第3章 人と機構
1「プロデューサーからの訴え」
F 合理化の前にゆらぐPD ~放送人構想の美名の陰に~
PDたちは、誰しも「年一年、仕事がやりにくくなってゆく」ことを実
感として感じ取っている。教育第5分会のレポートは、次のように訴える。
―― 多くの分会員から共通の不満として「PDの業務は近年極めて多岐にわたり、負担も増大しているので、提案に多くのエネルギーを費やすのが難しくなっている」という声が上がっている。つまり、リサーチのための精神的・肉体的余裕が失われつつあるということである。「具体的な事実をリサーチし、新しいものを発掘していく時間がない」「十分なリサーチが行われていないから、適当な提案で観測気球を打ち上げてみたり、無難な安全パイを出しておこうということになる」「自分に割り当てられたルーティン・ワークに安住してしまう傾向が強くなった」。こんな様々の反省が出てきている。PDはいつから、なぜこのようにリサーチ不足を歎くようになったのであろうか。――
このレポートは、PDの身辺に迫る危機をこう述べたのち、
―― ここ数年PDの業務は、急激に複雑にそして多岐ににわたってきた。しかもその増え方が極めて隠微な形でなしくずしに行われてきたことに問題がある。これは恐らく昭和38年に設定された放送人構想と無関係ではない、と考えられる。現状のように、これまでのPD業務に、新しい本質的でない雑な仕事が付け加わり、PDを苦しめ番組の質を落すというのでは、放送人構想の大義名分など、どこへ行ったか全く分らない。我々からみれば「放送人構想」はPD業務量を増加させるもっともらしい言い訳だった、とも言える現状である。――
と述べている。こうした傾向は、多くの分会からも指摘された。
―― 昭和38年以来始まった「放送人構想」は、現実にはPD業務を著しく煩雑化し、企画提案などのPDが最も力を注ぐべき部分へのエネルギーの集中を妨げてきたといえるのであろう。――
具体的にはどうか。
教育第2分会は、次のような例を挙げる。
―― 最も極端なのは、TV日比谷5スタと、ラジオPD収録である。例えば、日比谷5スタで現在、通高英語番組を行っているが、出演者は最低2~3人で(必ずスキットが入る)マイク2本を使用し、ミキシングはPDが行うのが建前になっている。PDはまずこのマイクのミキシングに多大の神経を使い、非常な緊張を余儀なくされる。またセットも固定ライトのため、番組の必然性からくる要求に応えられるものではない。以上のような条件では、とうてい質の高い番組は望むべくもない。他の番組も大同小異である。いずれにしても、このオートメーションスタジオは、その技術的な思いつきとアイデアにおいて有名になったにも拘らず、プロデューサー、技術担当者にとって、より良き番組をつくるためには決して良いものとはいえず、「極度の緊張を強い、過重な動労の実態をもたらすもの」というのが我々の素朴な実感である。
ラジオPD収録についても、同様の面があり、質的な向上を望むためには、必然的に技術上の問題が残るであろう。――
同じ例が、教育第5分会からも報告されている。
―― 余計な人手を要する場合が、協会の合理化政策の中で生じている。
「世界の窓」という海外のドキュメンタリーを紹介する番組は、リモコン・スタジオであるため、技術要員はTDとVEの2人である。ところが現実には音声の吹き替え、オリジナルサウンド使用など、音声操作が複雑な場合が多く、とてもPD1人では音声を処理しきれない場合が多い。しかも、リモコン・スタジオは音声要員がいないため、PDがもう1人出て音声卓につく。要するに、より劣る技術で音声を操作するので、ミスがあってもそのまま頬かむりして出すというような番組の質の低下を招き、しかもPDの本来業務を放り出してにわか仕立ての音声技術者となるわけである。その分の配員はないので、自分の仕事を中断して、その応援に駆けつけるという無理を重ねている。一体これで、どこが合理かなのか?――
このレポートは、このように合理化に対して激しい不信の念を表明して
いる。
教育第2分会。センターからの報告と抗議。
―― 合理化による労働条件の悪化は到るところに出てきている。例えば、試写の問題がある。番組終了時に、TD・PD立会試写を行うが、例えば料理番組では多くの実験を伴い、PDはその後片付けをする間もなく、また出演者への挨拶もそこそこに試写室に駆け込む。本当は、番組収録が終ったときに、次回のスケジュールについて出演者と打ち合わせるのが最も合理的なのだが、我々はすぐ試写室に駆け込み疲れた神経のまま試写を終え、テープを資材管理にあげなければならない。これはPDにとって連続した緊張の時間を2倍に延長させられることになり、レギュラー講師との次回打ち合せも、別途改めて行わねばならないこととなってしまう。また技術要員合理化のためビデオテープとフィルムの係もなくなり、全てPDの業務となっている。このため支障のある場合が多く、ひいてはPDの業務増となってはねかえっている。――
こうして、制作内容が低下していく傾向とは反比例に、PDの責任だけ
は次第に増大してゆく。「PDは制作意欲を失わせられる環境の中で、神
経だけはますます張り詰めさせられている」のだ。
