前回の終りに、私は、「特に怒ったのは、増田が、『日本共産党本部にはアムネスティ・インタナショナルの年次報告書があります』と記している部分である」とか、「この実に下らないごまかしは、それ以前の現衆議院議員、緒方靖夫のごまかしに発していた」などと記した。私が、そう断言する理由は、いくつかあるが、それを述べる以前に、やはり、この「ルーマニア問題」の発端となった記事を直接読んでもらいたい。人物評価は別として、この問題を一番詳しく知る「はず」の立場にいたのが、すでに「中央区の地区委員時代の渾名はクレムリン」など、一部情報を紹介済みのルーマニア特派員「いわなやすのり」であることは、間違いのない事実なのである。
下記の記事の経歴紹介と、「渾名はクレムリン」情報は、矛盾するのであるが、その件は、また後に考察する。
スクープ連打18ページ総力特集「仁義なき衆院選」完結編
Part4.元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!!
[写真入りの経歴紹介]
いわな やすのり
1953年、早大在学中に日本共産党に入党。同党機関紙『赤旗』特派員として北爆下のハノイ特派員。外信部副部長を経て、1977~80年、同ブカレスト特派員。この間、宮本顕冶氏の第2回ルーマニア訪問の際には現地特派員として随行取材に携わった。1984年、日本共産党の体質が「人間の顔をした社会主義」の理想に合致しないという理由で離党を通告、不当に除籍される。「人間の顔をした社会主義」を実現するためには、上意下達の軍隊的・官僚的党ではなく、人間的で。民主的な党でなければならないと信じている。
「私のルーマニア警告はこうして無視された」
「両被告は人間の尊厳および社会主義の諸原理とあい入れない行為を行い、ルーマニア国民の名において指導者と自称しながらその国民を破滅させる方向で、決定的に犯罪者として行動しました」……『チャウシェスク軍事法廷記録』から
いわなやすのり
(ジヤーナリスト)
総選挙の結果はご存じの通り。日本共産党は大いに苦戦した。共産党の苦戦については、東欧・ソ連で起きだ歴史的激変が社会主義、共産主義のイメージダウンとなり、大きくマイナスに作用したとの見方がもっぱらだが、なかでも、20年来親密な友好関係にあったルーマニアのチャウシエスク独裁政権崩壊にあたって同党指導部がとった姑息な「辻つま合わせ」が、支持者をふくめ国民多数の理解と納得を得られなかったことが、重要な一つの要因としてあげられている。
そこで、この際、問題をルーマニアにしぼり、「私自身も当事者の一人であった」(『赤族』1990年2月8日付)宮本顕冶氏に尋ねたい。とりあえず以下の6点について宮本氏の明確な返答を聞きたいと思う。
(一) 日本共産党は、1971年、1978年、1987年の3回にわたり、チャウシェスクとの間で共同コミュニケ、共同宣言を結んでいる。前2回は宮本氏みずからが代表団長としてルーマニアを訪問して調印し、最後の一回はチャウシェスクと宮本氏のあいだの書簡のやりとりを中心に、両氏間の共同宣言という形で行われている。
前2回については、宮本氏自身、「個人的にもぜひくるようにとくりかえし招待をうけて」(「日本共産党重要論文集8』280ページ)、「言わば首脳会談のための訪問」(宮本顕治『激動の世界、日本の進路』152ページ)と語っている。
3回目の共同宣言についてはいわずもがな、いずれも、宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである。その意味で、宮本氏の先に引用した「当事者の一人」という言い方は、一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか。
(二)宮本氏は、『赤旗』に載った今年の新春インタビューのなかで、「そういう態度の変化(天安門事件の擁護、東欧の動きに軍事介入しようという態度などを指す……筆者)が……はっきりしたので、わが党は、過去はどうあろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」と述べでいる。
「世界の公理に・・…・反する」(同インタビユー)ルーマニアの態度を批判したこと自体、いわば世間の常識からみて当たり前のこと(だからこそ「公理」といえる)で、なにもことさら「き然として行動する党」などと力んで自慢するにはあたらない。
むしろ、ここで重要なのは、「過去はどうあろうと……」というさりげない一言で、19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきたことについての責任を一括棚上げしてしまっていることである。
宮本氏にとって、まさに「過去こそが問題」なのであり、問われているのは「宮本氏の過去」なのである。
チャウシェスク独裁を美化!
(三) ルーマニアにおけるチャウシェスク独裁体制・個人崇拝の確立は、概路、次のような過程を経ている。
1967年12月 大国民議会で、先輩のキブ・ストイカをしりぞけてみずから国家評議会議長となり、党書記長との兼務により、党と国家の権力を掌握。
1969年8月 第10回党大会で、それまで中央委員会の互選によっていた書記長を大会代議員による直接選挙制に改め、書記長を中央委員会より上位におき、党にたいする絶対的支配を確立。
1973年6月 中央委員会総会で、妻のエレナ・チャウシェスクを政治執行委負会のメンバーに加え、現代世界であまり例をみない一族支配に乗り出す。
1974年3月 大国民議会で、それまでの国家評議会議長からルーマニア社会主義共和国初代大統領となり、いっさいの国家大権を一身に集中、個人独裁体制を完成。
ところで、宮本氏は、1971年の最初のルーマニア訪問のあと、1971年10月11日付の『赤旗』に載ったインタビュ-のなかで、「ルーマニア解放記念のパレードをみて、……あそこで示されたルーマニア共産党指導部にたいする大衆の支持の感情というものは自発的なものです。・…・党指導部にたいする熱烈な支持をあらわしていると感じました」と述べでいる。この発言は、チャウシェスク個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない。
ルーマニア国民は、チャウシェスクの圧制下で6万人(『チャウシェスク軍事法廷記録』)ともいわれる人命の犠牲を払った。宮本氏は、みずからがチャウシェスク独裁を美化し、その強化に一役買ったことについて、ルーマニア国民にたいし良心の痛みをまったく感じないのだろうか。
(四)宮本氏は、今年の新春インタビューのなかで、「当時対ソ追随が多いなかで、ルーマニアがチェコ侵路に反対という公正な立場にたったこと、……核兵器廃絶の問題でも、共産党間の誤った干渉に反対する『立場』[この部分がゴシック]でも、正当なことをいっていたから、われわれもそういう立場で交流しできたわけです(ゴシックは筆者)」と述べでいる。
どうやら宮本氏がここで強調したいのは、ルーマニアの国内体制を支持したわけではないということのようである。
事実はどうか。
1971年の共同コミュニケには、「日本共産党代表団は、ルーマニア共産党が……多面的に発展した社会主義を建設するうえで、注目すべき成果を上げていること、人民を国の政治生活に広範に参加させる社会主義的民主主義を拡大していること・…・を心から喜んだ」(『世界政治資料』1971年9月下旬号)と述べられている。
