誰がグローバル・テロリストか?

ノーム・チョムスキー
Ken Booth and Tim Dunne (eds)
Worlds in Collision: Terror and the Future of Global Order (UK: Palgrave).
2002年5月19日


2001年9月11日の惨劇のあと、「犠牲者」は、「テロリズムに対する戦争」を宣言し、実行犯と疑われる人々だけでなく、実行犯と疑われる人々がいる国も、そして、テロリズムを告発された世界中の他の人々をも標的としている。ブッシュ米大統領は、「悪の実行者たちを世界から除去」し、「邪悪を温存しない」ことを約束した。ブッシュはここで、1985年に「テロリズムの邪悪」−特に、国家がスポンサーとなった国際テロリズム−を弾劾したロナルド・レーガンの言葉を繰り返している。レーガン政権は、発足時に、テロリズムに対する戦いを米国外交政策の核に据えると宣言していたのである[ニューヨーク・タイムズ紙、1985年10月18日]。レーガンによる第一次対テロ戦争の焦点となった地域は、中東と中米であった。後者において、米国は、ホンジュラスを主要な作戦基地とした。ブッシュが再宣言した戦争の軍事部門を率いるのは、レーガン政権時代、中東特使だったドナルド・ラムズフェルドであり、国連における外交担当は、レーガン時代のホンジュラス大使、ジョン・ネグロポンテである。政策計画は、概ね、レーガン=ブッシュ一世時代の主要人物の手に握られている。

テロリズムを非難するのは健全なことであるが、ここには答えられていない疑問がいくつかある。まず、「テロリズム」という言葉で何を意味するのか。第二に、犯罪に対する適切な対応は何か。どのような答えも、少なくとも、道徳的に当たり前の基準を満たさなくてはならない。すなわち、対立する相手に適用されるような原理を提案するならば、その同じ原理が自分たちにも同様に適用されることに同意−そしてたゆまず主張−しなくてはならないという点である。この最低限の誠意を守れない人々が、正義と不正、善と悪を語っても、真面目に受け取るわけにはいかない。

定義の問題は煩わしく複雑なものと考えられている。けれども、単純な定義を提案したものもある。例えば、米軍のマニュアルは、テロリズムを、「脅迫や強制、恐怖を植え付けることにより・・・政治的、宗教的あるいはイデオロギー的な性格の目的を達成するために、計算して暴力あるいは暴力による威嚇を用いること」と定義している[US Aamy Operational Concept for Terrorism Counteraction (TRADOC Pamphlet No. 525-37), 1984]。この定義はタイミング的にも、さらなる権威を備えている。というのも、レーガン政権が対テロ戦争を強化していたときに提案された定義だからである。世界は当時からほとんど変わっていないので、レーガン時代の前例は、対テロ戦争が再来した現在の政府指導陣がレーガン政権当時の第一次対テロ戦争とつながっていたことを別としても、有益であるに違いない。

第一次対テロ戦争は大きな支持を得た。レーガンがテロリズムを弾劾してから二ヶ月後、国連総会は国際テロリズムを非難し、1987年には、再び、さらに強くはっきりと国際テロリズムを非難した[国連総会決議第40/61、1985年12月9日及び決議42/159、1987年12月7日]。けれども、これらの決議は満場一致ではなかった。1987年の決議は賛成153、反対2で採択された。ホンジュラスは棄権した。米国とイスラエルは、反対票を投じた理由を説明して、決議には致命的欠陥があったと述べた。すなわち、「本決議のいかなる部分もいかなるかたちでも、国連憲章で保障された自決の権利、自由の権利、独立の権利を強制的に剥奪された人々・・・特に植民地体制下および人種主義体制下、そして外国による占領下の人々・・・がこれら権利を備えていることに偏見を与えるものではない」という文言である。この部分は、南アフリカのアパルトヘイト政権(米国の同盟者。一方、米国政府はANCを公式に「テロリスト組織」としていた)に対するアフリカ民族会議(ANC)の闘争、及び、米国一国が事実上国際的に孤立しながら続けた軍事・外交支援により20年にわたり維持されていたイスラエルによる軍事占領に適用されるものと理解されていた。恐らくは米国の反対のため、このテロリズムに反対する国連決議は無視された[筆者によるNecessary Illusions (Boston: South Eng, 1989) 第4章、Alexander George, ed., Western State Terrorism (Cambridge: Polity, 1991)を参照]。

