元日本共産党『二重秘密党員』の遺言(その2)

1999年2月分(6-9号)合併号

(その6)マキャヴェッリが定式化した「裸の猿」組織統制の秘訣

 前回の(その5)発表以後、既知と未知の「現」および「元」創価学会員から私個人宛てのmailが届いた。未知の「元」創価学会員の場合は、私のことをメーリングリストで知り、わがホームページを見た上での通信なのだが、そのきっかけは、この連載の方の「元」への関心が手伝ってのことのようだった。このmailは了解を得て、別途、「読者の鍼灸」欄に投書として掲載したので、参照されたい。

 そいうことがあったので、「同時進行」も心掛けつつ、読者との交流を随時盛り込める最新の特長を誇るわがWeb週刊誌『憎まれ愚痴』の執筆者・兼・編集者・兼・発行者・兼・インターネット技術者・兼・設備所有者・兼・資金調達者としては、急遽、この「元」に関わる話題の一部掲載を優先する。

 実は、本連載開始後に、私に個人宛てのmailを送ってきた現日本共産党員も何人かいるが、現および元創価学会員も何人かいる。

 きっかけは、別途、わがホームページに途中まで入れて、その後は放置したままの「同志社大学渡辺武達教授とのガス室論争」である。この教授、様、様のことは、別途、最近の私発のmailでも紹介したが、論争の過程で私に対して「学問的素養がない」という主旨の失礼極まりない「ご批評」を、何百人もが参加しているメーリングリストに投げ込まれるような、とてもとてもお偉いお方なのである。

 この論争の方のきっかけは、創価学会御用、潮出版発行の家庭婦人向け月刊雑誌、『パンプキン』(97.12)に掲載された同教授執筆の私への誹謗記事だった。しかも、上記の失礼極まりない「ご批評」と並行して、同教授が、やはり創価学会御用雑誌『第3文明』の別冊で、「池田大作レイプ裁判」に関する提灯記事を書いていることが判明した。そこで私は、上記の私への誹謗中傷記事に関する潮出版の編集責任を問うと同時に、親元に当たる創価学会に対しても批判活動を繰り広げることを、メーリングリスト上で宣言した。さらに、その後、「創価学会そのものへの批判」と言うよりも、「レイプ魔・池田大作の独裁的支配下の創価学会への批判」と言い直すことを、同じくメーリングリスト上で表明した。

 以上のような経過が、組織問題での悩みが多いはずの「現」および「元」創価学会員の関心を引き、直接、私個人宛てにmailを送ってくることにつながったのに違いない。

 メーリングリストには、参加者の身元がまるで分からない場合が多いという特徴がある。創価学会員も結構多いようだ。しかも、メーリングリストで私のことを知りながら、メーリングリスト上での意見発表ではなくて私個人宛てにmailを送ってくる例も、心なしか、比率が高いような気がする。比率だけではなくて、個人宛てmail」にしてくること自体が、一種の「匿名」希望なのであるが、その内容にも、メーリングリストの参加者全員には知られたくないに違いないような、結構、ドキッとさせられる部分が多い。

 ここへの転載は、そのごく一部だけとするが、たとえば、次のような告白である。

「長いこと創価学会にマインド・コントロールされていました」

「対創価学会の事となると、学会員は非常に卑劣な手段を取る為、それを恐れる」

「私自身も、過去において、いろいろな工作に加担しました」

「創価学会は、池田太作(大作のワープロミスではありません)の指導のもと、あらゆる分野に学会員を配置し、既に法曹関係、官僚、芸能人、マスコミ、etc、と支配が進みつつあります」

「(私がメーリングリストに送った創価学会関係の「アングラ情報」について)詳しく教えて下さい」

 こういう創価学会関係の状況を知るにつけ、思い出されてならないのは、かつて『赤旗』紙面で大きく報道された「共・創協定」の経過である。今は引退した宮本顕治が、池田大作と直接会って「和解」したのである。しかし、その後、この「和解」と「共・創協定」の話は、とんと出て来なくなった。代わりに出てきたのは、ルーマニアのチャウシェスクと宮本顕治の関係である。やはりこれも直接会って、世界平和への国際協力を歌い上げたのである。

