国労置き去り 日共系全労連結成への批判を書けと唆す争議仲間の日共党員

国鉄闘争に寄せる労働組合運動の拙文集

木村愛二の生活と意見2000年10月分より抜粋)2000.10.22

2000.10.22(日)

国労置き去り日共系全労連結成への批判を書けと唆す争議仲間の日共党員

 2000.10.11.ロフトプラスワンでは、いろいろと面白い裏話が出たが、そのなかでも最も鋭い本音の指摘は、労働戦線と「飯の種」の問題だった。

 概略を私なりに整理すると、表面上の建て前の裏で、毎年千名規模の組合員減少による財政難に悩む国労の専従執行委員たちは、他のJR労組への合併を志向している。つまりは連合への後追い参加を目指しつつ、その前提条件として、争議団の切り捨てを図っているとの憶測である。これは実にリアルな、私の実際の体験にも合致する話である。同じ現象は、総評の解体から連合の結成に向けての時期に、多くの主要「業種別」労組の全国組織で発生した。専従の組合幹部にとって「飯の種」は決定的な問題である。

 その一方で、別途、わがホームページにも入れた日本共産党員運営の「さざ波通信」の日本共産党中央批判には、「右」の連合に対抗して結成されたとされている「左」の全労連執行部への批判が含まれていた。こちらにも「飯の種」の問題がある

 私は、この連合と全労連のほぼ同時結成の時期、東京争議団の筆頭副議長だった。当時の先輩で、配偶者が日本共産党の現在は落選中の県会議員のMが、この春、最後の桜見の写真を残して死んだ。私は、昔の仲間の知らせを受けて、4月26日、そぼ降る雨の中、通勤帰りで満員の電車の吊り革にぶら下がり、神奈川県の田舎町での通夜の席に連なった。唯物論者のはずの共産主義者の葬式で、なぜ坊主が経を読むのか、などと悪口を言いながら、昔話に花を咲かせた。

 その時期は、国労の「4党合意」押し付け臨時大会が行われた7月1日よりも2ヶ月以上前のことだった。Mは、配偶者の選挙の実質的な事務局員を、嬉しそうに勤めていた。つまりは半ば公然状態の日本共産党員だったのだが、その葬式の二次会で、これまた半ば公然状態の日本共産党員ばかりの争議団関係者たちが、しきりと私を唆した。「書け」と言うのである。

 具体的には、当時、日本共産党中央が全労連結成に走ったことへの批判である

 当時の労働戦線の混乱期に、日本共産党中央は実に積極的に労働組合運動に対する発言を強めた。官僚的な支配介入も多発した。決まり文句の「総評=社会党・反動ブロック」攻撃を強め、連合に対抗すると称して、全労連結成に向けて日本共産党系の労組幹部を締め付けた

 東京争議団などが苦労して、思想信条の別を問わず、総評などの支援を得て展開していた争議解決の総行動にも、「自由と民主主義の実現の闘い」とか称する我田引水のキャンペーン題目を張り付け、あたかも、日本共産党中央の指導で争議が勝利し続けているかのような宣伝を開始した。このキャンペーン記事の「エゲツナサ」に対しては、争議団きってのオッチョコチョイの「単細胞」日本共産党員で知られる日立争議のTまでもが、『赤旗』編集部に抗議に行ったほどであった。

 当時の労働戦線の右傾化なるものは、国鉄の民営分割化と裏表の関係にあった。主要な民間の大手業種別労組の御用化、マスメディア関係労組の弱体化に成功した日本の支配層は、その最後の仕上げとして、総評と、いわばその本丸の国労の解体を目指した。だから、労働戦線の右傾化阻止、戦闘的な再生への道は、国労の位置付けを抜きにしては語れない問題だったのである。

 話を簡単にするために結論めいたことを先に言うと、結果として、国労は当時、連合に膝を屈することはなかったものの、さりとて、全労連に加わるわけにもいかず、いわゆる新左翼の全国一般などと一緒に、全労協という弱小全国組織を形成するに至った。私は、この状態を「置き去り」または「置いてき放り」と形容する。簡単に言うと、日本共産党の中央官僚は、かねてから自分の言いなりになる労働組合全国組織が欲しくて堪らず、国鉄の民営分割化と国労解体の攻撃と言う不幸な事態を、そのもっけの幸いの口実に利用したに過ぎないのである。

 日本共産党中央は、全労連結成に向けて、それ以前から活動していた「統一戦線労組懇談会」を利用した。私が所属していた民放労連は、この懇談会に参加し、世話役を出していた。しかし、この懇談会を労働戦線問題に利用することには反対して、世話役を出すのを止めた。私は、世話役を担当していた役員と、昔から、組合幹部同士として以上に日本共産党員同士として親しい関係にあった。彼は当時、私に、「あれは大変な間違いだ。もっと皆が積極的に反対意見を出さないといけない」と語った。しかし、その声は曇っていた。あまり元気がなかった。

 日本共産党員の労組幹部には、官僚型と、いわゆる生真面目型のミックス・タイプが多い。生真面目の面が強い方の型は、その上に乗っかって威張っている官僚的な日本共産党の中央幹部とは、相入れないことが多いのだが、なかなか、率直な批判を展開しないのである。規約の民主集中制とか、党内のことを党外に出してはならない、などが、この傾向の根底にある。当時も、日本共産党員の組合幹部の中に、いかにすれば総評を残せるか、御用組合が出ていった後に踏みとどまって主導権を握ることができないか、具体的な問題としては東京の中央の千代田区に移って間もない総評会館を確保できないか、などの作戦を真剣に検討した仲間がいた。総評に関しては、結果的に不成功だったが、総評の規約に基づく地方組織の内、東京地方労働組合評議会、略称「東京地評」などは残った。東京地評の存続に関しても、日本共産党中央は、様々な圧迫を加えたのである。最も職場に近い千代田区労協などの地区労への、「地区労連」結成と称する分裂攻撃に関しては、怒りなくしては語れない悲憤慷慨の物語がいくつもある

 私の実体験を記すと、それまでは「洟も引っ掛けなかった」東京争議団に対しても、日本共産党に東京都委員会の労対部が積極的に働き掛け、「日本共産党員グループ」を結成した。「飴と鞭」という表現があるが、私個人に対しても、「君の争議を応援したい」との「飴の攻撃」が加わった。邪魔になりこそすれ、実際の役には立たない連中のことだが、その程度のことなら、適当にあしらっていれば済んだ。だが、かつては私が「総細胞長」を勤め、組織拡大に私生活を放棄して尽くした足元の経営支部の一部幹部までが、私の足を引っ張り始めた。全労連結成を「左派分裂の誤り」、「国際的にはプロフィンテルンの大失敗と同然」などと主張する私に対して、争議支援の関係での嫌がらせに走ったのである。これには、唖然で済む問題ではないので、怒り心頭に発した。


「どうする大揉め国鉄闘争」

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