今回の小見出しは、基本的に、前回の予告通りである。
だが、前回の時点ではまだ、「岩瀬vs疋田&本多」裁判に関して、背後に控える朝日新聞社と講談社の責任を問うのは、またもや「我一人」なのかな、という気分があった。この気分は、「百万人と言えども我行かん」という気負いでもあったが、同時にまた、今度も一人芝居かという諦めの心境でもあった。
ところが、自分で言うのも最早、面映ゆくはなくなったのだが、「徳は孤ならず」。
私がこのところ、かなりの「クオリティー雑誌」と評価する店頭販売なし、契約制の月刊誌『テーミス(THEMIS)』(1999.1)に、「特集・新聞&出版危機の研究」(4)「朝日元大記者vsフリー記者『新裁判』報告」と題するB5判で2頁の記事が出ていた。
すでに前回、疋田&本多が、それぞれ別人格で「反訴」を起こしたことを紹介したが、この『テーミス』記事では、「岩瀬氏の書いたことが『事実無根』だというなら、新たに訴訟を起こすべきだ」と批判していた。しかも、これに続いて、次のような問題を投げ掛けながら、記事を締め括っている。
「『言論には言論で応戦すべし』という議論もある。しかし、朝日新聞をバックにした著名な記者が声高に書き続ければ、フリーライターをジャーナリズムから追放することも可能だ。現に疋田氏と『連帯するつどい』には、岩見隆夫(毎日新聞元編集委員)、斉藤茂男(共同通信元編集委員)、下村満子(『朝日ジャーナル』元編集長)、筑紫哲也(TBSキャスター)、中江利忠(朝日新聞前社長)各氏らが『呼び掛け人』になっている。『言論の自由』とは何か。改めて考えさせられる裁判だ」
「12月25日」の裁判日程と「フリーディスカッション」方式に注目しながら「まったく新しい方式の裁判になりそうだ」とする記事内容から見て、「岩瀬vs疋田&本多」裁判の第1回口頭弁論以前に書かれたことが明らかではあるが、まとめ方は的確である。
『テーミス』は昨年、1998年8月にも、この「岩瀬vs疋田&本多」問題を背景とする内部告発的的な記事を載せていた。題は「社員・OB株主が相次いで糺した朝日新聞の株主総会で出た『あの問題』」である。本多勝一とは「同期」の元朝日新聞研修所長、本郷美則が、「『ゆるふん』に放置しておいたから、どんどん腐敗が進んできた」と批判するのに対して、本多勝一の方は、「朝日の恥。こんな野郎がね、ゴタゴタいっている」と汚い表現で罵倒しする。いかにも男優位社会の新聞界らしい下品な言葉の応酬だが、実感が溢れていた。「ウミを徹底的に洗い出すべきである」という意見が出たようだから、今や、この問題は、誇り高い「朝日人」の内輪庇いの習性を揺るがしていることになる。
何と言っても、事件の発端は、講談社発行の月刊雑誌『ヴューズ』(97.1)に連載された「株式会社朝日新聞社の正体」の第1章「リクルートの『接待旅行』」なのである。
私自身も、朝日新聞に電話して、次のような内容のファックスによる直接の返事を受け取っている。
「木村愛二様
1998.04.2 朝日新聞社広報室
『噂の真相』5月号に掲載の記事に関するご質問にお答えします。
ご指摘の部分は、リクルート社からの『接待旅行』とありますが、事実ではありません。1987年4月、本多記者や疋田記者らのスキーグループが安比高原スキー場へ、パック料金で出かけたのは事実ですが、きちんと料金を支払っており、『接待』は受けていないと判断しております。
以上です。」
このファックスを受けとってから、すぐに私は、また電話をして、「きちんと料金を支払っており、『接待』は受けていないと判断」した根拠は何かと質問した。それに対しては、しばらく時間を置いてから、やっとのことで、「本人が料金を支払った領収書を持っていると聞いております」という間接的な表現の「社内調査」報告が返ってきた。
ところが、その後、『創』の特集記事を見ると、筆者の岩本太郎の質問「領収書の現物はあるのですか」に対して、本多勝一は、「3年以内ならともかくね。10年前の領収書を捜すといっても」と逃げているのである。つまり、本多勝一は、自分の無実を証明する決定的に重要な証拠物件を、「持っている」と言ったが、実は持っていないのである。
これでも、本人が突っ張れば、迷宮入りになるのだろうか。