1978年の共同宣言では、「宮本顕治委員長は、ルーマニア共産党の指導下で……社会主義建設においてかちとられた大きな成果、社会主義の魅力の高まりにたいして、……心のこもった祝意を伝えた」(『日本共産党国際問題重要論文集11』462-463ページ)と述べられている。
それだけではない、1979年6月3日の第20回赤旗まつりでは、数万人の聴衆を前に記念演説を行い、このなかで、「私はルーマニアで見たのでありますが、日本の4DKぐらいの大きさの団地の部屋が200万円から 300万円くらいの値段で勤労者に渡されている。私は、社会主義がこういう国民生活を守る点では、資本主義が太刀打ちできないすばらしい達成をしていることを、人類のために喜びたい」とまでほめあげている(宮本氏が訪ねた家は入居後15年のアパートで、新築の場合は、もちろん日本ほどではないが、宮本氏があげている例よりは高く、家計収入対比でもそれなりの負担になっている)。
また、第2回訪問の際、筆者も随行したブカレストのデパート視察で、宮本氏は、見るもの見るもの、「安い」「安い」の連発だった。この「安い」は価格を公定レート(当時、1レイは約20円)で日本円に換算してのことで、労働者の月収との比較はまったく欠落しでいる。当時、労働者の平均賃金は約2000レイ。これにたいし、一例をあげれば、筆者が実際に買った、肩がこるほど重い100%合繊の粗悪なブレザーが 485レイ。平均賃金の4分の1に相当する。ルーマニアの勤労者にとって、決して生活は楽ではなかった。
いずれにせよ、ここで明らかなのは、宮本氏が、対外政策だけでなく、ルーマニアの社会主義建設、国内体制にたいする肯定的評価、ひいては、この面でのチャウシェスク体制支持にまで深くコミットしていたという事実である。
これでも、宮本氏は、チャウシェスクとの親密な付き合いは、対外政策の面での一致に限られでいたと強弁すみつもりだろうか。
「本当に、あなたに責任ないか」
(五) 宮本氏は、1990年2月8日付の『赤旗』に載った「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」のなかで、「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」と弁解しでいる。
かつてはすぐれた政治家として尊敬したことのある宮本氏から、まさかこんな子どもじみた弁解を聞かされるとは、筆者も思ってもみなかった(『ル・モンド』紙によれば、フランス共産党の指導部も、下部党員からの責任追及にたいし「知らなかった」と答え、失笑を買っているようだが)。
秘密警祭にしろ、地下道にしろ、ルーマニア側が外部の人間に簡単にその存在を明かすはずがないではないか。地下道に至ってはルーマニア側でもチャ、ウシェスク周辺のほんの一握りの人間しか知らなかったことだろう。
そんなことより重要なのはアムネスティ・インタナショナルの年次報告で、1970年代以後、ルーマニアがつねに世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゆうりんは世界周知の事実だったということである。たとえば、宮本氏が2回目にルーマニアを訪問した1978年の同年次報告は、次のように指摘しでいる。
「1977年3月の重要な人権アピールに署名した多くの人びとが拘留され、セクリターテ(治安警察、つまり、チャウシェスクの秘密警祭のこと……筆者)によっで計画的に殴打され、虐待された。同アピールはパウル・ゴマニ(1977年後半に亡命した反体制作家)が発したもので、これには少なくとも 200人が署名していた」
これは、ほんの一例である。アムネスティ・インタナショナルの年次報告は、毎年、数ページを割いてルーマニアの人権じゆうりんをきびしく非難している。
筆者自身、チャウシェスク独裁政権の人権じゆうりんについて、警告の意味で何回か「情報」を送ったが、紙面に載らないのは別として、「なんでこんな余計なことをするのか」とつよく批判された経験がある。
宮本氏はこうした事実をまったく知らなかったとでもいうのだろうか。それとも、チャウシェスク同志が認めない以上、アムネスティ・インタナショナルなど信用できないとでも考えていたのだろうか。
(六) どんなすぐれた指導者でも、20年もの歳月のなかでは、言説や態度に矛盾をきたし、誤りを犯すことはありえないことではない。
筆者が間題にしたいのは、そういう矛盾や誤りそれ自体ではない。そんなことは、複雑困難な革命闘争では、むしろ、あって当たり前なのである。レーニンは、必要な場合にはいつでも、「諸君、われわれは間違った」と卒直に誤りを認めたことで知られている。
間題は、あくまで白を黒といいくるめ、「宮本顕治無謬」論、「日本共産党無謬」論を押しとおそうとするところにある。
宮本氏は、いまなお、ルーマニア問題でまったく誤りを犯さなかったといい張るのだろうか。それならそれでよい。日本共産党は、あなたの「名誉」とともに衰退の道をたどるしかないだけのことである。
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以上で(その14.1999.4.2)終り。次回に続く。
凡例……[ ]内は、本 Web週刊誌『憎まれ愚痴』編集部の注記である。日付等の漢数字はアラビア数字に直した。その際、西暦の2桁表記には19を加えて、たとえば76年を1976年とし、原文発表時の年度表記なしの箇所には[ ]をつけずに1990年を補った。[以下は「反論」の引用]とある部分は、『赤旗』記事の引用であり、『現代』記事の原文では小さい文字になっている。傍点部分は、[ ]内に再度記し、ルビは、[ルビ:ホモセクシュアル]などと記した。
筆者略歴:1953-1984年、日本共産党員。この間、「赤旗」ハノイ特派員、,外信部副部長、ブカレスト特派員など。訳書にフランソワ・フェイト著『ブダペスト蜂起1956年……最初の反全体主義革命』(窓社、近刊)など多数。
筆者は「サンデー毎日」1990年3月4日号に手記を寄せ、ルーマニア問題での共産党中央委員会議長、宮本顕治氏の責任を問うた(別掲の編集部による「要約」参照)[本Web週刊誌では前回のその全文を掲載したので今回は省く]。これに対し、宮本氏は、「赤旗」1990年2月27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」と題した緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、低劣な人身攻撃で始まる「反論」をのせた(「反論」の編集部による要約は本文中に随所挿入している)。
今回、この文章を書くにあたり、何回か「赤旗」の「反論」(以下、「反論」と略す)を読み返してみた。いろいろごちゃごちゃいっているが、結局、その趣旨は、 (1)天安門事件まで、チャウシェスクは支持でき、ルーマニアは人権蹂躙国ではなかつた (2)だから、それ以前に結んだ声明・宣言は、当時も今も重要な意義をもつ (3)したがって、宮本顕治氏はルーマニア問題で完全に正しく、まったく誤りを犯さなかった、という粗雑な三段論法に尽きる。
選挙で 500万の得票を得ている野党第3党の最高指導者が、ほんとにこんなことでよいのだろうか。
そこで、再度、宮本氏は正しかったかについて事実を明らかにし、この問題をめぐるその政治責任を問いたい。
まず第一にいっておきたいが、一市民として宮本氏への批判を世に問うたのに対し元党員であったというだけで、「反論」の中で筆者が名前を呼び捨てにされるいわれはまったくない。かつて、ある演説のなかで、宮本氏は「共産党は、…・除名された連中を敬称で呼ぶ習慣はない。それが共産党の伝統的な民主的マナー」「(そんな連中まで)立派な市民・…扱いはしない。(そうすることが)日本の社会発展に有益なんだ」といったことがある。
