『アメリカの「人道的」軍事主義』:訳者あとがき
(ノーム・チョムスキー著・現代企画室刊・2002年4月)
本書は、ノーム・チョムスキー著 New Military Humanism: Lessons from Kosovo(Monroe, Common Courage Press, 1999)の全訳に、原著者の要請に従い、「一九九九年を振り返って」を補遺として加えたものである。著者ノーム・チョムスキーは、一九五〇年代に生成文法を唱えて言語学の世界に革新をもたらした世界的に著名な言語学者であると同時に、ベトナム戦争や中南米での人権侵害といった米国の犯罪行為を精力的に批判してきたことでも広く名を知られている。チョムスキーのこの二つの側面については、ロバート・F・バースキー著『チョムスキー:学問と政治』(土屋俊・土屋希和子訳、産業図書、一九九八年)に詳しい。
本書の焦点は、コソボ空爆を巡って喧伝された、米国を初めとする「啓蒙諸国」の「人道的意図」が、実際には何であったのかである。この点を明らかにするために、同時代に起こっていた他の「人道的破局」に対する米国の対応(第三章)、米国の政策立案者やメディアが、実際に行われていたことをどのように隠してきたか(第四章)、そして、コソボ空爆を巡る、一般の人々からは隠されていた政治的経緯(第五章)が詳しく検討される。具体的な事実関係の検討からオーソドックスな論理に従って示されるのは、プロパガンダのベールを取り払って冷静に理性的に事態を見るならば、NATOのセルビアに対する爆撃が、実は過去の植民地時代さながらの一方的な力の政治の現れにほかならないという状況である。
セルビアによる残虐行為が激化したのは、「人道的破局」を救うと称してNATOが開始したセルビア爆撃の後であり、しかも、外交的な記録は、爆撃を避けて外交的解決を実現する可能性があったことを示している。一方、ほぼ同じ時期に東チモールで大規模な国家テロを行っていたインドネシア軍に対して、米国は軍事援助を与え続けた。インドネシアでは、米国企業のエクソンモービル石油やフリーポートマクモラン鉱山会社などが天然資源を採掘して巨額の利益を得ている。そして、これらの会社は、権益を確保し、採掘により引き起こされる環境破壊に対する地元の人々の反対の声を黙らせるために、インドネシア軍を傭兵的に雇用し、拷問や強姦、誘拐を含む弾圧を行っているのである。また、米国は、クルド人に対する虐殺を続けるトルコに対しても、巨額の支援を行ってきた。
必要に応じてテロや人権侵害を後押ししたり自らテロ行為を行う一方、都合の悪い相手が人権侵害やテロを行ったときには「正義」や「人道主義」の名のもとで暴力を使い目的を達成しようとする米国政府の体質を、本書は、具体例をあげながら、体系的に示している。
二〇〇一年九月一一日に起きたいわゆる「米国同時多発テロ」に対する米国の「報復」攻撃も、本書で分析されている米国政府の一貫した姿勢が、さらに一層あからさまな、そしてさらに悪化したかたちで繰り返されているものと見ることができる。米国ブッシュ政権は、「テロリズムに対する戦争」と称して、自らを「無限の正義」(後に宣伝上の理由でこの言葉は撤回されたが)を体現するものと位置づけ、アフガニスタン爆撃を開始した。本あとがき執筆の時点で、米国は、国際法を無視して、また、オサマ・ビンラディンが九月一一日のテロに関わったという明確な証拠もないまま(証拠があったとしても米国の攻撃は国際法に反するが)、世界で最も貧しい国の一つであるアフガニスタンの一般の人々の間に多くの犠牲者を出しながら、攻撃を続けている。そして、いつの間にか、目的がタリバン政権の破壊にまで広げられている。
その一方で、米国をはじめとする「大国」が手を染めるテロリズムは、イスラエルによるパレスチナへのテロやインドネシア軍によるアチェや西パプアでのテロのように、さらに激化している。また、米国やその同盟国が行ってきた過去のテロリズムは、都合良く忘却の闇へ葬り去られようとしている。例えば、本書でも言及されている東チモールに関して言うならば、インドネシア軍が一九九九年の撤退まで続けてきた凶悪なテロ行為を外交的・軍事的・経済的に支援し続けてきた米国は、「テロリズムに対する戦い」を叫ぶ陰で、インドネシアのテロリストたちに「軍事援助」という褒美を与えるべく奔走している。同時に、東チモール人たちが求める国際的な法基準に従った実行者処罰を無視し続けている。また別の例として、最近、湾岸戦争時に米国が用い、それ以来現在に至るまで大きな被害を生み出している劣化ウラン弾の調査を行う提案が国連総会に提出されたが、米国は活発なロビー活動を行いこの提案の否決にこぎつけた。
