前回述べたように、私は、1990年の4月ごろ、アムネスティ日本支部に赴き、そこで発見できた限りのルーマニア関係資料を、すべて全文コピーした。英文、仏文、日本語訳による1978年から1989年間での年次報告のルーマニアに関する部分と、アムネスティ・インターナショナルの特別報告、『ルーマニア:1980年代の人権侵害』(Human Right Viorations in the Eighties.本文27頁)である。
前回の意見書で述べているように、4.13.に党本部で会った国際部の大沼作人は、その後、私の電話連絡に対して、国際部はアムネスティ年次報告を所持していなかったという事実を認める返事をしている。私がコピーを送ろうかと申し出ると、それは党中央として直接入手すると答えた。大沼作人は、前回批判した元赤旗記者の和田とは違って、誠実そうな人柄と見受けたので、少しは期待が持てるのかなと思っていたら、これも前回の意見書で示したように、「国際部長交代。しかし、再び唖然。」と言う状態になった。
呆れていたら、第19回大会決議案に関して、一般党員からの意見を受け付け、『赤旗』評論特集版(パンフレット程度)に載せるというので、早速、以下の文章を送り、これは、そのまま掲載された。
以下、『赤旗』評論特集版(特集・臨時増刊第1号「第19回党大会議案についての意見」1990.6.14.No.695.p.5-6)に掲載された拙文を再録する。「徳永修」は、私の党内ペンネームである。徳永は母方の姓である。修という一字を選んだのは、『太陽のない街』で知られるプロレタアリア作家、徳永直の一字の名に倣ったものである。
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私は、第19回大会決議案(以下、単に「案」)中、第2章、4 、ルーマニアに関する部分の大幅な修正を求めます。
「案」は、日本共産党がルーマニア共産党と一連の共同文書を発表するなどの友好関係を保ってきた経過についての党内外の疑問(以下、単に「ルーマニア問題」)を意識しながら、1966年の第10回党大会で定めた「外国の党と関係を結ぶ基準」(以下、単に「基準」)に照らして、いささかの手落ちもないという論調を貫いています。
しかし、常識的に考えても、「基準」の適用には自ずからなる限界がありますし、特に日本共産党の場合には、長年にわたって築いてきた「自由と民主主義」の原則を逸脱すべきではありません。いかに生成期社会主義国の限界があろうとも、相手の党が「自国内」の「民主主義と人権」を踏みにじり、到底その国の人民を代表すると判断できない場合においては、その状態を単に「路線」や「内政」として見逃してよいとするものではないはずです。
「ルーマニアのチャウシェスク政権」は、その最後の状況からみて。明らかに「基準」から適用除外されるべき典型例でありました。そして、「ローマは一日にして成らず」。あのような恐るべき独裁体制を築くには、かなりの年数が必要だったと考えるべきでしょう。
そこで問題の核心は、その「基準」適用除外の判断を、いつ、どのような資料に基づいて下すべきであったか、ということになります。その充分な総括なしには、今後の「基準」の運用が危ぶまれ、日本共産党が今後、「世界にどう働きかけるか」の基本姿勢が問われると思うからです。
すでに5月1日付け『赤旗』紙上に中央委員会国際部長の新原昭治氏が「国際連帯についての日本共産党の基準とルーマニア問題」を発表され、5月28日付け『赤旗』評論特集版には政治学者の加藤哲郎氏の「ルーマニア問題について新原昭治氏に答える」が掲載されるなど、党内外の「ルーマニア問題」に対する関心は広がっています。私はこの問題を、日本共産党に与えられた貴重な試金石であろうかと考えます。その際、真に問われるものは、事実に対する誠実さであり、今後の情報収集と分析能力改善への期待と信頼ではないでしょうか。
中央委員会は国際問題に対応する唯一の機関として規約で定められていますが、私はまず、全党員に対して、この問題に関する資料収集と分析の努力の経過を詳細に明らかにし、論議と判断の材料を提供すべきだと考えます。
