クリスマス・イヴの12月25日、時折街角でジングルベルとかホワイトクリスマスとかを耳にしながら、野暮もここに極まれり、霞ヶ関の裁判所まで出掛けた。
『ヴューズ』(97.1)「正義を売る商店・朝日新聞株式会社の正体」第1章「リクルートの『接待旅行』」を執筆した岩瀬達哉は、その仕返しに本多勝一から、「捏造記事」「パパラッチ」「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」「人間のクズ」「カス」などと言いたい放題の罵詈雑言を浴び、それらを名誉毀損で訴えた。
元を糾せば、岩瀬の記事を「捏造」と非難した側の方が、講談社と岩瀬を相手取って名誉毀損の訴訟を起こすのが筋なのだが、彼ら元朝日新聞著名記者らも朝日新聞社も、未だに訴訟を提起していない。この辺の裏の事情についての観測は、のちに詳しく記す。
私自身は、本多勝一個人ではなくて、本多勝一が社長の株式会社金曜日と、その会社が発行する『週刊金曜日』の筆者2人を、名誉毀損で訴えている。詳しくは別途、わがホームページを参照されたい。
当然のこととして、この「岩瀬vs疋田・本多」裁判の帰趨は、非常に気に掛かる。原告の岩瀬を応援したい。しかし、私の方の訴訟は、別途、やはりホームページ参照の「ガス室」問題をはらんでいる。岩瀬に「ガス室」まで背負わせるのは気の毒だから、少し離れて見守るしかない。
早目に東京地裁に電話をして、口頭弁論の予定を確かめたところ、担当書記官は、「法廷はラウンドテーブルの524号で傍聴席は6-8。くつろいで議論ができる方が良いというのが裁判官の判断」という。「その主旨は分かるが狭い。取材にくる人が多いのではないか」と聞くと、「提訴の時の様子では傍聴者は少ないかも」などと言う。
結果は、私の予想の大当たりだった。
私自身としては、狭い傍聴席だと溢れて入れない心配があるから、「先んずれば人を制す」の格言に従い、開廷予定の午後4時20分より30分も早目に5階の524号法廷の前の中廊下に入った。ところが、524号法廷の扉には、普通のガラス箱入りの予定表とは違う「使用中」などと手書きした紙が張ってある。おかいしいなと思い、近辺の壁を見回すと、かなり離れた場所の壁に、「岩瀬vs疋田・本多」裁判の「法廷は721号に変更」とある。気付かなければ危ないところだった。
急いで7階に行くと、まだ721号法廷の扉には鍵が掛かったままだったが、案の定、すでに何人かの取材者風の男女がいて、予定表を見ながら、裁判官の名前をノートしたりしている。傍聴席は36人用の法廷だったが、開廷前に、都合22人の傍聴または取材者が現われた。
被告側には、弁護士が3人も現われた。3人とも、なんと、旧知の「市民派」だった。詳しくは、のちに紹介する。
あとから1人だけ、助手のような見知らぬ若者がきて、後ろの席に座った。当事者用の座席に座るのは普通は当事者か代理人だけであるが、私自身が原告の労働事件では、被告の会社側の席に訴えた相手の代表の社長が現れず(これは大企業相手の場合は普通)、労務担当重役が代理人の手伝いをしていたので、これは不公平、いや、本当は、これはしめたと思って、こちらも協力者の組合幹部の同席の許可を得たことがあるので、座っただけでは弁護士かどうかの断定はできない。背広の折り返しには、バッジが付いていなかったし、身分まで聞いて確かめる時間の余裕はなかったので、これは宿題として次回口頭弁論の取材予定に残して置くことにした。
(1999.2.6.追記:2回目に発言してので判明。やはり駆け出し弁護士だった)。
被告本人は、岩瀬がイニシャルでHとだけ記した内の一人、元朝日新聞論説委員で「天声人語」の執筆者だった田桂一郎が、法廷に現われた。本多勝一は欠席だった。
私は、一番まえの左端、原告側の席に陣取った。この位置からだと、被告側を、ほぼ方面から見ることができる。口頭弁論の言葉だけではなく、しゃべる弁護士の表情、身振りまでも正確に記憶にとどめて置きたかったのである。
原告本人の岩瀬は、当然、出廷である。私の前を横切る時に、丁寧に頭を下げた。
なぜ、岩瀬が私の顔を知っているかというと、その13日前に当たる12月9日に会っているからだ。
以下、『歴史見直しジャーナル』24号記事の増補版によって、その有様を要約する。
12月9日、トーク酒場「ロフトプラス1」の一日店長は『噂の真相』岡留安則編集長。ゲストは本多を名誉毀損で訴えた『ヴューズ』記事執筆者の岩瀬達哉。
岡留店長は、本多にも参加を呼び掛けたが返事なしと言い、客席は爆笑。
私は、いささか厳しい質問を予定していたのだが、岡留店長に先回りの自己批判をされてしまった。
実は、直接的に自分の意見としてぶっつけるのは気が咎めるので、『噂の真相』の本多勝一「老害」は誤りで、本多勝一は「一貫して便乗型の提灯持ち」だと断罪する『人民新聞』(98.11.15)「論壇のぞきメガネ」説を、質問の材料として用意して行ったである。 ところが、すでに同様の批判が集中していたようだった。その場でも、客が「コラム提供」の共同責任を追及すると、岡留店長は非常に真剣な面持ちで低頭した。
「不明を恥じ、自己批判します」
私には逆に、「学歴詐称問題」(後出)に関して質問してきた。
これには、答えながら、むしろ気の毒にさえ感じてしまい、ついつい、「本多勝一も大手メディアの犠牲者」などと言ってしまったほどである。
本多勝一は、初期の作品、通称「極地3部作」で、たとえば、朝日新聞社が1936年(昭38)に発行した『カナダ・エスキモー』初刷の場合、「京都大学農林生物科を経て」「朝日新聞社入社」と記していた。それらの作品の講談社文庫社版では明確に「京大農林生物科卒」となっている。
ところが、『現代』「新聞記者・本多勝一の崩壊」(73.8)によると、京大は「中退」とあるので、朝日新聞社の人事部に問い合わせると、入社の経歴書には「千葉大薬学部卒業となっているから朝日新聞に学歴を偽って入社したのではない」とのことだった。
