自治労音協通信

  3面 NO29号/98.9.5発行

 <音楽夜話>

ブルーグラスを語るpart6

(栃木県職労)松本敏之

 今回は、Stanley Brothersについて書きます。

 Don RenoがMonroeの下を去ったころにBlue Grass Boysに入ったのが、ヴァジニア州南部のクリンチ・マウンテン地域のクリンチ・リヴァー・ヴァリーにあるストラットン近郊で生まれ育ったCarter Stanleyでした(ギターでリードを歌う)。しかし、これ以前からCarterは弟のRalph(バンジョー)とバンドを組んでいたのであって、CarterがBlue Grass Boysに加わったのは弟のRalphが自動車事故にあったためにその回復を待つ期間だけということだったようです。この兄弟の母というのが達者なバンジョウ奏者で、息子2人に音楽を教え込んだといいます。

 1946年に2人がバンドを結成した当初は、民俗音楽の匂い強かったそうですが、グランド・オウル・オプリでBill Monroe and His Blue Grass Boysが新しい音楽を広めるに至って、Stanley兄弟はブルーグラス色を出すようになります。はじめは古いバンジョー・スタイルを用いていたRalphは、同じ放送局で仕事をしていたScruggsのスタイルでバンジョーを弾くようになりましたが、直接Scruggsから学んだかどうかはわかりません。Ralph自身は、Snuffy Jenkinsに習ったと言っています。

 1947年か48年の録音が、LP『ザ・スタンリー・ブラザーズ』(あとに書いているマ−キュリ−版とは別のようです)で聴けるそうですが、あいにく私の手許にはありません。録音した時のバンドの編成は5人で、この兄弟のギターとバンジョーの他に、フィドルのLeseley Keith、マンドリンのPee Wee Lambert、それにベイス奏者がいるということです。

 Ralphが回復してから、兄弟はClinch Mountain Boysと称するバンドを組織しました。これが、前々回、前回のBlue Grass Boys、Foggy Mountain Boysと並んで影響力の強いブルーグラス・バンドになったのです。1950年代初めの録音にスグレものが多いのは、私の趣味かも知れませんが、Bill Monroe、Flatt and Scruggsと共通しているように思います。1960年以降はマンドリンに代わって第2ギターを使うことが多くなりました。このバンドの特色は、ブル−グラス音楽以前のマウンテン・ミュージックとのつながりが他のバンドに比べて強いこと、そしてそれに関連して、曲目には新しく作った曲よりも伝承の歌(民謡)が多いことです。それに兄弟2人の声の調和がすばらしいことが何といってもとりえで、何とも物悲しいようなうたごえは、他の追随を許さないものだと思います。セイクレット・ソング(宗教的な歌)が多いのも特徴です。残念なことに1966年12月1日にCarterが死んでしまいました。Carterは大変信仰深い敬虔な人柄だったようですが、同時に相当酒量も多かったようです。「死因はアルコール中毒」という記事をどこかで見たように思ってさがしてみましたが、真偽は確認できませんでした。兄の死後、Ralph Stanley and the Clinch Mountain Boysとして、バンドは再出発しました。

 Stanley Brothersのレコードでは、『Good Old Camp Meeting Songs(第2集)』が名盤とされていますし、私も好きです。キングから出されている『The Stanley Brothers and the Clinch Mountain Boys』やマーキュリーから出されている『The Stanley Brothers』もお勧めです。

 50年代の古典的なブルーグラスの代表選手として、本来なら、ほかにDon Reno and Red Smiley、Jimmy Martin and His Sunny Mountain Boys、The Osborne Brothers、Jimm & Jessieなどふれるべきところですが、あまりマニアックになるのもどうかということで、省略します。また、Country Gentlemen、Kentucky Colonelsといった、1960年代都会派のバンド、さらには1970年代のニューグラスのバンドに話を進めたいところですが、次回から1〜2回はブルーグラスの歴史・バンド紹介をお休みして、私とブルーグラスというお話をしたいと思います。

 (つづく)

私とボサノバ パート4 『苦手な整理』

山本英二(新潟県職労)

僕は物を整理するのがとても苦手だ。だから部屋の中は常に、雑然といろんなものが山積みされている。よく「整理の基本は捨てること」と言われるが、なかなか捨てられない。特に書類と本とCDはそうだ(本やCDを捨てるという発想自体が問題か)。経験からいって書類は、長い間取って置いてもあまり役に立ったという感じはしないのだけれど、思い切れない。僕の整理能力がないことに加えて、家の中で収納スペースがないことが、部屋の混沌に拍車をかけている。

最近ではとうとう妻が、新しい本やCDをこっそり抱えて帰宅した僕を見ては、「もう買ってこないで、きちんと整理するなら文句は言わないけど」と我慢しきれずに言う。それだけならまだしも、十一月で六歳になる娘がそれを真似するのには、本当に困った。妻に見つからなくても、娘が「お父さん、もう買ってこないでよ」。

それ程までに「迫害」されても、僕がこれらを買うのには理由がある。それは、「店頭で見かけて、ほしいと思ったものはその場で買わなければ、再び見つけられる保証はない」ということだ。本はすぐに絶版になるし、CDはすぐに廃盤になる。特に新潟という地にいると、ボサノバやブラジルポピュラーミュージック(MPB)のCDそのものがあまりない。だから今までに見たことのないものがあったり、東京動員のついでとかで買いためてしまうことになる(ちなみに本については、国内外問わず昔話の本を見つけると必ず買うことにしている)。

