2003年1月13日(月曜日)(2019.8.8分離)
きたる2月2日(日曜日)、鶴ヶ島市の「有鶴連」こと、「有事法制反対・鶴ヶ島市民連絡会」主催の「平和集会」での講演予定が決まった。
市内の「指名手配」ポスター向けの演題は極めて簡略、「9.11事件の真相とイラク攻撃」となった。
鶴ヶ島市へは初の訪問になるが、電網検索で広域地図を見ると、埼玉県のほぼ真ん中あたりで、秩父山塊から東京湾への水の流れの途中にある。
秩父と言えば「秩父困民党」の歴史もある。都心に通勤する住民も多いから、そうそう「ダサイタマ」ってなことでもない。気を引き締めて「磨き上げた芸」を見せなければ、わが自称「嘘発見」名探偵(安物英訳柔物ではname detectiveとなる)の名が廃る。
「手前生国と発しまするは」とか、「関東、関東と申しましても広うござんす」とか、「お控えなすって」とか、「関八州に名高き大親分のお招きで」とか、「草鞋を脱ぐ」時の挨拶の台詞の準備も必要であろう。
私は、もともと、一昨年来、電網お披露目(亡国植民地根性片仮名語では「サイトデヴュー」)による「歌手」としての新境地開拓も予定しているから、今後は、講演の添え物の歌の「芸」にも磨きを掛け、種々の工夫を凝らそうかと思っていた。
「歌は世につれ世は歌につれ」という名文句がある。電網検索で確かめると、文化放送のアナウンサーだった玉置宏さんが1958年に、「ディスクジョッキイ」とやらで使い始めたらしい。
http://www.tanoshi.com/tamaoki.htm
玉 置 宏 プロフィール
昭和9年1月5日 神奈川県川崎市 出身
昭和31年 明治大学商学部卒業
文化放送アナウンサーとして入社
私は、この台詞を1960年代に、ある社会学者の講演で聴いたと記憶する。結構、歌も上手な学者だった。台詞は、玉置さんの真似だったのかもしれない。しかし、この二番煎じでは面白くない。
そこで私は、まず、歌う前に、「戦争」に向かう世相の基本的な状況認識の「土台」として、「経済」崩壊状態を、以下の早わかりグラフの総天然色映像で示すことにする。
以下のURLを叩けば、電網複写によりわが電網宝庫にも収めた映像を、簡単に見ることができる。私は、この映像を拡大複写して持参する。
http://www.mof.go.jp/singikai/zaiseseido/iken/go05.htm(不通)
わが電網宝庫にも転載・国債残高の累増のグラフ:
http://www.jca.apc.org/~altmedka/go05.gif
注)1.公債残高は各年度の3月末現在額。ただし、12年度、13年度は見込み。
2.特例公債残高は、国鉄長期債務、国有林野累積債務の一般会計承継による借換国債を含む。
アメリカ連邦負債の同じような激増状況のグラフ転載:
http://www.jca.apc.org/~altmedka/totaldebt.html
次には、このような状況下、わが後輩に当たる「失業者」「解雇者」たちの激増、日本の場合の「中高年男性自殺率世界一」の驚愕の事実を指摘し、歴史的な比較として、1930年前後の世界恐慌、日本では「昭和恐慌」と呼ばれた状況下における「流行歌」を少し紹介しようかと考えた。
最初は、「日本の演歌」の国際的な評価を試みつつ、かつての「解雇者」こと、わが東京地方争議団共闘会議副議長時代の旧友または戦友の一人が好んだ歌を、「浪曲風」の声で唸って、座をくつろがせようかと思い、しかし、実は、録に歌った経験がないので、メロディーに自信がない。だから電網の音入り頁を探した。
「枯れすすき」で探したら、すぐに、「船頭小唄」が、映画の主題歌の題だったことが分かった。音も入っている。私は、楽譜はまったく読めないが、聞けば結構覚える方だから、少し聞いて、その伴奏入りで練習した。楽器のなかった子供のころを思えば、実に贅沢な話である。
ところが、さらには自前の「ディスクジョッキイ」とやらをも、やってみようかと、ついつい欲が出た。ともなれば、この歌の周辺の事情の研究も必要となる。
そこで、さらに検索を続けたところ、何と、わが自称名探偵は、ここでもまた、意外も意外、メディア争議の歴史を数十年も遡り、その大先輩を発掘し、日本近代史、文化史、詩と音楽の歴史の「定説」を覆し得る決定的な材料までをも、発見する大感激を味わうことに相成ったのである。