被告・本多勝一自身は『貧困なる精神』第4集に収録した一文、「これも異色か」(初出60千葉薬雑誌)の中では、千葉大卒業後の京大への学士入学の経過を記しているが、そこには「中退」の「チュ」の字も見えない。
このような「記事デッチ上げ」「経歴詐称」の常習犯が、朝日新聞の看板記者だったことには、やはり、驚く他ないのである。
岩瀬は、、岡留店長の質問に答える形で、法廷の予定を語った。
当日の法廷で私の隣に座った若者は、どうやら、ロフトプラス1にもきていたらしく、最初は私に、「本多さんはどちらですか」と聞いてきた。きていると思い込んでいたらしい。私が「出てこれるわけはないだろ。あれだけ嘘がばれてしまったんだから。私の裁判にも本人が現れたことは一度もない」というと、「木村さんですね」ときた。
「岩瀬vs疋田・本多」裁判の次回口頭弁論は、本年1月27日10時30分から721号法廷。
私も当然、続いて傍聴参加する。
以上で(その1)終り。次号に続く。
さて、話をまた、霞ヶ関裁判所合同庁舎7階721号、「岩瀬vs疋田・本多」裁判の場に戻す。ただし、この密室に展開された複雑な人間関係を、少しでも分かりやすく説明するために、時計の針の方は、いったん少し先に進める。
「岩瀬vs疋田・本多」裁判の第1回口頭弁論は、予定より15分遅れの午後4時35に始まり、5時過ぎまで掛かった。
1998年12月24日。クリスマス当日。時刻は、前世紀xxxx年のロンドンで、前日のクリスマス・イヴに、『クリスマス・キャロル』の主人公で、ドケチの金貸し、スクルージュが、慈善の寄付を断って、事務所の重い扉を閉め、古びた鍵をガチャンと掛けるころである。
裁判所は役所だから、定刻の午後5時を過ぎると正面入り口が閉まる。あとは通用口から出ることになる。早く出ていけとでも言いたげな雰囲気になるから、皆が急ぎ足でエレヴェイターに乗り込む。
霞ヶ関の裁判所合同庁舎1階の壁には、ニッポン代表オール・ゼネコン・コンソーシアムによる建造を記念するプレートが嵌め込まれている。
エレヴェイターは実に頑丈にできていて、定員の30人以上乗ってもビクともしない。できたての頃に争議団の仲間とギュウギュウ詰めを試してみて、「さすが反動の牙城」などと言っては、ゲラゲラ笑ったものである。
「岩瀬vs疋田・本多」裁判閉廷後のエレヴェイター内も、定員すれすれで、しかも、まさに呉越同舟だった。
私の隣に、被告側代理人の梓澤弁護士がいた。そのまた隣には、原告側代理人の渡辺弁護士がいた。7階から1階まで降りるのだから、結構時間が掛かる。そこで私が旧知の梓澤弁護士に向かって、「本多勝一はゴロツキですよ。最初から学歴詐称。自分の過去の文章まで改竄している。本多勝一に騙された弁護士ってのを書こうかと思っていると言ったら、出版社が、それは面白いっていうで、……」と、そこまで言い掛けると、ベランメエ口調の渡辺弁護士が、「早く書いてよ」と大声を出し、エレヴェイター内には失笑・爆笑が渦巻いた。
つまり、敵も味方もない。実は皆が皆、本多勝一の“噂の真相”を熟知しながら、裁判とういうゲームの場で相対しているのである。
はい、ここでまた、時計の針を1時間ほど前に巻き戻す。
こちらは、ほとんどが無宗教の癖に、お祭り好きの日本列島、江戸城のそば、……
なのに唯一、ジングルベルもホワイトクリスマスも、まるで聞こえてこない、外部の音をまったく通さない、頑丈な厚いコンクリート壁に囲まれ、窓もない無愛想な部屋の中で、開廷10分前の午後4時10分頃、私は、左端の一番前の傍聴席に座った。
戦争中の貧しい食糧で育った典型的胴長短足の私ではあるが、無理して短い足を伸ばし、左腿を右腿の上に乗せ、胴体を少し斜め右向きにする。こうやってみると、左端の一番前の座席は、裁判席と被告席を見渡して、表情を観察するのには最高の位置なのである。
読者の皆さんも、ぜひ一度試して頂きたい。「聞いて極楽、見て地獄」、いや違った。もとい。「百聞は一見にしかず」。
ただし、これだけ具合の良い位置だからであろう、と、わが自称名探偵は推理したまま裏付け取材をサボっているのであるが、この位置の数席は、取材記者専用になっていることが多い。その場合には、背もたれに「記者席」と書いた白いビニールの覆いが掛かっている。
ところが、一般の慣れない傍聴者は、すでに裁判所の物々しさに気押されてしまってから法廷に入ってくるから、珍しくもないビニール覆いには気付かないことが多い。
気付かずに座ってしまうと、時には、これまた経験の浅い新米廷吏が、慌てて、すっとんできて、「そこは記者席ですから」などと追っ払う。これでますます裁判所嫌いが増える仕掛けでもある。
裁判所の階級組織では、一番上から、裁判官、検事、弁護士、書記官、廷吏、警備員、などなどの公職者が、キンキン綺羅星のごとく居並び、その他大勢の中でも民間人かつ貧乏人の原告、被告、傍聴者などは、最下級の「どぶ」(現代銀行用語を借用)に澱む虫けらの扱いとなる。
その他の特別待遇者の中に「記者」がいる。カッコで括ったことに注意してほしい。
当日は、「記者席」の特設はなかった。しかし、前回も記したように、早くから何人もの熱心な取材者が来ていたのである。
ここで、はてな、などと考えるのは、日本列島では素人も素人である。
裁判所だけのことではないが、官庁が「記者」として処遇するのは、「記者クラブ」と称する新聞社と放送局の、それも大手企業だけのサラリーマン(困ったな、また。これは男性形。また抗議を受ける。もともと間延びしたカタカナ語を使う風習がいけないのだが、さらにパースンにすると2字も増えるので、逆に減らして以下「給料鳥」とする)だけのことであって、個人営業はもとより、一応は給料鳥でも雑誌記者なら、やはり「どぶ」扱いとなるのが、ここ日本列島の牢固たる封建的風習なのである。