1985年にテロリズムを非難したとき、レーガンは特に中東のテロリズムに焦点をあてていた。この問題は、1985年のAP世論調査でリード・ストーリーに選ばれたものである。けれども、レーガン政権の穏健派、ジョージ・シュルツ国務長官にとって、「この現代に野蛮へと後戻りする」ような、「文明そのものに対する邪悪な敵対者」の災いたる、「国家がスポンサーとなったテロリズム」の最も「警戒すべき」兆候は、恐るべきまでに米国の近くまで来ていた。シュルツは議会に対し、「国境なき革命」により西半球を支配しようと目論む「癌が、まさにここ我々の大地に」存在すると報告した。すぐにボロが出るが、お似合いの身震いとともに繰り返される、興味深い創作物語である[Shltz, "Terrorism: The Challenge to the Democracies," June 24, 1984 (State Dept. Current Policy No. 589); "Terrorism and the Modern World," Oct. 25, 1984 (State Department Current Policy No. 629)。シュルツの議会証言、1986年と1983年、コントラへのさらなる資金提供を得ようとする大規模なキャンペーンの前半である。Thomas Walker, ed., Reagan versus the Sandinistas (Boulder, London: Westview, 1987) のJack Spence and Eldon Kenworthy論文を参照]。

脅威は非常に深刻であったため、1985年の「法の日」(5月1日)、レーガン大統領は、「ニカラグア政府による中米での攻撃行為により創出された緊急事態への対応」として経済封鎖を発表した。さらにレーガンは、国家緊急事態を宣言し、これを毎年更新した。それというのも、「ニカラグア政府の政策と行為は、米国の国家安全保障と外交政策に対し、異例かつ途方もない脅威となっている」からである。

「テロリストたちは、そしてテロリストたちを支援しそそのかす国家は、民主主義は脆弱なものであり、警戒を怠らずに防衛しなくてはならないことを冷酷に思い起こさせる」とジョージ・シュルツは警告する。それゆえ、我々は、ニカラグアの癌を「切除」しなくてはならない。それも、寛大な方法によってではなく。「交渉は、力の影が交渉のテーブルにさしていないならば、降伏の婉曲話法に過ぎない」とシュルツは宣言し、「方程式における力の項を無視し、外部の仲介や国連、世界法廷といったユートピア的、法的手段」を提唱する人々を批判する。米国はこのとき、ネグロポンテの監視のもとで、ホンジュラスを基地とした傭兵部隊を使い、「方程式の力の項」を実行し、世界法廷およびラテン・アメリカのコンタドラ諸国により追求された、「ユートピア的、法的手段」を妨害することに成功していた。これは、ワシントンが仕掛けたテロリスト戦争に勝利するまで続けられたのである[Shultz, "Moral Principles and Strategic Interests," April 14, 1986 (State Department, Current Policy No. 820)]。

レーガンが「邪悪」に対する非難を発表したのは、ワシントンでの、イスラエル首相シモン・ペレスとの会談のときであった。ペレスはこのとき、チュニスを攻撃するために爆撃機を送り、75人をスマート爆弾でバラバラにして殺害した直後であった。これは、イスラエルの著名なジャーナリストであるアムノン・カペリュクが現場で記録した、ペレスによる沢山の残虐行為の一つであった。米国政府は、同盟国チュニジアに、爆撃機が向かっていると言わないことにより、この虐殺に協力した。ジョージ・シュルツは、イスラエル外相イツハク・シャミールに、米国政府は「イスラエルの行為に大きな共感を抱いている」と述べたが、国連安保理が、満場一致(米国は棄権)でこの爆撃を「武装攻撃行為」と非難したことにたじろいでいた[NYT, Oct. 17, 18; Kapeliouk, Yediot Ahronot, Nov. 15, 1985. Foreknowledge, Los Angeles Times, Oct. 3; Geoffrey Jansen, Middle East International, Oct 11, 1985. Bernard Gwertzman, NYT, Oct. 2, 7, 1985.]。