今回の「反論」を読んてまず感じたことは、共産党が政権党になっていなくてよかったということである。筆者は1984年、日本共産党の体質が「人間の顔をした社会主義」の理想に合致しないという理由で離党を通告し、逆に不当に除籍されたが、規律違反やスパイ容疑で除名されたことはない(共産党の規約でも除籍と除名は違う)。もし共産党が政権党だったら、筆者はいまごろ、かつてのソ連・東欧の異論者たちと同様、国外亡命の道を選ぶよりほかなかったろう。
ところで、今の共産党にはもう一つ特異な「民主的マナー」がある。必ず人身攻撃で反論するという「伝統的習慣」である。これまた、かつてスターリン主義のソ連・東欧で異論者に“同性愛者”[ルビ:ホモセクシュアル]“寄生生活者”[ルビ:パラシット]などというレッテルを貼り、社会的に批判を封殺した手口と同じである。
要するに、「罪状」を高札に書き連ねて「罪人」の首を街角にさらす、あの中世的“さらし首”“見せしめ”の思想である。こんな批判をすればお前らもこうなるぞという恫喝である。
万年少数党に甘んずるつもりなら別だが、“いつかは政権を”と本気で考えているなら、こんな世間では通用しない「民主的マナー」は早く捨てたほうがよい。
宮本氏は、1990年2月14日、総選挙戦のさなかに出したアピールのなかで、共産党が1979年に発表した「自由と民主主義の宣言」(以下、「宣言」と略す)に関し、ルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」の後継紙「アデバル」の幹部が「現在の東欧諸国の直面する諸問題を基本的に解明したもの……先駆的意義をもつ」と語ったことを材料に、「わが党はこの『宣言』を日本での展望として発表したもので、世界のモデルとしたものではないが、東欧の人々がこれを、そのように受け取っていることは興味ぶかい」と、例によって「先見性」「先駆性」を自画自賛している。
ここで、「興味ぶがい」のは、このアピールの載った同じ15日付「赤旗」外信面に、ブカレスト13日発特派員電で「先駆的意義をもつ『自由と民主主義の宣言』ルーマニア紙副編集長語る」という記事が同時掲載されていること。宮本氏は、これをアピールの裏づけとしたつもりだろうが、世間では、こういうのは「やらせ」としかいわない。
「宣言」が掲げている複数政党制、表現の自由、思想・信条の自由、その他の自由については、当然ながら、筆者をふくめだれでも賛成である。むしろ、ごのような自明のことをわざわざ「宣言」として出さなければならないこと自体、従来の共産主義運動がいかに歴史に立ち遅れていたかの証明だとさえいえる。
問題は、宮本氏の率いる今の共産党がこの「宣言」をいつ実行するのかということである。日本での将来の「展望」では困るのである。少数野党に過ぎない現状ですら、元党員が宮本氏を批判したからといって、言論テロにもひとしい人身攻撃で批判の封殺を試みるような政党が政権をとったら、日本はいったいどうなるだろうか。それとも、今は「市民扱い」しないが、政権をとったら翌日から市民にしてくれるとでもいうのだろうか。そんなことを信用する人はだれもいない。
降りかかった火の粉は振り払わなければならない。今後だれに対しても2度とこのような破廉恥な手口を使えないようにもしなければならない。その意味で、若干の事実をのべておきたい。私事にわたり恐縮だが、我慢してつきあって欲しい。
[以下は「反論」の引用]
巌名は(『サンデー毎日』の記事で=編集部注)いかにも自分が先見性をもった大記者であるかのように書いていますが、実は在任中の1978年8月、中国の華国鋒(中国共産党主席=当時)がブカレストを訪問することを知りながら、日本の各社の特派員が取材にかけつけたのに、唯一の常駐日本人記者であった彼がその期間にささいな私用で一時帰国して取林を放棄したりするなど、万事自分のことが先で、日本共産党の専従活動家としてはもちろん、新聞記者という社会的な使命の意味でも、落第人物だったことを、まず指摘しておきます。
「反論」はまず、華国鋒訪間の取材に関し、筆者が「ささいな私用で」勝手に任務放棄したがのように攻撃している。しがし、事実は次のとおりである。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
(1)筆者は、1976年夏、ブカレストへの赴任に際し、海外出張の手続をした上、当時住んでいた住宅公団賃貸アパートに「赤旗」記者(その後、ワシントン特派員)を留守番のため入居させていた。本人が更新手続をしなければ満2年以後は不正入居となるため、1978年夏の一時帰国を外信部に申請。3月27日、「宮本代表団のルーマニア訪問終了後、ルーマニア側費用負担ならOK」との回答を得る。
(2)バカンス・シーズンで航空便の予約は困難をきわめたが、ルーマニア側の尽力でやっと8月16日発南回りの予約を確保。、
(3)この頃、一時帰国が近いことがらアスピリンでごまかしていた歯痛がひどくなり、アスピリンの角度服用で胃も痛み出した(一時帰国後、歯根膜炎、多発性胃潰瘍と診断され、約1ヵ月半、治療。胃潰瘍は、数年後に再発、胃を切除)。
(4)帰国便確保の直後、華国鋒の訪問が発表され、8月3日、チャウシェスクが党と国家の活動者会議で、国際問題について説明。従来の方針の再確認で、華国鋒訪間に影響されないことを示唆(この旨コメントした記事を送る)。
(5)8月7日、一時帰国の最終スケジュールを外信部に知らせ、承認を受ける。
この際、外信部長から、国際部の要請として、約1ヵ月前にルーマニア訪問から帰った宮本氏の帰国士産が足りなくなったので、ザンフィル(世界的なパンフルート奏者)のレコードを20枚ほど買ってきて欲しいと依頼があった。急ぐかと聞くと、「お土産だから、早いに越したことはない」との返事。
(6)8月16日、華国鋒到着の記事を送信した後、ブカレストを発つ。
(7)一時帰国後数日して、ある全国紙のブカレスト臨時特派員が「華国鋒・チャウシェスクが共同声明」と誤報。宮本氏が「共同声明など出るはずがない。現地に聞け」といいだし、筆者のブカレスト不在が問題とされた。
(8)宮本氏のお土産の件を除き、以上の経過と反省を文書で提出。それ以後別段の追及はなかった。その後、主治医が英文珍断書を持参しブカレストで治療をつづけるとの条件で筆者の帰任を許可し、国際部(つまり、宮本氏)も認めたので、10月6日、ブカレストヘ戻る。その際、宮本氏がルーマニアを訪問したおり、ボティー・ガードを務めた柔道をたしなむ治安警察軍少佐への宮本氏からのお礼の品物(柔道着)を託された。
もちろん、以上の事実は、当時の一部関係者を除き、一般の党員も読者も知らない。事実を知らせず、一方的にゆがめるこうした手口が、宮本氏のよく口にする「フェアな」やり方といえるだろうが。「反論」全文をのせた「赤旗評論特集版」にも、いくつか低劣な人身攻撃がみられるが、手口は同工異曲。ばかばがしくて反駁する気にもならない。
[以下は「反論」の引用]
「元特派員」の肩書き使って巌名がっととも売り込もうとしているのは、見出しにもある「私のルーマニア警告は無視された」一件なるものです。彼は、いかにも、当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを、平気で書いています。
赤旗編集局には、巌名が当時連絡としてブカレストから送ってきた「パリ発AFP(フランス通信)」記事の和訳があります。