そんなこともブツブツ考えながら、しかし、その日は、自分が事件の当事者ではないことを改めて確認し、「結構、結構、他人の裁判を傍聴するだけの立場ってのは、まことに快適至極」などと、心をくつろげて楽しむ構え。ゆっくりと法廷内を見回す。
だが実際には、まったくの第3者の気分にはなり切れない事情があった。長年のしがらみの伏水流が、ここでも予想以上に噴き上げてきたのだ。
被告側の席に最初に現われたのは、先刻ご承知、旧知の梓澤弁護士だった。私より10歳ほど若いはずだが、このところ、老けが目立つ。
不況下の弁護士も大変だね、などと思いつつも、無意識の条件反射が働いてしまって、座って格好を付けたばかりの私が、わざと目に付くように勢い良く立ち上がって、彼の注意を引こうとしていた。ところが、彼は、こちらに目を向けない。正面から見続けた。それでもまだ、こちらを向かない。やはり、なのか。
仕方なしに私は、中くらいの声で「梓澤(あずさわ)さん」と呼び掛けた。
今度はさすがに、こちらを見たが、彼の目は凍り付いたように動かない。無表情というよりも、硬直してしまっている。気の毒だから、私は、軽く会釈して、また座った。
次に被告席に現われたのは、やはり旧知の小笠原弁護士だった。同じくやはり旧知の桑原弁護士が一緒だった。今度は座ったまま目を向けたが、小笠原弁護士は、私に気が付いて軽く会釈を返してきた。しかし、彼女の目も感情を押し隠している。桑原弁護士は、いつものポーカーフェイスの薄目しか開かない。特に考えるまでもなく、弁護士商売には博打の要素があり、法廷は演技の場なのである。
被告側の真ん中には、やはり旧知の高見沢弁護士が最後に入廷して座った。彼は、開廷時間ぎりぎりに駆け付けてきて、せわしなく書類をめくったり、打ち合わせをしたりしているので、こちらも、無理に注意を引こうとはしなかった。
原告側の真ん中には、渡辺弁護士が座った。原告側弁護士は彼一人である。私は、渡辺弁護士とは初対面である。
弁護士の布陣の数だけで見ると、被告の方が金持ちで、原告の方が貧乏人の構造である。ところが、私にとってはいずれも旧知の被告側弁護士は、4人とも「市民派」、つまりは簡単に言うと貧乏人を助けることに使命感を抱く立場の弁護士なのである。
梓澤弁護士が、私を見て凍り付いたのは、または、おそらくは、それ以前から私の存在を目の隅でとらえていながら、あえて視線を動かそうとしなかったのは、彼が、この事件をめぐる状況の中での私の位置付けを熟知しているからに他ならない。実は、数日前にも、電話で別件の話をしたばかりの関係なのだから、本来ならば、いつものように、学生時代のスポーツマンらしい元気の良い笑顔の会釈を返すべきところなのである。
梓澤弁護士と知り合ったのは、私が、日本テレビ相手の不当解雇反対闘争中で、東京地方争議団共闘会議という野暮の骨頂のような名前の組織の副議長、それも「法対」という、これまた野暮な組合用語の役職の担当をしていた頃だった。
「法対」は、おそらく「法律対策」の略称なのだろうが、由来は定かでない。
私は「法律」嫌いだから、勝手に「法廷闘争対策担当」と訳していた。労働事件の労働者側勝率が「巨人よりも悪い」10パーセント台などという時代だから、裁判所は、もっぱら抗議行動の「闘争」対象だった。抗議集会、裁判所に押しかけて面会を求める要請行動、署名提出、傍聴動員から最高裁を取り囲むデモ、人間の鎖作りまでやった。
もう、かれこれ20年ほど前のことである。
折から、「裁判官任官拒否反対闘争」などという舌を噛みそうな分かり難い運動が始まった。司法試験に合格すると、2年間は公務員扱いの司法修習生になる。そこで裁判官を志望したのに、人事権を握る最高裁から拒否される司法修習生が出始めた。その一方で、すでに裁判官コースに入って判事補になったいたのに、「青年法律家協会を抜けろ」という圧力を掛けられる事件が発生した。
この状況下、梓澤弁護士らの「成り立てホヤホヤ組」が、抗議運動への協力を求めてきた。それが馴れ初めで、今も、何もなくても年賀状のやりとりを続けている関係なのだから、その梓澤弁護士の表情が、私を見て「凍り付く」のは異常事態なのである。
実は、こういう事件で一番辛い立場に置かれるのは、日頃は「市民派」を張っている弁護士なのである。
争議中にも、相手が中小企業の場合には、双方の弁護士が自由法曹団員だったなどという例が見られた。自由法曹団は、団員約1000人を要する戦前からの最左派法律家組織である。和解できる事件なら都合が良いこともあるが、こじれる事件では、実にやり難いというのが打ち明け話だった。
私は、梓澤弁護士だけではなくて、同じく年賀状をやりとりしている小笠原弁護士にも、地元の武蔵野市の集まりで知り合っている高見沢弁護士にも、「本多勝一にも弁護される権利を認めざるを得ないのだから、この事件で被告側に立つこと自体は非難しない」という趣旨の手紙を送る予定である。
以上のように、弁護士の布陣のことだけでも複雑な人間関係である。さらに次回に継続するが、小笠原彩子弁護士は、私が原告の不当解雇事件の弁護団の一員で、実際に、原告側証人の医者の証人調べを担当してくれたことさえある。
私の言う「本多勝一に騙された弁護士」とは、この事件の代理人のことではない。
それ以前に、通称「本多勝一反論権裁判」があって、その事件は昨年、1998年7月17日に最高裁が上告棄却の判決を出し、本多勝一の敗訴が確定している。この判決文中の「上告代理人」の2番目と3番目に、「同(上告代理人のこと)小笠原彩子、同桑原宜義」が並んでいるのである。
さらに、桑原宜義弁護士は、私が『週刊金曜日』を発行する本多勝一が社長の株式会社金曜日と執筆者2人を名誉毀損で訴えた事件の被告会社代理人なのである。
ああ、こがらがった、こがらがった、ああ、しんど。この複雑な人間関係、お分かり頂けましょうか?