 組織というものは似てるな、組織のトップの振る舞い方も似てるな、と思うのは、私だけではないはずだ。日本共産党員の多くが、その頃、そういう感想を、かなり公然と漏らしていたのを、当時は「現」の私は、確かに知っている。これが、上記の「元」創価学会員とも共通する「元」の「元」たる所以である。

 この種の「元」の告白または暴露に対して、確かに上記のmailの一節のように、「学会員は非常に卑劣な手段を取る」ことがあるらしい。私は、創価学会員だったことはないから、このように「らしい」としか言えない。日本共産党についてなら、私自身が経験した事実を「事実」として自信を持って言えるが、創価学会であろうとも、今は亡き日本社会党であろうとも、自分が参加していなかった組織については、残念ながら「目撃証人」の資格がないのである。

 比較のために別の例を先に出すと、私自身が、「元」日本テレビ社員でもある。だから、自信を持って日本テレビ批判をするし、日本テレビを系列支配する読売新聞社なり読売グループをも、それなりの実感を交えて批判する。そのことを誰も非難しないどころか、多くの執筆者が、資料と証言を求めてくる。私は、この場合、目撃証人であり、そのことを皆が必要としている。日本テレビに立ち寄る機会もあるが、労組関係者だけではなくて、かつては会社側として私と激しく対決した元重役なども、ニコヤカに迎えてくれる。この現象は、社会の発展の一つの道標なのではないかと思う。

 もちろん、たとえば戦前の日本では、こういう立場は、一般には許されなかったのかもしれないが、読売新聞社に関しては、プロレタリア作家として一家をなした「元」社員、青野季吉の小説などが残っている。こういう「元」の証言の積み重ねによってしか、いわゆる組織悪の是正は不可能であろう。

 ところが、創価学会の場合と同様、日本共産党にも、「元」を「裏切り者」として憎み、「反党分子」のレッテルを貼り付けては、「左」の世界からの「追放」を図るという残忍な歴史がある。つい最近にも、すぐに「市民権を与えない」などと力む地区委員長もいた。現在は少し改善されてはいるようだが、未だに餓鬼の喧嘩のような、こういう癖は抜け切れていない。

「こういう癖」がついたのは、先に紹介したフランスの「元」共産党員、ラッシニエの言うように、マルクスが「階級闘争」の概念によって「社会主義に憎悪を導入した」からなのかもしれない。だが、このラッシニエ説を紹介した際にも注記したように、同じ歴史は何度も繰り返しているのである。

 ヨーロッパでは近代政治学の祖とされるマキャヴェッリは、組織統制の秘訣として、以下の3点を挙げていた。

 1.利益

 2.信仰

 3.恐怖

 このマキャヴェッリ説をさらに敷衍した説は多数あるが、基本型は変わらない。特に3.の「恐怖」となると、マキャヴェッリの同国人の末裔のマフィアなどが、未だに続けている典型的組織統制手段である。これも実は簡単な話で、何よりも自分自身の死を恐れる裸の猿の弱みを突く決定的な統制手段なのである。

 日本共産党の場合には、「裏切り者」「反党分子」「追放」「市民権を与えない」とは言っても「死」までの脅しはしていない。戦前に宮本顕治らが「スパイ」として尋問中に疑われた党員が死んだ例があるが、殺すことを意図していたのではないと信ずる。

 しかし、長年にわたって、いわゆる「糧道を絶つ」手段を用いていたことは事実である。私は、ある古参の共産党員が、たまたま、いわゆる「反党分子」が書いた本を出した出版社から自分の本を出したところ、その本の広告を『赤旗』から掲載拒否され、カンカンになって怒っていた事実を知っている。その時は、「本部」(『赤旗』は中央委員会の発行で、中央委員会と同じ「本部」の建物に中に編集部も印刷所もある)の了見の狭さに呆れたものである。