これに添えられた本人の連絡文には、「この数日間に、ルーマニアにわける人権問題にふれたAFPの報道3通の全文翻訳(見出しもAFPによる)を手便に託して送ります。もちろん、内容の真偽、確度については確認の方法がありません」とあります。彼自身なんの確証もないこの種の、未確認情報の記事の転送を、いまになって「警告」だった、故意に無視されたと、勝手に作り上げているだけです。
彼が「つよく批判された」のは、どこでも入手できるパリ発の外国通信の翻訳をわざわざ送ってくるよりも、自分の目、耳、足で仕事すべきだという、特派員としての仕事の仕力だったのです。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
「反論」は、筆者が警告の意味でルーマニアの人権問題についてのAFP電を訳し手便に託したことについて、「目、耳、足」で仕事しないやり方を批判したのだと中傷している。
開き直りもいいところである。その国の指導者が「わが国に人権問題など存在しない」と公言しているなかで、ブカレストを始め、当時、社会主義国に派遣されていた「赤旗」特派員が、生活費、通信費などの財政問題をふくめ、「目、耳、足」を使って自主的に取材できる状態にあったかどうか、筆者の口から説明するまでもなく、宮本氏のほうがよく知っているはずではないか。
このAFP電は、あるルーマニアの教師がアムネスティ・インタナショナル(以下、アムネスティと略す)に人権侵害を訴えたため「国家機密」漏洩罪で逮捕されたことなどを扱った記事である。電話やテレックス、郵便などで送るのは「危険」なため、信頼のおける族行者に託したものである。
後述するように、当時、社会主義国にいる各「赤旗」特派員は、宮本氏の指示のもとに、「社会主義の優位性について攻勢的な宣伝を書け」と命じられていた。筆者が「どこでも入手できるパリ発の外国通信」をわざわざブカレストから送ったのは、こうした方針に対する無言の抵抗であり、警告であった。
「内容の真偽、確度については確認の方法がありません」(傍点は今回付した[「確認の方法がありません」の部分に傍点])と書き送ったのも、褒めること以外に「目、耳、足」どころか「筆」も使えない「赤旗」特派員の境遇を皮肉ったものである。それとも、宮本氏は、今になって、当時、筆者が人権間題などルーマニアのひどい現実を自主的に取材することを期待していたとでもいいだすのだろうか。
「反論」は、筆者が「自分が先見性をもった大記者であったかのように」書き、「当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを平気で書いて」いると、口汚くののしっている。
筆者は、1972年、ハノイ在任中、同僚の「赤旗」特派員とともに、日本ジャーナリスト会議の奨励賞を受賞したことがあるが、別に自分を「大記者」などとは思っていない。土台、チャウシェスク独裁政権がどんなにひどいものか、こんな反人民的な政権がいつまでもつづくはずがないということは、当時あの国に住んだ人ならだれでも感じていたことで、格別の能力や「先見性」など必要としない。
ブカレスト在任中の日記の1978年1月23日付に、筆者は、「英雄の中の英雄」「天才政治家」などの賛辞であふれたチャウシェスク生誕60周年記念記録映画をみせられた感想として、「個人崇拝、極まれり」と記している。当時のルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」は、全ペ-ジにチャウシェスクの写真を大きく掲げ、こうした賛辞を連ねていた。
重要なことは、こうした「スクンテイア」紙は東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあったことである。
それだけではない。その半年後の宮本氏の2回目のルーマニア訪問に副団長格で同行した上田耕一郎副委員長は、他の代表団員も何人か同席した代表団宿舎での雑談で、「この国はひでえんだな。女房をナンバーツーにしてんだろ」と筆者に語っている(事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者30数人を党と国家の要職につけ、同族支配体制を固めており、党幹部の人事は妻のエレナがにぎっていた)。
それ以前の1977年8月、村上弘氏(当時、副委員長)がルーマニアを訪問した際にも、学生らブカレスト在住の党員数人とともに現地の実情を話し、村上氏は「よく分かりました。やはり、こういう話は代表団の公式会談だけでは分かりませんね」と納得してくれている。
筆者が疑問に思うのは、代表団宿舎で雑談に加わっていたあの幹部諸氏や村上氏は、なぜ今日に至るまで宮本氏に率直に自分の意見をいえなかったのかということである。なぜ、王様を裸にしておいたのかということである。
筆者は、ベトナム、ルーマニア駐在の体験から、つねづね、「人間の顔をした社会主義」実現のためには、上意下達の軍隊的、官僚的な党ではなく、人間的で、民主的な党でなければならないと考えている。政治路線の転換と民主集中制の廃止ないしは大幅手直しが並行的におこなわれたソ連・東欧の現実も、このことを証明している。
宮本氏は、今年の新春インタビューで、「民主集中制ということは・…集中民主制でもあります。みんなの意見を最大限にくみあげ、それをまとめて……同じ方向をかがげることは政党政治として当然」と大見えを切っている。だが、側近の指導的幹部でさえ宮本氏に率直にものがいえなかったどすれば、今の共産党に「民主」はなく「集中」(つまり、軍隊的・官僚的な上意下達)しかないということになりはしないか。
注:この部分にパンフレットの表紙の写真があり、説明は「ルーマニア……1980年代における人権侵害」[本Web週刊誌でも、その存在を紹介したもの]となっている。
[以下は「反論」の引用]
巌名は、なんとかして自分の言い分を根拠づけるために「アムネスフィ・インタナショナルの年次報告で、1970年代のルーマニアが世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゅうりんは世界周知の事実だった」から、1971年、1978年に、宮本議長がルーマニアを訪問したのはチャウシェスク独裁体制を支援するものとなったのであり、その党と関係をもつことは、誤りであったといっています。
そのアムネスティが最も重視して報告書を発行しているは拷問についでですが、1973年12月のパリでの国際会議に提出された報告は、ルーマニアについて「1964年以前には、肉体的、精神的な拷問がおこなわれ、拷問の結果多くの人々が死んだことが明らかにされた。しかしその後、アムネスティ・インタナショナルはルーマニアから拷問に関するこれ以上の申し立ては受けとっていない」(「アムネスティ・インタナショナル拷問報告書」1974年発行)とあります。チャウシェスクが書記長になったのは1965年です。年次報告には、1980年代に入ってルーマニアの記述がありますが、これは、訴えがあれば掲載されるというもので、ほとんどの社会主義国、発展途上国、さらにアメリカ、フランス、イギリス、日本をふくむかなりの数の資本主義国カらの個々の訴えがとりあげられているものです。ここでルーマニアがとりあげられたことをもって、即人権侵害の国と断定することができないことは明白です。