中東におけるテロリズムがピークに達した1985年における、最も過激な国際テロリズムの資格を競う第二候補は、3月8日、ベイルートにおける自動車爆弾である。この爆弾では、80名が殺され、256名が怪我をした。この爆弾はモスクの外に、礼拝をした人々が出てくる時間にちょうど爆発するように仕掛けられていた。イマム・リダ・モスクでの金曜礼拝から出てきた、長い黒のチャドルを身にまとった250人もの少女と女性が、爆発の矢面にさらされた」とノラ・ブースタニーは報告している。この爆弾により、「ベッドの赤ん坊が焼かれ」、モスクから家に帰る途中の子供たちが殺され、西ベイルート一角の「人口の集中した表通りが破壊された」。このテロの標的は、テロリズムの共犯として告発されていたシーア派の指導者であったが、彼は逃げ延びた。この犯罪は、CIAとサウジのクライアントが、英国諜報部の助けを借りて仕組んだものであった[Boustany, Washington Post Weekly, March 14, 1988; Bob Woodward, Veil (Simon & Schuster, 1987, 396f.)]。

中東における最も過激な国際テロリズムの栄冠をこれら二つのテロ行為と競うことができるものと言えば、他に、ペレスが3月にレバノン占領地で指揮した「鉄拳」作戦くらいであろう。この地域に詳しいある西洋外交官は、「鉄拳」作戦を、「計算された残虐行為と恣意的な殺害」が新たな規模に達したものと述べた。このとき、イスラエル軍(IDF)は村々を砲撃し、イスラエル軍の仲間である準軍組織に虐殺された多数の人々の上に、さらに数十人の村人の犠牲者を付け加えた。また、病院を砲撃し、患者を連れ去り「尋問」した。他にも沢山の残虐行為が行われた[Guardian March 6, 1985. 詳細については、筆者の"Middle East Terrorism and the American Ideological System," Pirates and Emperors (New York: Claremont 1986; Montreal: Black Rose, 1988) を参照。また、この論文は、Edward Said and Christopher Hitchens, eds., Blaming the Victims (London: Verso, 1988)に再掲されている]。イスラエル軍上級司令官は、標的を「テロリスト村人」と述べた。イェルサレム・ポスト紙の軍事特派員(ハーシュ・グッドマン)は、さらに、「住民が払わなくてはならない対価」にかかわらず、イスラエル軍はレバノン占領地の「秩序と治安を維持し」なくてはならないため、村人たちに対する作戦を続けるべきだと述べた。

1万8千人もの死者を出した、それより3年前のイスラエルによるレバノン侵略と同様、レバノンにおけるこれらの行為は、自衛のためにではなく、政治的目的で行われたものであり、このことはイスラエルではすぐに認識されている。それ以降、1996年のペレスによる残虐な侵略に至るまで、の様々な行為においても、それは同様であった。そしてこれらすべての残虐行為は、米国の軍事・外交支援に決定的に支えられていた。それゆえ、これらもまた、国際テロリズムの年鑑には記録されなかったのである。

簡単に言うと、中東における国際テロの主導的共謀者たる米国の主張には、そして、「野蛮へと後戻りする」残虐行為がなされていた絶頂期にその主張が何らのコメントも引き起こさずに受け入れられたことには、何ら奇妙な点はないのである。

1985年における「テロ」のチャンピオンとして広く記憶されているのは、クルーズ船アキレ・ラウロ号の乗っ取りと、乗客の一人レオン・クリングホッファー殺害であろう。確かにこれは卑劣なテロリスト行為であり、それよりはるかに酷いチュニスでの残虐行為に対する復讐としても、また、そうした行為を阻止するための先制手段としても正当化されるものではない。道徳的真理に従えば、同じ事は、報復や先制としてなされる我々自身の行為も同様に正当化されない。


我々が、公式の情報源に記されている「テロリズム」の定義に制限を加えなくてはならないのは明らかである。すなわち、「テロリズム」という用語を、彼らに対してなされたテロリズムにではなく、我々に対するテロリズムにのみ適用するのである。これは、最悪の大量虐殺者によってさえ、いつも行われてきたことである。それゆえ、ナチスは、外国からの指令を受けたパルチザンのテロリストたちから住民を防衛していたのだし、日本は、満州の平和的な人々と合法的な満州政府を「中国人の追い剥ぎたち」によるテロから守るために、私心を捨てて努力していたというわけだ。例外を見つけるのは容易ではなかろう。