 ところが、その後、数年して初めて、私自身も似たような目に遭ったのである。この経験、いやむしろ事件は、その後、「元」となる経過につながる決定的なきっかけともなっているのである。

 まず、『赤旗』の広告掲載拒否に関しては、まったく同じだった。月刊の「本紙」と週刊の「日曜版」に普通のサイズの1面下段書籍広告を載せるのに、当時は15万円出せば足りた。当時、朝日新聞は同じサイズの同じ位置で、120万円と「聞いた」。つまり、「聞いた」だけで諦めていた。私には、日本共産党員の友人知人が多いから、『赤旗』の広告は非常に有効だった。直接の反応もあった。『赤旗』の読者には結構固い内容の本を買う層が多いから、その点でも重要な広告媒体だった。だから当然、『赤旗』の広告掲載拒否は、私への「糧道を絶つ」手段となる。

 この広告掲載拒否の事実を私が知ったのは、その対象となった本を出してから3か月ほど後のことだった。本の題名は『マスコミ大戦争/読売vsTBS』である。当時は自宅で取っていた『赤旗』に、一度も広告が載らないのに、3か月も経ってから事情を知ったというのは、実に寂しいことなのだが、中小出版社の経済事情もあろうかと勝手に想像して黙っていた。その時の出版社は、どちらかと言うと、出版界では「共産党系」と見られていた。だから、『赤旗』の広告掲載拒否などということは、まったくもって想像だにしなかったのである。

 ところが、やっと出た時には『激争/中曽根vs金・竹・小/佐川疑獄と国際エネルギー利権抗争』という長たらしい題名になったのだが、先の『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の筋書きの一部となっていた「佐川急便」問題を原稿にまとめて、この次作の打ち合わせのために編集者を尋ねた際に、この出版社では珍しいことに、他の社員がいる前では話しにくいような顔付きで、「ちょっと、ご相談が」と言われ、社屋の外に出て、近くの喫茶店に入ることになった。しかも、編集者は口ごもっていて、なかなか本題に入らない。私の方から、遠慮なく言って下さいと催促して、初めて明かしてくれたのが、『赤旗』の広告掲載拒否だった。次の本でも、その心配があると言うのだ。

「理由は言わない」と言うのだから、想像するしかない。色々と想像の材料はあったが、やはり不愉快でもあるので、私自身が直接『赤旗』の広告担当者に電話をして、率直に聞いてみた。しかし、返事は同じだった。「想像の材料」の内の最大のものは、宮本顕治の登場だった。『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の主人公の一人は、ナベツネだった。元東大細胞の総細胞長だったナベツネの経歴については、色々と書かれたものが多い。しかし、もう一つ真相に迫りたいと思って、「本部」に取材を申し入れた。結果として、「当時は中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた」とか、ナベツネ自身の手記からの「代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」されたなどの引用となった。

 ところが、「これか」と聞いても、やはり返事は同じである。しかも、その後に試してみたのだが、その後に出した別の本についても、それ以前に広告を掲載してくれた別の本についても、一切、広告掲載のOKが出ない。ウンともスンとも返事がない。これで怒らずにいられようか。次回には、さらに詳しく、この「糧道を絶つ」手段に関する経過を述べる。

 以上で[1999.2.5.](その6)終り。次回に続く。

(その7)『赤旗』書籍広告掲載拒否で「糧道を断つ」実質処分

 前回の続きで、『赤旗』書籍広告掲載拒否という目に遭った私の本のことを、具体的に説明したいのだが、その前に、同時進行の最近の現象に目を向けて頂きたい。

 学生時代には日本共産党員だったことで知られる作家、辻井喬、実名は堤清二が今、日経朝刊に『風の生涯』と題する連載小説を寄せている。

『テーミス』(99.1)の書評記事では、この新聞小説の「モデル」について、「第1回を読んだだけで戦後の政、財、マスコミ界で縦横の活躍をした水野成夫氏だと分かる」としている。水野成夫は、戦前の日本共産党幹部の獄中転向、転身組の代表格である。しかし、その「風の誕生」の描写には、堤財閥の総帥の庶子として育った清二自身の幼少期が、投影されているのではないだろうか。