どうみても、巌名が金科玉条とするアムネスティの資料にもとづいても、1970年代以来、「チャウシェスク独裁体制の人権じゆうりんは、世界周知の事実」ということにはならないのです。彼自身が、1979年、特派員特代に、確認すらできないと外電の翻訳で送っていたルーマニアでの「人権問題」を、日本共産党が1971年、1978年当時非難しなかったからけしからん式の断定は、まさに特間を超越した空論といわねばなりません。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
周知のように、アムネスティは、不偏不党、思想・信条にとらわれないことを柱に、世界的に人権擁護のため活動している組織である。ソ連・東欧のかつての異論者たちの心の支えとなり、間接的に、今日のソ連・東欧の民主化に貢献をしてきた。
ところが、「反論」は、いきりたつあまり筆をすべらし、以下の3点でアムネスティの活動を歪曲、侮辱している。
「反論」は、アムネスティ年次報告が、「1980年代に入って」初めて、ルーマニアをとりあげたかのように書いている。だが、現に、筆者の手元には1974年から1989年までの英文年次報告のルーマニア部分のコピーがある。すべて、2-3ページを割き、人権侵害を詳細に報告している。このような公刊物の存在を共産党は知らないのであろうか。それとも、知りながら、故意に党員・読者をだましているのだろうか。
「反論」は、アメリカ、フランス、イギリス、日本さえ載っているのだから、ルーマニアを人権侵害国とは断定できないといっている。ところが、日本、アメリカについては死刑が廃止されていないこと、フランスについては宗教上の理由からの「良心的兵役拒杏」が認められていないこと、イギリスについては北アイルランド紛争で治安部隊による武器使用がおこなわれたことなどが報告されているだけである。あのルーマニアと同列に扱うことは到底許されない。
アムネスティは1983年、「ルーマニア……1980年代における人権侵害」と題する、全文27ページの英文パンフレットを発行している。このようなパンフレットがわざわざ発行されたのは、過去にさかのぼっても、アルバニア、ケニア、バングラデシュなど数ヵ国に過ぎない。パンフレットの裏表紙には「ルーマニア当局は、国際的に承認された人権、とりわけ、表現の自由、外国移住の自由、公正な裁判を受ける自由、拷問、その他、犯罪的で非人間的ないしは尊厳を傷つける取り扱いを受けない自由を、一貫して侵害してきた」とのべ、明確に入権侵害国として告発している。
宮本氏は、これでもなおかつ、ルーマニアを人権侵害国と「断定することができない」というのか。いまなお、“盟友”チャウシェスクの名誉を擁護してやるつもりなのだろうか。
[以下は「反論」の引用]
時間をとびこえた「辻つま合わせ」
宮本議長は、1971年、1978年に他の国とともにルーマニアを訪問し、共同文書を発表しました。また、1987年には、両党首脳が直接の会談をすることなく、共同宣言をまとめました。これらは、世界政治と世界の共産主義運動にとって、当時も今日も重要な意義をもつものです。巌名は、こうしたルーマニア共産党との関係が、「チャウシェスク独裁を美化」しているというのです。それを「証明」しようと、巌名は、1971年の訪問のさいの共同コミュニケから引用し、また、宮本議長がインタビユーでのべた感想をもちだしています。
1971年というのは、1968年のチェコ事件にあたってルーマニアの党が、チェコ侵略と干渉に反対してから3年後です。国内には、自主独立の路線を支持する状況がみられました。しかも宮本議長ののべたことのなかに、チャウシェスク個人の名は一切ないにもかかわらず、巌名は、1971年のこの発言をもって、「個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない」と断定するこじつけをおこなっています。
巌名は、宮木議長の1978年のルーマニア訪問のさいにも、チャウシェスク政権の国内体制を支持したとして、このときの共同宣言を引用しています・チャウシェスク政構が1989年12月に崩壊したがらといって、1965年に同政権が成立して以後、一貫して反人民的な政権であったと断定し、チャウシェスク政権下の国内問題はいっさい否定的に扱うべきだなどどするのは、事実にそってことを論じる者のやることではありません。
日本共産党は、チャウシェスク政権が咋年6月の天安門事件のさいの武力弾庄を支持したことを重視し、金子書記局長らを派遣して誤りを率直に指摘しました。さらには、8月のポーランドでの「連帯」主導の政府の成立を阻止するために、ワルシャワ条約機構の介入をよびかけたことを重大視し、批判的見地を「赤旗」で明らかにしててきした。ルーマニアがこうした動機からよびかげた「社会主義の防衛」のための諸党の国際会議の提案にたいしては、宮本議長が書簡に送って、きっぱりとした反対の立場を表明しました。
こうした事実にもとづき、宮本議長は新春インタビューで、「わが党は、過去はどうであろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」とのべました。巌名は、「19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきた」などと、チャウシェスク政権の全期間を独裁と決めつけたうえで、日本共産党の「責任」を追及したつもりでいます。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
チャウシェスクは、党書記長に選ばれる前の年の1964年、ブカレストの党アカデミーでの講演で、ソ連共産党との関係悪化はスターリンの遺産との断絶を意味しないと説明し、「学生諸君が、マルクス・レーニン主義の基本文献として、スターリンの『レー二ン主義の諸問題』の学習をつづけるよう、率直に提唱し呼びかける」と強調している。チャウシェスクは、根っからのスターリン主義者だった。このような人物が党と国家の権力を独占したらどうなるか。結果は、ルーマニアの悲劇が雄弁に物語っている。
「反論」は、ごちゃごちゃ書き並べながら、「チャウシェスク政権が1989年12月に崩壊したからといって、…チャウシェスク政権下の国内間題はいっさい否定的に扱うべきだなどとする」のは、「時間をとびこえた『辻つま合わせ』」だと非難している。
ところで、つい最近、「赤旗」1990年3月4日付で興味深い記事を読んだ。昨年12月にチャウシェスク夫妻を裁いた裁判長が「神経衰弱」で自殺したという、ブカレスト特派員電による報道である。興味深かったのはその見出しである。なんと、「暴君裁いた裁判長が自殺」となっているではないか!
そこで、逆に質間したい。天安門事件以後「変質した」というのは以前から「赤旗」でも読んだことがあるが、宮本氏は、一体、チャウシェスクがいつから暴君になり、いつまでは暴君でなかったと考えているのか。天安門事件以前なのか以後なのか、ルーマニア国民に対する責任上からも、はっきりしてもらいたいものである。
[以下は「反論」の引用]
巌名は最初に、日本共産党のルーマニアとの共同文書の発表について、「宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである」のに、ルーマニア問題での「当事者の一人」というのは、「一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか」といっています。日本共産党は、集団指導の党であり、党の最高貴任者でも「当事者の一人」というのが当然です。巌名は、1987年の共同宣言を攻撃していますが、日本共産党が事実上イニシアチブをとったこの文書の意義を、宮本議長は、「世界情勢と世界の共産主義運動の現状を憂慮してまとめられたこの共同宣言は、わが党のイニシアティブが中心になったもので、その内容は、今日でも、その主題・論点いずれも、歴史的意義をもちうるものである」と堂々とのべています。
