禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』17

メルマガ Vol.17 (2008.03.17)

第3章 人と機構

1「プロデューサーからの訴え」

D PD労働条件の改善には……

 NHKの仕事の仕組みの中では、PDは決して十分な創造的な役割を発揮できるようにはなっていないが、番組に対する責任だけは山のように背負わされている。

 そこで、報道第8分会からは次のような告白が出てくることにもなる。

―― 新潟地震取材のとき、勤務時間を過ぎた技術要員は宿泊地に引き上げた。しかし担当PDは、もし第2、第3の地震が起きるかもしれないとして現場にとどまり、再び徹夜して待機したのである。いわばこうした非常時においては、PDは番組の責任をもつ以上どうしても労働者として行動するよりも放送人として十分の使命を果たすことが先行する。災害時に限らず、我々PDは、この放送人と労働者意識との相克ともいうべき事態をしばしば経験するのだが、その際、PDと技術部門とが必ずしも同じ考え方に立てないために、困惑することがなしとしない。PDは、放送を出すための現場としての最終責任をいつも背負わせられており、そのことのために、あり得べき労働者としての意識を行動に移せない面が出てくるのであろうか。――

 PDのまわりには奇妙な優勝劣敗主義が渦巻いており、それが巧妙に労働強化とつながっているのである。

 PDはいつもこの仕組みに憤激しながら、これまでそれを乗り越える術を見出し得なかった。

 例えば、Aという番組がある。それを「Sは3日間で仕上げ、しかも出来上がりの評判は悪くなかった。おまえは4日も5日もかかる。」というような形で職制から締め付けがあった場合、これを反撃するのは容易ではない。

 同様に「Mは徹夜して現場に泊り込んだ。おまえはさっさと帰って何だ」と言われた場合も反撃は容易ではない。もちろん、仕事自体の性質の中に止むを得ざる部分があることは事実である。例えば、報道第8分会の報告にあるごとく、

―― 国会中継の場合、国会にはスケジュールがない。何時、何が始まるかわからない。きわめて流動的であり、そのため無駄の多い体制を結果的にはとっている。日韓国会にみられたごとく、審議が徹夜で行われる時はあらかじめ予想もつき、スタッフは交替で勤務を組むわけであるが、急な事態の変動の場合は、PDは中継車の中に釘付けになり何時間も待機しなければならない。そして都内出張として100円、8時間以上200円の僅かな手当を貰い、身銭を切って高い国会食堂で時間はずれの夜食をとらねばならない。技術が交替可能であっても、演出や行きがかり上、PDは交替不能の場合もある。食事時間や睡眠時間も不規則になる。――

 これらは仕事の性質上止むを得ないのであるが、問題は、こうした仕事の性質を言いがかりにしてやってくる労働強化を警戒しなければならないということである。

 例えば、芸能第2分会の場合、しばしば「その番組から降ろすぞ」という言葉が、有形無形の圧力となって担当者の上にかけられてくる。「その番組を愛し、生甲斐としているPDに対して、その番組から降ろすぞ、というような威圧をもって労働強化を図るなど、かりそめにも許されない卑劣な行為であろう」。ところが、そうした圧力のもとに「打ち合わせの時間外もつけさせない」ことがあったり、「出張回数や、環境をよくしようという発言に対しても、そんなことをいうやつは番組を降ろす」といって発言を封じたりすることが実際に起っているのである。

 その職制は、国民のための番組を私物化し、あたかもその番組を自分がやらせてやっているのだ、というような、とんでもない勘違いをしているのである。

 もちろん、番組に現れる個々のPDの才能とそれに対する評価を拒否するものではない。しかし、それが労働強化や創作に対する不当な圧迫と表裏一体となってくるところに、我々は怒りを感ぜざるを得ない。極端に言えばPDが番組を一つ一つつくるたびに、このような複雑な仕組みをもった優勝劣敗の風が吹いており、それはあたかも険しい尾根道をひとり辿るにも似た状況なのである。

 こうした状況の中にあってPDはどのような手段をもって我々の労働条件を向上させていけるのか。

 報道7分会での討論から

――甲 今年のベア闘争の「人間の日」のことだが、ちょうどドキュメンタリー番組のロケの最終日に当っていた。そこで今日は8時間までというので帰ってきた。そして次の日から戦場のような騒ぎになる。1日ロケを延ばしてくれとカメラマンデスク、配車デスクに泣きこむ。1日ロケが遅れて次のフィルム編集の日程が縮まってくる。

 いらいらしながら出演者に詫びをいう。編集が遅れると現像、フィルム録音と連鎖的に詫びを入れなければならなくなる。

 そうでなくても、ギリギリの自転車操業をしているのだから、ちょっとつまずくと、そのあとの何日かは必死の思いでリカバーするために働き、泣きついて回らなければならない。

――乙 そんなのは番組の質を落して切り抜ければよいのじゃないか、という意見もあるだろうがPDに吹く優勝劣敗の風はそんな生やさしいものではない。第一出来上がった作品をみて、ここからここまでが「人間の日の影響です」という区別が全くつかない。

――丙 作品の評価は全体的な印象評価だから一つ手を抜けば致命的なことになるからなあ。

――甲 人間の日としての闘争の意義は認めるとしても、現在の制作条件の中では我々PDのためにはなかなか有効な闘争たり得ないという悩みだね。

――乙 もう一つこういう例がある。ある中央局の車輌部でいつ車を頼んでも「車はあるけれど、人がいないので局車は出せませんと断られることがある。つまり三六協定にひっかかるからこれ以上人は出せないというのが職制の理由なのだ。