私が現在までに入手しえた限りの資料でも、たとえばアムネスティ・インタナショナルは、同年次報告1975年版によると、宗教と少数民族問題の投獄者について「9件」に関わっています。以後、1976年は「14件」、以下、件数の記載はありませんが、内容的には「良心の囚人」や「移住希望の逮捕者」に関する記述が増加し、「1980年7月にはアムネスティ・インタナショナル・ブリーフィングを発表」(未入手)とあり、1987年7月には本文27ページの特別報告『ルーマニア/80年代の人権侵害』(入手)が発表されており、ここではさらに「政治的逮捕」や「表現の自由」の抑圧、「拷問」(傷跡の写真入り)が大きな問題になっています。
アムネスティ・インタナショナルは、同年次報告などをマスコミ機関などに積極的に送り付け、広く協力を求めている組織であり、日本支部もあります。同報告の入手には困難はありませんし、また、同じ内容の外電も数多く存在したはずですから、もっと早く事態の分析ができたと考えられます。
現在の「案」は、「ルーマニアのチャウシェスク政権の変質が『国際的にはっきりあらわれたのは』、昨年の6月の天安門事件にたいしてこれを支持する態度を表明したことだった」(『 』付けは筆者)と記述していますが、これは非常に曖昧です。また。日本共産党が「機敏」な対応をしたと主張するのは、かなり無理があると思います。やはり、遅きに失したという事実を率直に認めるべきでしょう。そういう誠実さこそが日本共産党の伝統でなければなりません。『 』内の部分は「最早だれの目にも明らかになったのは」と修正すべきであって、専門的に国際問題を担当する中央委員会としては、その何年か前に事態を正しく分析して対応していなければなりません。その点の責任と反省を明らかにし、今後の教訓とすべきではないでしょうか。
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以上の文章は、非常に押さえて書いたつもりだったが、これに対して、中央委員の一人の名で、かなり失礼な表現で、しかも重要な論点を外した反論が、5日後の同誌に掲載される結果となった。当然、また反論し、その後、再び、本部への出頭指示がきた。次回には、そのやり取りを再録する。
以上で(その10.1999.3.5.発行)終り。次回に続く。
前回に再録した私の意見は、1990年6月14日号『赤旗』「評論特集版」(特集・臨時増刊第1号「第19回党大会議案についての意見」に掲載されたものである。
文中の「いわな やすのり」(巌名泰得)については、当時、中央区の日本共産党地区委員当時に「クレムリン」と渾名された官僚主義者との批評も得ていたので、私自身には彼に同調する気持ちはなかった。しかし、事件当時のルーマニア『赤旗』特派員として外電のアムネスティ情報を翻訳して日本共産党本部に送ったことは事実のようなので、この事実を無視するわけにはいかないと位置付けていた。
ところが、世間は狭いと言うべきか。この巌名泰得が、本誌の別掲連載「本多勝一『噂の真相』同時進行版」にも、近く、わが事件当時の『週刊金曜日』副編集長、その後、被告会社側証人として登場することになる。ここでは予告に止めて置くが、わが裁判では、巌名の「証人としての信憑性」に関する証拠として、つぎの2つの書証を提出した。興味のある方は図書館などで検索して、読んで頂きたい。
甲第53号証の1.『サンデ-毎日』(1990.3.4)「元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!!/私のルーマニア警告はこうして無視された」
甲第53号証の2.『現代』(1990.5)「元『赤旗』ルーマニア特派員の『爆弾寄稿』」「宮本顕治議長よ誤りを認めよ」「歴史に立ち遅れた『日本共産党』を徹底批判する」
さて、私の非常に押さえて書いたつもりの「ルーマニア問題について」と題する意見に対して、中央委員の一人の名による反論が、5日後の同誌に掲載された。これは、かなり失礼な表現を用い、しかも、重要な論点を外しているので、以下に全文を再録する。