以上で(その2)終り。次回に続く。
前回の「本多勝一にだまされた弁護士」の続きだが、こう表現しながらも胸が痛む。
「だまされた弁護士」の中には、私の日本テレビ放送網株式会社相手の不当解雇撤回闘争の弁護団の一員、小笠原彩子弁護士や、旧知の市民派弁護士が加わっていたからだ。
だから私は最初、「やりにくいことになった」と思った。しかし、よく考えてみると、ますます腹が立ってきた。一応の理論的な位置付けの整理ができたからだ。理論的なだけではなくて、感情の整理ができたと言ってもいい。私の結論を簡単に言うと、このような「やりにくい状況」の原因は、本多勝一の方の「ぬえ的」処世術にあったのだ。
そこで私は、人の良い「市民派」弁護士をだまし抜いてきた本多勝一に対して、さらに許せないという怒りを覚えたのである。ただし、「本人の言によれば」でもあるが、おそらく事実、「本多勝一反論権裁判」の弁護団を集め、裁判関係の原告側実務を担っていたのは、初代『週刊金曜日』編集長、和多田進だった。彼は、この12月25日のクリスマス当日の「岩瀬vs疋田&本多裁判」の傍聴にも現われたが、法廷前の廊下で彼を迎えて会釈した私を見る彼の表情は非常に固かった。ああ、この件も、ますます「こんがらがった」なのであるが、その事情は後に紹介する。
「本多勝一反論権裁判」の最高裁判決は、『判例タイムズ』(1998.12.1.)に紹介されている。私は、最高裁での一件記録閲覧を予定しながら、ついに果たすことができなかったのだが、最高裁の判決の論理は、以下に紹介するような私自身の地裁での陳述書の論理と、まったく同じであった。前々から最高裁判事ぐらいの仕事なら、お茶の子さいさいと思ってはいたのだが、その通りであった。
以下、私自身の地裁での陳述書からの引用。
ただし、弁護士なしの本人訴訟なので、遠慮会釈のない文章になっている。優等生揃いの合議体裁判官たちは、きっと驚いたに相違いない。別途、わがホームページにも裁判情報を入れてあるが、この陳述書に添う形の原告本人証言は、いったんは決まっていたのに、裁判長の交替もあって行われず、「陳述書も出ているから」という口実で「突如結審」となった。そちらの判決は、本年2月16日10時30分、地裁 7階 713法廷で言い渡される。
法廷終了後には交流の場を持つ習慣なので、興味のある方は、傍聴参加を!
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もう一つの忌まわしきゲッベルス流デマゴギー駆使の源流
私が、以上に略述したような「南京大虐殺まぼろし論」の経過を調べる気になったのは、本件の『週刊金曜日』を舞台とした私への不当極まりない名誉毀損・誹謗中傷行為が頂点に達し、私がやむをえず本来の仕事を中断して被告・本多勝一に反論の場の提供を求めて以後のことです。その当時、特に被告・金子マーティン執筆の連載記事が話題に上った際、ある事情通の出版編集者が、「本多さんは文藝春秋に同じ頁数の反論を要求していますよ」と教えてくれたのです。
そこで忙しい私は、深く調べる余裕のないままに、1997年 3月 4日付けファックス通信(甲第33号証の27)で「一件資料を取り寄せ中」と断った上で、「本多氏と同じような要求をすることになるでしょう」と予告しました。それに対して被告・本多勝一は、同年同月7日付けファックス通信(甲第33号証の32)で、「私が文芸春秋の雑誌『諸君』に対して提訴した件は、今回の場合全くご参考になりにくいと存じます」という返答を寄越しました。
付言すれば、右の引用部分の「全くご参考になりにくい」は、被告・本多勝一の非論理的な思考過程の実態を露呈する悪文の典型です。「全く」と「なりにくい」とは論理的に矛盾します。「全く」を前置するのは、この場合、効果を全面的に否定する意味ですから、「ならない」と結ぶべきです。
さて、その折、これも偶然でしたが、「切抜き」というよりも「破り取り」という表現の方が実態を現わす資料ファイルの中に、前出の1996年5月31日付け『週刊金曜日』(甲第15号証)記事があるのを発見しました。
先には、その一部である「南京大虐殺」関係の部分の問題点を記したのですが、その同じ44頁4段の 6行目以降に、被告・本多勝一が「文芸春秋の雑誌『諸君』に対して提訴した件」と記した事件の概要が載っていたのです。被告・本多勝一の衒学趣味は、この際、非常に好都合でした。先の『週刊文春』の場合と同様に、「1981年5月号」と付記されていたからです。これならば、超多忙の私にでも、原資料の収集が可能になります。本来の仕事に必要な資料調査で毎日のように武蔵野市中央図書館に立ち寄るので、その際、数分間だけの無駄を我慢して、都立多摩中央図書館からの取り寄せをリクエスト用紙に記入して置けば、あとは自動的に原資料が届き、必要な記事をコピーできるのです。
被告・本多勝一は、前出の「雑誌『諸君』に対して提訴した件」に関しても、『週刊金曜日』(甲第15号証)44頁4段の 7行目以降に、「『今こそ「ベトナムに平和を」』(甲第48号証)という評論で、他人の言葉をそっくり私の言葉になるように改竄した上で私を非難中傷した」と称しています。
ところが、これまたというよりも、こちらの方が先の『週刊文春』記事(甲第44号証)に対する「スリかえ」と言う表現による非難の先例なのですが、右の記事「今こそ『ベトナムに平和を』」(甲第48号証)のどこをどう読んでも、「他人の言葉をそっくり私の言葉になるように改竄した」と言う事実は発見できなかったのです。強いて言えば、同記事の61頁2段8-10行に、「本多記者は[中略]……であるといっている」と記している部分が、いささか誤解を招くかもしないといったところでしかありません。
しかも、この記事の筆者、殿岡昭郎は、さらに次のような指摘をもして、被告・本多勝一の文責を批判しているのです。
「もちろん、逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている、彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか」(同62頁3段 14-17行)
このような「全て伝聞」による報道操作は、すでに指摘した大手メディアの通弊です。日本の一般の大手メディア報道との違いは、大手メディアの伝聞報道のほとんどが無署名なのに、被告・本多勝一の場合は「署名記事」だということだけです。
その他の部分の記述についても確かめました。地元の武蔵野市中央図書館が「著名『新聞記者』」被告・本多勝一の著書をほとんど買い揃えているので、書庫(利用度の低い本を収納する)から捜し出して貰った『ベトナムはどうなっているのか?』(甲第49号証)の記述と対照すると、該当部分の記述は全く同じでした。