以下、その新春「炬燵」取材の電網検索の経過と、わが「意外史」研究の成果の途中経過の概略を記す。
まずは、作詞は野口雨情(1882年生まれ)とあったから、名前だけは知っているこの詩人を検索した。以下が、もっとも平均的かつ「教科書」的な評価であろう。
http://business2.plala.or.jp/kitaiba/culture/culture1.htm
野口雨情記念館/北茨城市歴史民俗資料館北茨城市の出身で、“七つの子・赤い靴”など童謡の作詞で知られる野口雨情の遺品や資料を展示してあります。[中略]
野口雨情の残した「日本の心」/雨情・人と作品野口雨情は、多賀郡磯原村(現北茨城市)で廻船業を営む家に長子として生まれました。中学より東京で学び、東京専門学校(現早稲田大学)に入学しましたが、家業が傾いたために翌年には中退し、父親が没すると帰郷し家業を整理しました。
大正中期の新たな童話・童謡の創作運動が展開された時代に、雨情の才能が遺憾なく発揮され、1919年より童謡の詩を児童文芸誌に発表するようになりました。また民謡「枯れすすき」は、中山晋平の作曲により「船頭小唄」となって一世を風靡しました。
以後、主に童謡において活躍した雨情は、北原白秋、西条八十と並んで3大童謡・民謡詩人と称されることになりました。童謡の代表作には、「十五夜お月」「七つの子」「赤い靴」「青い目の人形」「雨降りお月」「兎のダンス」「あの町この町」「しゃぼん玉」などがあり、民謡には「波浮の港」「須坂小唄」などがあります。
さてさて、ところが、わが自称名探偵としては、しかし、しかし、なのである。どうにも「ピンとこない」のである。「童謡の詩」から「民謡」へと、作品の範疇が広がっているようなのだが、「枯れすすき」は、果たして「民謡」という範疇に属するのだろうか。評価を探すと、かなり詳しいのが出てきた。
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch22.htm
未だ愛も恋もなんたるか分からない幼い中学生の頃から、私は利根川に櫓を漕ぐ船頭夫婦の清貧と純愛の絆に思いを馳せつつ、この歌を唄っては愛に憧憬したものである。いわば『船頭小唄』は、私の夢の純愛物語なのであった。
この「評者」は何者かと、「ホーム」に行って見ると、以下のごとくで、どうやら、「明星大学」の教員らしい。
http://www.edu.meisei-u.ac.jp/~muneuchi/
明星大学 ・ 宗内 敦
http://www.edu.meisei-u.ac.jp/~muneuchi/mail/mail_renraku.htm
学生の皆さんへ
【02/03/15】
平成14年度の講義日程などがきまりました。よろしく。
だが、またもや、いや、ますます、「ピンとこない」のである。そこで、わが自称名探偵は、犯罪事件捜査の基本を踏み、「現場に戻る」のであった。ともかく、歌詞を探して、全部読むことにした。
http://homepage2.nifty.com/hi-rose/ijinden/12gatu/1229.htm
おれは河原の 枯れすすき / 同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では / 花の咲かない 枯れすすき死ぬも生きるも ねーお前 / 水の流れに 何に変わろ
おれもお前も 利根川の / 船の船頭で 暮らさうよ枯れた 真菰に 照らしてる / 潮来出島の お月さん
わたしやこれから 利根川の / 船の船頭で暮らすのよなぜに冷たい 吹く風が / 枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出たときは / 汲んでお呉れよ お月さんどうせ二人は この世では / 花の咲かない 枯れすすき
水の枕に 利根川の / 船の船頭で暮らさうよ
ううむ、「船頭夫婦の清貧と純愛の絆」か、確かに「泣かせる」。しかし、一般に「夫婦」と言えば、男女であろう。男女関係でなぜ、「枯れすすき」なのか、あまりにも寂し過ぎるではないか。しかも、歌詞のどこにも、男女を思わせる台詞はない。
短い詩だから、当たり前の言葉を省くこともある。しかし、何か解せない。