以下は、『赤旗』「評論特集版」(特集・臨時増刊第2号「第19回党大会議案についての意見」1990.6.19.No.697.p.21-22)に掲載された「増田紘一(中央)」の名による「ルーマニア問題での大きな誤解」である。これにまた私が反論し、さらに再反論が、「ルーマニア問題での大いなる曲解について」とエスカレートしたのである。
臨時増刊第1号でルーマニア問題について、徳永修(埼玉)と山本一郎(北海道)の2人の同志が決議案に批判的な意見を出しています。
徳永同志は、1966年の第10回党大会で定めた「外国の党と関係を結ぶ基準」との関係でルーマニア共産党についてのべ、「いかに生成期社会主義国の限界があろうとも、相手の党が『自国内』の『民主主義と人権』を踏みにじり、到底その国の人民を代表すると判断できない場合においては、その状態を単に『路線』や『内政』として見逃してよいとするものではない」「『ルーマニアのチャウシェスク政権』は、その最後の状況からみて。明らかに『基準』から適用除外されるべき典型例」だが、「その『基準』適用除外の判断」は「遅きに失した」と主張しています。
山本同志は、「たとえ他国の国内問題(ルーマニアの政治体制の評価)や他党の内部問題(チャウシェスク個人崇拝)であっても、問題があると考えれば積極的に態度表明すべきである」とのべ、ルーマニアの「自主独立」路線は「スターリン主義とナショナリズムに基づくものであったため、国内の人権抑圧と不可分だった」「わが党の『自主独立』路線も、ルーマニア共産党と同じ積極面と限界を持っている」としています。
2人の意見には、日本共産党の国際路線にたいする大きな誤解があります。なによりもまず、わが党の自主独立の国際路線が人権問題を国際問題としても重視していることを十分に理解しない議論となっていると思います。(注1)
そもそも日本共産党は創立いらい、日本において人権(自由と民主主義)をもっとも重視し、そのためにいかなる犠牲をはらっても断固たたかい続けてきた68年の輝かしい歴史を持つ唯一の政党です。
そのような政党ですから、国際的な人権問題についても確固とした明確な基準をもっています。日本共産党は、人権の尊重と保障が労働者階級をはじめ世界諸国民の多年にわたる闘争と努力の成果であり、人権問題は重要な国際問題であるという公理にしたがい、国際問題となり民主主義と社会主義の前進とその将来にかかわる問題については自主的見解と態度を明らかにする権利と義務をもつことを、遠い以前から宣明しています。とくに民主的自由と基本的人権にたいする侵害を科学的社会主義の原則からの重大な逸脱とみなす立場は一貫し、自主独立の国際路線と不可分なものです。
歴史的に振り返って見ても、社会主義国の人権問題について、すでに1974年初め重要な国際問題としてのソルジェニツィン問題について自主的な批判的立場を表明し、その後は、77年のチェコスロバキアでの「77憲章」をめぐる人権問題、80年のサハロフ氏のモスクワからの「追放」問題での批判的態度の表明、最近では中国の天安門事件での断固とした糾弾があります。
徳永、山本両同志が、日本共産党が国際路線で人権を軽視あるいは否定的に位置づけていつかのように述べているのは、適切を欠いています。
もう一つの大きな誤解は、国際問題としての人権侵害の事実の認定についてです。徳永同志はもっぱらわが党の対応が「遅きに失した」と主張しますが、それはルーマニアにおける人権問題の経緯の中に質的な大きな変化があったことを見ない議論です。
ルーマニアでは、ある時期から個人崇拝の問題や他の東欧社会主義国の民主主義の欠如の問題と同様の若干に問題が報じられました。わが党がそれを支持するものでなく、批判的な見解をもっていても、関係を絶つことをしなかったのには理由があります。それは、人権問題を重視するが、各国の歴史的条件の違いを無視して、自分を国際的な審判官とする立場をとったり、自己の見解や判断を他に押しつけたりすることはしないという立場を明確に貫いているからです。外国の党との国際的課題での共同にあたって、人権蹂躙の国際問題としての深刻な展開を立証できる明白な証拠がある場合は別として、全面的な一致を必要として相手の党の内政をこまかく調べあげるという態度はとらないからです。そして覇権主義に反対するなどの国際的な大義での共同は、社会進歩をすすめるうえで重要な意義があるからです。