反共に転落した者の姿
巌名は、最後に「問題は、あくまで白を黒といいくるめ『宮本顕治無謬』論、『日本共産党無謬』論を押しとおそうとするところにある」と断じて、日本共産党は、「衰退の道をたどるしかないだけのことである」どのべています。いうまでもなく、日本共産党は科学的社会主義の党であり、「無謬」論に立つものでもなく、歴史を書き替えるようなことはありません。巌名の今回の売文が示しているのは、転落者が反共キャンペーンに加担するにいたったあわれな姿だけです。
[以上で「反論」の引用は一端終了]
筆者の手記と「赤旗」の「反論」を読んで、ある法律研究者は次のように語った。
「山口組が警察と喧嘩していた。共産党は山口組がやくざ組織だとは知らずに、山口組と手を結んで警察に反対する共同声明を出した。後になって、山口組がやくざ組織だとわかったが、共産党は、不当な警察に反対する正しい内容の共同声明だから当時も今も重要な意義をもっている、といいはっている」
という感想である。
「反論」は、宮本氏がチャウシェスクとのあいだで結んだ共同声明・宣言は、105ページ[『現代』誌の頁を指す]の要約に示されているように、「当時も今日も重要な意義をもつものです」と強弁している。ほんとにそれでいいのが。党員・読者、ルーマニア国民を愚弄するのもいい加減にしてもらいたい。この論法でいけば、ヒトラーとの共同声明さえ、状況が必要とし、内容さえよければ、今日でも意義があるということになってしまう。
共産党は、なぜ宮本氏の名誉の擁護にかくも異常な努力を払うのか。共産党の宮本氏なのか、それとも宮本氏の共産党なのか。
筆者は、なにも宮本氏の全生涯を否定するつもりはない。過去の一定の功績を認めるにもやぶさかではない。ただ、ルーマニア問題での「宮本顕治無謬」論だけは、絶対に許せない。間接的にしろ、ルーマニアでのチャウシェスク独裁を支え、結果として、ルーマニア国民の「魂を鉄鎖でつなぐ」(チャウシェスク軍事法廷全記録)ことに一役買い、ルーマニア国民に血の犠牲を強いたからである。
「この子が大きくなる頃には、ルーマニアもいい国になってるだろうか」とブカレストで筆者に問うた、生後数ヵ月の息子をもつあるルーマこア人の父親の切ないことばが、今も耳の底に鳴りひびいているがらである。
現在ブカレストにいる「赤旗」特派員志賀重仁氏は、筆者が在任中、留学生として送られてきた青年だが、筆者は、ある日、がれをブカレスト市内のヘラストラウ湖公園に連れていき、盗聴のおそれのない青空の下で、「こんな国をつくるのだったら、人間一生を賭けるに値しない。わたしがルーマニア人に生まれていたら、今ごろは、おそらく監獄に入っているだろう。少なくとも、共産党の幹部にはなっていないよ」と語ったことがある。
ところで、1976年9月、筆者が特派員としてブカレストに赴任する数日前、当時副委員長で国際委員会責任者だった故西沢富夫氏の部屋に呼ばれた。西沢氏からは、赴任の心得として、「君も長いことベトナムにいってたから分かっているだろうが、今の社会主義にはいろいろ問題がある。だがら、けっして美化しないように、リアルにみて欲しい」といわれた。筆者も、これには大賛成だった。
ところが、1978年、宮本氏がルーマニアを訪問し、「手記」でも書いたような美化がおこなわれてから、方針が大きく変わった。とくに1980年衆参同時選挙後、「反共陣営が反社会主義宣伝をやり、社会主義のイメージ・ダウンを図ったため、選挙で後退した。今後は、社会主義の優位性について攻勢的な宣伝をやる。各特派員は、至急、任地の社会主義の優位性について企画を送れ。これは『最高指示』である」との指令が外信部から出された。
「最高指示」とは、いうまでもなく宮本氏の指示である。筆者は、このとき、帰国したら「赤旗」を辞めようと心に決めた。こんな国を美化させるようではどうしようもないと痛感したからだ(このことは、帰国前に、複数の党員にはっきり伝えてある。いつか、その党員たちの氏名やそのときの会話も明かせるときがくると思っている)。
筆者は、1982年、まだ共産党員だった頃、イギリスの政治学者マイケル・ウォーラー著『民主主義的中央集権制……歴史的評釈』(青木書店)を翻訳紹介したが、その「あとがき」の末尾に、「既存の社会主義国で自由を拘束されている異論者[ルビ:ディシデント]たちに心からの連帯を表明しつつ」と書いた。筆者の願いは、7年後に東欧・ソ連の激動となって実を結んだ。
昨年10月、改革に抵抗するホーネッカー時代に東独を訪問したゴルバチョフは、「遅れて来る者は、命であがなうことになる」と批判した。今回の宮本顕治氏に対する筆者の批判が実を結ぶにはおそらくそんなに長い年月は要しないと確信しているが、後は、すベてを第三者の積極的な討論参加と歴史の審判にゆだねることとして、この筆を置きたい。
以上で(その15.1999.4.9)終り。次回に続く。
前回まで長々と「ルーマニア問題」の資料を紹介してきた。当時の告発者の「元赤旗ルーマニア特派員」については、旧知の友人たちから得た「渾名はクレムリン」との情報をも差し挟み、どちらも同じ官僚主義者というコメントを加えては置いたが、それでも、私が、この元特派員の方の肩を持つかのように誤解する向きがあるかもしれない。
そこで、まず、一番重要な問題点を指摘して置く。それは「時期」の問題である。
宮本顕治のルーマニア訪問は、第1回が1971年、第2回が1978年である。この2度とも、共同声明を出した。
元特派員は、1984年に「離党を通告」した。
日本共産党は、1987年にもルーマニア共産党と共同声明を出した。
元特派員は、1990年3月4日付けの週刊誌『サンデー毎日』、1990年5月号の月刊誌『現代』に告発記事を発表した。
上記『サンデー毎日』記事は、「総力特集『仁義なき衆院選』完結編」の一部だった。記事は「総選挙の結果はご存じの通り。日本共産党は大いに苦戦した」で始まっていた。つまり、元特派員は、1971年から知っていたことを、19年後、「離党を通告」した以後でも6 年後、日本共産党が総選挙で大きく後退して以後に、週刊誌と月刊誌に発表したのである。双方ともに、いわゆる商業雑誌である。それまでは何をしていたのか?
私という批判主体の方の「時期」で言うと、1972年から1988年までは、日本テレビ相手の不当解雇撤回闘争中であった。争議以前には首都圏の民放関係の日本共産党の「総細胞」の総細胞長や「党委員会」の委員長や、千代田地区委員会の労働組合対策部や東京地区争議団共闘会議の日本共産党グループの指導部(LC)などもやっていたから、『赤旗』の主要記事は一応読んでいた。「ルーマニア共産党との共同声明」に関しては、事情がよく分からないものの、宮本顕治の晩年の焦りで危なっかしいなという感じを抱いていた。
当時も、私は、中央委員会などと意見が違うことがあれば、規約に基づいて権利を行使し、意見書を提出していた。正面から喧嘩腰で論争を挑んだこともある。その私から見れば、元特派員は、ごく少数の外信部員らしか知り得なかった重要な事実について、外電を訳してデスクに送る程度の「なまぬるい活動」しかしていないのである。それを官僚主義者の上司で自分よりも若い現衆議院議員の緒方靖夫に怒られて、ケツをまくるでもなく、子供がすねるように「離党通告」して、その後、6年も沈黙していたのである。
この腰抜け奴!
日和見主義者奴!
便乗売り込み主義者奴!
