2003年4月8日、世界中の新聞が、米軍の「軍属」であるロイターの特派員が配信した、10歳のイラク人少年殺害の記事を伝えた。米軍の兵卒が「マシンガンを発砲し、その少年は・・・死んでゴミの山の中に倒れた」。この報道のトーンは、米軍兵士に対して非常に同情的なものだった。「優しい声をした21歳」の兵士は、「発砲したことを全く後悔していないが、殺したのが子供でなければよかったと考えていることは明らかだった」。
ロイター通信によると、子供たちは、「兵士としてあるいはより多くの場合には斥候と武器集め役として」使われていた「ようである」と言う。「米軍士官と兵士は、それゆえ、子供たちは合法的な標的であると言っている」。そして、子供を殺した兵士は、全く無批判に、自分が殺した子供のような犠牲者たちを、「臆病者」と語る。そもそも、アメリカ人たちが、これらの子供たちの生まれ育った土地を侵略しているのだという点については示唆すらない。次いで、ロイター記事は、小隊の司令官に、殺人者の擁護をさせる:「彼はそれにより悩むだろうか?もちろんである。この出来事は私も悩ませる。私自身は引き金を引きすらしなかったのに。奴らが自分の子供たちをこんな状況に置くということは、私の心にとって衝撃である」。この段階で読者はわずかに居心地が悪くなると思ったのであろうか、ロイター特派員は、自分の言葉を使って読者を安心させようとしている:「以前、多くの若い兵士と同様に、彼[子供を殺した兵士]は、戦争で最初の「殺し」をすることにナーバスだった。今、彼は以前より成熟したようである」。
先週日曜日[4月20日]私はオブザーバ紙で、「ロイターにとってイラクは2000万ポンドの価値がある」という記事を読んだ。ロイター社がイラク攻撃であげることができる利益の額である。ビジネス関係ページで、ロイターは、「モデル企業、傑出したブランドと評判は他の追随を許さない。ニュース組織として、正確さと客観性を高く買われている」企業とされている。オブザーバ紙の記事は、モデル企業ロイター社の昨年一年間の収入36億ポンドのうち、「世界のホットスポット」が挙げる収益は7%に過ぎないことを残念であるという。93%は、「世界中の金融組織の40万台以上のコンピュータ・ターミナル」から来るものであり、それは、真のジャーナリズムとは全く関係のない、貪欲で暴利をむさぼる「マーケット」のための「金融情報」をかき混ぜることに終始している、と。実際、それは真のジャーナリズムとは正反対のものである。というのも、真の人間性と何の関係もないからだ。このジャーナリズムは、傷ついたほとんど自衛力を持たない国家に対する、不法な、挑発に対する反応でもない一方的な攻撃に同意し保証するような体制である。そして、標的となった国の人口のうち42%は、ロイター記事が言うところの「以前より成熟したよう」な兵士が殺した子供と同じような、子供たちなのである。
何か非常な堕落が、私も仕事としているジャーナリズムを浸食しつつある。これは最近の現象ではない。第一次世界大戦時のジャーナリストたちも、その「カバレッジ」により、大虐殺に関する真実を隠蔽するために奉仕したとして、ナイトの称号を得たりしていたのである。
今日それと違っているのは、反復する情報の豪雨を作り出すテクノロジーである。米国では、これが、史上最も騒々しい洗脳であると言われるところの元となっている。
ほとんど戦争として成り立っていない戦争。あまりに一方的で軍事年報で恥とされるべき戦争。これが、F−1レースのように報道され、我々はそれを、地元チームがバグダッドのフィルドス広場にあるチェッカー・フラッグを求めて高速で走るレースのように眺める。その広場には、「我々」が造り出し維持してきた独裁者の銅像があり、それをこれ以上はあり得ないというようなイカサマもどきのセレモニーで引き倒す。そしてCIAの手先、アメリカの傀儡であるイラク人フィクサー、アフマド・チャラビが、「解放」の喜ばしいメディアの瞬間を指揮し、それを祝福する人々が「何百人も」−いや、「何十人」だったろうか−集まる。メディアの舞台を護衛するために、3台の米軍戦車が居座っている。ある海兵隊員は、BBCの中東特派員に対し、「ありがとう」と述べた。BBCの「カバレッジ」に感謝してのことである。メディア分析家のデビッド・ミラーが指摘するように、5カ国の戦争報道を比較したある研究で、BBCが戦争反対の声に最も時間を割いていないという結果が出ている。米国のチャンネルABCが7%であるのに対し、BBCでは反対派の視点に2%しか費やしていない。