たとえば、これが重大な刑事事件の政治疑獄だと仮定すると、「供応を受けた」疑惑を立証する証拠物件は、すべて強制的に提出をさせられるか、ガサ入れで押収される。リクルートが接待したのかどうかなどという簡単な事実は、物的証拠に照らせば直ちに判明する。新幹線の切符代金には領収書がないだろうから、これは藪の中だとしても、リクルート所有のホテルが「供応」か否かの舞台なのだから、当時の帳簿を押収すれば、規定の料金を支払ったか否かは、一発で分かるはずだ。疑惑の的になった企業には、帳簿を廃棄したなどという言い抜けを許してはならない。
私は、前回の終りに記したように、「朝日新聞社と講談社」へも、電話取材と申し入れをした。私自身は、当然のことながら、自分と同じ「個人」の立場の岩瀬達哉に同情的である。しかし、同情で目が曇り、虚心担懐に事実を見る心を失ってはならないと思うから、両「大メディア企業」に、事実を明らかにする努力を求めた。「個人に負担を掛けるな」と要望した。
さらに私は、リクルートにも電話をした。「お宅の汚職が元々の原因なのだから、これは刑事責任がないとしても、積極的に事実を明らかにする社会的義務がある」と主張した。それに対して、「検討する」といいながら、結局、「係争中なので介入せず事態を見守る」という返事しか戻ってこなかった。ただし、「当時の帳簿はない」とはは言わなかった。私は、「証拠を保全せよ。これから、その要求をインターネットに公表する。今や、大手手メディアだけ押さえて置けば済む時代ではない」と通告してから、電話を切った。
朝日新聞社、講談社、さらには原因を作ったリクルート、この3つの大企業を、このまま「のほほん」とさせて置いて、それで良いのであろうか。
皆さんにも、電話で、責任を追及して頂きたい。すべて「広報」が担当である。
電話番号:
朝日新聞社:03-3545-0131
講談社:03-3945-1111
リクルート:03-3575-1111
以上で[1999.2.5.](その6)終り。次回に続く。
「同時進行版」としては今の今、インターネット上で「本多勝一研究会」の熱心な投稿と議論が続いている。つぎつぎに、本多勝一の化けの皮が剥がれ落ちている。その剥がし作業に熱心な若い層のほとんどが、これまた元「ホンマ狂」信者だったと告白するのだから、こりゃ、ほんまに、本多勝一の罪は重い。
その投稿の一部を本連載にも引用したいのだが、ことがことだけに、礼儀上、引用の仕方について投稿者の了解を得たいと思う。となると結構、手間が掛かるので、それは宿題として残し、もう一人のーキーパーソン」として指摘しておいた『週刊金曜日』初代編集長、和多田進の紹介を急ごう。
私は、すでに、「本多勝一研究会」の投稿mailの中で、和多田を「類は友を呼ぶ」と形容し、本多勝一の「改竄癖」と並ぶ「変節癖」を指摘した。和多田には、朝日新聞社に次ぐ位置ではあるが、「この編集者にして、この執筆者あり」という編集者の責任を問う必要がある。私が、この形容の公表に踏み切る気になったのは、すでに本連載の第1回でも記した新宿は歌舞伎町、地下3階の薄暗い「ディベイト酒場」こと「ロフトプラス1」での幕前の1場面の経過以後である。ただし、日付は少し溯る。
その日、昨年の1998年7月2日の出し物は、「ロフトプラス1」が、新宿の外れの厚生年金会館よりもさらに先の裏ぶれたビルの2階の狭い旧店から、花の歌舞伎町の「家賃が高いぞという噂がしきりの」広い新店に移ったばかりの時期の「開店記念」豪華版目玉商品の一つ、「噂の真相プレゼンツNo.1」だった。一日店長が『噂の真相』編集長の岡留安則、ゲストが元『週刊金曜日』編集長の和多田進とくれば、宣伝のプログラムには名前の出ていない陰の「登校拒否」ゲスト、または刺身の妻が本多勝一であることは誰の目にも明らかだった。すでに『噂の真相』誌上で、本連載の冒頭を飾った「岩瀬」記事問題をめぐる乱闘が開始され、情報通の話題になっていたからである。
私は、例によって少し質問をする予定だったから、一日店長とゲストには事前に挨拶した。ところがその時、和多田の方は、私が近寄っていくと非常に焦った調子で、いきなり、こう言ったのである。