この種の怪しげな「善人」「正義の味方」気取りの連中を考える上で、私は、日本共産党の「科学的社会主義」などという言葉の遊びよりも、イギリスで最初の共和制を実現したピューリタン革命(1640-1660)期の思想の代表作『リバイアタン』(Leviathan,1651)の著者、ホッブズ(Thomas Hobbes,1588-1679)の「万人の万人に対する戦い」、さらには「人は人に対して狼である」という喝破を推奨する。
そして、閑話休題。偽善に飽き飽きしたところで、一服の清涼剤と、今後の議論の参考のために、それらのイギリスの思想潮流に通じていたはずの中野好夫の短文を紹介したい。
(1949.10)
ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。
考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。
それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。
かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を員っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形[ルビ:モーローン。註]としか思えないのである。
註 [2001.6.8.]:原語はmoron。ギリシャ語の「愚か」に由来し、わがiMac内臓の小学館ランダムハウス辞書には、「【1】
(一般に)愚か者,ばか,まぬけ.【2】心理「軽度精神薄弱者. 【3】性的変質者.」とある。
(上記註2002.11.22差換変更。別掲載記事で変更したものを反映し忘れていたため)
それにしても世上、なんと善意、純情の売り物の夥しいことか。ひそかに思うに、ぼくはオセロとともに天国にあるのは、その退屈さ加減を想像しただけでもたまらぬが、それに反してイアゴーとともにある地獄の日々は、それこそ最も新鮮な、尽きることを知らぬ知的エンジョイメントの連続なのではあるまいか。
善意から起る近所迷惑の最も悪い点は一にその無法さにある。無文法にある。警戒の手が利かぬのだ。悪人における始末のよさは、彼らのゲームにルールがあること、したがって、ルールにしたがって警戒をさえしていれば、彼らはむしろきわめて付合いやすい、後くされのない人たちばかりなのだ。ところが、善人のゲームにはルールがない。どこから飛んでくるかわからぬ一撃を、絶えずぼくは恟々としておそれていなければならぬのである。
その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。
友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。
「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニ-チェとワーグナーの友惰が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだげで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。
友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。
それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。
金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。
近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。
景岳橋本左内でないが、ぼくもまた15にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに20代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密かに深く恥しるところだっただげに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。
もっとも、これはなにもぼくだけが1人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上1人でも多くの聡明なる悪人、偽善考の増加することを、どれだげ希求しているかしれぬのである。理想をいえば、もしこの世界に1人として善意の善人はいなくなり、1人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰1人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。
されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ!
私は、以上のような本音の人間観察、自己評価の上に立つことなしに、唯物論だの社会主義だのと正義の味方面して論じるのは、偽善に他ならないと思う。ルーマニア問題の深層にも、この偽善が潜んでいたのだ
以上で(その16.1999.4.16)終り。次回に続く。
「ルーマニア問題」の締め括りとして、すでに予告した緒方靖夫現衆議院議員への批判、その後の経過、その間の2度目の代々木の本部への出頭に至る経過を記す。なお、この2度目の本部出頭には、初の「交通費支給」と言う実に珍しい体験が加わっている。
緒方靖夫は、「ルーマニア問題」当時、『赤旗』の外信部長だった。すでにその当時の『赤旗』掲載「いわなやすのり」批判を紹介した。私は、緒方と、今から3年前の1996年に直接会って若干の会話を交わし、その後、毎年、年賀状を受け取っている。最初の出会いは、非常に印象的だったので、順序は逆になるが、そこから話を始めたい。
緒方は、その時、私の手作りの名刺に目を走らせ、私の顔を見上げるなりニッコリ笑顔を作り、白熊の縫いぐるみを思わせる小太りの体を弾ませ、フランス仕込みの全身ジェスチャーたっぷりで、「ああ、ジャーナリスト、ジャーナリストの木村さんですね」と、大袈裟に握手を求めてきた。私は緒方を、『赤旗』紙上の「パリ特派員」として記憶していたし、私自身、フランス人との直接の付き合いの経験もあったから、即座に、その動作のよってきたる所以の1つを理解し、何ともはや、調子の良い商売人だわいと思った。
場所は、羽田空港に行く高架線の途中にある巨大な流通センター・ビルの大ホールのフロアだった。そこで、昔の仲間の争議団の一つ、それも日本だけでなく世界でも有数の大企業、東京電力相手に、「共産党員とその支持者への差別」の撤廃を求めて裁判に訴えた原告団が、19年にわたる長期闘争の勝利解決報告集会を開いたのである。私は当時、自分の争議が解決してから8年目を迎えていたが、OBとして無料招待を受けて参加した。
緒方にも名刺を渡したのは、他でもない。ついでに、本誌の別途連載「仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記』の重要テーマの1つ、「土地開発公社」を特集した個人新聞『フリージャーナル』を持参し、新しい名刺と一緒に、その集会で会う旧友たちに配っていたからである。ところが、この東京電力の差別撤廃原告団は、さすが、いわゆる大企業争議団だけのことはある。良い悪いは別として、結果的に、傾向としては御用組合の典型、電力労連傘下の組合の中の「共産党とその支持者」という反主流派と、関係各地区の日本共産党地区組織幹部から中央委員まで、いわば、ほぼ全国の日本共産党幹部と支持者に、解決金による無料招待の総決起の場を提供していたのであった。
毒食わば皿まで、ではないが、ご馳走の酔いも回った私は、なぜか皆、どこぞの共産党のだれそれと分かる名札を胸に付けた連中には特に、「地元の実情をお調べ下さい」と良い添えながら、『フリージャーナル』と名刺を渡すことにした。そうしていたら、その群れの1つの中に、緒方がいたのである。その時の数多い日本共産党関係者の中で、私の名刺を見て、「ジャーナリストの木村さんですね」と言ったのも、握手を求めてきたのも、緒方1人だった。つまり、いささか異常な場面ではあった。
私は、しかし、やはり長期争議の場慣れと言うべきであろうか、先のフランス風握手の状況認識と同時に、その異常さをも感じ取ってはいたが、いささかも慌てず騒がず、握手に応えると同時に、「いや、私は、ジャーナリストという肩書きは好きではないのですがね。ご存じかどうか、私も、元争議団でして、日本テレビ相手に闘って、解決後、フリーになって名刺を作り直す時に、いずれは雑誌でも出すかと冗談半分、『朝日ジャーナル』に対抗すると称して、『フリージャーナル』代表と名乗ったら、『朝日ジャーナル』は廃刊になってしまって、いつの間にか、肩書きをフリージャーナリストにされてしまっただけのことで、……」などと、まずは、軽く、いなし、続いて、ズバリと斬り込んだ。
「ご存じかどうか、私は、例のルーマニア問題では、あなたを党内で批判しましてね。大会向けの意見書ではペンネームの徳永修になっていますが、その関係で2度も代々木に呼び出されたこともあるんですよ。お調べになれば分かるはずです。その後も、日本ジャーナリスト会議で、あなたの衆議院立候補の推薦の要請があった時に、ルーマニア問題での経過から、あなたをジャーナリストの風上にも置けないと批判して反対しました」
緒方の顔は、当然、明らかに青ざめた。しかし、そこは商売人、周囲には気付かれないように、またしてもニッコリ笑顔を作って、「これからもよろしく」とか何とかしゃべって、私の側を離れた。その動きは、先程よりも、ぎこちなかった。
私は、この連載で先に再録した意見書に引き続き、電話で日本共産党の中央委員会に、緊急の申し入れをした。なぜ電話かというと、「赤旗評論版」の特集に一般党員の意見書が公表されるのは、中央大会を控えた一時期だけのことで、当時の私の表現によれば、「地獄の釜の蓋が2,3年に1度開く時だけの言論の自由」でしかなかった。その時には、私の2度目の意見書に対する(中央)の再反論で期限が切れ、それで打ち止めになってしまったからである。
ところが、その間のやりとりを通じて、緒方が、批判の相手の元ルーマニア特派員「いわなやすのり」が挙げたアムネスティ・インターナショナルの報告に関して、その全部、特に重要な特集や、年度報告を読まずに、批判論文を書いていることが、はっきりしたのである。これは、普通の議論でも許せないことだが、緒方の立場ならば日本共産党の規約にも反する行為となる。
私の電話の内容は、その問題点を指摘し、中央の善処を求める主旨だった。すったかもんだかの末に、私は、中央が、この絶対に許せない「ごまかし」を認めなければ、たとえ規約違反であろうとも、一般メディアに実名で記事を寄せて批判すると宣言した。すると、2,3日後、交通費は出すから本部にこいという電話連絡が入ったのである。1回目の呼び出しでは、交通費の話は、まるでなかった。その当時は埼玉県の新座市に住んでいたから、バス、西部線、山手線で、往復1000円ぐらいは掛かったはずであるが、ついでの寄り道もしたし、それを請求する気は起きなかった。ところが、その直後に引っ越して、静岡県は伊東市に移ったので、往復4000円ぐらいは掛かっただろう。ともかく、先方は結構、気を使ったようである。
またしても、代々木本部の一室で、今度は増田紘一と名乗る反論執筆者本人の中央委員と対決した。緒方は出てこなかった。この経過は結構複雑なので次回とするが、一言だけ、増田と緒方について述べて置きたい。彼らは党内では格が一番上の中央委員だが、私よりも1世代若い。若いからと言う理由で、どうのこうの言う積もりはない。だが、日本共産党の国会議員が2,3人の時期に、職場の先輩から誘われるままに入党し、当時は、戦後の分裂を克服して「これから良くなる」と先輩にも言われ、愚かにも人類史の教訓を忘れ、本当に良くなるかもしれないと期待しつつ、せっせ、せっせと「非公然」の赤旗拡大運動をやり、カネを集め、届け、「拡大英雄」の賞品に貰った万年筆は、どこかで落として失い、やがて党の財政は豊かになって、こちらは不当解雇され、争議16年半、地べたをはい回り、少しは落ち着いてから、やややっと見上げれば、学生運動上がりの小利口な党幹部がやたらと増え、ミヤケン・フワテツ体制の官僚組織が聳え立ち、ああ、やんぬるかな!
