忌まわしき過去の「ガセネタ」報道居直りの源流あり
その1:最も特徴的な最近の事実
1998.4.15「ガス室」裁判原告本人陳述書抜粋
私宛てのファックス通信による被告・本多勝一の「脅迫」行為
被告・本多勝一は、『週刊金曜日』発、私宛てのファックス通信によって、本件訴訟の提訴以後、8か月弱を経た昨年の1997年12月5日の日付けで明らかに被告・本多勝一の筆跡ではない手書きの追伸を書き加えた手紙(甲第31号証)を送り付けてきた。
この手紙の文章は、被告・本多勝一特有の意味を限定しにくい悪文の典型であるが、その内、もっとも特徴的に、被告・本多勝一の深層心理の状況を示す文句は、次の部分である。
「南京大虐殺について私はこの程度のことを調べました。[中略]木村さんも少なくともこの程度以上の報告を、ご自分の現地取材や体験者取材による結果を中心に書かれることをご忠告申し上げます」
私は、このたった2行の文章の中に、本件の名誉毀損・誹謗中傷記事の企画と実行に至り、かつまた、その後の居直りと虚言の数々をあえてなした被告・本多勝一の個人的動機が、実に根深く、かつ忌まわしく刻み込まれていると判断する。
被告・本多勝一はここで、本件の名誉毀損・誹謗中傷記事の企画と実行に関する弁解として、私の「ガス室」に関する調査が、自らの怪しげな自慢の種、「南京大虐殺」に関する「調べ」と比較して、不十分だという屁理屈を組み立てているのであるが、この屁理屈の構造の怪しさそのものもさることながら、被告・本多勝一の「南京大虐殺」に関する「調べ」そのものに恐るべき怪しさがあり、しかも、その怪しさとその結果としての悪業の数々、さらにはその隠蔽のために重ねた累犯の数々の当然の帰結として、本件の名誉毀損・誹謗中傷記事の企画と実行が位置付けられるのである。
なお、本件訴訟の開始以来、被告・本多勝一が、同手紙に記された「南京大虐殺」を内容とする著作集の一部を私に送り付けてきたのは、これが2回目のことである。1回目の場合には、被告・本多勝一が本件提訴以前に私に投げ付けたことのある文句を、そのまま返上し、被告・本多勝一の仕事は「支持しかねます」という理由を記したメモ(甲第32号証の15)付して送り返したが、2回目の分は、度重なる脅迫の証拠として保存してある。なお、2回ともに、佐川急便による宅配の費用は、「株式会社金曜日」持ちであった。
以下、まずは各論的に問題点を解明し、その後に総論的な意見を述べることとする。
被告・本多勝一の自称「南京大虐殺をめぐる論争」と本件との関係
すでに原告準備書面(3)に記したが、私は、「(被告・本多勝一が1997年(平9)7月22日付けの被告・本多勝一準備書面(以下、1とする)によって、「(拙稿『「ガス室」神話検証』の)『連載の計画』そのものを否認してしてくるなどという驚くべき背信行為を予測だにしなかったので、訴状には詳しい経過を記さなかった」(右の原告準備書面[3]より)のであるが、その「詳しい経過」の一つには、いわゆる「南京大虐殺」問題を主題とする『週刊金曜日』(96・8・9及び8・23)掲載の「南京事件調査研究会」メンバーによる「座談会」連載記事(甲第32号証の1及び2)に対する私の批判活動を頂点としながら、その前後につながる私と被告・本多勝一との間の一連のやりとりがある。
このやりとりの前後関係についての説明は、できるだけ簡略にするが、この一連のやりとりに関しては、書証として提出できるものだけでも膨大な数と量の往復文書(甲第33号証の1ないし15)が残っている。同時期の1996年9月15日に開かれた雑誌『創』創刊20周年記念レセプションの席上では、被告・本多勝一の方が私に対して執拗に議論を挑んでくるという状況があった。この種の宴席では、できるだけ多くの友人知人と旧交を暖め会ったり、それまでは面識のなかった参加者とも名刺を交換してたりするのが通例であるため、私は非常に迷惑な思いをしたものである。それゆえに、その時の異常な状況についての記憶は鮮明に残っているで、詳しい証言もできる。
「南京事件調査研究会」に関する批判的私見
右の「南京大虐殺」に関する座談会の連載記事自体に関しては、簡潔を旨とし、『マルコポーロ』廃刊事件、または「アウシュヴィッツ」に関係する部分のみの批判に止めるが、座談会出席者の内、誰一人として、「ガス室」に関する「調査研究」の実績を持っていない。それなのに、『マルコポーロ』廃刊事件に関する俗論的評価を唯一の根拠として、「ガス室」否定論を「南京事件」の「否定勢力」と同一視し、それによって自説を補強しようとするものであるから、およそ、科学的な議論とは言い難い。もしも善意によるものだとしても、およそ歴史学の専門家として通用する域に達してはおらず、のちに詳述する「味噌も糞も一緒くたにする」類いのデマゴギーに堕していると批判せざるを得ない。