「ああ、ここで会えてちょうど良かった。あなたは私が本蛇蝎一(あっ本当だ。これぞ「噂の真相」。これは本当に「ほんだかついち」のワープロ変換の一発で出てきてしまっちゃったのである。だからやはり、忘れずに新語登録の「ほんかつ」で打って変換しなければならないのだ。そこで、もとへ!)本多勝一のことをジャーナリズムから追放すべきだと言ったと書いているそうだけど、それは事実ではありませんから、訂正して下さい」
和多田のしゃべり方の特徴でもあるが、いかにも、あらかじめ用意した台詞のようだった。だが彼は、私が「どこで」そう書いたのかを言わなかったので、咄嗟に「あれかな」と思って「イニシャルにしといたはずだけど」と答えた。
私は、『週刊金曜日』記事を名誉毀損で訴える決意をした直後に、手作りの『歴史見直しジャーナル』に、S.K.W.の本多勝一評を載せた。「本多を熟知するW」こと、その直前に会って聞いた和多田の発言要約は、つぎのようになっていた。
「いずれ明らかにするが現在はノーコメント。本多はジャーナリズムから追放すべき人物」
ところが、和多田は今度は、「弁護士から実名で書いていると聞いた」と言う。それでやっと「ああ、あれか」と思い出した。すぐに思い出せなかった理由は、その「実名」で書いた部分が、大変な追い込み作業で作り、その後にも書き直しの差し替えをした全体でB5判64頁に及ぶ長文書面、「陳述書(1)」の中の、特に深く考える必要のない部分だったからである。その部分(上記書面p.13-14)は、つぎのようである。
******************************
3、「南京事件調査研究会」に関する批判的私見
[中略]「南京事件調査研究会」と称する組織[中略]の創設に奔走したのは、訴状に記した『週刊金曜日』初代編集長、和多田進ですが、その和多田が編集長を辞任した背景には、被告・本多勝一との不倶戴天の敵同士に至る激しい対立関係がありました。和多田自身は現在、『週刊金曜日』創刊以前から社長を勤めていた晩聲社の立て直しに集中せざるを得ない状況にありますが、私に対して「本多勝一はジャーナリズム界から追放すべき人物だ」という主旨の激励発言をしています。和多田は、そう断言する根拠について、「いずれ明らかにする」と語っています。その内容には、当然、「南京事件調査研究会」の内幕も含まれています。
******************************
再び場面は、昨年の1998年7月2日の「ロフトプラス1」に戻る。
以上の部分の実名記載を思い出したので、私は、「ああ、あれですか。私は、あなたの発言通りに書いているので、あれは訂正できませんよ」と断った。和多田は、なおも、「いや、私は、そんなことは言ってません。訂正して頂かないと活字が一人歩きしますから」とかなんとか、この私相手にしては、まるで迫力のない迫り方をしてくる。いわゆる「言わないわけにはいかないから言う」という感じである。その時の私には、彼の腹の内は丸見えだったから、少し厳しい顔をして、さらに、「いや、私は同じことを、直後の記憶の新しい内にもイニシャルで書いてます。間違いはありませんから。これは絶対に訂正できせん」と突っ撥ねた。
ではなぜ、私が、最初はイニシャルで書いていたことを、その後に実名にしたかと言うと、場面は「ロフトプラス1」でも、さらに一年以上前の狭い旧店に戻る。一昨年の1997年5月1日、一日店長は新右翼で知られる一水会代表の鈴木邦夫、ゲストは私だった。当日の題は「読売新聞って何様?/ナベツネを批判できない新聞人に正義を語る資格があるか」だった。ところが、その直前の4月18日に、私が、株式会社金曜日と『週刊金曜日』執筆者2人を名誉毀損で提訴していたので、そちらにも話題が飛んだ。しかも、ちょうど翌週の5月8日には、同じ一日店長に、ゲストは和多田進となったので、題は確か「私がなぜ私が左翼になったのか。そして、なぜ私が右翼になったのか」と言う感じだったが、ここでも当然、『週刊金曜日』が話題に上るに違いないから、私は、客席に座った。
その時の私の質問に対する和多田の返事の仕方は、明らかに変節を示していた。
