「報道の自由」という言葉は素敵なものに聞こえる。けれども、 ジョージ・W・ブッシュとエンロンの世界で、自由はさほど自由なものではないようだ。
2002年7月4日のデイリー・ミラー紙一面は、私が知る限りで最も力強い、 最上のタブロイドとも言うべきものだった。 顎をあげ、曇った目で星条旗の横に立つジョージ・W・ブッシュ。 見出しには「7月4日の嘆き」とある。 彼の上には、次のような言葉が書かれている。 「ジョージ・W・ブッシュの、爆撃してから見つけだせという政策は、 9月11日に死亡した市民の2倍の市民をこれまでに殺害してきた。 米国は今や世界一の無法国家である。」
その翌日、米国の投資会社トゥウィーディ・ブラウンの予算担当専務トム・シュレージャーが、 トリニティ・ミラーの代表取締役に電話をし、一面と、私が書いたそれに関連する記事について文句を言った。 彼は、彼の会社が保有するトリニティ・ミラー紙の4%の株を売却する「脅迫はしなかった」し、 また、「はじめに報道の自由という概念を尊重すると述べた」という。
米国は世界一自由な報道を擁する場所である。憲法により、 この国で許されている言論の自由の制限以上の自由がジャーナリストに認められている。 けれども、この自由は休眠中である。 現代ジャーナリズムの凱旋門とも言うべきウォーターゲート事件すら、実際は、 見かけとはずいぶん異なる。 ウォーターゲート・スキャンダル初期に米国政府を「カバー」していた約1500人の記者のうち、 リチャード・ニクソン失脚につながったウォーターゲート侵入について関心を維持し続けたのは、 カール・ターンスタインとボブ・ウッドワードという、 最も経験の少ないレポータ2人だけであった。
米国の偉大な独立レポーターであるシーモア・ハーシュは、 恐れを知らぬ反対派報道陣という神話とは逆に、 「報道は我々をウォーターゲートに誘い込むために多くのことをした」と考えている。 彼は、ニクソン/キッシンジャー時代の最も重大な犯罪のいくつか −1969年のカンボジア秘密爆撃、国内での包括的スパイ活動、 チリのサルバドール・アジェンデ政権の破壊など−は、 ジャーナリストたちはそれらについて知っていたにもかかわらず、 1972年にニクソンが大統領の二期目として選出されるまでは暴かれなかったと主張する。
これは、ロナルド・レーガン時代の「イラン=コントラ」スキャンダルにもあてはまる。 多くの米国ジャーナリストがこの秘密取引を知っていたにもかかわらず、 レーガンが行った中米、特にニカラグア政府に対するテロリズムは、無視されたのである。 私は、当時、フォーチュン誌の編集者であるウォルター・ガザルディが、インタビューで、 政府から断固として独立した「第四の権力」としての米国ジャーナリズムという概念を嘲笑っていたことを思い出す。 リベラル派の要塞であるどころか、報道の4分の3以上はつねに共和党支持だったと彼は述べた。 「アメリカでのニュースの流れは本質的に慈悲深い」と彼は書いた。 「報道は−しばしば気づかれないままに−大規模な政府・体制・自由企業正当化の力となった。」
こんにち米国では、英国と同様に、費用と時間がかかり、しばしば政治的に不快な、 きちんとした調査報道は希である。 今日、ウッドワードとバーンシュタインが大統領追跡を奨励されることはありそうにない。 大統領は守られている。 クリントンは、猥褻な理由でメディアの追求を受けたが、それ以降、 「誤解されていた」とされた。
選挙で選ばれずに大統領となったジョージ・W・ブッシュも同じような庇護を受けている。 2001年9月11日以来、最も自由なメディアが、その手を心臓の上に置き、 ニュース番組を吐き気のする「アメリカに神の祝福を」という言葉で締めくくる。 攻撃の根にあるものを説明した少数の人々は、「アンチ・アメリカ」と罵倒される。 トム・シュレージャーがデイリー・ミラーのボスに電話して、 ワシントンを牛耳る金権政治家たちの犯罪行為と偽善を報道した新聞に不平を言ったときに、 彼が想定していた「報道の自由」がこれであったことは疑いない。 ジョージ・W・ブッシュとエンロンの世界で、自由はさほど自由なものではないようだ。
私は先日米国にいた。シュレージャーやらの予算担当者たちには賛同できないような仕事をしている、 あるジャーナリストに敬意を表するためだ。 彼女の名はアミー・グッドマン。この国でもっと名を知られてよい人物だ。 ニュー・メキシコ州サンタフェで、しばしば文化的・政治的自由について希な言葉を認めるラナン基金が、アミーを表彰したのである。
パシフィカ・ラジオで彼女が担当しているデモクラシー・ナウという番組は、 従順な主流メディアに対する明確な対抗策である。 2000年の選挙日に彼女がクリントンに行ったインタビューは、 私が呼んだり聞いたりした中で、唯一適切な彼への質問であった。 単に、ホワイトハウスの記者団が決してしないような質問をしたのである。
例えば:「クリントン大統領、二大政党が企業に買収され、 投票をしても何も変わらないという人々に対して、どう答えますか?」、また、 [何故]、最初に大統領選に出馬したとき、キャンペーン最中にアーカンサスに戻り、 精神的に障害のある人の処刑監視を務めたのですか?」、あるいは、 「国連の統計では、イラクに対する経済封鎖で、 一ヶ月に5000人もの子供たちが死んでいるといいます」などである。
クリントンの、無防備で威張った返答は、彼が培った調子のよい見かけを破った。 彼はアミーを「敵意のある戦闘的で敬意を表さない」と非難した。 彼女は全くそのようなものではない。 アミーとアラン・ネアン( 東チモール の惨事に対するヘンリー・キッシンジャーの共犯関係を暴いたもう一人の例外的米国人ジャーナリスト)は、 1991年[11月12日]、東チモールディリのサンタクルス墓地で、 若い人々がインドネシア軍に虐殺されているときに東チモールにいた。 彼女の報道は驚くほど勇敢なものであった。死亡した人々と死にかけた人々に囲まれながら、 彼女はアラン・ネアンを腕に抱えていた。 ネアンの頭はインドネシア軍兵士の一人により砕かれていたのである。
2001年9月11日、ニューヨークのツインタワーから数ブロックしか離れていないところにある 消防署の一階から報道をしていた。そのとき、同僚たちが人々に避難所を提供していた中で、 彼女は、世界中のテロリズムに対する議論を行い、 「ジャーナリズムの仕事である視点と説明を求めていた」。 彼女は、9月11日というのは、チリの歴史においても重大な日であったと指摘した。 「9月11日は」と彼女は言った。「米国の全面的な支援を受けた、ピノチェトの蜂起により、 サルバドール・アジェンデ大統領が死亡した日だ。 米国のニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは、チリで殺された何千の人々に対して責任を負っている。」 彼女の正確さははっきりしている。 ブッシュについて報道するとき、彼女はつねに、 「選挙でではなく選ばれた大統領(president-select)」(president-electと対比して)と言う。 彼女はシュレージャーのテストにパスしないであろう。