さて今回はボサノバと関係ない話だったけれど、僕がこういう苦労をしながら聞いてきた中で、お薦めのCDを少しだけ紹介する。なお、ブラジル音楽はかなり幅が広く、その中でも僕が聞いてきたのは、極めて狭い範囲のもの。それでも皆さんがボサノバ、MPBを好きになるきっかけにはなると思っている。

まず第一に、「ゲッツ/ジルベルト」(Verve)。一曲目の「イパネマの娘」はもちろん良いが、全体的にA.C.ジョビンの弾くピアノのオブリガードがたまらない。この盤については、僕はレコードしか持っていないので、CDナンバー(って言うのかな?)は分からない。レコード店でブラジル関係のコーナーになければ、ジャズのスタン・ゲッツのコーナーを探すこと。次に「BRASIL/JOAO GILBERTO」(PHILIPS・PHCAー42)。これはボサノバ第一世代のジョアン・ジルベルトと、それに引き続く世代のカエターノ・ベローゾとジルベルト・ジル、カエターノの妹マリア・ベターニアが、ジョアンのギターで歌っているもの。やっぱり1曲目の「ブラジルの水彩画(サンバ・ブラジル)」が絶品。過ぎた夏の海辺を懐かしむのならこの曲。「アントニオ・カルロス・ジョビン&エリス・レジーナ・イン・L・A」(PHILIPS・PHCAー6)もぜひ聞いてほしい1枚。A.C.ジョビンとエリス・レジーナのコラボレーションアルバムで、ジョビンのピアノにエリスの歌が基本だが、ジョビンとのデュエットが多く入っている。中でも一曲目「AGUAS DE MARCO(三月の雨)」と6曲目「CORCOVADO(コルコバド)」、十三曲目「CHOVENDO NA ROSEIRA(ばらに降る雨)」は美しい。ボサノバからはずれるが、ブラジルの熱い空気を感じたい人には、「DOIS NA BOSSA NUMERO2 ELIS REGINA E JAIR RODRIGUES」(PolyGram/ブラジル盤 518 061ー2)をお薦めする。これはライブだけに、盛り上がりがすごい。

ここまでは、大きなレコード店に行かなければ入手困難と思われるものだが、でも御安心を。

今年の七月に小野リサが出した「ボッサ・カリオカ」(東芝EMI・TOCTー10344)はボサノバの魅力をふんだんに伝え、入手も簡単な逸品。彼女自身とともにプロデュースしているのが、A.C.ジョビンの息子のパウロ・ジョビンとダニエル・ジョビン。

これを読んだところで、聞いてみなければその良さは分からない。皆さんもぜひ聞いてみてくださいね。

(EーMaiL fwhz2957@mb.infoweb.ne.jp)

真栄のサークル組織計画*連載第2回

リバーサイド誕生

藤原真栄(秋田県本部角館町職労/ザ・リバーサイドグラス所属)

前回は私自身の遍歴みたいな物をお話ししましたが、今回は私が属しているRSG(リバーサイドグラス、農林・労金・自治労の混成)の誕生秘話をお話ししたいと思います。秘話といってそんな大したことはないのですが、世の中何が幸いするかわからないと言うのが実感できるのがRSGの誕生物語です。

五年くらい前に日音協東北北ブロック合宿でコンサートのノウハウを勉強しようとコンサートを作る合宿を行いました。それまでユニットを組んでの運動というのはしたことが無かったのですが、秋田で何か出し物をやってくれとの話があったのでとりあえず後藤さんと私で何かやってみようということになりました。しかし、何かものたりない。二人でやっていても寂しい。二人の雑談の中で「役場の中で誰か歌の好きなやつはいないのか?俺たちが歌うより、女の子が歌った方がおもしろいんじゃないの」(注:本当は秋田弁で会話している)「そうすれば俺と同じ課に去年役場に入ったばっかりのカラオケのうまい女の子がいるんで誘ってみるか」。この会話がRSG誕生のきっかけでした。なにも知らないまま私にだまされてそのコンサートに出た柏谷さん(旧姓菅原)。運悪くそのコンサートには中央事務局長の天羽憲治氏が来ていたのです。若い女の子には免疫が無かったのか、それとも単に私たちがやったユニットが珍しかったのか、真意をまだ確かめていませんが、そのときの演奏を聴いた天羽氏から「中央祭典のコンサートに出ませんか」とのお誘いがありました。急ごしらえのつもりのユニットがこの一言で今まで続くユニットになったのです。

この後大小いろいろなステージを踏ませてもらいました。演奏している曲は自治労の仲間の歌を中心にこれまで先輩たちが作り上げてきた曲ばかりですが、今まで聞き慣れた物をアレンジを変えて演奏することで新しさを出せたかと思っています。オリジナル曲が少ないことを棚に上げているわけではありませんが、せっかくいい曲が有るのに埋もれたままになっている。こんなもったいない話はありません。作る人の思い入れもあるとは思いますが、アレンジという一つの手段でもっといろいろな人の耳に私たちの歌が入るようになるのであれば、多少のイメージチェンジも許されるのではないでしょうか。(作詞、作曲者の方々申し訳有りません)(つづく)

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