 なお、面白いことに、この書評記事では、題名を間違えて『月の生涯』にしていた。

 達筆の筆字による題字の「風」の中の作りの部分が、右に寄って右の縦線と重なっているために、左側だけを見ると「月」に似ていなくもないが、ちゃんと右の尻尾が右上に跳ねている。さらには、本文の最初がゴシック文字の「第一章 風の誕生」なのだから、主人公を「風」、つまりは「風雲児」に擬したのが明らかである。この書評子のそそっかしさは相当なものだが、「風」に一番近い字は「虱」(しらみ)である。こちらと間違えたのなら、水野成夫の「産経残酷物語」とまで形容された組合潰しへの怒りを抱き続ける新聞労連関係者は喜ぶかもしれないが、遺族は名誉毀損という騒ぎになるかもしれないなどと、ついつい余計な心配をしてしまう。

 それはともかく、堤清二が、この種の問題に筆を初め出したのは、非常に面白い。上記書評の最後の締めの通り、いや、それ以上に、「今後の展開が楽しみである」。

 というのは、堤清二は、私の卒業した杉並区の都立西高校の先輩で、一時は同窓会の会長をしていた関係で、直接の会話も経験しているし、何よりもそれ以前から、彼に深い関心を抱く理由があったからである。

 ある時、堤清二を呼び掛け人に担いで同窓会の中の「霞ヶ関関係」だけを集めた会が開かれた。私は、著述業の資格で招かれ、堤清二と初めて2人だけの対話の機会を得た。私が、自分の「左」経歴などを自己紹介した後に、読売新聞のナベツネのことを調べて書いていることや、できればナベツネの後輩としての「東大新人会」の経験や、その後の思想的展開の経過を聞く機会を得たいと言うと、堤清二は、じっと黙ったまま何も答えなかった。確かに、いきなりで、いささか不躾かだったと思うが、その直後に出した私の唯一の長編小説『最高裁長官殺人事件』を献呈したところ、もちろん秘書の仕事ではあろうが、立派な筆字の礼状が届いた。その後はまるで機会を得ておらず、いずれまたアタックしてみたいと思い続けてきた。

 さて、閑話休題。そのかなり後に発表した『マスコミ大戦争/読売vsTBS』が、『赤旗』の「理由を一言も言わない」広告掲載否という「糧道を断つ」実質的処分を招いたのである。

 以下、日本共産党に関係する部分を、改行位置、数字の縦への変更以外は、原文のまま紹介する。日本共産党には、以下の文章について、どこが気に入らないのか具体的に明らかにする社会的義務がある。私は、広告掲載拒否の理由明示を求め続ける。

 以下、一部引用。

******************************

『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(汐文社、1992.11.2.p. 73-81)

11 政治思想経歴を詐称する元共産党員ナベツネの正体

[中略]

 渡辺恒雄は、伝えられる「罵詈雑言」癖などからは想像もできないが、敗戦直前に東京帝大文学部哲学科に入り、学徒動員で中断後、戦後に名前だけは途中から東大だが、旧制のままの文学部哲学科に戻って、そこを卒業した。敗戦の翌年、学生時代の1946年には日本共産党員となり、たちまち脱党、東大新人会の創立者というのが、一応の「思想経歴」である。

 それではなぜ、この元「左翼」が、2人の元内務警察高級官僚[中曽根康弘と小林与三次]と親しい間柄になり得たのだろうか。

 簡単にいえば「裏切り」で、警察の暴力団担当「マル暴」が仕事相手の暴力団と癒着するような構造なのだが、もともと渡辺恒雄には、共産主義者とか社会主義者になるような素質は備わっていなかったようである。渡辺恒雄がそういう立場を続けたとすれば、かえってスターリニズムのような悲劇を生んだことであろう。

