わたしの音楽人生回顧録 その4
はしりの頃のお仕事 PART1
新宿区職労 中村 浩
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◇バブルのトムとの出合い
いやー毎日暑い日が続きますが、皆さんお元気でしょうか?
東京で書くのがいやで、島根の山の中で気分を変えて書き始めました。
いよいよバブルのトムさんと出会うのですが、最初に出会ったころは、まだ彼が警官コントをやっていたころで、ミュージシャン仲間に紹介され、一緒に仕事を始めました。
演奏する曲は、コミック・ソング的なものが多く、学祭や町のお祭りの仕事へ行き、ステージで一緒にお笑いネタ(バグパイプのまねなど)もやりました。
ドンキーカルテットのジャイアント吉田さんもゲストに来たりして、最高に楽しかったなー。それから、トムさんとコンさんが出会い、「ブルース・ブラザースみたいなバンドを作ろう」ということになり、コンさんの連れてきたバンドに私が入り、最初のバブルガム・ブラザースが出来ました。
今の、ショーパブのはしりのようなお店が新宿御苑にあり、そこには名前が売れる前の、今となってはそうそうたるメンバーが出演しており、バブルもそこの店が出発点でした。
◇メジャーのはしりの頃
ライブ・ハウスツァーはよくいきました。みんなで楽器車を運転して、ぎゅうぎゅうづめで、名古屋・京都・大阪・神戸で東京に戻ってくるパターンで、めちゃめちゃ疲れました。
しばらくすると、私以外のバンドメンバーが全て変わり、*ウンタウン*ギウギバンドのベースや*ールデン*ップスのギターの人やら他にも、すご腕ミュージシャン六人が、入り総勢九人で活動を再開しました。皆私より十才位年上で、おまけに風貌がおもいっきり怖そうで、初めてあった時びびったのを思い出します。
この頃から、すこしづつメジャーになりはじめ地方にいっても、満杯でステージ以外身動き出来ない客席にダイビングしたり、とっても乗りがいい大阪では、ブルース・ブラザーズを知っている人たちがローハイドをやると、ビールの缶をステージに投げまくり、みんなで大盛り上がりしました。
とにかく、この頃は物事をまじめに考えることもなく、アルコールと音楽だけで生きていたような気がします。そんなことが、二年ぐらい続いたと思います。
今回はこのへんで!
◆新コーナー
「あなたもわかるミュージシャン用語(1)」
私は、事務所に属していなかったので、ギャラの交渉を自分でしていましたが、自分の値段をつけるのは安いといやだし、高いとてれるし、何万と言うのはなまなましいので、音階で値段交渉しました。
どういう訳かドイツ語読みでツェー万(C万)から順番に言って八万は、オクターブ九万はナインス、十万はツェーじゅう万などの言い方でした。
でも注意しないといけないのは、相手が理解していないのに交渉するときです。
オクターブで交渉したときもらったギャラが七万で、彼のなかではハー万(H万)が抜けていたようです。
あとギャラは、普通ならびといって、八万なら88,888というぐあいに下に税金分がくっついているのですが、ときには、確認しておかないと、袋の中に七万二千円しかはいっていないこともあるので注意が必要です。
ギャラが発生するよう
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