私の訴状の事件の発生経過の部分には、当然、和多田の名前が入っている。株式会社金曜日側の代理人、桑原弁護士は、もともと和多田が仲介した関係にある。だから、これは何か聞いたに違いないと直感した。不用意なことはしゃべるまいとしている感じだった。弁護士と和多田の関係については、私が提訴以前に和多田と会って、色々と事情を聞き、前述のイニシャルで書き、その後に実名にした「激励発言」と一緒に、いささか憤然として口調で語る「皆な私が本多勝一のために準備したのだ」という主旨の自慢話の一つとして、しっかり聞いていた。
その時の「ロフトプラス1」での和多田の話の中には、近く『週刊朝日』の別冊として『人生相談』を出すというのもあった。本多勝一の実家の朝日新聞社から本を出すとなれば、余計な勘ぐりをしないまでも、あまり揉め事を表面化したくなくなるだろう。
その他にも、いくつか、和多田の人格に関する情報が集まっていた。
私が直接聞いた友人の証言では、『週刊金曜日』で前金を集める以前に、和多田は、今も社長を続けている晩聲社の経営危機があって、1口の「3万円」を貸したのに、その後、何も挨拶がない。
『週刊金曜日』編集長時代を知る元社員から直接聞いた友人の言によれば、和多田は、目下には威張るが、目上にはペコペコの典型である。これは何度か会った私の実感と合致する。出版界には、こういうタイプの編集者が実に多いのである。日常的に「必ず売れる本の著者」たる大学教授を典型として、有力な執筆者を「先生、先生」と奉る習慣が骨の髄まで泌み込んでいるのが、ベテラン編集者の典型なのである。
ああ、またまた本当のこととを書いてしまった。出版労連で困った組合員だと噂が広がるに決まっているが、こればかりは、止められない、止まらない。
さて、最後にまた、昨年の1998年7月2日の「ロフトプラス1」に戻る。
この時、一日店長の岡留安則『噂の真相』編集長は、本多勝一と決裂寸前だった。そのことを店の客のほとんどが先刻承知だった。だから当然、「来いと呼んだけど返事がなかった」本多勝一と和多田との関係は、話題の焦点である。
岡留店長は、本多勝一と和多田とが決裂した当時の『週刊金曜日』解雇騒ぎにおける自分の表現、「本多勝一がヒトラーなら和多田進はスターリン」まで持ち出して、和多田による当時の「噂の真相」公表を迫る。和多田も、いくつかの点での「本多勝一のボケ症状」を認める。しかし、これが、実に煮え切らないのである。「功績」とのバランスも取りたがる。しかも、さらに「ゲー」となったのが、何度も出た和多田のつぎのような発言である。
「本多さんは私にとって元恋人のようなものです」
最早、これ以上の多言は無用である。
何人かの友人知人との一致した診断によると、和多田のこの発言には、元または現「ホンマ狂」のやるせない想いを自分に引きつけて、自分のファンにしようとする心理が働いているのである。なかなかに頭の良い出版人ではある。
以上で[1999.2.12.](その7)終り。次回に続く。
前半は、わがホームページ「墓碑名5」と重複するが、後半と続けて読む方が分かり易いので、ここにまとめて紹介する。
以下、2通の公開maiの再録であるが、煩雑な通信上の記載は省き、読み易いように改行を変更した。あえて論評は加えない。
[aml 10257] 本多勝一ファン必見!-- 『金曜日』初代編集長からご返事
Sent: 98.11.30 10:01 AM
From: SASAKI, Yoshinori, Y.Sasaki@unsw.edu.au
以下、本多勝一様(株式会社「金曜日」社長)のカンボジア大虐殺全面否定発言ならびにその後の著作改変(aml9941)に関して和多田進様(『週刊金曜日』初代編集長、「すずさわ書店」前代表)からいただいたご返事を、和多田様御当人のご承諾を得て公開します。和多田様にはご多忙の中を迅速にご回答いただき、マスコミ界にこういう律儀な方もいらっしゃるということがわかって感激いたしました。
お読みになる方の便宜を考え、和多田様にさしあげた質問状の質問項目を再掲します。質問は次のとおりでした。
(1)[ 『貧困なる精神・第4集』における、クメール=ルージュの大量虐殺を否定
する文言の ] 断わり書きなしの「書き換え」は、どのような意図によってなされた
のでしょうか。
(2)このような処置をとることは、結果として読者を騙すことにならないでしょうか。
(3)御社 [ 「すずさわ書店」 ] の他の刊行物においても、同様の「書き換え」が