 しかし、協会の業務量は次第に増大しており、それに対応する人員配置は当然協会側が手を打たなければならないはずだ。そうした経営努力の怠慢が結局は現場PDにはねかえってきてPDは乏しい番組予算をはたいて雇い上げ車を使う。

 ところが番組予算はそんな事態まで予定していないから大赤字になり、それでも番組の質は落せないのでPDがまた走り回ることになる……

――丙 なるほどそのたびにこれまでPDはあちこちに「スミマセン」を連発し、頭を下げて切り抜けてきた。しかし考えてみればこんなおかしなことはない。スミマセンとは職制が使うべき言葉である。その職制が威張りかえっていて、別に私利私欲のために番組を作っているわけでもないPDがどうしてスミマセンといって頭を下げて回らなければならないのか。――

 このレポートで論じられている“人間の日”の評価については、来年度のベア闘争の闘争戦術を一切下部組織の討議にまかせるという方針の中で、さらに十分な検討を加えられなければならない。特にこのレポートの指摘している問題点は、当該部局の職制が負うべき当然の責任がいつの間にか逆にPDの責め道具としてすりかえられ、落ちかかってくる巧妙なからくりに悲鳴にも似た抗議をしている。

 ここに至って我々は考える。もはや我々の闘争は単に「時間短縮」や「賃金引上げ」だけの闘争では状況は良くならない。そこで、どうしても「制作条件闘争」をしなければならない。と、それこそ血の出るような体験から我々は決意しようとしている。我々の労働条件を改善するためには、「予算・機構・人員」といった制作条件についての要求をかちとらねばならないと、止むに止まれぬ気持で考えているのである。

E 「命をかける」PDたち

 NHKの人間ほど、仕事を愛する人種はいないのではあるまいか。飲んでも仕事の話ばかり、趣味は仕事といわんばかりの人が多い。

 教育第2分会のあるPDの場合、彼は今年6月に「そろばん教室」(R)7本、「数学Ⅰ」(T)4本、同FD3本、「教育時評」(R)1本を担当しているが、これではそれぞれのスケジュールの調整をつけるだけでも精一杯で、緊急テーマが発生した場合や長期取材、出張取材が全く困難な状態である。しかもなお、教育時評などで録音構成など生な声を伝える必要がある場合は、「担当者の熱意に頼らざるを得なくなる」のであり、NHKの番組が良心的な面を残しているとすれば、それらは他ならぬ担当者の「熱意」が辛うじて支えているのである。

 教育第4分会では、41年度芸術祭参加ラジオドキュメンタリーを制作したが、人員、設備、技術、予算等に対する見通しが「ほとんど、時には全くない感じ」であった。この場合も「一にPDの手工業的労働の熱意、個人的努力、事を円滑に進めるために他部上司に頭を下げに行く努力、過重労働にめげない熱情に負って番組ができている」現状である。これらはPDの熱意が番組の商品価値を維持しているというケースである。逆にこんなケースもある。

 例えば、海外取材番組では、行き先やテーマの如何を問わず、30分番組1本につき、7日~10日で抑えられており、当然、内容にも響いてくる」(報道第10分会)のであるが、この場合、海外取材番組が一応体をなすようにするためには、それこそ超人的な働きをしなければならない場合もあるという。担当者の熱意が結局、それらのケースを糊塗しているのであるが、一説に言われるように、最初に海外取材に出してもらったものが恩を感じて超人的働きをした。そこで、「あれができたことが、おまえにできないはずはない」式に、ハード・スケジュールが押し付けられているとしたら問題である。PDに限らず、記者・カメラマン・技術、それぞれ、ある場合には命の危険を覚悟して働く。

 ヘリコに乗ること自体、ある程度の危険は承知しなければならないのだが、それも台風時や火災時に、しかもギリギリの低空で飛ぶ。霧で離陸が困難で危険でさえあるにも拘らず、しゃにむに飛び立つ。それらは成功すれば武勇伝ですむが、例えば「数年前の広島局のPDのように、夜行定期便トラックの取材中、別のトラックにはねられて殉職した場合、その遺族に対する協会の処遇をみて、我々は慄然とした。」(報7)ということも考えなければならない。

 これらは、スタッフの熱意が命の危険を伴ったり、職制の労働強化の口実に使われることを、警戒しなければならないケースである。

 だが、それにも拘らず、我々PDやカメラマン・中継技術者・記者たちが、敢然と命を的に仕事に飛び出すのは、その仕事に対する「参加感」が充足させられている場合だからである。

 それが、職制側の労働強化の口実に使われるのは警戒しなければならないが、しかし我々の仕事に「参加感」の充実が必要なのは当然であろう。自分も一つの創造に参加している。そこから仕事への充足感も生れてくる。ところが協会の機構のまずさは、必ずしも番組に参加する各職域間に必要なアンサンブルワークを生かしていない。

 このためPDと他の職種との間に、その番組に対する参加感の意識の違いが生れてくる。

 PDは関連各職場がスタッフ意識を持って番組に参加してくれることを、ひたすら望んでいるのである。にも拘らず制作途上、不必要な摩擦が起ったり、他の職種の組合員の労働意欲が阻害されたりするような現状は、その全責任がこうした不合理な機構を押し付けている協会側にあるといわなければならない。

 昭和43年度をめざすEDP番組技術システムにあっては、番組制作者とワーク・ユニット側が分断され、ワーク・ユニット側は、ますますスタッフ意識を持ちにくくなる傾向にあるようである。それで果たして良質の番組が得られるのか、我々は深い憂慮の念を抱かずにはいられない。