同じ事が、ニカラグアの癌を絶滅するための戦争についても言える。1984年の「法の日」に、レーガン米大統領は、法がなければ、存在するのは「カオスと無秩序」だけだと述べた。その前日、レーガンは、米国は国際司法裁判所の裁定を無視すると宣言していた。国際司法裁判所は、レーガン政権にニカラグアに対する「不法な武力行使」を非難し、米国が行っていた国際テロ犯罪をやめ、ニカラグアに相当の賠償金を支払うよう命じたのである(1986年11月)。この、国際司法裁判所裁定を軽蔑をもって拒絶し、また、それに続く、すべての国家に国際法を遵守するよう求める国連安保理決議も拒絶し(米国が拒否権を発動した)、また、これを巡ってなされた度重なる国連総会決議も拒絶した(米国とイスラエルが反対した。エルサルバドルも一度反対票を投じた)。

国際司法裁判所の判決が出されたときに、米国議会は、「不法な武力行使」に従事していた傭兵部隊に対する資金提供を大きく増加させた。それから少しして、米国司令部は、傭兵部隊に対して、ニカラグア軍との戦闘を避け、かわりに、「ソフト・ターゲット」すなわち自衛手段をもたない一般市民を標的とするよう命令を出した。米国が制空権を握り、テロリスト部隊に先端通信機器が米国から与えられたため、傭兵部隊はこの命令を実行することができた。著名な評論家たちは、この戦略を、「費用便益分析の試験」、すなわち「注入される血と悲惨の量と、一方で民主主義が出現する可能性との間の」分析に関する試験を満足する限り、妥当なものと考えた。ここで「民主主義」というのは、西洋のエリートたちが理解する解釈に従うものであり、その実情は、中米地域に生々しく示されている[詳細については、筆者の Culture of Terrorism (Boston: South End, 1988), 77ページ以降を参照]。

国務省法律顧問アブラハム・ソファイアは、米国が国際司法裁判所の管轄権を拒絶する資格を持っている理由を説明している。国連が発足したばかりの頃は、国連の加盟国のほとんどは「米国の側に立ち、世界秩序に対する米国の見解を共有していた」。けれども、非植民地化が進んで以来、「重要な国際問題を巡って多数の国がしばしば米国に反対する」こととなった。それに伴い、我々米国は、我々がどのような行動をとるか、そしてどの問題が、「本質的に、米国が決定する、米国の国内司法管轄下」に属するかを「決定する権限を自ら保持して」おかなくてはならないというのである。ニカラグアに関して、それは、国際司法裁判所と安保理が非難したニカラグアへのテロリスト行為をさしている。同様の理由で、1960年代以降、国連安保理決議に対する拒否権発動回数では米国が断然トップであり、英国が第二位、フランスがはるかに遅れて第三位となっている[Sofaer, The United States and the World Court (State Dept. Current Policy 769), Dec. 1985.]。

米国政府は、前例のない規模の国際テロ・ネットワークを創生し、世界中でそれを活用することにより「テロリズムに対する戦争」を遂行した。これは、長期にわたり致命的な効果を生み出すこととなった。中米では、国家の治安部隊が直接国際テロ・エージェントでもあった諸国で、米国が指導し支援したテロは極度の状態に達した。その影響については、身の毛もよだつような経験を経てきたエルサルバドルのイエズス会聖職者たちが開催した1994年の会議で整理されている[Juan Hernandez Pico, Envio (Universidad Centroamericana, Managua), March 1994.]。この会議では、特に、「権力者たちの考えと異なる代替策を期待する大多数の人々を教化する」ために、蔓延する「テロの文化」がもつ効果を強調している。これは、国家テロの効力に関する重要な観察であり、広く一般化できる。

ラテン・アメリカでは、2001年9月11日の残虐行為は強く非難されたが、同時に、それは何ら新しいものではないという見解が添えられていた。マナグアのイエズス会大学が出版する学術雑誌は、9月11日の残虐行為を「ハルマゲドン」と呼ぶことができるかも知れないとしながら、同時に、ニカラグアは、米国による攻撃のもとで、「自らのハルマゲドンを生き、その中で緩慢に磔にかけられた」と述べ、「現在はその荒涼たる余波の中に沈められている」と述べている。1960年代以来、南米大陸を席巻した国家テロの巨大な呪いのもとではるかに悪い状況に置かれている国もある。これらの国家テロの多くは、元を辿ればワシントンに行き着くのである[Envio, Oct. 2001. そうした国家テロの余波をめぐる綿密なレビューとしては、Thomas Walker and Ariel Armony, eds., Repression, Resistance, and Democratic Transition in Central America (Wilmington: Scholarly Resources, 2000)を参照]。