この件を被告・本多勝一は、「提訴せざるをえなかった」(甲第15号証)と主張していたのですが、裁判に関してはすでに本件訴状に記した時点では、地裁・高裁で被告・本多勝一が敗訴して上告中のところ、最高裁でも本年7月17日言い渡しで敗訴確定です。私は行き掛かり上、この件の訴訟資料の調査をも予定したのですが、それに要する時間を割けずに今日に至りました。とりあえず私見を一言しておくと、私が「今こそ『ベトナムに平和を』」(甲第48号証)の執筆者であった場合には、次のように反論したでしょう。
「本多勝一は、『エセ紳士』こと朝日新聞社が、ハノイ支局=商業的情報源を確保するためにヴェトナムに派遣した御用記者としての本分を遺憾なく発揮し、ヴェトナム政府当局の発表を、そのままそっくり報道し、一応の異論併記の格好を付けるために、著書では、小さい活字による〈注〉を付し、『ロイター電』に基づく朝日新聞報道の『新政権の宗教政策に抗議して焼身自殺』という報道の存在を指摘しているのであるが、これまた卑劣な逃げ道の確保にすぎないのであって、日本式の『客観報道』なるものが実際には当局発表の提灯持ちでしかないことは、昨今の常識である。本多は、『ヴェトナム政府かく発表せり』というのが『事実』だと強弁するのであろうが、この事件に関しての核心的な『事実』は、ヴェトナムの『新政権の宗教政策』なるものが、『宗教弾圧』であるかどうかなのである。本多は、自分が給料を貰っている朝日新聞社の報道の基になっている『ロイター電』の検証を何らなさず、また、『本社』『本社』と呼び習わす数千名の記者を要する天下の朝日新聞社の調査機能を総動員しようともせず、ただただひたすらに、ダラダラと牛の涎のように長々と、ヴェトナム政府の当局発表を書き写し、それと合致する現地の噂を拾い集めて書き並べ御用記者の役割を果たし、ヴェトナム政府当局の報道操作の国際版をせっせと垂れ流したのである。
このような報道姿勢は、たとえ社会主義の擁護者であっても許すべきではないのであって、善意の場合でも『贔屓の引き倒し』となる。低水準の下卑た『高砂屋!』などの追従野次は、役者の傲慢を助長するばかりで、芸を腐敗させる。ましてや、その当局発表報道が、『エセ紳士』の商売繁盛を目的とし、その『エセ紳士』の祿を食む御用記者が自らの為にする所業であるとすれば、これ程に醜い卑劣行為は他に例を見ない」
被告・本多勝一は、右『週刊金曜日』(甲第15号証)記事の45頁 1段23行以降で、「(右『諸君』記事に関する)裁判であまりに時間を取られ、これ以上また提訴で時間を取られては仕事に差支えるので、(右『週刊文春』記事[甲第44号証]の件を)時効のままに放置せざるをえなかった」と嘯いているのですが、これまた実に忌まわしきゲッベルス流デマゴギーの駆使に他なりません。
本当は、訴訟を起こし得ないほどお粗末だったので、諦めざるを得なかったに違いないのです。私には、決して、商業主義の文藝春秋の肩を持つ気はありません。むしろ、この件では、商売に重大な支障さえきたさなければ、被告・本多勝一が撒き散らす「ゴロツキ編集長」(甲第15号証)などの薄汚い罵倒を放置し、被告・本多勝一を甘やかし、あまつさえ『マルコポーロ』廃刊事件を起こし、それらの結果が、被告・本多勝一らによる私への攻撃につながっていることに関して、超多忙中ながら、とりあえず文藝春秋社長室に電話で強く抗議の意思を伝えたほどです。
私は、本件訴訟に関して、今年の1998年 1月 2日以降、私が作成するインターネットのホームページによって、主要な書面、書証などの世間への公開を開始しました。本陳述書も同様の方法で発表します。被告・本多勝一が、以上のような私による批判を不当だと主張するのであれば、まだまだ「時効」どころか、出来立てのホヤホヤ状態ですから、もしも身の潔白を証明し得る、または身の潔白を証明し得ると主張し続けて日本特有の長期裁判に一縷の望みを託し、「市民派」気取りによる現世の仮そめの世すぎ身すぎを全うしたいと願うのであれば、思い切って私を相手にして「提訴」されると良いでしょう。
訴訟開始に要する費用を、そちら持ちで法廷、インターネット、その他メディアを活用する裁判ができるなら、私は大歓迎します。
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以上で、私自身の地裁での陳述書からの引用は終り。
本来ならば、本多勝一も弁護団も、この負けた事件の最高裁判決を批判して、さらに論陣を張るべきところなのであるが、『週刊金曜日編集部』に直接確認したところ、「そうですね。見掛けませんね」という気の抜けたビールのような返事しか戻ってこなかった。「人の噂も75日」とばかりに、ひたすら「頭隠して」いるに違いない。こちらは、嫌な役割だが、「尻見えた!」と言い続けるしかない。
お人好しの市民派弁護団には気の毒だが、私の心証では、この「本多勝一反論権裁判」なるものは、まず、法廷の内部の争いでしかなかった。
次には、その唯一の争いの場の法廷の内部で、最初から絶望的に敗北していた。
その絶望的敗北の決定的理由は、本多勝一の「学歴詐称」問題である。
この事件の 1審、東京地裁の法廷で、本多勝一が著書の奥付に、正式には「千葉大学薬学部卒業」と記すべき学歴を、「中退」の事実を隠して「京都大学農林生物科を経て」としたり、甚だしきは、「京都大学農林生物科卒業」としていたりする虚言癖の一部が暴露され、本多勝一は一言も発し得なかったのである。
経歴詐称という欺瞞は、「あの」図々しい国会議員でさえも自主的に辞任せざるを得なくなるほどの喜劇的行為である。特に、ギチギチの四角四面、法的手続き後生大事の裁判官が、法廷の舵取りであってみれば、この学歴詐称というマンガチック詐欺行為が暴露された途端に、弁護団は一斉に辞任すべきところだったのである。
もう一つ、弁護団の錯誤の理由は、「右」か「左」か、にあった。これは、上記の事件で最初は本多勝一と共著の『ペンの陰謀』に名を連らねていた私の旧友、菅孝行の言葉である。彼は、私の方での事件の私の側の証人申請を了承してくれたのだが、その際、「なぜ本多勝一に味方したのか」という私の質問に対して、「当時は何でも右か左かの判断だった」と答えたのである。
その「右か左かの判断」の目安として働いたのが、これも当時から「左」と目され、今も自ら「本多勝一反論権裁判」の弁護団を組織したと語っているキーパースン、当時も今も晩聲社社長、初代『週刊金曜日』編集長、和多田進の存在である。先に簡単に紹介したように、彼も、1998年12月25日の法廷にいた。
以上で(その3)終り。次回に続く。
