編集長の随時日誌 2007年10月 から分離

NHKに送信料を払う価値のある番組の推奨

2007.10.04(2019.9.10分離)

 拙著『放送メディアの歴史と理論』(2005年、社会評論社)では、「終章」として、「送信者へのコペルニクス的展開の道」を論じた。

 その前提となる放送団体の形成に関しては、前途遼遠であるが、個人でも可能な「送信」の要望として、個別の番組の推奨もある。

 以下の「その時 歴史が動いた」300回記念番組、「日中国交正常化」は、その一つである。

 2007年09月26日、NHK放映。


その時 歴史が動いた 「日中国交正常化」 午後10:00~10:43

その時:1972年(昭和47)9月29日、田中角栄、日中共同声明に調印

どう動かしたか:日本と中国との間に国交が樹立され、戦後の日中関係の基礎が築かれた。

 昭和47年9月25日、ときの総理大臣・田中角栄が北京を訪れた。戦後日本外交の一大課題、中華人民共和国との国交正常化のためだ。悲願の達成を間近に控え、メディアは交渉の順調ぶりを伝えていた。

 しかし実際の外交交渉の現場は紛糾していた。日本の戦争責任についての謝罪をどう表現するのか? 日本は、中国が認めない台湾との関係をどう清算するのか?

 4日間を予定した交渉は2日目ですでに暗礁に乗り上げていた。そして最大の争点は「日中戦争はいつ終わったのか」という問題に絞られていく。台湾と日華平和条約を結んだ昭和27年に日中戦争は終わったと主張する日本。しかし、中華人民共和国側は、日華平和条約は無効であり、日中戦争は今回の共同声明の公表の日に終了すると主張。両国の主張は平行線をたどった。それがなぜ、残り2日の話し合いで合意にたどりつくことができたのか。

 息詰まる外交交渉の裏側を、当時の関係者の証言を軸に、日中双方の豊富な記録を交えて描く。「その時歴史が動いた」300回記念番組。


(2019.9.10野次馬追記)

 2005年発行の『放送メディアの歴史と理論』には、1994年発行の『電波メディアの神話』の内容が取り込まれている。
 上記の「送信者へのコペルニクス的展開の道」も同書にある。この見出しでは何が言いたいか分かりづらいが、無理やり一言でいうと、「市民に放送枠を寄こせ」。
 荒唐無稽な主張と揶揄する向きもあったようだが、事実は理屈より奇なり…ではなく、現実は主義主張理論を追い越し、置き去りにもする。
 インターネットの急速な発達で、「市民」は無料もしくは格安の「発信枠」を手に入れた。好き勝手に発信できる。ネットテレビも始まった。
 著者はこんな事態を予想していただろうか。