ワシントンが、2001年9月11日の攻撃に対する復讐を呼びかけたとき、これに対する共鳴が、ラテン・アメリカではほとんどなかったことは全く驚きに値しない。国際ギャラップ世論調査によると、身柄引き渡しではなく軍事行動を支持する違憲は、2%(メキシコ)から11%(ベネスエラとコロンビア)の間であった。9月11日のテロに対する批判は、通常、ラテン・アメリカ諸国自身の苦痛に対する回想を伴っていた。たとえば、1989年12月、パナマのチョリーヨ街をジョージ・ブッシュI世が爆撃し、おそらくは何千人にも上る貧しい人々を殺害した事件である(これは西側の犯罪だったため調査も検討もされていない)。この「正義」作戦では、命令に従わない悪漢ノリエガを誘拐した。ノリエガはフロリダで終身刑の判決を受けたが、その罪状のほとんどは、ノリエガがCIAに雇われていたときの犯罪であった[Envio Oct, 2000; パナマ人記者Ricardo Stevens, NACLA Report on the Americas, Nov/Dec 2001.]。

現在に至るまで、こうした状況は、口実と戦略の変更以外、本質的に変化なく、続いている。米国製武器の提供を最も多く受けている国々のリストは、大きな証拠である。国際的な人権状況の報告を知る人にはお馴染みであろう。


それゆえ、ブッシュ米大統領が、アフガンに対して、(証拠要求と暫定的な交渉提案を拒絶し)米国がテロリズム容疑者とみなす人々を引き渡さない限り爆撃を続けると述べたことは、驚きに値しない。3週間にわたる爆撃の後に新たな戦争目的が付け加えられ、英国防衛幕僚長・海軍大将ミカエル・ボイス卿が、アフガンに対し、「指導者が替わるまでは爆撃が継続することをアフガニスタンの人々自身が認識するまで」米英の攻撃は続くと警告したことについても同様である[Patrick Tyler and Elisabeth Bumiller, NYT, Oct. 12; Michael Gordon, NYT, Oct. 28, 2001; ともにトップページ]。すなわち、米国と英国は、「政治的・・・な性格の目的を達成するために、計算して暴力を用いる」と主張し続けているのである。これは、技術的な意味では明らかに国際テロであるが、通常の方式に従い、公式記録からは除外されている。ここでの理屈は、基本的に、米国とイスラエルによるレバノンでの国際テロ行為に使われた理屈と同じである。ボイス海軍大将は、レーガンが第一次対テロ戦争を宣言したときに、著名なイスラエル人政治家アッバ・エバンが述べた言葉を、ほとんど繰り返しているに過ぎない。イスラエル労働党政権下で「ベギン氏も私もあえて名前を述べようとは思わない政権」が行ったと同様のやり方で行われたレバノンでの残虐行為に関するメナハム・ベギン首相の説明に答えて、同時に、標準的な正当化を付け加えて、エバンは、次のように述べていた。「(攻撃の)影響を受けた人々が敵対行為を止めるよう圧力を行使するという、理性的な見通しがあり、それは結局実現された」[Jerusalem Post Aug. 16, 1981.]。

