1. 米国は、より大きな安全感を得るためにどこまで基本的な市民的自由を犠牲にすると思いますか。
今市民的自由に対して加えられている攻撃が治安とそんなに関係があるかどうかは疑問です。一般に、国家はあらゆる口実を使って権力を拡大しようとし人々に従順を強制しようとするものです。権利は勝ち取られたものであって、与えられたものではありません。そして、権力は人々の権利を弱めようとあらゆる機会を求めています。
米国政府の現在のスタッフは過激な反動的攻撃的愛国主義者で民主主義への軽蔑に満ちた人々です。私が思うに、提起すべき質問とは、市民はどこまで政府スタッフが自らの政策を推し進めることを許容するかというものでしょう。これまでのところ、政府スタッフは、移民のような社会的弱者のみを攻撃対象とするよう注意してきましたが、彼ら/彼女らが採択した法律はもっともっと広い範囲に影響を及ぼしうるものです。私自身は、困難な闘いを通して勝ち取られた権利に対する人々のコミットメントはとても大きいので、それに対する攻撃を大きく進めることは阻まれるだろうと感じています。
2. どうすれば、安全を維持することと、市民的自由を守ること、そしてプライバシーを守ることとの間のバランスを取ることができるでしょうか。
こうした問題に抽象的に答えることはできません。提案されたことそれぞれを検討する必要があります。既に述べたように、提案されときに実施された手段は一般に「安全を維持する」こととわずかしか関係がないのです。多くは、恐らく、かえって安全を犠牲にするでしょう。たとえば、アフガニスタン爆撃を考えてみましょう。これについてどう考えようとも、安全は増すでしょうか?米国諜報局はそうは考えていません。最近になって、アル・カイーダが分散し新たなテロリスト・ネットワークを生み出すことで、爆撃はテロの脅威を増大させたかもしれないと述べています。これは大事なことでしょうか?政策立案者に関していうならば、特に大切ではありません。サウジアラビアのアブドゥッラ−皇太子が最近米国に来て、最近の米国の政策がアラブ世界に及ぼす影響にもっと注意を払うよう米国政府に求めました。このとき彼は、政府高官から、「『砂漠の嵐』作戦のとき我々が強大だったとすると、今や我々はその10倍は強い。これは、我々の力についてアフガニスタンが示したことに対して彼に説明するためのものだ」と述べました。つまり、「命令に従え、さもなくば粉々にやっつける」というわけです。アフガニスタン爆撃が意味するのはそのことなのです。
3. テロリズムに対する戦争は、はるかに多くの犠牲者、特にはるかに多くの罪のない犠牲者を生み出すでしょう。これは正当化されますか?
この質問にも抽象的に答えることはできません。けれども、これに答えるための基準といったものならば存在します。単純な基準の一つは、ある行動が我々にとって正当なものならば、他の人々にとっても正当なものだということです。たとえば、米国政府が、9−11(2001年9月11日の米国への航空機突入事件)を計画した容疑者がアフガニスタンにいたという理由で(ただしFBIは最近、まだ嫌疑をかけているだけであり、確実な証拠は何もないと認めています)アフガニスタンを爆撃することが正当だとするならば、それよりさらに、ニカラグアが(あるいはキューバやレバノン、そして長い長いリストの中の他の人々が)ワシントンを爆撃することは正当だということになるでしょう。これらの場合、ワシントンが、9−11の残虐行為をはるかに越えるテロリスト残虐行為の元締めであるということを−疑っているのではなく−知っているのですから。こうした結論を受け入れない人々は−つまり、すべてのまっとうな人々のことですが−米国によるアフガニスタン爆撃が正当だという結論も受け入れるべきではありません。むろん、初歩の道徳原則を拒んで、善と悪、正と邪について語ることを全く放棄するならば別ですが。
同じ基準は普遍的に適用されます。むろんこれによってあらゆる疑問が解けるわけではありませんが、多くのことに対する答えを得ることはできます。このような初歩的道徳原理を裕福な権力者たちは考慮しないというのは本当です。すぐさま導かれる結論がゆえです。それにもかかわらず、正直な人々はこれを守る意思を持つべきでしょう。
4. 世界に対する、そして特に米国での、テロリズムのインパクトはどんなものでしょうか?