同時に、ルーマニアの人権問題は、チャウシェスク政権末期では実態もことされに隠蔽されていて、人権蹂躙の決定的証拠の把握もきわめて困難でした。しかし、わが党は問題の本質、チャウシェスク政権の重大な変質の現れを見逃しませんでした。
国際的なルーマニア問題のひき金となったのは、88年3月の農村再編計画をめぐる人権状況の悪化です。すでにこの時点で、わが党は問題を重視し、資料を集めて検討、『世界政治』88年9月上旬号で特集的に報道しました。
そして、より明確には、「チャウシェスク政権の変質が国際的にはっきりあらわれたのは、昨年の6月の天安門事件にたいしてこれを支持する態度を表明したことだった」と決議案ものべているように、チャウシェスク政権の変質を鋭く重視し、変質の態度があきらかになるごとに機敏で断固とした批判をくわえ、「その党との過去の経緯はどうであっても、世界の公理、世界の進歩に反する行為にたいしてはき然として対応」したのでした。
この変質こそは、自主独立を擁護する原則を投げ捨て、他国への介入をよびかける立場に転落し、国内的にも武力で人民を弾圧する立場への転落であったのです。
徳永同志は、この決定的な変質にいたる経緯をあえて見ないで議論を展開しているのです。さらに山本同志は「党中央はルーマニア共産党とその体制を批判してこなかっただけでなく、美化すらしてきた」などと、事実に反する独断的な批判をしています。これは、決議案で「外国の党と関係をもつことが、その党の路線全体への支持や内政問題などの肯定を意味するものではないことは、いうまでもない」とのべられている重要な事実を理解できないか、無視するものです。
日本共産党は綱領で、自主独立を守るだけでなく、それを侵害する覇権主義、大国主義の克服を課題としています。それは人権はいうまでもなく、国際人権条約でもその根本原則とされている主権と民族自決権をあくまでも擁護する立場を貫くためであります。
山本同志は、チャウシェスク政権が変質して人権擁護も自主独立の原則もともに投げ捨てたことを見ないで、ルーマニアの「自主独立」路線は「国内の人権抑圧と不可分だった」と主張して、日本共産党の自主独立路線も「同じ積極面と限界を持っている」などといっています。自主独立の路線を投げ捨ててポーランドへの介入を呼びかけた重大な変質の現れなども機敏に見抜いた日本共産党の自主独立路線こそは、山本同志のいう「限界」どころか、真に自由と民主主義を守り抜く本領を発揮しているのではないでしょうか。
注1.:この部分をはじめとしてして、手持ちの『赤旗』「評論版特集」には鉛筆の傍線が何箇所かに引かれているが、それらの箇所に共通するのは、内容の空疎さである。要するに私が要約して指摘した「資料」問題への具体的な答えはなかったのである。その点は、私からの反論で指摘し直すことになり、それには(中央)も答えざるを得なかった。
以上の「注1.」のようないくつかの問題点をはらむ増田(中央)の反論に対して、私は、まず最初に、「私と山本氏(北海道)の意見をまとめて切って捨てるという、いわば十把ひとからげの非礼な構成」など、基本的な態度の悪さを指摘して厳しく反論した。これには、とにもかくにも、私一人を相手にする「再度の反論」が戻ってきたので、この「十把ひとからげの非礼」にだけは応えたといえるのであった。
最後には再び、本部への出頭指示がきたのだが、次回には、再度の反論を再録する。
以上で(その11.1999.3.12.発行)終り。次回に続く。
前回に再録した「増田紘一(中央)」の名による「ルーマニア問題での大きな誤解」(『赤旗』「評論特集版」「特集・臨時増刊第2号「第19回党大会議案についての意見」1990.6.19.No.697)に対する私からの再反論は、同上6号(1990.6.19.No.703)に載った。私は怒っていたから、当然、手厳しい表現を用いた。以下のようである。
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私の意見(本臨時増刊第1号掲載)を「大きな誤解」とする増田(中央)氏の文章(2号)は、およそ反論の体をなしていないが、一応忍耐して再反論の努力をする。ただし、表現が多少厳しくなるのは止むを得ない。