「時代背景」を求めると、最初は大正8年、レコードで出したが、あまり評判にはならなかったとある。映画の主題歌になってから流行し、それが、いわゆる「昭和恐慌」の世相に、あまりにも合致し過ぎたためか、大流行となったようである。
最初の発表の大正8年は、西暦に直すと、1919年である。そこで私の背筋が凍った。
『1919年』という題の小説があったのだ。拙著『読売新聞・歴史検証』でも、その概略を紹介しているが、読売新聞の記者だった「プロレタリア作家」青野李吉の私小説風の作品である。
この年、1919年は、富山の漁村の主婦たちが米屋を襲い、それが全国に広がった。いわゆる「米騒動」である。1917年にロシア革命が起き、日本はシベリアに出兵した。それを当て込んで悪徳米屋が米を買い占め、米の価格が暴騰したのである。
その年に、外国語にも通じていた詩人、おそらくは国際的な視野の持ち主の先端的な文化人だったであろう野口雨情が、大利根の「枯れすすき」に想いを馳せたのは、なぜだろうか。
「おれ」と「お前」という二人の原型は、誰と誰のことなのか。もしかすると、いかにも「逃避的」に思える「船の船頭で暮らさうよ」という想いには、当時の落語家が「シベリアしっぺい(失敗)」と揶揄したほどの「国難」または「破局」への絶望感が、潜んでいたのではなかろうか。
こうなると、この想いを共有してくれるかもしれない相手は、もしかすると、男の友人だったのかもしれないのである。少なくとも、この私の想像を妨げ得る材料は、まったくない。つまり、野口雨情の男の友人である可能性が、ほの見えてきたのである。
そこで、野口雨情をさらに検索すると、別の著名人が出てきた。以下、抜粋する。
http://homepage3.nifty.com/bishouan/takuboku/takuboku3.htm
[前略]
啄木が小樽に着いたのは、1907(明治40)年9月27日。10月から小樽日報に出社し、後の童謡詩人野口雨情と共に三面記事を担当することになった。そして、家族そろっての生活を再開することができた。
しかし、社の内紛に関わり、またしても2ヶ月あまりで退社してしまった。[中略]
啄木が入社した小樽日報社跡
啄木は、ここで、野口雨情と共に三面記事を担当した。そして、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆とことごとく意見が対立してしまい、12月に退社した。ちなみに、雨情は、わずか十数日で小樽を去ったらしい。
[中略]
「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」
電網検索だけでは不十分なことが多いので、別途、紙印刷物を点検すると、
『世界大百科事典』(平凡社、1988)
野口雨情東京専門学校(現・早大)英文科中退。1905年、田園詩集《枯草》を刊行。日本最初の創作民謡集であった。[中略]《小樽日報》勤務中、同僚の石川啄木と主筆排斥運動を起こし、首になったこともある。[中略]地方色を生かした素朴な野趣の中にしみじみとした哀愁をただよわせ、北原白秋、西条八十らの都会的で華やかな作風ときわだった対照を示した。河村政敏
この項の筆者、「河村政敏」を検索すると、以下の別人の著書が出てきた。この本までは今のところ、調べる時間の余裕がない。
http://www5.ocn.ne.jp/~halu/bungaku.htm
野口雨情 回想と研究 2,300円 野口存彌編 あい書林 昭和57年
さて、問題は、上記の「同僚の石川啄木」である。以下のごとく、「1886年生まれ」だから、「1882年生まれ」の野口雨情よりは、4歳年下である。
http://www.kcn.ne.jp/~nanto/utahp/takuboku.htm
石川啄木
1886年生まれ1912年没
[中略]友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買いきて 妻としたしむ
この「友」は誰なのだろうか。野口雨情のことかもしれないのである。
上記の石川啄木の没年、「1912年」は大正元年、「枯れすすき」の最初の発表から数えて、7年前である。
「1886年生まれ」の石川啄木は、1904年から1905年の日露戦争の当時は、18歳から19歳で、4歳年上の野口雨情は、23歳から24歳の年頃である。二人には、「ロシア」を強く意識する青春の一時期があったのである。