名誉ある例外はほとんどなく、よく知られている。むろん、現場のジャーナリストの困難を疑う者はいない。埃と締め切りと危険とに囲まれ、見知らぬ軍体制に依存する関係にある。こうした制約のいずれが、上で紹介したロイターのイカサマ記事を生みだすのに影響したかは、測りがたい。私は、いずれも関係ないのではないかと疑っている。というのも、ロイター記事が示しているのは、プロパガンダのエッセンスだからである。「我々の」側を擁護しそれを弁明することは、自発的になされている。まるで、生まれた時から身につけていたかのように。「他の奴ら」は、単に「我々」と同じでないのである。
「優しい声をした21歳」が、路上で子供たちと母親を殺そうか、それとも車を停止させなかった老人を殺そうか決めようとしているときの、子供とともに震えている母親の恐怖を想像してみよう。子供たちが「斥候」なのは明らかである。老人については・・・誰が知っていよう、そして誰が気にするだろう?そして、イギリスが侵略されたときにイギリスの路上で同じことが起きていることを想像してみよう。馬鹿げているだろうか?こうした事態はイラクのような国にしか起こり得ない。勝手気ままに、そして合法性や道徳性の装いすらなしに、攻撃の対象となる、弱い国々にしか。大量破壊兵器を所有している国にはこうしたことは行われない。アメリカ人たちは、サダム・フセインが武装解除されたことを知っていたのである。
ジャーナリズムの腐敗は、埃や死から遠く離れた論説室で最も激しい。オブザーバ紙のアンドリュー・ラウンズレーは、「確かに、戦争であまりに多くの人々が死んだ」と書いている。「いつも、戦争ではあまりに多くの人々が死ぬ。戦争は汚らわしく残酷である。けれども、少なくとも今回の紛争は、幸いにも短期間で終わった。死者数は、多くの人々が恐れていたほど高くなかった。戦争で死んだのは数千人であるが、サダムの手により何百万人もが死んだ」。
この論理に注意しておこう。というのも、これは、毎日毎日、毎晩毎晩、たれ流されるニュースの核心だから。これがはっきりと示しているのは、ある国を侵略してその国の人々を何千人と殺すことは、その国の独裁者の手で「何百万人」もが死んだのであるから、OKだ、ということである。緩みきった言葉、人々の生活に対する怠惰な放念は、印象的である。サダム・フセインは非常に多くの人々を殺害した。しかし、「何百万人」も?スターリンやヒトラーと肩を並べるというのだろうか?メディアレンズのデビッド・エドワーズは、これについて、アムネスティ・インターナショナルに問い合わせた。アムネスティは、サダムによる殺害のリストを作成している。基本的に、毎年、数百人といったオーダーであり、何百万人も、ではない。国家指向のプロパガンダ−ラウンズレーの場合は、トニー・ブレアに対する世界中の多数の人々からの有罪告発からブレアを擁護すること−による誇張を必要としないような、忌むべき記録である。
ラウンズレーは、アメリカが行いイギリスが支持してきた−しかもブレアは熱狂的に−12年間に及ぶ中世的なイラク包囲の直接的結果として死亡した何十万人ものイラクの人々については、一言も述べていない。コネクティカットのジョイ・ゴードン教授は、社会破壊の武器としてのイラク貿易封鎖を3年にわたり研究してきた。彼女の膨大なショッキングな研究の概要がハーパーズ誌に現れた。彼女は、それを「合法化された大量殺人行為」と述べている。
ブレアの擁護者たるメディアは、世界唯一の超大国による第三世界の小物の粉砕という完全に予想できた行為を「弁明」と見なしている。著名なイスラエル人ジャーナリスト、ウリ・アブネリーは、最近、この知性と道徳の退廃について、4月18日、次のように書いている。「問題を最も挑発的なかたちで提示してみよう」。「第二次世界大戦でアドルフ・ヒトラーが勝利したら、何が起きていただろうか。それにより、ヒトラーの戦争は正当なものになっていただろうか。ヒトラーがニュルンベルグの戦争犯罪法廷で、敵たちを裁いていたとしよう。チャーチルを、ドレスデンに対する恐ろしい空爆により、トルーマンを広島と長崎に対する原爆投下により、スターリンを収容キャンプでの何百万人もの殺害により。歴史家達はこれを正義の戦争と見なしただろうか?侵略者の勝利で終わる戦争は、侵略者の敗北で終わる戦争よりも悪い。それは、道徳的にも、物理的にも、いっそう破壊的である」。
唐突ですが、高橋哲哉『心と戦争』(晶文社)を読みました。ほとんど管理責任も運営責任も何の責任も取らない人々が叫ぶ「国を愛し責任ある教育」を目指す教育基本法「改正」。「日本国憲法はアメリカに押しつけられたものだから」と叫ぶ人々が全く何の自律性もなしにアメリカに追従することにより進める憲法の破壊と有事法制化。敢えて感覚的な表現を使うと、ラウンズレーと同じく、これらのことを進める集団、それに追従する集団は、何よりも、醜い、と思ってしまいます。