増田氏の文章は、私と山本氏(北海道)の意見をまとめて切って捨てるという、いわぱ十把ひとからげの非礼な構成であり、しかも、紙幅の関係などの考慮で私がいささかも論及していない問題を「誤解」だの「十分に理解しない」だのと難癖付けながら、当方が中心的な論点とした証拠資料(資料のマテリアルには唯物、の訳もある)間題には言及せずというおよそ唯物弁証法(弁証法はギリシャの対話術に起源)のイロハさえわきまえぬものである。本来ならぱ充分に1冊の単行本になるだけの材料がある問題なのに、苦労して論点を絞っている貧乏暇なしの下部党員の苦労を全く理解していないといわざるを得ない。
この問題に関しての中央の対応の共通点は、まことに単純で、一貫して物的証拠を無視または回避していることである。だから私の前記意見では、「この問題に関する資料収集と分析の努力の経過を詳細に明らかにし、論議と判断の材料を提供すべきだ」と求め、かつ一部の例証としてアムネスティ・インタナショナルの年次報告などの要点を記した。さらに他の多くの意見や政治評論家加藤哲郎氏の「再びルーマニア問題について」(赤旗評論特集版1990.6.25)などで、チャウシェスク独裁の問題点について、私の主張通り「もっと早く事態の分析ができた」ことを示す多数の証拠の存在が指摘されている。
ところが、この期に及んでも増田(中央)氏は「チャウシェスク政権末期では実態もことさらに隠蔽されていて、人権揉爛の決定的な証拠の把握もきわめて困難」といい張っている。「決定的な証拠」という表現で逃げを打つ用意をしているのかもしれないが、最高裁の真似だけはやめて欲しい。
特にアムネスティ・インタナショナルの年次報告の取扱い方には重大な疑問がある。元赤旗ブカレスト特派員いわなやすのり氏は同報告から「一九七七年三月の重要な人権アピールに署名した多くの人びとが拘留され、セクリターテ(冶安警察、つまり、チャウシェスクの秘密警察のこと:筆者)によって計画的に殴打され、虐待された。同アピールはパウル・ゴマ(一九七七年後半に亡命した反体制作家)が発したもので、これには少なくとも三百名が署名していた」(1990.3.4.サンデー毎日)と翻訳引用(私も英語版原文を確認)したが、これに反論した国際部長(当時)緒方靖夫氏は、なぜかこの一九七七年の記述を争わずに同じアムネスティ・インタナショナルの別な「拷問報告書」と「国連報告」のみを引用し、年次報告に関しては「八○年代に入ってルーマニアの記述がありますが、これは、訴えがあれぱ記載されるというもので、…ここでルーマニアがとりあげられたことをもつて、即人権侵害の国と断定することができないことは明白です」と引用なしの誤断をしている。私にはとうてい年次報告を読んだ上での文章とは思えないのだが、少なくともアムネスティ・インタナショナルの報告に一定の証拠価値を認めた論旨である。
私は、いわなやすのり氏とはなんの縁もゆかりもないが、この時点で少なくとも証拠上、緒方靖夫氏の反論の仕方は不自然であり不利であると、一党員として心配して意見を出したのがことの始まりである。 ところが、その後の中央の主張の中には、アムネスティ・インタナショナルのアの字も出てこなくなった。今回の増田氏の文章も同様である。誠にア然とせざるを得ない。しかも、私が国際部に確めたところ、中央はアムネスティ・インタナショナルの年次報告書を所持していない、というのである。
これは一体どういうことなのであろうか。もし、意図的に虚言を弄しているのであれぱ、ケアレスミスで謝れぱ済むところを、引き逃げの犯罪行為に深入りしているのだと自覚すべきである。 私はまた、今回の「議案討議応募原稿」の党内における取扱いにも関連する問題点だけは指摘して置きたい。確に中央の専従者も忙しく専門的に活動している積りだろうが、こちらだっで、仕事を持ちながら、つまりは現在の社会のあらゆる矛盾と現場で対決しながら、その上、大衆活動と党活動までやっているのである。
どちらが本当にのっぴきならない戦いをしているのか、ひとつ間違えぱ奈落の底という真剣勝負をしているのか、労働を通じて日常普段の唯物弁証法の実地訓練をしているのか、頭を冷やして規約や綱領、原典を読み直してほしいと思う。