断わり書きなしになされているのでしょうか。また、今後も同様の処置をなさるので
しょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(和多田進様からの返事ここから)
拝復
98年8月17日にエア・メールを受け取りました。できるだけ簡単にご質間にお答えしたいと存じます。
まず第一に、私は現在「すずさわ書店」とは経営上の関係を直接持ってはおりません。従って「すずさわ書店の和多田」としてお答えするわけには参りません。ただし、本多勝一氏夫妻の要請によって91年春から92年未ごろまで私がすずさわ書店の代表になった経緯があることと、私の後を引き継いで下さった大矢みか氏(現すずさわ書店代表取締役)とは物心両面にわたってすずさわ書店継続のために現在も協力している関係上、佐佐木様のご質間にお答えする資格が必ずしもないわけではないだろうと判断した次第です。もちろん、大矢氏ともこの件については相談しており、私たちの見解は完全に一致していることをはじめに申し述べておきます。
・ご質問の(l)ですが、「書き換え」の「意図」は私どもには不明です。本多さんご本人以外に答えることは不可能かと存じます。
・(2)のご質間も本来は著作者である本多さんに発せられるべきかと存じます。
・(3)については、「書き換え」は本来著作者の専権事項に属すると考えられ、出版社にその責はないのではないかと私どもは考えています。「書き換え」「断わり書き」は著者の考えによるでしょうし、「断わり書き」を書くかどうかは「書き換え」の量や内容にもよるでしょう。私どもとしては、著作者の意志に従って基本的には今後ともこれまで同様の措置を取らざるを得ないと考えています。ただし、今回の経験に照らして言えぱ、今回のように著者の主張がまったく逆転してしまうような場合については「断わり書き」を書かれるよう著作者に進言しなくてはなるまいと考えます。
・佐佐木様が意識的に脱落されたのかどうか不明ですが、9刷末尾には「く第9刷からの追記>」として、「この脱出華僑の話はすべて正しく、鎖国カンボジアは全土が刑務所化していたことが、この四年後に明らかになる。詳細は拙著『検証・カンボジア大虐殺』(朝日文庫)参照。」という「断わり書き」があります。推察しますに、本多さんはこの「断わり書き」によってご白身の見解の転換を示したおつもりではなかったでしょうか。
・以下は私どもの感想です。佐佐木様の今回のお手紙を読んでびっくりしたというのが正直なところです。木村愛二さんから話を間いてはいましたが、今回のお手紙を読むまで私は本文にあたってはいなかったのです。フェアか否かという点で言えば、私たちはやはり本多さんの態度がフェアだとは思えません。本多さんは「立場が変わるということはあり得ることだが、その場合は必ず自分の立場の変更について説明・公表すべきだ」という主旨の主張を常日頃からしてこられ、私どももその言説に共感して参りました。そうした経緯に照らしてみて、今回のことにびっくりしたという次第です。なお、小さなことですが、佐佐木様が指摘されている『貧困なる精神』第4集のぺ一ジ数「63ぺ一ジ」は64ぺ一ジの誤りです。また、本多さんの「書き換え」は9刷以降で8刷までは7刷と同様です。
・この返信は全て公開して下さって結構です。また、この件について本多さんと相談したというようなことも一切ありません。この見解は私たち自身のものであることを申し添えさせていただきます。
1998.8.20
佐佐木嘉則様
和多田進
(和多田様からの返事ここまで)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
追記
和多田進様から上記のご返事をいただいた後、『貧困なる精神・第4集』第8刷の発行時期を問い合わせるお手紙を再度さしあげ、「1987年3月25日」というご返事を頂戴しました。その問い合わせの手紙の中ではあわせて、件の論文が書き換えられた当時のすずさわ書店の担当者のお名前と連絡先・すずさわ書店の沿革などもおうかがいしたのですが、これらの件については“当人の承諾なくして連絡先は教えられない”・“適当な外部者向け資料がない”などの理由でご回答いただけませんでした。