テロリズムのインパクトは巨大です。最近の例を一つだけあげましょう。中米は1980年代に国家主導の国際テロリズムによって廃墟となりました。1990年代にはハイチがそうなりました。私はコロンビア から戻ってきたばかりですが、そこでは、過去10年西半球最悪のテロリストによる残虐行為が行われてきたのです。そして状況はさらに悪くなっています。米国国務省すら、大多数の残虐行為が軍と準軍組織によるものだと認めています。両者は極めて緊密な関係にあるため、それについて詳細な研究を行ったヒューマンライツ・ウォッチが、準軍組織のことをコロンビア軍の「第6部門」と読んでいるのです。軍の5部門の次という意味です。政治的殺害は恐らく1日20件にものぼるでしょう。そして(多くの場合テロのため)故郷を離れ難民化する人々が毎年30万人以上います。コロンビアは労働組合員とジャーナリスト殺害の世界記録を保持しています。むろん、大多数の犠牲者はいつもながら農民ですが。その前に、私はトルコを訪れました。トルコではクルド人が居住する南東部で1990年代に最悪の国家テロリスト残虐行為が続けられてきたのです。人々は実質的に牢獄に入れられている状態です。これらすべては、ずっと米国の大規模な支援に依存していた国際テロリズムです。米国は軍事支援だけでなくイデオロギーの支援も提供していました。沈黙と弁明です。実行者が米国側なので、テロリズム年鑑にはリストされません。こうした例を続けることは簡単です。
「テロリズム」という言葉は、標準的に、奴らが我々−我々が誰であれ−に対して行うテロリズムを指すために使われます。たとえばナチのような最悪の大量殺人者でさえ、この慣例を踏襲しています。ギリシャのファシスト将軍たちも同じことをしたと思います。
裕福で権力をもったものたちが議論の基準を設定するため、実際には「テロリズム」という言葉は、米国およびその雇われ国家と同盟国に影響を与えるテロに限定されて使われます。この極めて狭義のテロリズムという範疇に従い、9−11の残虐行為は西洋に膨大なインパクトを与えたのです。その規模ゆえではありません。残念ながら、規模自体は特別珍しいものではありません。そうではなく、罪のない犠牲者の選び方ゆえです。何百年もの間、ヨーロッパとその子孫は他の人々に対してそうした残虐行為を、ほとんど処罰されぬまま続けてきました。ここ最近、新たな技術の発現により、工業社会は暴力の実質的独占を失う可能性が出てきました。今や圧倒的に優勢であるというに過ぎません。9−11日にそうした予想が現実のものとなったのです。むろん、ある意味では全く予想外のことでしたが。それはむろん大きなショックでした。
反応は複雑です。知識人のあいだでは、好戦的愛国主義ヒステリーが蔓延しましたがこれは当たり前のことです。一般の人々の間では反応は様々でした。多くの人々にとって、これは「目覚ましの警告」でした。開かれた態度と心配、懐疑、反対の声がたくさんあがりました。これらは健全な反応です。その規模を計ることは難しいですが、かなりのものであることは確実です。
5. 長い間待ち望まれていた、中東対立の終了に対する米国の政策声明についてはどうお考えですか?
ジョージ・ブッシュの政策立案者たちは、パレスチナ人たちが決して実現できないだろうことを知りながら一連の要求を出してきました。彼ら/彼女らは、過酷で残忍な軍事占領下で、パレスチナ人がスウェーデンになるべきだと要求したのです。サウジアラビアとエジプトから民主主義を学んで(これがジョージ・W・ブッシュの言葉が含意するところです)。パレスチナ人は、「自由選挙」を行い、そこで米国が指名した候補を選ばなくてはなりません。こうした条件を満たせないならば、米国は公式な「平和の使者」アリエル・シャロンが実行するテロに対して大規模な支援を提供するというのです。そして、米国は、25年間そうしてきたように、政治的解決を巡る国際的な合意を妨害し続けるでしょう。パレスチナ人が米国の条件を満たすならば、ジョージ・ブッシュのパレスチナ国家「ビジョン」について考えることを許されるでしょう。どこか、恐らく、米国議会議長ディック・アーメイが最近提案したように、「アラビアの砂漠」のどこかかもしれません。この崇高なビジョンをもって感動的な未来を描くことで、ブッシュは40年前のより過激なアパルトヘイト提唱者の道徳的レベルに(下から)ようやく近づきつつあるのです。南アフリカの人種隔離主義者たちは黒人国家の「ビジョン」を持っていただけでなく、実際にそのビジョンを実施し、多少の経済支援さえ提供したのですから。
イスラエルに対して、ブッシュは入植の「凍結」を求めました。ウィンクしながら。これについてよく知っている人ならば誰でも、入植を「凍結」することはできても妨害なしに入植が拡大することを知っています。「自然成長」と呼ばれる現象ゆえです。
つまり、米国はオスロの目標を実現すべく邁進し続けるでしょう。つまり、パレスチナ人を「永遠の新植民地的依存」のもとに置くことです(これは2年前のキャンプ・デービッド交渉でイスラエル首相バラクの主任交渉担当官が述べた言葉で、イスラエルハト派の立場を代表しています)。これまでずっと続いてきた考え方に従い、中東紛争は外交によってではなく武力によって解決されることになるということでしょう。
6. グローバル化が世界にもたらす影響は?