日本資本主義の現状は、政治的文化的評価はともかく、世界経済を左右する質と量を誇っている。経営者も官僚も中間管理職も、それなりに優秀で過労死に象徴される猛烈振りを発揮している。現場では「実は資料を見ていませんでした」の弁解は許されないのだ。ましてや、資料の存在が確認された後にもなお「資料がなかった」と強弁し続けるなどは、話にもならない。冷笑され無視されるだけ終わらず、即クビである。
さらに私は、規約で許容される限度内(時代遅れの不満はあるが、それはここでは論じない)で可能な限りの党員の意見を求めているが、自分の意見を表明したものは全て私に同意している。その上で、止むに止まれず多忙を押して文章化の苦労をしているのである。他の反対ないし修正意見の諸氏の多くについても同じ事情だろうと推察している。
ところが、1990.6.19.赤旗「潮流」欄は、「一般新聞」の取り上げ方を論評しつつ、ことさらに「異見」という造語を二度も用い、「幹部批判」はごく一部だといわんぱかりに、「一般新聞がさっそく『異見』にとびつきました」として反対意見への軽率な敵意を煽っている。私はこの中央の現状を、中国で批判された「山上主義」、アフリカ植民地解放闘争で批判された「マウンテン・トッピズム」の一種であると考える。たかが五十万人、たかが数パーセントの得票率に自己満足し、テレビに出たり、反対意見が届かぬ代々木「クレムリン」内のみに安住している状態が原因であり、「存在が意識を決定」してしまうのである。
他の反対ないし修正意見の諸民の多くもそうだろうが、私ら第一線党員は決して「腰を抜かして一などいない。党と科学的社会主義の真骨頂を発揮すべき乱世だと思うからこそ、正すべき部分は一日も早く正し、優等生的ないい抜けを計るぱかりで現場の闘争の邪魔になる獅子身中の虫は即刻退治すべきたと痛感しているだけだ。また五十万人の中に無数の信頼すべき仲間がいることを長い実践経験を通じて熟知しているからこそ、「一般新聞」のややもすれぱまぜっかえしの論評を恐れずに、この公開討議に参加しでいるのである。 中央は、反対意見にも、ではなく、真撃な反対意見にこそ、謙虚に耳を傾けるべきである。「二、三人」の「異見」などではない。
最後に、百聞は一見に如かず、とか。今や日光東照宮よりも著名な「チャウシェスグ宮殿」の敷居を跨ぎながら、その背景に想いを致す点で不十分だった諸氏を、このまま先見性を旨とする科学的社会主義の党の専従者として置くには大いに不安があるので、大会は諸氏に自己批判書と進退伺いの提出を求め、特別監査委員会を設置して個別審議するのが筋であろう。
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以上の私からの再反論に対しては、前回にも記したように、「十把ひとからげの非礼な構成」という批判が徹えたものか、私一人に対する(中央)再反論が出た。
以上で(その12.1999.19.発行)終り。次回に続く。
前回に再録した私からの「ルーマニア問題で(中央)氏に再反論」(『赤旗』「評論特集版」「特集・臨時増刊」第6号,1990.6.19.No.703)に対して、またまた、失礼極まりなく、しかも、はっきりと「嘘を付く」に至った(中央)からの再反論が、同誌同特集7号(1990.7.6.No.704)に掲載された。しかし、「第19回党大会議案についての意見」に限定された特集だったので、大会開催の期限の関係で、私からの反論は、最早、受け付けられなかった。そこで、私は、「嘘は許せん。最早、一般のメディアに暴露する以外にない」と電話で抗議し、またもや、代々木本部への出頭を指示されるに至った。
代々木の本部で、私は、こういう意見提出の限定について、「党大会という地獄の釜の蓋が開いた時にしか公開の発言を許さない制度」であると批判したが、その私の発言に苦笑いするのみの「全共闘世代」の(中央)の再反論は、以下のようなものだった。