いずれにせよ、和多田様がご多忙の中2度にわたってご返事をくださったことにつき、この場を借りてあらためて御礼申し上げます。現在では和多田様はすずさわ書店と経営上の関係はなく、しかも『貧困なる精神・第4集』は和多田様の御著書でもないだけに、その和多田様が御丁寧に御返事くださったことに対してなおさら深く感謝いたしております。
なお、和多田様とのやりとりは先日次のサイトにも投稿いたしました。
「はなしのひろば-週刊金曜日広島読者会」--「とうしょ広場」
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/anssys.html
参考資料
「本多勝一論--『カンボジア大虐殺』は、“まぼろし”?!」
http://www.coara.or.jp/~pwaaidgp/honda.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
_SASAKI_, Yoshinori (佐佐木 嘉則)
E-mail: Y.Sasaki@unsw.edu.au
University of New South Wales
School of International Business
Faculty of Commerce and Economics
Sydney, Australia 2052
___________________________________________
[aml 10358] 本多勝一ファン必見!-- 「公開質問状」発送3周年記念
Sent: 98.12.9 9:04 AM
From: SASAKI, Yoshinori
本多勝一様の“カンボジア大虐殺=「全くウソ」”発言ならびにその後の著作「書き換え」に関して本多様御当人に1995年12月6日づけの質問状をお送りしてから、まる3年が経ちました。
当初の質問の骨子は次のとおりでした。
*******************************
(1)本多様が1975年に書いた「カンボジア革命の一側面」と題する記事中にある「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」という記述の背景は何か。
(2)どうして『貧困なる精神・第4集』増刷時に、この文言を「事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。」とするなどの書き換えをしたのか。
(3)どうして書き換えたことを明記しないのか。(これは読者を騙すことになるのではないか。)
(4)他の著作でも同様の無断書き換えをしているのか。今後もするのか。
*******************************
これに対して、今日に至るも本多様から回答はございません。
なお、この件に関しては、今春すでに社会通念に照らしてこれ以上いくら待ってもご回答はいただけないものと断念し“公開質問を打ち切りにしたい”旨を質問者側から本多様に打診・通告したことは、過日ご報告申し上げたとおりで(aml9941、1998年11月投稿)。その後もこの件に関して本多様からご連絡はございません。
ところがそのあと今夏、福岡在住の医師・西村有史様が本多様とメールをやりとりする過程でこの質問状の件を持ち出したところ、本多様はそれに対して“自分は多忙である。したがってこのような件に一々とりあっている暇はない。しかし質問状を握りつぶしたわけではない。いつかきっと回答する。回答は『潮』に寄稿するであろう。”
と反論なさったそうです。(やりとりにオフレコはかかっていなかったそうですので、ここで本多様の御発言の要旨を御紹介します。)これをそのまま信じるならば、本多様はなお回答のご意志がおありということになります。それならばどうして質問者側に対してその旨ご連絡いただけないのか腑に落ちませんが、ともあれ私の寿命が尽きるまでに誠意あるご回答がいただけることを祈るのみでございます。(因みに、このままの状態であと25か月弱経過しますと実に2千年紀にまたがる「世紀の公開質問」ということになります。次に流星群が飛来する33年後の西暦2031年までにはご回答いただけるでしょうか?)