「啄木が小樽に着いたのは、1907(明治40)年」ということは、時まさに、日露戦争後の「三国干渉」を巡って、日本の国論が右に左に、揺れに揺れていた時期である。当然、メディアの役割が問われ、様々な事件が発生した。ロシアとは「一衣帯水」の関係の北海道では、どのような状況が展開していたのであろうか。
二人の多感な若者の友情、議論、激論、時には衝突など、今の私には想像するしかないが、その年下の友人の死後、7年を経て、シベリア出兵下、争乱の最中の日本で、大利根の船頭、当然、その船頭が漕ぐ川船をも見ながら、野口雨情は、何を想ったのであろうか。大きな川船なら、船頭は、前と後ろの二人組だったのかもしれない。
その後の野口雨情の消息については、以下の電網情報が得られた。
http://homepage2.nifty.com/hi-rose/ijinden/12gatu/1229.htm
昭和12年に日中戦争が勃発すると、歌の世界も軍歌、軍国歌謡の時代となり、放送の取締りがなされ、子供たちの歌も軍国主義化され、童謡は締め出されていきました。しかし、彼は進んで軍歌の類を作ろうとしなかったので、その活躍の場も次第に狭まっていきました。それでも彼の書を愛する人が多かったので、揮毫のため各地を旅行するようになり、求められてはその地の民謡新作もしたといわれています。
郷里で山林農場の管理などにあたっていたころの彼は、山へ出かける時はモンペに頬かぶり、腰に山刀といういでたちで、すっかりその仕事の人物になりきって飾るところもなかったといわれています。
私は、当然、以上のような「解釈」に基づいて、大利根の船を脳裏に浮かべながら、「枯れすすき」を歌うことになるであろう。わが「正調・枯れすすき」である。
なお、石川啄木については、以下の電網情報もある。
http://www.kcn.ne.jp/~nanto/utahp/takuboku.htm
石川啄木
1886年生まれ1912年没、 鉄幹、晶子の明星派の詩歌に導かれる。
「晶子」は与謝野晶子である。以下の電網情報がある。
http://members.tripod.co.jp/Sou_Katagiri/gallery/illust3.html
ああ弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せと教へしや、人を殺して死ねよとて、二十四までを教へしや。
暖簾のかげに伏して泣く、あえかにわかき新妻を、君わするるや、思えるや、十月も添はでわかれたる少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならで、ああ、また誰をたのむべき、君死にたまふことなかれ。
http://www.h3.dion.ne.jp/~f.loran/zakkityo10.htm
君死にたまふことなかれ(旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)
野口雨情と石川啄木が知り合い、一緒に戦い、解雇または退社した職場、『小樽日報』の地名、小樽に因む別の電網情報もある。
http://ore.to/~gekka/syohyou/kanikousen.htm
“小林多喜二(1903~33)秋田出身。小樽高商卒。北海道拓殖銀行に就職。志賀直哉の影響を受けた人道主義的作晶を書き、のちプロレタリア文化運動に入る。上京して共産党に入党、非合法生活の中で著作したが、昭和8年逮捕され、虐殺された。”(日東書院「人名辞典」より)
その項の末尾にはこうある。“代表作「蟹工船」”
以上は、野口雨情、石川啄木、与謝野晶子、小林多喜二に関する調査の途中経過報告である。いずれも、いわゆる「反戦平和」の文化人の系列である。
では、以上の中で、野口雨情とは「きわだった対照を示した」と評される「都会的で華やかな作風」の「北原白秋、西条八十」の二人は、戦争に対して、どのような態度を示したのであろうか。
まずは、平均的かつ「教科書」的な人物紹介である。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person106.html
作家名: 北原 白秋
作家名読み: きたはら はくしゅう
ローマ字表記:Kitahara, Hakushu
生年: 1885-01-25
没年: 1942-11-02
