように、彼らは、知っていたのだ。
これは、インドネシアの国家テロリストたちとオーストラリアが結んだ共謀関係の最新のものに過ぎない。 このオーストラリアが、バリでその「無垢を失った」と先週宣言したこの自己欺瞞の猿芝居。 確かに、自分たちが休暇に滞在するバリのホテルからそう遠くないところに、1965年から1966年に、オーストラリア政府の承認のもとで殺害されたバリ島の8万人の人々の亡骸が眠っていることを知るオーストラリア人は少ないだろう。
最近公開された文書は、インドネシアの暴君スハルト将軍が1960年代に権力を手にしたとき、彼が、米国と英国、そしてオーストラリア政府の秘密支援を受けていたことを明らかにしている。 これらの政府は、見て見ぬふりをするか、あるいは、50万人以上の「共産主義者」虐殺を積極的に奨励した。 CIAは、のちにこれを、「20世紀最悪の大量虐殺の一つ」と述べている。
当時のオーストラリア首相ハロルド・ホルトは次のような名言を吐いた。 「50万から100万の共産主義シンパが打倒されたので、再教育が施されたと考えてもよかろう」。 ホルトの発言は、オーストラリア外務省と政府体制の共謀を正確に反映している。 ジャカルタのオーストラリア大使館は、この虐殺を「浄化プロセス」と述べた。 キャンベラでは、総務庁の官僚が、「インドネシア軍による国内状況への対処を助けるあらゆる手段」を支持すると表明している。
米国が、秘密にスハルトの軍隊を武装しなかったならば、血塗られたスハルトは登場することがなかったであろう。 米国空軍機の夜間飛行で使われた当時先端の通信システムは、CIAとジョンソン大統領を補佐する国家安全保障局に直接つながる高周波を備えていた。 これによってスハルト配下の将軍たちが殺害をうまく調整できることになっただけではない。 このことは、米国政府の最高位のものたちが状況を直接聞いていたこと、そして、スハルトがインドネシアのおおくを閉鎖することができたことを意味する。 米国大使館では、上級官僚が、スハルトのために暗殺リストを記していた。 そして、一人殺害されるごとに、名前を消していったのである。
この流血の惨事は、インドネシアが、世銀言うところの「グローバル経済における模範生」となるための代価であった。 つまり、インドネシアの豊富な資源を西洋企業が搾取する青信号が出たということである。 フリーポート社は西パプア地方の銅と金を産出する山を得た。 米欧のコンソーシアムがニッケルを入手した。 巨大なアルコア社がインドネシアのボーキサイト最大の所有者となった。 いくつかの会社は、スマトラとカリマンタンの熱帯雨林を入手した。 そして、スハルトとその取り巻きたちは、自分たちの取り分により、億万長者となったのである。
1975年、スハルトを権力の座につけることとなった暴力は、ポルトガル植民地だった東チモールにも持ち出された。 スハルトの軍隊が東チモールを侵略し、その後23年の間に、人口の3分の1に相当する20万人が殺された。 東チモールを残酷に占領していたほとんどの時期、スハルトに対する武器と軍事機材の最大の提供者は英国だった。 ある年には、10億ポンド相当の輸出債務補償貸付がインドネシアに提供された。 これにより、スハルトは、ブリティッシュ・アエロスペース社のホーク戦闘機を購入することができたのである。
今日、スハルトは部隊を去った。けれども、何十年にもわたる海外からの略奪と、最悪の大量虐殺の一つとがあいまって、インドネシア社会には断層が作られている。 グローバル経済における「模範生」は他のどの国よりも大きな負債を背負っており、何百万人ものインドネシア人が、赤貧状態に陥った。 憤りと緊張があっても、そして、過激な宗教集団への支持が生じても、不思議ではない。
バリ島爆弾事件に責任があるのは誰だろう。 それはわからないが、インドネシアの将軍たちは、選挙で選ばれたメガワティ大統領の政府を不安定化させたい理由を山ほどもっている。 将軍たちの多くは、戦争犯罪を犯したとされているが、バルカン半島とはことなり、容疑者を裁判にかけるための圧力は西洋諸国からわずかしかない。 民主主義は、軍の重要な特権をいくつか剥奪した。 その一つは、議会で確保されていた軍の議席を阻止したことである。 先月、インドネシア軍は、西パプアで待ち伏せ攻撃を仕掛け、それを地元ゲリラによるものとしながら、2名のアメリカ人を殺害した。 これは、軍が今や外国人を標的にしているというメッセージである。
米国とオーストラリア、そして英国が、ジャカルタの世俗政権に対し、インドネシアという大多数がイスラム教徒の国で、イスラム集団を「厳重に取り締まる」ようにとかけている圧力は、おそらく、コミュニティーを分断するであろう。 これを、耳慣れた権力者たちのゲームと感じるものもいよう。 1960年代、インドネシアが「共産主義」化すると考えたとき、西洋は、イスラム集団を支援した。 これらの集団は消耗品である。 ブッシュとブレア、ハワードが、今度、空涙をながし、言葉を「対テロ戦争」という紋切り型の賛歌に貶めるとき、長い記憶をもつインドネシアの人々が、何も変わってはいないのだと考えたとしても許されるであろう。