なお、本多様は
“自分のその後の取材が実質的には質問に対する答えになっている。こういう質問をするのは、自分の報道活動の展開を知らない人間であろう。”
という主旨のこともおっしゃっておられるそうです。(いったいどういう意味でしょうか?私は本多勝一著『検証・カンボジア大虐殺』を3度読み直しましたが、どこをどう読んでも上記の質問に対する答えは発見できませんでした。)
以上、何はともあれ状況御報告まで。
*** 参考資料 ***
西村有史様のホームページ
http://www.coara.or.jp/~pwaaidgp/
「『カンボジア大虐殺』は、“まぼろし”?!」
http://www.coara.or.jp/~pwaaidgp/honda.html
「『金曜日』初代編集長に質問状を出しました」
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9811/10256.html
「『金曜日』初代編集長からご返事をいただきました」
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9811/10257.html
「はなしのひろば-週刊金曜日広島読者会--とうしょ広場」
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/
http://www.ne.jp/asahi/minna/hiroba/anssys.html
(この件に関する議論は、バックナンバーのNo. 20以降に収録されています。)
以上で[1999.2.19.](その8)終わり。次回に続く。
岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件に関しては、すでに、本多勝一側の弁護士が、いわゆる市民派ばかりで、しかも、すべて私とは旧知の仲だったことを記した。その内の唯一の女性、小笠原彩子は、私が日本テレビ放送網株式会社を相手取って不当解雇撤回闘争をしていた時の弁護団の一員でもあった。
彼女と、男性の高見沢弁護士が並んで座っているのを見た時に、直ちに思い出したのが「美人弁護士」という言葉に関する酒席での応酬だった。小笠原彩子は、父親も弁護士だったとの噂で、それらしい「上流」の雰囲気がただよう一応の美人型である。彼女は、私の事件の弁護団の一員に加わる以前に、わが「民放労連日本テレビ労組」(これが日本テレビ放送網株式会社の唯一の組合の名称)の労災事件の弁護団に加わっていた。口さがない男性労組員は皆、彼女のことを「美人弁護士」と呼んでいた。つまり、少なくとも衆目が一致して認める程度の一応の美人である。彼女は、中野区で教育委員が公選になっていた時期、立候補したこともあり、地元で知る人も多い。私に言わせれば、商売とは言え、言論詐欺師であることが明らかになった本多勝一の弁護などをさせて置くには惜しい人材である。
高見沢弁護士とは、地元武蔵野市の元市長選挙落選候補、石崎弁護士の父親の葬式で初めて会った。お清めの席で、私の労働裁判の弁護団の話をしている内に、彼と小笠原彩子とが、いわゆる同期の仲だと分かった。弁護士の同期というのは、普通の若者らしい遊びは一切抜きで、必死の暗記ガリ勉の末、司法試験を通って後の2年間の司法修習所での同期生ということである。そこで初めて遅れた青春をする彼等にとっては、この2年間に生まれた友情、恋情に特殊な味わいがあるようだ。同期生の中には、その後に裁判官や検事になるものもいる。
きっかけは忘れたが、そこで私の口から何時の間にか、言い慣れた「美人弁護士」という言葉が出た。すると彼は、普通以上に力んで、法廷用語で「異議あり!」と叫び、「美人という評価を認める訳にはいきませんがね」と大声で言うのである。かなり酔いが回ってからの話だったので、私も、「いや、一応の美人の部類」とか何とか切り返して、また同じ大声の異議が出て、それが3度程続いた。いやに力むな、これは何か因縁でもあるのかな、という印象だった。
その2人が、目の前に並んで座ったのだから、以上の会話の記憶が蘇るのは当然のことだった。私は、心の中でニヤリと笑ってしまった。
さて、閑話休題。改めて手帳で確認すると、岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件の次回口頭弁論の期日は、3月17日16時から17時までの予定、場所は、東京地裁721号法廷である。またその時には、法廷で、2人の男女の同期生の弁護士が、私よりは年下なのに今はかなり老けて座っているのを見ることになる。必ずや、また、あの言葉の応酬を思い出すであろう。
それまでにも本誌の発行日は、今週号の2月16日、3月5日、3月12日と、3回ある。そこで、この3回の間に、私の方の名誉毀損事件に至る経過を、別途のホームページ「裁判」のような固い断片的な記述ではなくて、小笠原彩子と本多勝一との、そして小笠原彩子と本多勝一と私の、別に三角関係ということではない意外も意外の世間は狭い類いの関係をも含めて、物語風に語り直してみたい。
さる2月16日に出た私の方の事件の判決については、先週号(2月19日、8号)の時事論評欄に簡略な報告をしたので、まだの方は、そちらを見て頂きたい。