つまり、私にとって「ルーマニア問題」は、そのような状況の象徴だったのである。
以上で(その17.1999.4.23)終り。次回に続く。
さて、伊東駅から山手線の代々木駅までの往復の電車賃を、こちらが請求したわけでもないのに、「出すから来い」と電話で言われて、1990年の秋、私は、静岡県は伊豆半島の背骨の小山の上から自転車で転がり落ちて、電車に乗って、丸一日を費やす覚悟で、日本共産党本部を訪れた。誰がロビーに迎えに来たのか、などの細部の記憶が薄れているが、ともかく、奥まった一室に通された。
名刺を貰ったような気もするが、先に紹介した「反論」の(中央)こと、中央委員の増田紘一と、確か、もう一人が、向かい側に座っていた。最初に増田が、勢いのない声で、弁解とも説教とも付かぬ「日本共産党のルーマニアも問題に対する態度」を、おどおど、くだくだ、繰り返した。私は、しばらくは我慢して聞いていたが、段々と腹が立って来たので、持ち前の大声で叱り付けた。確か、つぎのようなこと言った。
「いい加減にテープレコーダーを止めろ。こちらは貧乏暇無しで、呼ばれたから仕方無しに来たんだ。そんな弁解は聞き飽きている。緒方がアムネスティの報告を読まずに嘘を付いたことを、党として認めるのか。認めないのか。謝るのか。謝らないのか!」
すると、突然、これもどちらか覚えていないのだが、多分、増田が命じて、もう一人の「お付き」風の男が電話をした。その雰囲気で警備員を呼んでいることが、すぐ分かった。私の叱り声に増田が震え上がっていたからだ。私は、その無礼なやり方に対しても厳しく叱り付けた。確か、「俺は声が大きいが、それはカンカンに怒っているからだ。暴力を振るったわけでもないのに、失礼じゃないか。どうせ呼ぶなら、もっと呼べ。中央委員全員を呼べ。皆の前で同じことを言ってやる!」などと言った。
緒方の「嘘」を簡単に繰り返すと、元ルーマニア特派員の「いわなやすのり」の方が挙げたアムネスティ報告の数々と、緒方の反論に出てくるアムネスティ報告は、数だけでなく質も違っているのである。特に、ルーマニアにおける残虐行為についての特集報告が欠落しているのは、致命的である。しかも、この連載で先に記した通りに、1990年春の段階でさえ、中央委員会の国際部を代表し、かつ私をわざわざ呼び出して同じ代々木の本部の一室で会った責任者自身が、日本共産党中央委員会は「アムネスティ報告を所持していない」と答えているのである。
しばしの沈黙の後、増田は、また、くどくど、だらだら、説明を試みたが、今度は私が増田を遮って、持参した資料の該当箇所を指差しながら、緒方の嘘を指摘した。すると、借りてきた猫のようにおとなしくなった増田は、「どうして緒方さんは、こう言ったのでしょうかね」と、まるで人ごとのように力無く呟くのである。これは形の上では私の完勝であるが、その時までには、先の大声でストレス解消したものか、怒りの波が静まってしまったものか、私は、勝利感よりも、愕然、血圧が急速に低下したような気落ちの状態に陥ってしまった。
言葉にすれば、「こりゃ何じゃ……」という感じだった。暖簾に腕押し。空気を掴むような当て外れ。突然、足場が消え失せて、空中遊泳してるような、なんとも心許無い気分である。どうにもこうにも馬鹿馬鹿しくて、仕方ないから、今度は、折角来たついでという気分で、まずは増田が私より若い、いわゆる全共闘世代だということを確かめた上で、日本共産党の無謬主義の一例として、ハンガリー動乱の評価に関する私の間接的体験を語った。私の学生時代の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。私の方は、ラグビーやら演劇やら麻雀やらで授業もさぼってばかり、政治は好きではなかったので、1960年安保闘争のデモに友人から誘われて参加する以前には、政党などとの関わりは一切持っていなかった。だから、樺美智子らの除名の経過も知らなかった。
ところが、その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。以後、特に興味があったわけもないし、忙しくて調べる機会もなかった。そこで、「来たついでに」聞いてみたのである。それならばなぜ、ささいな規約違反だ何だかんだの経過にこだわらずに中央委員会の方が誤りを認めて謝罪して、樺美智子らへの除名処分や、その後の「トロッキスト批判」を撤回しないのかというのが、私の質問もしくは意見の主旨だった。増田との話が、そこまで進んだ時、それまで黙っていた「お付き」の方が、口を挟んだ。どうやら、そちらの方が年長だったようで、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出したのである。
簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、正しい主張をしていた若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。
私は、こう皮肉ってやった。「私も大声出して警備員を呼ばれたから、危ないところだった。暴力分子にされかねない」
なお、その場でも、緒方との直接の対決を求めたが、どうやら同じ中央委員でも格が違うらしく、まるで雲の上の人扱い。増田は「無理でしょう」と力なく呟くだけなので、これも愕然、気落ちがさらに深まった。
まあ、ともかく、そんな経過で、本当に馬鹿馬鹿しくなって、以来、ルーマニア問題はほったらかしにしてきた。ところが、これも本連載で先に記したように、『赤旗』が拙著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(汐文社、1992)の広告掲載を拒否し、聞いても拒否の理由を明らかにしないという「糧道を絶つ」手段に出てきたのである。
以上で(その18.1999.4.30)終り。次回に続く。