こうした考えも、また妥当と思われるときにテロリズムに訴えることも、常套的なものである。さらに、その成功は公に祝福される。米国のテロ作戦によるニカラグア破壊は極めて遠慮なく話題とされ、それが成功を治めたことにより、アメリカ人は「喜びで一丸となった」とメディアは報道した。1965年にインドネシアで起きた、土地無し農民を中心とした何十万人もの人々に対する虐殺も、大きな幸福感をもって歓迎された。このときには、「目もくらむような大虐殺」により社会を浄化した「インドネシアの穏健派」(訳注:スハルトのこと)を困惑させたかも知れないワシントンの決定的役割をワシントンが隠しおおせたことに対しても賞賛が送られた[New York Times]。CIAはこの虐殺を、スターリンやヒトラー、毛の犯罪にも比するものとしていた[包括的なレビューとして、ニカラグアについては、筆者による Necessary IllusionsDeterring Democracy (London: Verso, 1991)を、またインドネシアについては、Year 501 (Boston: South End, 1993)を参照]。他にも大量の例がある。このように見てくると、オサマ・ビン・ラディンが9月11日の残虐行為を祝福したことがなぜ怒りと驚きを引き起こしたか不思議に思うかも知れない。けれども、それは誤りである。というのもそうした疑問は、歴史において常に実践されてきた、邪悪な彼らのテロと崇高な我々のテロとの区別をきちんとできていないことによるものだからである。

公式の定義に基づくならば、テロリズムが弱者の武器だというのは重大な誤解である。ほとんどの武器と同じように、テロも強者が行使してはるかに大きな効果を手にしているのである。ただ、強者のテロは、テロではなく、「対テロ」とか「低強度戦争」とか「自衛」とか言われるだけなのだ。そしてそれが成功すると、「理性的」かつ「現実的」なものと賞賛され、その機会に、「喜びで一丸となる」というわけである。


ここで、基本的な道徳的真理を心に置きつつ、犯罪に対する適切な対応を巡る問題を考えよう。仮にボイス海軍大将の言明が道理にかなったものであるならば、西洋国家テロリズムの犠牲者たちもそれに従って行動する資格を持つことになる。この結論は、恐らく、許し難いものと見なされるであろう。すなわち、この原則は公式の敵に適用されるならば許し難いものなのである。そうした行動が膨大な数の人々を危険にさらすと見られるときはなおさらである。状況を知っている機関は、国連による「750万人のアフガン人に冬を越すための食料が必要である。9月11日時点より250万人多い」との推測を疑問視しなかった[Elisabeth Bumiller and Elizabeth Becker, NYT, Oct. 17, 2001.]。爆撃の威嚇と、それに次ぐ実行により、50%推定人数が増えたのである。歴史が参考になるとすると、一体何人の人々が犠牲になったのか、決して調査されることはないだろう。


別の提案が色々なところから出されている。その一つはバチカンによるもので、軍事歴史家のマイケル・ハワードは、それを次のように述べている。「国連の主導のもとで犯罪的陰謀に対する警察活動を行い・・・そのメンバーを捕らえて国際法廷に送り、そこで公平な裁判を行って、有罪とされるならば、それに応じた刑を受ける。」[Foreign Affairs Jan/Feb 2002; 10月30日講演。Tania Brinigan, Guadian, Oct. 31, 2001を参照]。全く検討されなかったが、この提案は妥当なものに思える。そうだとするならば、これを西洋国家テロリズムに適用することも妥当であろう。これもまた、全く検討されてこなかった可能性である。理由は反対であるが。

アフガニスタンに対する戦争は広く「正義の戦争」と言われてきた。それは明らかだとされてきた。この判断を支持するような「正義の戦争」という概念を作ろうという試みも見られた。それゆえ、こうした提案を一貫した道徳的真実に従って評価するとどうなるか考えてもよかろう。私は、すぐさま崩壊するような議論しか、これまでに見ていない。提案された考えを西洋国家テロリズムにも適用しようというのは、見下げ果てた行為ではないにせよ、考えも及ばないことなのである。たとえば、最高の権威をもつ国際機関の判断に照らして論争の余地のない事件、すなわち、米国政府によるニカラグアに対する戦争に、この考えを適用するとどうなるか考えてみることができよう。むろん、論争の余地のないというのは、国際法と条約義務をそれなりに遵守するものたちにとってのことであるが。これはためになる実験である。

テロリズムに対する戦争の他の諸側面に対しても、同様の疑問が湧いてくる。米英のアフガニスタンに対する戦争が、曖昧な安保理決議により認められたかどうかを巡る論争があった。けれども、これが問題なのではない。米国は、あまり魅力的でない理由で(なぜロシアと中国が、熱心に米国の側に立とうとしたか考えてみるとよい。全く明らかである)、安保理からのはっきりした曖昧でない権限を確実に得ることができたであろう。けれどもこの道は却下された。恐らくそれは、安保理からの権限委譲を受けるということは、米国が従わなくてはならないより高位の権威があることを示唆してしまうからである。これは、圧倒的な力を手にしている国にとって受け入れがたい条件であろう。外交と国際関係の文献には、この立場に対して名前がつけられてすらいる。「威信」の確立というのである。暴力を行使する際に標準的に使われる公式の正当化手段であり、最近の例では、セルビア爆撃にもこの理屈が使われた。交渉による容疑者の引き渡しの検討を拒絶したのも、恐らく同じ理由による。