本連載の題名に「同時進行版」と銘打った以上、本来ならば、連載と同時に進行している被告・本多勝一関連のモロモロの事件を、すべてここに一網打尽にすべきところなのであるが、これが実は、「盆と正月、一緒に来たよな、テンテコ舞の忙しさ」なのである。いわば「本多勝一、いよいよ年貢の納め時」なのであろうか。
第1に、最新情報として、インターネット上の「本多勝一研究会」の結成がある。すでに、いくつかの長文の投稿が始まっている。しかし、これは、本誌の本号では、別途「緊急特集」の項目に整理することとするので、そちらを参照されたい。
第2に、もう一つの「同時進行」、「本多勝一にだまされた弁護士」の続きだが、この件については今回、小笠原彩子および梓澤和幸の両弁護士宛てに送った私の下記の手紙を紹介することにして、「だまされた」事件の本命、「本多勝一反論権訴訟」の論評の続きは、後に繰り延べとする。
下記のごとく、小笠原彩子および梓澤和幸の両弁護士には、私の対『週刊金曜日』裁判への業界内での理解を求めて、1997年1月創刊、毎月発行の『歴史見直しジャーナル』の無料「謹呈」を続けていたのである。
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拝啓。
差し出がましいようですが、当方の都合上、きたる1月17日の法廷にも傍聴に参りますので、一応のご挨拶をと、いつも送っている『歴史見直しジャーナル』に添えて、被告・本多勝一に関する決定的な資料だけをお送りします。
もとより、ヒトラーにも、被告・本多勝一にも、法律の専門家の弁護を受ける権利があるわけですが、揃いも揃って私の旧知の市民派弁護士ばかりが4人も、被告・本多勝一側に並んだ時には、いささかの感慨が無きにしもあらずでした。
彼を弁護すること自体を非難するわけにはいきません。
しかし、彼の正体は、正確に知って置いた方が、今後のためと思われますので、こうして、これだけが唯一の自慢の貧乏暇無しの追い込み作業の合間を縫って、コピ-資料を、お送りする次第です。
なお、現在、オーストラリアに留学中の佐佐木さんという「元・本多勝一ファン」の学生さんが中心になって、インターネット上の「本多勝一研究会」が結成され、さらに詳しい全面的な彼の欺瞞の歴史が体系的に明らかにされようとしています。
以上。1999.1.19. 木村愛二
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ああ忙しい、忙しい。「テンテコ舞の忙しさ」ながら、再び、昨年の1998年12月25日、クリスマス当日の東京地裁721号法廷「岩瀬vs疋田&本多裁判」の傍聴席に戻る。
この裁判の次回、第2回口頭弁論の期日が、わがWeb週刊誌『憎まれ愚痴』の次回発行日、1月29日の2日前、1月27日午前10時30分なので、一応、その前に、この裁判の進行状況をも記さないわけにはいかない。
12月25日の第1回口頭弁論は、実に面白かった。ここは正直に「羨ましかった」と言うべきなのもしれない。
もともと、本連載の第1回に記したように、この「岩瀬vs疋田本多裁判」の第1回口頭弁論は、5階の524号法廷で開かれる予定だった。日本語以外の使用を許さない裁判所の頑固な習慣にもかかわらず、なぜか「ラウンドテーブル」などと書記官が嬉しそうにカタカナ語で呼ぶ法廷である。読んで字のごとく、丸くて大きなテーブルを囲んで「話し合う」のが、この法廷の構造の狙いである。つまり、裁判長には、最初から話し合いの雰囲気を作る考えがあったのだ。そう私が断定するのは、電話で期日と法廷を確かめた時に、担当書記官が、そう言ったからである。
ところが、その後、傍聴取材の希望者が、当初予想以上に増えることが分かったために、法廷が変更された。せいぜい6,7人しか座れないベンチ型の傍聴席の 524号法廷では間に合わないから、傍聴席36の中型の普通の構造の法廷、 721号に変更されたのである。
普通の事件の口頭弁論の初期の段階は、俗に「書類交換」と呼ばれるほどで、一般の傍聴者には何が起きているのか、まるで分からない。「符丁」のやりとりの世にも不思議な世界の出来事なのである。労働事件や平和訴訟では、傍聴者の「動員」などをして、弁護士が「傍聴者にも分かるように」などと掛合い、辛うじて「口頭」の語義に合致する短い時間を確保している。傍聴者が少ないと裁判所になめられて相手にされない。
私自身は、対『週刊金曜日』裁判で、弁護士を雇う資金も、弁護士と打ち合わせる時間も無い、貧乏暇無しだから、本人訴訟と称される自分一人でやる訴訟をやっている。そこでも、もちろん、「裁判所の忙しさは重々承知の上ではありますが」と前置きしながら、「憲法と民事訴訟法に基づいて」「口頭弁論」の「口頭陳述」の時間を要求した。「30分」が「10分」、「10分」が「5分」に値切られる魚市場のような駆け引きを経て、短いながらも傍聴支援者に少しは進行状況が分かる法廷作りに努力した。
そんな地獄を這い回ってきた私から見れば、この「岩瀬vs疋田&本多裁判」の第1回口頭弁論は、まさに天国、または極楽であった。そうなった理由は、決して、裁判長個人の性格だけではないだろう。事件が事前にマスコミ報道され、特に、朝日新聞に講談社という日本のメディアの最大手が、背後に控えていることが、裁判所の姿勢に大きく響いているのである。
裁判所は、実は、その大見え切った建て前とは正反対に、メディア報道を非常に気にするのである。これはまったくもって不思議な現象でも何でもない。メディアを意識する性格と、権威主義の性格とは、裏と表の関係であり、密接に関連し合っているのである。
ともかく、この「岩瀬vs疋田&本多裁判」の第1回口頭弁論では、裁判長も、原告代理人も、被告代理人も、実に良くしゃべった。開始が15分遅れたが、入ってきた裁判長は、すぐに「前の事件が時間が掛かって」と素直に弁解した。いくつかの書面のやりとりを確認しながら、あまり形式にこだわらずに双方の主張の応酬が始まった。
被告側は、まず高見沢弁護士が立って、「言論人同士の争い」だから「言葉は激しくなるもの」とし、ニコヤカに「パンツを云々」などという論争用語の実例(ただし出典明示なし)まで挙げて、まずは裁判官向けの弁解を試み、原告側の請求趣旨が明確でないなどと主張して、論点を広げようとする。
続いて梓澤弁護士が立って、岩瀬執筆の講談社『ヴューズ』記事の信憑性を追及した。どうやら被告側の狙いは、岩瀬が疋田インタヴューの際に「テープ録音」をしたか否かの確認を求めることによって、疋田発言の「真実」性を、あやふやに見せようとする点にあるらしい。
