木村愛二の生活と意見 2002年1月 から分離

アフガン侵略戦争中ゆえ目出たくはない冥土の旅の一里塚に街頭演説2時間敢行せり

2002.01.01.(火)(2019.8.7分離)

 2002.01.01.(火)、つまり元旦である。江戸川柳に、冥土の旅の一里塚、目出たくもあり、目出たくもなしとある。今月の17日で65歳になる。ちびっと国民年金が加算される。すでに昨年12月17日には、年金者組合に加盟して初めての会合、忘年会に出席し、「青年部長立候補」を宣言し、口煩いばかりの先輩の度胆を抜いて置いた。

 その時にもA4判に拡大した色刷りの年賀状の文面を配付した。その1週後の12月24日には400枚弱の年賀状を投函した。26日には恒例の旧友康芳夫らが主人公の「ボス」事務所忘年会でも同じ文面を配付した。その文面の最後に「天気が良ければ元旦に街頭演説しちゃうかも」と予告したが、幸か不幸か天気が良かったので、本日、午前11時半ごろから午後1時半ごろまで、約2時間、中央線吉祥寺駅の北口広場で、単1乾電池10本使用、愛称「ドラム缶」巨大ラジカセによる街頭演説を行った。

 地元の知り合い4人に挨拶された。観客の中には見知らぬ小太りの温和な顔の中年男がいて、かなり長いこと広いロータリー型の歩道の真ん中で私の正面に立ち止まり、演説に耳を傾け、私が首からぶら下げている古い映写幕転用の携帯立て看板の文字を読んでいた。彼は、その後、やおら、緩やかに近寄ってきた。演説を中断してやると、看板の下の方を指差しながら、「インターネット以外の資料はないんですか」と聞く。

 そう言われて気付いたが、2度の忘年会と12月29日の自宅での初の研究討論会用に作った張り込み資料のコピーが少しはあったのに、持って行くのを忘れていた。1月9日(水)19時30分から23時まで新宿歌舞伎町討論酒場ロフトプラスワンにて、「9.11.モサド謀略説徹底検証」を企画・司会するので、その宣伝を兼ねて、資料入りのA3判のコピーを2種類作ったのだった。大晦日にも小規模の忘年会をやったので、3度目の正直か、本当に忘れてしまったのである。

 その小太りの男は、こちらから聞くと、「大学の研究者」とだけ名乗った。「そんなら学生に頼んで、わが電網宝庫から取り出して貰え、木村愛二のキーワードだけで分かる」と教えた。

 街頭演説の内容は、すでにこの日記風の昨年11月分に記したことが中心である。なお、この日記風の昨年12月分は記す時間が無かった。本命の「9.11.モサド謀略説」に関わる情報が殺到して、処理し切れず、日課の体操も水泳も途絶えがち、ついには長年の持病の腰痛まで再発してしまった。ああ、アメリカとその頭脳部分を制する極右破落戸ユダヤ人主流が、憎い、不愉快、しかし、ついに尻尾を出したのではないかと、これは痛快、今年も徹底追及せざるを得ない。

 そのためにも、体操と水泳と散歩の時間は、絶対に確保しよう。これが年頭所感の一番大事な所である。これだけは忘れないようにする。