「グローバル化」という用語は権力の中枢により、特定の国際経済統合を指すために使われています。過去数十年間追求されてきた「新自由主義的」枠組みです。投資家の権利のグローバル化がもたらす影響についてはかなり明確です。世界中でほとんどあらゆるマクロ経済的指標が低下しています。経済成長率、生産性、資本投資、さらには貿易さえもです。例外はあります。中国のように、そうした規則に従わない国々です。一般に、規則により厳密に従う地域は、たとえばラテン・アメリカのように、最悪の記録を示しています。米国では、多くの主張とは逆に、「グローバル化」の時期はそれ以前と比べて成長が減速した時期です。さらに、成長は富裕層に大きく偏っています。大多数の人々は停滞か後退を被っています。以前と比べて、社会指標も継続的に低下し続けています。
一般に、インパクトは、大体、意図された通りであろうと思われます。「グローバル化」を計画したものたちにとっては大きな成功でした。これは驚くべきことではありません。国際ビジネス紙がほとんど皮肉でもなく「世界の主人」と呼ぶセクタにとってのことです。他の人々にとって、インパクトは色々混ざり合っていますが、陰鬱なものであることがしばしばです。けれども大多数の人々に何が起こるかは偶発的なものです。政策はこうした人々の利益のためにたてられているのではありませんから。
7. 暴力に訴えることなしに効果的な反グローバル化のプログラムを遂行するためにはどうすればよいかについて何か意見はありますか?
「反グローバル化」というのは、投資家の権利を拡大するために国際的な統合を目指すことを提唱する人々により発明されたプロパガンダ用語です。まともな人は誰もグローバル化に反対しません。左派や労働運動は、国際的な連帯に対する献身の上に築かれたものですから、グローバル化に反対しないのは確かです。つまり、私的資本ではなく人々の権利と必要に配慮するというかたちのグローバル化です。暴力の役割についていうなら、公式の「グローバル化」は暴力に大きく依存しています。これについてはコメントする必要もないほど明らかでしょう。けれども、人々を指向するグローバル化(これがプロパガンダ体制が言うところの「反グローバリズム」です)が同じことをしなくてはならない理由はわかりません。逆に暴力に訴える戦略は正当化に欠き、運動の目標を阻害します。何世紀にもわたり人々が続けてきた、平和、正義、人権を求める闘いのなかで使われてきた手段が正しいものでしょう。それについては我々みんなが知っています。魔法の鍵はありません。辛抱強い教育、組織化、そして可能で適切な場合には直接行動など−たとえば、人々のグローバル化運動の最も重要な出来事である、ブラジルの土地無し労働者運動のような−が必要です。一般法則はありません。状況と目的に応じた特定の諸提案があるだけです。人々を指向するグローバル化を支持する大規模な人々の運動に関する大きな可能性を持った表出は、ブラジルはポルトアレグレでの世界社会フォーラムです。これは恐らく、初めて本当のインターナショナルの種を蒔いたものと期待できるかもしれません。
8. 米国企業の会計スキャンダルが及ぼす政治的影響はどうなると思いますか?これについて心配していますか?
ここ数年の間に過激な反動派が適用してきた狂気に満ちた市場主義は多少撤回されるかも知れません。仕事と年金を失った労働者と他の多くの人々への影響は深刻です。けれども裕福で権力をもったものたちはほとんどが無傷で逃げ延び、それどころかさらに利益を上げることもあります。多くの責任者はそうしてきたのです。廃止された規制の一部が復活すること以外に長期的な影響があるかどうかについては懐疑的です。
9. ユ−ロ軍の創設についてはどう思いますか?
ヨーロッパが深刻な軍事的脅威にさらされているという事実はありません。ですから、ユーロ軍が防衛に従事することはありそうにないことです(ただし、軍が行うことは何でも「防衛」と呼ばれるものですが)。ですから、ユーロ軍の任務は何なのか問うてみる必要があります。完全であるにははるかに及ばない世界で、正当な任務を考えることもできます。けれども、歴史を見る目を備えた人々は、そうではなく、あまり気持ちの良いものではないものが思い浮かぶでしょう。けれども、帰結は選ぶことができるものです。そして西洋社会は少なくとも部分的には民主的であるということを考えると、この選択は関心を払う一般の人々の手に握られていることになります。かなりの程度。
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