冷静に現状を見つめるならば、現在、米国が進めている「テロリズムに対する戦争」、そしてその陰で進んでいる様々な事態は、(九月一一日の事件そのものを除けば)本書が分析している米国政府の姿勢ほぼそのままであることがわかる。異なることと言えば、少なくともマスメディアを介して政治状況を読みとる限り、批判的な見解が以前よりも遥かに少なくなっている点、そして、世界の「有力諸国」が、これまで以上に米国に同調しているように思われることであろう。日本の小泉政権に至っては、これを機に、嬉々として自衛隊派遣を進めようとしている。
「戦争の世紀」と言われることもあった二十世紀。けれども、その二十世紀は同時に、少なくとも、植民地支配を初めとする一方的な力の行使が悪しきことであるという点が、力を行使してきた側にも一応認識された世紀であった。例えば、コロンブスの「新」大陸「発見」五百周年記念は、コロンブスを讃える声一色というわけではなかった。けれども、二十世紀の終わりに出現した「人道主義」のプロパガンダ、そして二一世紀のはじめの今、執拗に繰り返されている「テロリズムに対する戦争」のプロパガンダのもとで、再び、我々は、力の行使が、力を保有し行使する側の独善的で一方的な語りにより正当化される世界に逆行しつつある。今や世界は、犯罪が犯罪であることが少しずつながら共有され始めた二十世紀のわずかばかりの正の遺産を破棄する方向へと突き進んでいる。
NATOのコソボへの介入は、「人道主義」の名のもとで正当化された。本あとがき執筆中の時点で米国が進めているアフガニスタンに対する戦争も、「正義」、「道徳」といった美辞麗句で飾られ正当であるかのように見せかけられている。
今、改めて思い起こそう。かつての植民地支配下での支配国による残虐行為が、やはり「正義」や「人道」、「啓蒙」、「文明」といった耳に心地よい言葉を伴って実行されたことを。「聖戦」として今も西洋では正のイメージで伝えられる十字軍(米国ブッシュ大統領が当初使おうとしたが戦略的配慮から取り下げられた言葉)が、実態としては野蛮な侵略行為であったことを。そして、フランツ・ファノンの「ヨーロッパはそのあらゆる街角で、世界のいたるところで、人間に出会うたびごとに人間を殺戮しながら、しかも人間について語ることをやめようとしない」という言葉を(現状に合わせたしかるべき拡張とともに)。
本書が描き出している世界も、そして現在の世界の状態も、あまり明るいものではないし、本書にはあまり処方箋が与えられていないが、こうした暗惨たる無法な世界は、変更不可能な与件ではない。マスメディアから目を転じて、色々な人が発信している多様な情報源に目を向けるならば、二一世紀を、希望の世紀、平和と協調の世紀にしようとたくさんの人々が活動していることがわかる。特に、インターネットでは、反戦集会や講演会の情報、「有力諸国」が手を染めているテロ行為の実状など、マスメディアが伝えない貴重な情報を、タイムリーかつ広範囲に入手することができる。また、何らかの行動(それがいかにささやかなものであれ)を起こすための手がかりもたくさんある。世界の状況から目をそらさず、流れを良い方向へ変えてゆくために、できること、やるべきことはたくさんある。
なお、チョムスキーの政治関係の著作としては、訳者の一人が、『アメリカが本当に望んでいること』(益岡賢訳、現代企画室、一九九四年)を翻訳している。米国の国際的位置づけに関するチョムスキーの批判的分析をコンパクトに整理したもので、チョムスキーの政治的立場と同時に、本書では扱われていない、第二次世界大戦後から一九九〇年くらいまでの米国の政策を把握するために便利である。また、最近出版された、『9.11 アメリカに報復する資格はない』(山崎淳訳、文芸春秋、二〇〇一年)は、米国の「同時多発テロ」とそれに対する米国と世界の対応について、チョムスキーのインタビューをまとめたものである。また、本書とほぼ同時期に出版されたRogue State: The Use of Force in World Politicsの一部に最近のチョムスキーの講演を加えた『「ならずもの国家」と新たな戦争』(塚田幸三訳、荒竹出版)も、最近出版された。
本書は、具体的な出来事を状況を詳しく扱っており、最近翻訳出版された二点と比べ、多少読むのが手間かもしれない。ただ、訳者は、チョムスキーが議論で用いる論理自体は非常にオーソドックスなものであり、むしろ、チョムスキーの真骨頂は、出来事の経緯とそれを巡る見解に関する執拗な言及と分析にあると考えている。その意味で、本書は、現在日本語で読めるチョムスキーの政治的著作の中で最もチョムスキーらしさがよく現れていると思っている。
二〇〇二年二月二〇日
旧日本軍による東チモール侵攻から六〇周年の日に
訳者を代表して 益岡 賢