 たとえば、東大新人会の仲間の1人の証言によると、「同じ新聞社に入ったら1人で社長になるわけにはいかんから、別々のところに行こう」というのが渡辺恒雄の就職先決定の際の提案であった。その他の証言をも勘案すると、一見左翼風の学生時代を送ってはいたものの、それは口先だけのことであって、実際には出世主義のかたまりだったというのが、本当のところだ。

 日本共産党入党、たちまち脱党という経歴も、当時の出世主義的な青年の1つの典型である。敗戦直後には、ソ連も日本共産党も、新しい未来権力の栄光を放っていた。しかし、アメリカとソ連の関係は、すでに冷戦体制へと変化していた。渡辺が入党した1946年の秋には日本でも、すでに第2次読売争議[中略]が敗北している。逆風は吹き始めていた。翌年の1947年には、「反共ドクトリン」として知られるトルーマン大統領の年頭教書が発表され、2.1.ゼネストがマッカーサー直々の干渉によって失敗に終わった。1949年から1950年にかけては、レッド・パージの嵐が荒れ狂った。

 ソ連を中心とする世界共産主義運動には欠陥も多かったし、日本共産党自身も、非合法からの急速な再建途上のこの時期について、当時のトップであった徳田球一書記長に「家父長的」な自己中心主義の傾向が見られたとし、指導体制や方針にも多くの誤りがあったことを認めている。しかし、だからといって、状況が厳しくなったらサッサと脱け、逆に大企業の社長を目指すなどというのは本末転倒もいいところであり、人間の底が浅い証拠である。

 さらに許しがたいのは、渡辺がこの青年時代の思想経歴と活動に関して、都合のいい自己宣伝をし、はっきりいえば、政治思想経歴の詐称をしている事実である。

 私が読売を訪れて渡辺との会見を申し入れた時の別れ際に、山室広報部長は「ご参考までに……」といって『女性自身』(92.7.21)を1冊くれた。暗に、こういう記事を書く気なら会見は実現できるかも、と匂わせる雰囲気であった。帰りの電車の中でめくってみると、「シリース人間NO.1193」「大いに吠える! 僕の放言実行人生」という題の、チョウチン記事そのものであった。「まさにアッパレ!」とまでナベツネを持ち上げている。私は「なめられたものだ」と1人苦笑したが、山室広報部長には旧著ほかの私の文章を提供しておいたので、それらを見たためか、その後の読売の対応は変化し、会見は不可能となった。

『女性自身』編集部に聞くと、何人かの取材と資料収集によって、アンカーと呼ばれる執筆専門の記者が仕上げる典型的な週刊誌特集である。だから文責がだれにあるのかは定かではないが、渡辺が取材記者に会っているのは確かだ。「 」内は本人の発言に添ったものだろう。山室広報部長は私にも「会見できた場合にはゲラを見せてくれ」と注文をつけたのだから、この『女性自身』の記事も本人の検閲を経たものであろう。共産党との関係にふれる部分はなぜか「 」でくくられてはいないのだが、次のようになっていた。

「共産党とも、自主的な学生運動を行なえる組織を目指して戦前にあった東大新人会を復活したことによって、あっさり訣別」

 これを、これまたチョウチン型の単行本『読売王国』の「渡辺恒雄という男」という項で見ると、以下のようになっている。

「マルクシズムには人間の自由がないという認識から、組織と個人の関係はいかにあるべきかを考え、そこからいわゆる『主体性論争』が活発に行われるようになった。

 この動きが共産党を刺激する。

 渡辺は当時、共産党東大細胞の委員長だったが、先んじて共産党を離れ、それを知った共産党は慌てて渡辺らを除名処分にして面子を保った。……

 こうして生れたのが再建新人会である。……渡辺が幹事に就任した」

 かなり昔の雑誌記事によると、共産党から「スパイ扱いされた」という本人の主張らしき記述もあるが、いずれも物的証拠資料の裏づけを欠く文章ばかりだった。果たして真相はいかに、という興味を抱かざるを得ない。