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本誌の臨時増刊第6号で徳永修氏(埼玉)が「ルーマニア間題で(中央)氏に再反論」を寄せています。これは、徳永氏が臨時増刊第1号に出したルーマニア問題についての決議案への批判的な意見にたいする私の意見(臨時増刊第2号)への反論です。
私はその意見の中で、徳永氏には「日本共産党の国際路線にたいする大きな誤解があり」、「なによりもまず、わが党の自主独立の国際路線が人権問題を国際問題としても重視していることを十分に理解しない議論となっている」ことを具体的に説明し、さらにチャウシェスク政権が「自主独立を擁護する原則を投げ捨て、他国への介入をよびかける立場に転落し、国内的にも武力で人民を弾圧する立場への転落」をした「決定的な変質にいたる経緯をあえて見ないで議論を展開している」ことを指摘しました。
徳永氏の「再反論」は、こうした私の意見について、「『誤解』だの『十分に理解しない』だのと難癖付けながら、当方が中心的な論点としだ証拠資料(資料のマテリアルには唯物の訳もある)問題には言及せずという、およそ唯物弁証法(弁証法はギリシャの対話術に起源)のイロハさえわきまえぬものである」と非難したうえで、「チャウシェスク独裁の問題点について、私の主張通り『もっと早く事態の分析ができた』ことを示す多数の証拠の存在」に触れ、「特にアムネスティ・インタナショナルの年次報告の取扱い方には重大な疑間がある」と主張して次のように書いています。
「中央の主張の中には、アムネスティ・インタナショナルのアの字も出てこなくなった。今回の増田(中央)氏の文章も同様である。誠にア然とせざるを得ない。しかも、私が国際部に確かめたところ、中央はアムネスティ・イシタナショナルの年次報告書を所持していない、というのである。これは一体どういうことなのであろうか。」
それは、客観的事実の間題として間違っているのです。日本共産党本部にはアムネスティ・インタナショナルの年次報告書があります。日本共産党の自主独立の国際路線が人権問題を国際問題としても重視していることは、前回も詳しく説明しましたように、疑問の余地のないところです。わが党はアムネスティの活動について敬意をもっています。その報告を参考として重視するとはいえ、鵜呑みにしないことはいうまでもありません。
徳永氏は「外国の党と関係を結ぶ基準」の適用について「『基準』適用除外の判断を、いつ、どのような資料に基づいて下すべきであったか」を「問題の核心」に位置づけてアムネスティ・インタナショナルの年次報告に固執しています。
しかし、外国の党との関係をどうするかについては、わが党は第10回党大会で決められた基準に基づいています。ルーマニア問題も、その1つの典型であり、徳永氏も挙げているわが党国際部長の新原昭治氏の論文「国際連帯についての日本共産党の基準とルーマニア問題」(「赤旗」1990年5月1日付)で人権問題もふくめ詳細に説明されでいます。
アムネスティ・インタナショナルの年次報告書などについて一言すれぱ、それはアムネスティ独自の調査・判断によるものであって、貴重な参考資料でありますが、それはわが党が外国の党との関係をどうするかを決める、徳永氏のいう「『基準』適用除外の判断」の決定的根拠とはなりえません。
たとえば、アムネスティ・インタナショナル1987年度版年次報告書(抄訳)によれば、ヨーロッパについては「伝えられるところでは、ブルガリアでトルコ系少数民族が拷問を受け、アルバニア、オーストラリア、チエコスロバキア、ギリシャ、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)、イタリア、マルタ、ポーランド、ルーマニア、ソ連、イギリス、ユーゴスラビアで良心の囚人を含む人々に対する拷問、虐待があった」と書かれているように、西側も東側もふくめ多くの国ぐにを一律に扱っています。
1984年版をみても同様です。各国についての項の冒頼に指摘されているものを幾つか紹介すると、スイスについては「良心的兵役拒否者の投獄」、スペインは「反テロリスト法によって拘禁された人々を主な対象とする、被拘禁者への拷問と虐待」、ソ連は「おびただしい数の良心の囚人」、西ドイッは「良心的兵役拒否者の投獄」、ユーゴスラビアは「多数の良心の囚人の投獄や・…・・政治裁判」などが記録され、ルーマニアについても「移住希望者を主とする良心の囚人の投獄」というぶうになつています。