「南京事件調査研究会」と称する組織そのものは、「南京大虐殺まぼろし論争(後出)」をきっかけとして結成されたものであり、この組織結成を企画し、その創設に奔走したのは、訴状に記した『週刊金曜日』初代編集長、和多田進であるが、その和多田が編集長を辞任した背景には、被告・本多勝一との不倶戴天の敵同士に至る激しい対立関係があった。和多田自身は現在、『週刊金曜日』創刊以前から社長を勤めていた晩聲社の立て直しに集中せざるを得ない状況にあるが、私に対して「本多勝一はジャーナリズム界から追放すべき人物だ」という主旨の激励発言をしている。和多田は、そう断言する根拠について、「いずれ明らかにする」と語っている。その内容には、当然、「南京事件調査研究会」の内幕も含まれている。
すでに本件で証人として申請した菅孝行は、右「南京事件調査研究会」による主要な出版物、『ペンの陰謀』(甲第44号証)において、被告・本多勝一と共著者の関係にあったが、「なぜ、南京大虐殺まぼろし論争で本多勝一に味方したのか」という主旨の私の質問に答えて、「当時は何でも右か左かというのが判断の基準だった」という主旨の答えをしている。
つまり当時においては、実は単に自称「左」、または「心情左翼」と称される読者の確保に熱心な「エセ紳士」こと朝日新聞社の社用で、ヴェトナム戦争や中国文化大革命の情報取りに従事した被告・本多勝一を、それだけで「左」の「ジャーナリスト」だと誤解する向きが多かったのである。私自身は、その当時、マスコミ関係の労働組合運動やそれと関連する政治運動に没入していたのであるが、学生時代からの友人である菅孝行から右のような告白を受けて、改めて唖然とした。闘争の現場にいた私から見れば、マスコミ関係の労働組合運動やそれと関連する政治運動の場に、一度たりとも顔を出したことのない被告・本多勝一が、やはりほとんど同様の立場の「学者」や「著述家」たちに、「左」だと誤認されるという摩訶不思議な現象が、この日本でも起きていたのである。
結果として、被告・本多勝一の正体を見抜けず、被告・本多勝一が「南京大虐殺」の旗印を確保したがる本音を検証し得なかった自称平和主義者たちが、主観的には善意に発しているのかもしれないが、私の目から見れば実に不十分な「大日本帝国の大陸侵略史」を物語りつつ、被告・本多勝一の悪業の数々の隠蔽に協力していることになるのである。
被告・本多勝一が額に張り付けた二股、いや、三股、四股膏薬
特に許し難いのは、右「座談会」への被告・本多勝一の何食わぬ顔をした列席と、その迎合的発言内容である。被告・本多勝一は、少なくとも、右「座談会」出席以前に、私の草稿を(本人の言によれば)「斜め読み」しているのであり、その後も、たとえば被告・本多勝一準備書面(1)にも自ら明記しているように、「世界の定説とされている『ホロコースト』を覆すに足るような充分説得力のあるルポ等で原告の説を論証することができるのであれば、『週刊金曜日』に掲載することをも検討する」という二股膏薬、いや、三股、四股膏薬を、額に張り付けて、いざと言う場合の逃げ場を確保しようと苦心惨憺の最中なのである。
私は、この連載記事を読んで、今更ながら、被告・本多勝一の怪しげな俗論迎合・便乗主義の薄汚さに吐き気を催した。そこで、この座談会出席者全員に対して、1996年8月26日付の手紙(甲第33号証の6)を送り付けたのである。
変わり身の早い、というよりも変わり身の露骨なことでは定評のある被告・本多勝一は、『歴史見直しジャーナル』3号(甲第7号証の4)の1頁下段にコピーを縮小して収録したファックス通信を、『マルコポーロ』廃刊発表直後の1995年2月8日、私宛てに送信している。私は、それに応えて、直ちに「『レクスプレス』のその論文のフランス語原文」をファックス通信で被告・本多勝一に送った。その論文の主要部分については、同じく『歴史見直しジャーナル』3号(甲第7号証の4)の32頁2~3段に収録した『週刊金曜日』(95・3・17)「論争」欄への投書で簡略に触れ、さらに拙著『アウシュヴィッツの争点』(甲第1号証)の131頁に訳出した。被告・本多勝一は、当然、欧米で「ガス室」疑惑がかなりの程度に公然化していることに気付いている。だから、怪しげな二股膏薬、いや、三股、四股膏薬を、額に張り付けて法廷を侮辱しながら、ノラリクラリと逃げ回っては、世間の様子を伺っているのである。