 そこで共産党本部に当時の事情を照会すると、しばらくたって連絡があり、現中央委員会常任幹部会委員の小林栄三が会見に応じてくれた。小林は、東大で渡辺の2年後輩に当り、渡辺の処遇が激論になった当時の共産党東大細胞の会議にも出席していた。

 小林の思い出話のほかにも、当時の『日本共産党決定・報告集』や『アカハタ』記事などの資料も沢山ある。経過はかなり複雑なのだが、思い切って簡略化せざるを得ない。

 すでに略記したように、渡辺が共産党に入った年の1946年10月には、読売争議支援の新聞通信単一労組や電気産業労組(電産)の10月ゼネストが挫折し、翌年には2.1.ゼネストがマッカーサーの直接干渉で失敗に終わった。左派労組の全国組織である産別会議の足下では、のちの総評(社会党支持)につながる民主化同盟が動き始めていた。

 渡辺らは、この民主化同盟と連絡を取りつつ、青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、1947年9月以降、東大新人会の「再建」を始めた。この「再建」活動には、東大細胞の指導部が少なくとも表面上は賛成をしていたようだが、党中央はもとより東大細胞が所属する中部地区委員会にも東京地方委員会にも相談なしに行われていた。しかも渡辺は、この活動資金5千円を戦前に共産党を抜けて裏切り、党の破壊に走ったことで有名な三田村四郎から受け取っていた。そこで渡辺らの活動に反対の党員からの連絡により、当時は中央の統制委員会の責任者だった宮本顕治(現議長)も参加する細胞総会が開かれた。

『日本共産党決定・報告集』によると、席上、渡辺らの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、除名処分に関しては「賛成27、反対26、棄権が3というような状態であった」。「除名処分に反対した人たちの意見を調べてみると、事実は除名にあたいするが、しかしながらその当時は組織も弱かった、指導部の人たちも関係しておったのであるから情状をくんでやって、離党をすすめればよいという」状態であった。さらには、「こんなわかりきった規律違反に対して、なぜ相当は数の人々が反対するかというと、もし除名して新人会の運動に圧迫を加えるなら党や細胞のいろいろなことをバクロするというすてぜりふを中村、渡辺がのこしたので、要するに後難をおそれたこと」『アカハタ』(48.1.8)までが指摘されていた。

 のちに紹介する当時の渡辺自身の文章の中にも「沖□和□君」「荒□新□君」などと「一部伏せ字」を気取った部分があり、これなどは同級生が見れば一目瞭然であろう。当時の共産党は非合法ではなくなったものの、まだ公然と個人名を名乗って活動するのは危険であった。すでに紹介した渡辺の読売政治部記者時代の「仕事」振りから見れば、この「バクロするというすてぜりふ」は、いかにも渡辺らしい脅し文句に聞こえる。

 共産党東京地方委員会はそこで、「まちがった考えを細胞の半分くらいの人がもっていたのでは、党のいう、鉄の規律も、意志とおこないの統一もたもてない」『アカハタ』(48.1.8)という理由で1947年12月16日、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定し」、東大細胞に通告した。

 小林の説明によると、この「解散」は当時の規約にもとづいた処置であったという。渡辺らはこの際「再登録」を申し出なかったもので、党内文書では「除名」と記されているが、特殊ケースだといえる。その後の『アカハタ』(48.2.7)報道によると、新人会は1948年1月30日に「総会をひらき、約80名が出席して、会の今後の方針を協議したが、大衆討議の結果、非民主的ボス性を除去することになり、渡辺、中村は脱退した」。

 以上のような共産党側の経過説明に対して、本当は渡辺本人の口から反論を聞きたいところである。だが、さいわいなことに、小林は『資料学生運動』に渡辺自身の文章が収録されていることを教えてくれた。出版元は、日本共産党に対しては日頃批判的な論文を出すことで知られている三一書房だから、あながち一方的な編集だとはいえないだろう。

「東大細胞解散に関する手記」(渡辺恒雄)は「〈始動〉48.3.1.」から再録されたものであり、かなりの長文である。弁明の数々を紹介すればきりがないが、渡辺は意外にも素直に「私は新人会財政部として若干の寄附を三田村氏から得た」「その際我々は同氏が党の転向者でもあるので、旧指導部員の諸君と相談しその賛成を得た」という書き方で、三田村から金を貰った事実を認めているのだった。