わが党は、人権抑圧を絶対に支持しません。同時にわが党は、核兵器廃絶、軍事ブロッグ解体、民族自決権の擁護、新国際経済秩序、覇権主義反対など世界の公理を前進させるための共同を発展させる努力を国際活動の基本にしています。徳永氏の主張に従えぱ、こうした世界の大義のかかった課題での一致点にもとづく共同・連帯は、アムネスティがあげた国の政権党とはすべてできないことになります。つまり、ルーマニアだけでなく、ユーゴスラビアとの自主独立の立場からの核兵器廃絶、軍事ブロック解体、新国際経済秩序、覇権主義反対などでの共同も、ソ連共産党との核兵器廃絶での共同もできないことになるのです。
私が前回「ルーマニアの人権間題は、チャウシェスク政権末期では実態もことさらに隠蔽されていて、人権蹂躙の決定的証拠の把握もきわめて困難でした。しかし、わが党は問題の本質、チャウシェスク政権の重大な変質の現れを見逃しませんでした」とのべたことについて徳永氏は「「決定的な証拠」という表現で逃げを打つ用意」とか「最高裁の真似」などといつています。
徳永氏は、「チャウシェスク政権の宣大な変質」を見ていないとの私の指摘に、一言も触れようとしないのはどうしででしょうか。わが党は、決定的証拠の把握がきわめで困難でも、その具体的な兆しがあらわれたときには変質を機敏に見抜き、しかるべく断固とした対応をしたのであり、その点を徳永氏が無視するのは公正ではありません。
自主独立を擁護する原則を投げ捨て、他国への介入を呼びかけ、国内的にも少数民族の抑圧と人民への武力弾圧への質的転換、転落--そのあらわれにたいする機敏で正確な分析と断固とした批判--科学的社会主義にもとづく自主独立の路線によってこそなしえたこの原則的な活動は、日本共産党の不撓不屈の力への確信を強めてくれるものです。
ところが、徳永氏の「再反論」なるものの後半は、わが党中央委員会への根拠のない非難です。「たかが50万人、たかが数パーセントの得票率に自己満足し、テレビに出たり、反対意見が届かぬ代々木『クレムリン内のみに安住している』、『獅子身中の虫は即刻退治すべきだ』、『50万人の中に無数の信頼すべき仲間がいることを長い実践経験を通じて熟知しているからこそ、……この公開討議に参加しているのである」といった言葉が連なっています。これは真面目な討論とは言いがたい悪罵、中傷であり、根拠も道理もないものですので、頂けないことを付記しで私の反論を終わります。
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私が特に怒ったのは、増田が、「日本共産党本部にはアムネスティ・インタナショナルの年次報告書があります」と記している部分である。
私は、すでに、この「意見」の提出よりもずっと以前に代々木の本部への出頭を指示された直後に、文中のように、「中央はアムネスティ・イシタナショナルの年次報告書を所持していない」ことを「国際部に確かめ」、しかも本連載でも先に記したように、そのコピーを提供しようかとまで申し出ていたのである。ところが、増田は、「それは、客観的事実の間題として間違っているのです。日本共産党本部にはアムネスティ・インタナショナルの年次報告書があります」と称したのである。ただし、よく見ると、「あります」という現在形になっている。「当時からありました」とは書けないのである。
この実に下らないごまかしは、それ以前の現衆議院議員、緒方靖夫のごまかしに発していた。当時の『赤旗』外信部長、緒方は、ルーマニア特派員の「いわなやすのり」が送ってきたアムネスティ・インタナショナルの報告書の原文などを確かめもせずに、紙屑箱に放り込んでは、チャウシェスク狂いのミヤケンの茶坊主を努め、御殿詣でに付き添っていたらしいのである。緒方は今、私に必ず年賀状など挨拶状を送ってくるのだが、実は、彼とは直接会って、このことを話したこともある。彼は、私が当時、代々木の本部で緒方批判をした事実を知っているのである。
以上で(その13.1999.3.26.発行)終り。次回に続く。