道徳的真理は、容疑者引き渡しといった問題にも妥当する。米国は、有罪性がはっきり確立しているときでも、テロリスト引き渡しを拒否する。最近の例として、1990年代初頭、ハイチで、軍事臨時政府のもと、何千人もの人々を残虐に殺した責任者である準軍組織の指導者、エマニュエル・コンスタンを挙げることができる。米国は、公式にはこの軍事政府に反対していたが、米州機構(OAS)の経済封鎖をあからさまに軽視し、秘密裡に石油輸出を認めるなどして、暗黙に支持していた。ハイチ法廷は、その後、コンスタンを不在裁判で有罪とした。選挙で選ばれたハイチ政府は、何度も、米国にコンスタンの引き渡しを求めてきた。米国がタリバン政権によるビン・ラディンの交渉による引き渡し提案を侮蔑的に拒絶していた、2001年9月30日にも、ハイチ政府は米国に身柄引き渡しを要求している。これは再び無視された。恐らく、コンスタンが、テロ時代における米国との関係を暴くことを憂慮してのことであろう。我々は、ここから、ハイチも、ワシントンがアフガニスタンで行っているモデルに倣って、コンスタンの身柄引き渡しを実現するために、武力に訴える権利があると結論するだろうか。こう考えること自体、許し難いものであり、それは、道徳的真理に対する侵犯を引き起こす。

他の例を挙げることも極めて容易である[例として、George, op. cit.を参照。例外は希であり、例外が引き起こす反応も興味深いものである]。1959年以来恐らく国際テロリズムの主標的となってきたキューバを考えよう。その規模と性質は驚くべきもので、1990年代後半まで続いたテロである。その一部は、ケネディのマングース作戦に関する文書が機密解除されたために実態が暴かれている。冷戦という口実が、使える間は機械的に利用されてきたが、政府内部のシナリオは、調査によりいつも明らかにされるものであった。アーサー・シュレジンガーは、JFKのラテン・アメリカ・ミッションに関する結論を着任予定の大統領に報告した中で、これを秘密裡に述べている:キューバの脅威は、「事態を自らの手に握るというカストロの考えが広まる」ことにあり、それが、「今やまともに暮らす機会を求めている」他の国々の「貧民や貧困層」を刺激するかも知れないということであり、上層部では、「ウィルス」とか「腐ったリンゴ」と言われていた。冷戦との関係でいうと、「ソ連は周りを飛び回り、大規模な開発ローンを提供し、自ら、一世代で近代化を実現したモデルとして範を示している」という点にあった[FRUS, 1961-63, vol. XII, American Republics, 13f., 33.]。

確かに、これらの国際テロの離れ業は−かなり深刻であるが−標準的習慣により議論の対象から除外されている。けれども、仮に公式の定義に従うとしよう。「正義の戦争」と妥当な対応の理論に従えば、キューバはどのような反応をする資格を持っていただろうか?

国際テロリズムを、「文明そのものに対する邪悪な敵対者」が広める災いとして弾劾するのは全くフェアである。道徳的基準を満たすならば、「悪を世界から駆逐する」ための献身はなおさら真面目にとることができよう。これは、全くとんでもない考えというわけではないだろう。


2003年1月に出版された、ノーム・チョムスキー『新世代は一線を画す』(こぶし書房)の日本語版序文にも、この文章(別訳)が使われています。『新世代は一線を画す』は、内容的に具体性がありながら読みやすい分量で、また、訳も、原文への忠実さと読みやすさのバランスが取れています(第一章はちょっとわかりにくいところがありましたが)。値段が2800円と高いのがちょっと残念ですが、「テロリズム」だとか「対テロ戦争」についてもう少し突っ込んで背景を考えようというときによい参考になると思います。
益岡賢 2002年6月4日

一つ上へ] [トップ・ページ