原告側は、たった一人の渡辺弁護士が、「争点をはぐらかすな」といなし、「捏造記事」「パパラッチ」「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」などの被告・本多勝一が原告の岩瀬達哉に投げ付けた名誉毀損の表現の数々を読み上げ、「請求原因は不法行為」にあるとの主張を明確にする。
特に、以下の二つ、「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」については、以後、二度も繰り返して強調した。
裁判官は非常に率直に、「名誉毀損については、こちらにも最高裁判例がありまして」などと、客に品物を勧める商人が揉み手をするような腰の低い雰囲気で、場を和らげようとする。その「最高裁判例」の「真実」と「意見ないし論評」の評価に関する部分まで暗唱してみせた。
この裁判官発言と暗唱が、実は、私にとって一番羨ましい場面だったのである。私が『週刊金曜日』を訴えている事件では、原告の私が、同じ「最高裁判例」を何度も指摘して、上記の「真実」に当たる「ガス室の実在性」の立証を求めているのに、裁判長はのっけから、「裁判所はガス室があるかないかを判断しない」と言明したまま、突如、結審を宣言したのである。興味のある方は、別途、わがホ-ムペ-ジの「木村愛二の裁判」を参照頂きたい。
以下、対『週刊金曜日』名誉毀損・損害賠償請求事件、1998.10.12.「最終準備書面」より関係箇所だけを引用する。
「[前略]
二、『ガス室の存否を判断しない』方針の経過と当否について
[中略]
1.裁判所の訴訟指揮は、前任裁判長が理由を示さずに言い張っていた「ガス室の存否を判断しない」とする方針の必然的帰結であり、この点の回避願望は、実に奇妙なことに、被告会社らの側にも共通している。
2.原告は、『ガス室の存否を判断しない』という訴訟指揮に反対して、後述のように、97年11月25日に提出した準備書面(3)で、いわゆる『北方ジャーナル事件』最高裁判例を示して反論したが、奇しくも本件被告会社代表たる被告・本多勝一が原告の通称『本多勝一反論権訴訟』についても、以下のような同主旨の最高裁判例解釈が見られる。
『他人の言動、創作等について意見ないし論評を表明する行為がその者の社会的評価を低下させることがあっても、その行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出たものであり、かつ、意見ないし論評の前提となっている事実の主要な点につき真実であることの証明があるときは、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱するものでない限り、名誉毀損としての違法性を欠くものであることは、当審の判例とするところである(最高裁昭和60年(オ)第1275号平成元年12月21日第1小法廷判決・民集43巻12号2252頁、最高裁平成6年(オ)第978号同 9年 9月 9日第 3小法廷判決・民集51巻 8号3804頁参照)。』(甲第78号証・『判例タイムズ』98.12.1.85頁3段20行)
右判例に照らせば、特に被告・金子マーティンは、自らの行為が『公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出たものであり、かつ、意見ないし論評の前提となっている事実の主要な点につき真実であることの証明』を積極的になすべきであるのに、その権利を放棄していることになる。
実のところ、原告が準備書面( 3)で指摘したように、共同被告としての被告・本多勝一と被告・金子マーティンの『ガス室の存否』に関する主張の足並みは乱れているのであって、被告らは、法廷外における大言壮語の数々にもかかわらず、『ガス室の実在性』を法廷で立証することが不可能であり、むしろ藪蛇の逆効果となることを熟知し、恐れ、それゆえにこそ立証の権利を放棄したのである。
3.裁判所には、別途、学校教育の『立法・司法・行政』の独立論とは相反する政治的位置付けがある。
裁判官の事実上の無権利状態に関しては、通称『寺西判事補の分限裁判抗告』を棄却した最高裁決定に関する報道例(甲第79号証)を提出するに止めるが、本件に関するドイツ検察局への告訴の茶番、被告・金子マーティンの『国際公序』云々の主張などは、本来、法秩序を異にする日本国が関知すべき問題ではないにもかかわらず、『マルコポーロ』廃刊事件で外務省などが果たした水面下の役割を考慮するならば、一地方裁判所の一合議体に「ガス室の存否」の判断を迫るのは酷であると判断せざるを得ない。
原告が、あえて裁判官の訴訟指揮批判の『忌避』をしなかったのは、右の理由によるものである。[後略]」
先に「羨ましい」と述べたが、この「最高裁判例」の「真実」と「意見ないし論評」の評価に関する部分の取り扱いこそが、実は、この「岩瀬vs疋田&本多裁判」の私にとっての最大の見所なのである。
この「岩瀬vs疋田&本多裁判」の次回、第2回口頭弁論の期日は、冒頭に記したように、1月27日午前10時30分、東京地裁721号法廷である。また傍聴に行って報告する。
以上で(その4)終り。次回に続く。
1999.1.27.10:30から上記事件の「第2回(?)」口頭弁論を傍聴した。
(?)の意味は、これからゆっくりと、詳しく説明する。
次回は3.17.16:00-17:00に予定されたが、そこに行き着くまでが、いやもう、一口で言うと大変な騒ぎだった。
前編、これ生、かぶりつきで見られるし、少しは野次を飛ばしても大丈夫な、この、ブッツケ本番の実演を見逃した人は、きっと一生後悔するだろう。裁判傍聴ではベテラン中のベテランの私が言うのだから、間違いなしの大変で、波乱万丈だったのである。
まず第一に、第 1回には姿を現わさなかった本多勝一が法廷に現われて、本人陳述という形式の「イケシャーシャー嘘っぱち」を並べ立てた。しかし、この現われ方は、前回より少し減って開廷時に数えて13人の傍聴者すべてにとってと同様、私にとっても「突如」だった。この岩瀬達哉が提訴した事件の昨年12.25.第1回口頭弁論では、疋田&本多は、「被告」だったが、今回は、この両人が、被告であると同時に、原告にも化けて現われたのである。
どういうことかと言うと、実は、こういう裁判経過自体は、別に珍しくはない。
ところが、裁判長は、そういう事情を傍聴者に分かるように説明せずに、いきなりモゴモゴと隠語、符丁を呟いて開廷してしまうので、事情の変化を知らない傍聴者は、面食らってしまう。
ベテランの私でも、事情が初めて正確に分かったのは、裁判長が「反訴状」という言葉を使った時である。疋田&本多が、逆に、原告の岩瀬を被告にして名誉毀損の訴えを起こしたのである。双方が訴え合う関係になったのである。