人物について:詩人、童謡作家、歌人。1885年1月25日、福岡県の柳河(現在の柳川)に生まれる。1904年に上京。「明星」「スバル」などに短歌、詩を発表。1918年より鈴木三重吉の「赤い鳥」の童謡面を担当し、以後、日本の創作童謡に新分野を開拓した。代表作に「雲母集」(歌集)、「からたちの花」(童謡集)など。1942年11月2日没。http://www.t-artists.com/hata_disco.html
日本のうた
2. この道(北原白秋・作詞/山田耕筰・作曲)
5. からたちの花(北原白秋・作詞/山田耕筰・作曲)http://pro3.project.mnc.waseda.ac.jp/sobun/s/sa001/sa001p01.htm
西条八十(さいじょう・やそ)1892~1970。詩人。東京牛込に生まれる。早稲田中学に学び吉江喬松の影響を受ける。早大在学中、詩誌「聖盃」に参加。早大英文科で教鞭をとる。アイルランド詩人やフランス象徴主義詩人に深く傾倒した。『砂金』などの詩集のほか童謡、流行歌も作った。
参考図版
西条八十 北原白秋(右)と 昭14頃
この「参考図版」は、画像で入っている。なかなかに「都会的」な、「ご立派な紳士」たちである。「モンペに頬かぶり」の野口雨情とは、大違いである。
私たち、敗戦後の日本の子供が、学校の音楽の時間に歌わされた北原白秋の歌は、以下である。私は当時、声変わりの最中で、高い音が出せず、面白くなかった。
http://www.t-artists.com/hata_disco.html
日本のうた
2. この道(北原白秋・作詞/山田耕筰・作曲)
5. からたちの花(北原白秋・作詞/山田耕筰・作曲)
ところが、野口雨情の「枯れすすき」の中の「おれ」と「お前」を、深く考え、この表現自体にも、それなりの日本語への想いが籠もっていたのではないか、などと思いめぐらす内に、次の歌を想い出した。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/doukinosakura.html
貴様と俺とは 同期の桜、同じ兵学校の 庭に咲く、、咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
これをさらに検索すると、「ご立派な紳士」の一人の名前が出てきた。
http://www.nagano-c.ed.jp/seiryohs/tosyo40/doki.html
西条八十が昭和一三年に発表した「二輪の桜」を原作とする歌。 作詞作曲者不明とされているが海兵出身者の間では海兵七一期生が昭和一七年に作ったとされている。
紙面の都合上一番・四番・五番しか載せられなかったが詞(うた)全体に太平洋戦争中の「散華」する青年達の覚悟があらわれている。
http://www.gem.e-catv.ne.jp/ja5dlg/isite/nakamura/nakamura.htm
昭和十九年頃流行……昭和13年2月号の「少女倶楽部」(講談社)に、「二輪の桜」と題して西条八十が発表した詩が元になった。君と僕とは二輪の桜 積んだ土のうの影に咲く どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国のため
そこで、軍歌を検索すると、いやはや、唖然、愕然、両「ご立派な紳士」の作詞、山田耕作の作曲、編曲が、ぞろぞろ出てきた。陸軍省新聞班っも、奮戦していた。
以下は、ほんの一部である。こんなことを調べていたら、命が縮む。ああ。
http://gunka.jp/sakuban/siryou/syou-sp/s-vic1.htm
Columbia~1938西条八十作詞
撃滅の歌 日活映画「撃滅」中の主題歌西条八十 憧れの海軍
1932 合唱 建国祭本部当選歌
建国行進歌 建国祭本部制定
建国歌 陸軍戸山学校軍楽隊作曲並編曲
北原白秋作詞 山田耕作作曲並編曲
1932 合唱 歩兵第三連隊隊歌
歩三の春 北原白秋作詞 山田耕作作曲並編曲
大合唱歩兵第三連隊全員 伴奏陸軍戸山学校軍楽隊 山田耕作指揮
合唱歩兵第三連隊隊員 伴奏日本コロムビア交響楽団大陸軍の歌 陸軍記念日を祝う歌
北原白秋作歌 山田耕作作曲並編曲 陸軍省新聞班作歌
山田耕作作曲並編曲 岡田国一楽長指揮 陸軍戸山学校軍楽隊
以上。