―― フィルム編集、効果団、美術進行の解体、PDへの吸収についても、矛盾がたくさんある。高度な熟達した技術を要する編集業務は、昭和38年以前は編集専門家の仕事であった。これが解体されたために、PDは新たにこの複雑な仕事に取り組まねばならなくなった。しかも、これらの仕事がPDの仕事に付け加わってきたのにも拘らず、定員増或いは仕事に余裕を与えられるなどの措置は何ら講ぜられなかった。
効果団や美術進行の解体吸収についても同様のことがいえる。効果マンなどの仕事への意欲を掻き立てさせるための、こうした組織替えはよいとしても、問題は内部的な(PDの人員増など)措置が全くなされないままに全てなしくずしに「まあ、なんとかやってくれよ」式に進められてきたことである。
効果レコードの選択、小道具の収拾、選曲からセットの出来不出来に至るまで、PDは慣れない仕事にない知恵を絞って身をすり減らしているのが現状の姿である。――
さらに、教育第3分会からの疑問。
―― 効果団、フィルム編集の廃止とともに、これらは全てPDが行うことになったが、結果としては合理化前よりも音処理が粗末になったり、編集のレベル低下をもたらした。“合理化”を進めて、その結果としての質の低下が全てPDの責任というシステムはおかしい。――
教育第4分会では、職制が次のように語った事実が出ている。
―― これまでの番組は一切おいて、新しく考えよう。手間のかかる能率の悪いのは止めてシンプルなものにしよう。
番組の内容はともかくでよい。試聴する幼児もともかくとして、「金」と「手」のかからぬものを作ることを要請し命令してきている。――
これでは、制作意欲が減退するのが当然である。
国際第1分会からも
―― 合理化によるマイナスを示す一例として、国際放送送出の自動化がある。この自動化問題は、組合員の異動、MT型再生機へのテープセット業務などをめぐり、昨1965年における国際第1分会の最大の問題でもあった。紛糾の後、実施されたが、これは現在なお多くの問題となって尾を引いている。番組をつくるとき、番組そのものの質よりもまず第一に、この自動化システムを考慮しなければならないし、また差し替えや特集を組む場合、コードを全部打ち直さなければならないところから、「タイムリーな特集もついやめてしまう」といった具合に、イージーな放送に終始することがしばしばある。
一時的に人員を軽減してみても、その結果として人間不在の放送、画一的にならざるを得ない番組など、マイナス面がはるかに大きく、我々としては、43年度から実施される番組技術システムに大いなる危惧を抱いている。――
と述べている。「それは、番組制作システムを合理化する上での過渡的な
出来事だ。そのうち慣れてくれればそういう問題点もなくなるだろう」と
いう意見があるかもしれない。しかし、教育第5分会の次の報告をみてい
ただきたい。問題は決して片付かない。
―― 例えば、PD収録スタジオでこんな例がしばしば起こっている。所定のスイッチをいれ、所定の通りテープを起動させて出演者に話してもらったところ、録音がとれていないということが起こる。出演者を目の前にあちらこちら点検しても、どこにも誤りはない。仲間のPDを呼んで、あちこち一体どうしたのかと探しまわったところ、「PDさわらずべからず」というスイッチボックスのスイッチが入っていなかった。このため、多忙な出演者を1時間も待たせ、如何しようもない苛立ちのうちに、無駄に時間を費やしているのであるが、技術の専門家でない悲しさ、この種の無駄が起こり得る可能性は、至るところにあり、PDを「にわか技術者」に仕立てようとする非合理的な制度が改まらない限り、必然的に生じてくると思われる。――
経営者が実に隠微なやり方で、なしくずしにPDの業務量増大を図ってきた事実が、ここにPDの集積された声として暴露され不満が起こってきている。職制側が、PDの創造意欲や仕事に対する熱意を失ってゆく様子を見ながら、このような施策を推し進めてくる鈍感さは驚くべきものがある。PDから熱意を失わせた彼らは、自ら墓穴を掘るに等しい行為を行っていることに気がつかないのだろうか。次第に業務量と定員のバランスは崩れてゆく。「近い将来、EDPSが番組制作に導入された場合、このような問題はもっと露わな形で深刻な影響をもたらすだろう。そのためにも、こうした事柄について経営者側に注意を促し、現状の改善を強く要望す
る」という教育第5分会の意見は、PD全ての声である。
我々は、番組は「手づくりの良さ」を失ってはならない、と考えている。だが、番組技術システムは所詮はデパートの規格品のように、一応取り澄ましてはいるが個性のない大量生産品ばかりをもたらす結果になってしまいはせぬだろうか。
多数のPDを、FD、SDとして休養の時間もなく酷使することによって、能力をしぼませ意欲を喪失させはしないか。
スラックを埋めると称して、企画の時間も奪ってしまい、結果として恐ろしい番組の質のマンネリ化を招きはしないか。そうではない、と言われても我々は素直に信ずることができない。
なぜなら、我々は余りにもしばしば、これまで裏切られてきたからである。結果として仕事は早々やりにくくなっている。何十億という機械を買って改革したところ「人も減らず、金も減らず、機構はいたずらに複雑になり、番組は低下するということにはならない」という保証は、一体どこにあるのか。
芸能第2分会の報告。
―― EDPSについては、これまで協会が行ってきた合理化の失敗、パターン制度のマイナスの例からも、「不安である」とするものが総員の60%に達する。