そこで、傍聴者が前回に引き続いて、岩瀬提訴の事件だけの第2回口頭弁論が始まると思っていたのに、何の説明もなしに、実はまだ別件の疋田&本多提訴事件の第1回口頭弁論が、いきなり展開されたのである。これが冒頭の「第2回(?)」の意味である。
この日の法廷での最初からの経過を振り返ってみると、この「反訴」の兆候は確かにあったのだった。定刻ギリギリに入廷した本多勝一は、桑原弁護士にかしずかれるようにして、前列の普通の事件では弁護士だけが座ることの多い席に座った。何かしゃべる予定だなと思ったら、その通りだった。ただし、その前に、桑原弁護士が後ろから立って、「簡単に訴状の趣旨の口頭陳述を」と、蟹の横這いでしゃしゃり出た。反訴に至った経過の中で「原告のジャーナリストとして築き上げてきた高い評価を傷つけられ」という下りでは、正直者の私は、失笑の爆発を押さえ切れなかったが、裁判長は別に「傍聴席!」などという野暮な注意はしなかった。
続いて、ご存じ白髪混じりの鬘を付け、顔色はますます蒼白の「ゾンビ」(私に対して『週刊金曜日』記事が使った言葉を返上)そのままの本多勝一が、「目には目を、……ができない私」とかなんとか、まるで言語も意味も不明瞭の本人陳述を行った。いずれまた、ご都合主義の「改竄」をほどこして『週刊金曜日』私物化記事にするのだろうから、その時に詳しく論評する。
御両人の反訴状提出の日付は、いったん帰宅してから午後になって、東京地裁の受付に電話をして確かめたのだが、疋田&本多の両人が別々の提訴で、本多が1.18.,疋田が1.20.,という順序である。他の部分でも匂っていたが、どうやら、二人は、素直に雁首を揃えて飛ぶ関係ではないらしい。
全体の概況を先に言うと、20分予定だった口頭弁論が約50分に延びた。原告であり同時に被告でもある3者が、それこそまさに入り乱れての白兵戦となり、そこへまた、実に口数の多い裁判長が高い席から身を乗り出して、本音丸だしの訴訟指揮をするといった状態だった。
この「入り乱れての白兵戦」の基本的な原因自体も、実に面白い構造なのである。簡単に説明するのは難しいが、まず、岩瀬側は、2段構えの主張を組み立てている。
第1は、たとえ発端の『ヴューズ』記事に間違いがあったとしても、特に、「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」などの、被告・本多が原告・岩瀬に投げ付けた名誉毀損の表現は、それ自体だけでも「不法行為」であるという主張である。
第2は、『ヴューズ』記事の「リクルート接待旅行」という記述にも誤りはないという主張である。
これに対して、疋田&本多側は、発端の『ヴューズ』記事の「リクルート接待旅行」という記述が間違い、捏造だと主張している。
疋田&本多側が提出した書面の「反訴状」という用語は、新しいキーワードである。
法文に明記された用語ではなくて、民事訴訟法146条「反訴」に基づいて、「関連事件」だから、具体的には「併合して審理せよ」という主張になるのだが、「訴状」でも構わない題名をあえて「反訴状」としたのは、「併合」でゴチャ混ぜにして、「争点」を「事実関係」に狭めようとする意図であることが、見え見えである。
これに対して岩瀬側は、「争点がボケる」として基本的には「併合拒否」の構えを見せ、裁判長にも「反訴の取り扱い」の「検討」を要請した。
裁判長は、岩瀬側「争点がボケる」という主張にも一応の理解を示しながら、右に乗り出したり、左に乗り出したり、双方の間に立つ姿勢を見せつつ、実は何度も、疋田ら一行が「リクルート所有のスキー場」に行ったのは「接待旅行」なのかどうか、「事実の確認、云々」と口走る。
簡単に言うと、裁判長は、右からこずかれ、左からこずかれ、ぐらぐらしている。本心は分からない。「ブラッフ」である。たとえば「自由な討論を」などと言って、自分の方から「質問」したりする。書証の記事を読み上げて、「リクルート所有のホテルだからオーナーの利用は無料とあるが」とか、「リクルート社員の家族もいたが無料では」とか言う。
少なくとも裁判長には、「併合」したい気分があることは明らかだ。その方が、流れ作業の裁判所としては、事務的にも面倒が少なくなる。そうと思える裁判長の発言の度に、疋田&本多側の代理人の弁護士の顔が、赤くなったり白くなったり、崩れたり引き締まったり、これはもう本当に大変な見物だった。
最後には、裁判官が背後の扉に消えた閉廷後に、私が、「本多さん、本多さん」と大声で呼び掛けた。蒼白の「ゾンビ」そのままの本多勝一は、半年間ながらも防衛大学校の毎朝起床直後の「号令調整」で喉を潰し、1960年安保改訂反対闘争以来の「シュプレヒコール」で鍛え上げ、どこでも「声が大きすぎる」と言われ続けている私の声が聞こえないはずはないのに、裁判長が消えた辺りをジッと向いたまま硬直して動かない。
「とぼけるんじゃないよ。自分の文章まで改竄してることがバレてるのに」などと親切に注意してやると、やっとこちらを向いたが、その目は完全に死んでいる。私の日本テレビ相手の不当解雇撤回闘争で弁護団の一人だった小笠原彩子弁護士が、真っ赤な顔になって、「ここは法廷ですから」などと、当たり前のことを言って止めに入る。書記官もきた。
私は、法廷のことは大抵知っているから、「もう閉廷している」「そちらこそ法廷の中で、あんな嘘っぱちを言い散らして」と言って、さっさと外に出た。
丁度そこへ、疋田も出てきたので、前回の注意の続きを言ってやった。
「あんなゴロツキとは早く手を切らないと、あんたも一緒に地獄に引き吊りこまれるよ」 疋田の顔は前回と同様に真っ赤になった。疋田はまだ、「ゾンビ」ではない。「天声人語」の疋田圭一郎は、まだ改悛の見込みがありそうなので、救ってやりたい。
この「岩瀬vs疋田&本多裁判」の次回、第3回(3回と2回の同時並行というべきか)口頭弁論の期日は、冒頭に記したように、3月17日午後4時から5時まで、東京地裁721号法廷である。「併合」か否かも、新しい興味の種となった。
最後に、この事件の背後に控える朝日新聞社と講談社にも、一応、取材の電話を入れた。双方ともに、長電話でクドクド弁明していたが、その件は別途、詳しく論じたい。
ともかく私には、ナベツネの新大阪駅駐車場の佐川急便への売却疑惑報道に発する読売新聞社とTBSの訴訟合戦に、資料提供などで関係し、『マスコミ大戦争/読売vsTBS』のブックレットを執筆した経験もあるので、朝日新聞社と講談社のそれぞれに、「本来は社なり編集側としての責任もあるのだから、個人のフリーライターだけに負担を掛けないよう善処されたい」と要望した。
以上で(その5)終り。次回に続く。以上、1999.1.1-5号所収分