では、では……、時代は今からおよそ26年前、4分の一世紀以上も前のことになる。
私は、その頃、『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』(鷹書房、1974)を執筆していた。これは私の主義で、それ以前から広義の歴史、最近は文化人類学とも呼ばれる民俗学などの文献を、可能な限り収集していたが、その際は特に、参考になりそうな資料には、すべて目を通す努力をした。今、その本の巻末の資料リストを見ると、本多勝一の本が1冊だけ入っている。
巻末の資料リストは、2つの部分に分かれている。「引用した本」が70冊、「とくに参照した本」が58冊で、後者に『ニューギニア高地人』(本多勝一、講談社文庫、1971)が入っている。実際には「とくに参照」してはいなかったという記憶である。
そこで、『週刊金曜日』相手の裁判の「本人陳述」では、つぎのように記した。
******************************
被告・本多勝一が執筆した通称「極限民族3部作」も購入して通読したことがありますが、特に参考になる点がなかったので、狭い住居ゆえに時折古本をまとめて売却する際、手放したままです。私が手放すのは特に所蔵しておく価値を認めない雑本の類いです。
被告・本多勝一の「極限民族3部作」に関して、薄ぼんやりと残っている記憶は、「まるで学問的価値がない思想性欠如の雑文」です。その感想を、被告・本多勝一と個人的に知り合う以前に、某朝日新聞記者も交えたジャーナリスト会議(JCJ)所属の仲間との雑談の場で明言したこともありますので、必要があれば、本法廷における証言を求めることもできます。
それゆえに返す返すも残念至極、我が身の軽率さを深く深く反省しなければならないのは、後述するような物理的事情の下でとはいえ、迂闊にも、そのように「思想性欠如」、つまりは社会人としての信頼性が低いことが明らかだった被告・本多勝一に、本件「ガス室」を焦点とする「ホロコースト見直し論」のごとき重大な政治的案件に関する意見を求めてしまったことなのです。
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そんなことで、私は、本多勝一には、敬意どころか、まったく興味を抱いていなかったのだが、ある日、突然、拙宅に、「斉藤・小笠原法律事務所」の封筒に入った手紙が届いた。斉藤弁護士は、やはり旧知の市民派弁護士で、彼女の再婚の相手である。
手紙の内容は、まるでプライヴェイトなものではないが、私に対する善意に満ちていた。実に有り難い手紙だった。しかし、カール・マルクスは言った。「地獄への道は善意で敷き詰められている」と。この時の彼女の善意こそが、意外も意外の世間は狭い類いの関係で、私と本多勝一との橋渡しとなり、やがては、名誉毀損の提訴にまで至るのである。
「世の中は一寸先が闇」とは、まさに、このことであろう。
私にとって、彼女の手紙は、そのような「岐路を見て哭く」類いの運命的なものだったので、上記のごとく、まるでプライヴェイトなものではないこともあり、ここに全文を収録し、世間に公表する。[ ]内は現時点での私の注記である。
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前略、
「新聞記者は正義の味方か」の集会での発言を「奔流」[毎日新聞労組機関紙]で読んだりして、ご活躍のこと拝見しております。
全教系の組合が1月29日から2月1日まで東京で「教育研究全国集会」を開きました。私も「人権と教育」の共同研究者の1人でしたので参加しました。29日、全体集会、記念講演はフェリス女学院大学学長、弓削達氏でした。同氏は、2時間の講演の中で、2 つの本を引用(書名、著者名、出版社)して自説を展開されたのですが、その内の1冊が、湾岸戦争に関する貴方の本でした。「この本によって、あの戦争はアメリカが、用意周到にしかけたものであることが明らかになっている」という趣旨だったと思います。
私も、つれあいから、「この本は面白い」とすすめられて読みはじめ、最後まで読んでしまいました。この本以前に浅井隆著『仕組まれた湾岸戦争』を読んでいたのですが、参考引用文献がいまひとつはっきりせず、どこまで信用していいのか……という思いを抱きましたが、貴方の本は、この点の不安がなく、私も大変興味深く読ませていただいた訳です。弓削先生も手にされ、きっと同じような感想を持たれたのだと思います。多くの人に読まれていることをお知らせしたく、筆をとりました。
(本多勝一氏が、この戦争に関する本のことを問合せてきたので、浅井氏の本と、貴方の本をすすめました。彼も、アラビア石油の友人に右2冊を読んでもらい、感想を聞いたといってました。)
ますますのご活躍と、健康を念じております。とりあえず、お知らせ、かたがた……
1993年2月12日 小笠原彩子
木村愛二 様
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よもや、この善意に満ちた手紙が、1997年春から1999年春の現在に至るまでの2年間もの長きにわたる名誉毀損訴訟への導火線となろうなどとは、まことに信じ難い運命の悪戯なのであった。
以上で[1999.2.26.](その9)終り。次回に続く。