 三田村は、佐野学、鍋山貞親、水野成夫、田中清玄らとともに、戦前の共産党弾圧に際して特高警察の拷問に屈して転向を誓ったばかりか、裏切り活動に協力した元共産党幹部の一人であり、関係者で知らぬものはいなかった。その後も三田村は、「三田村労研」の名で労働組合の御用化工作を続けていた。私が民放労連の組合役員だった時代にも、財界の意を受けた「第二民放労連」づくりを画策したので、抗議行動に行った経験がある。子供ではあるまいし、三田村の金がどこから出ているのかを知らぬ存ぜぬでは通らない。渡辺らの活動は最初から腐っていたのだ。

 また渡辺は、「新人会の発展は極左派の諸君の猛烈な反対と妨害を受け、私は代々木に喚問され、十人近くの極左派の諸君の取りまき罵倒する中で宮本中央委員、山辺統制委員に詰問」されたと記しているが、この「極左派」という用語が面白いのである。小林の思い出話によると、当時は現在と違って共産党以外に「極左派」と呼ばれる集団があったわけではない。ところが、渡辺らが起草した「新人会綱領」には「公式的極左主義を克服し」という部分があり、これが渡辺らの常日頃の言動からして、日本共産党の方針への批判を明らかにしたもので、分派活動の証明と見なされたというのだ。

 渡辺の美文調で分りにくい「手記」の最後には、「私は党内党外の真摯な青年諸君の批判と審判を待つのみである」となっていた。「批判と審判」は今後もさらに厳しく続ける必要がある。

******************************

 以上で引用終り。

 私は、これ以上に もっと詳しく書けるだけの材料を持っているのだが、なかなか、この問題だけに集中する時間が作れない。しかし、幸いなことに、近く、この関係の連載記事を雑誌に発表するという執筆者に会えた。できる限りの資料提供に努力したので、その出来上がりを期待している。

 この種の仕事には、いわゆる「下駄を履くまでは油断ができない」側面があるから、執筆者や雑誌の発行元のことは書かないことにするが、乞うご期待!

 以上で[1999.2.12.](その7)終り。次回に続く。

(その8)無言の『赤旗』広告拒否理由:もしやの意見書

 前々回と前回の続きで、無言の『赤旗』書籍広告掲載拒否に際して、私が、直ちに「もしや」と疑った理由は、数え切れないほどある。その第1が、広告拒否された本に出てくる宮本顕治と非常に関係が深い「意見書」提出の事実である。

 そこで、1989年、昭和天皇が死んだ年の、ルーマニア問題に関する意見書を、順次、若干の事情説明を加えて、発表する。

 以下[ ]内は現時点の注記。その他は英数字、句読点表記、改行以外は原文通り。

******************************

[埼玉県委員会宛て]ルーマニア問題・緊急意見 1990.4.10.

352 新座市堀ノ内1-6-38-208.TEL:0484-78-9979.木村愛二(転籍手続き中)

 小生は県委員会に転籍手続きの書類が届いたばかりの党員ですが、以下のA.B.のような意見を緊急事態と考えて提出しておりますので、貴機関でも検討と回答をお願いします。なお、一部省略してあります。

A。緊急意見。1990.3.5.(都委員会直属党員として中央と都に提出)

 小生は先日来、ルーマニア問題に関して赤旗編集局及び党機関に電話で意見を申し上げてまいりましたが、その後の紙面を見る限り、小生の意見が考慮されたとは思えません。文書で提出した方が良いという、当然といえば当然の御忠告を党機関からいただきましたので、以下、簡単に意見の要点を述べ、回答を求めます。

意見の概要(ルーマニアに限定)。

1。党機関及び赤旗の論調が非常に感情的で、かえって反発を買うと思います。赤旗に載る文章が、党内向けの通達の文章なのか、一般読者も読む新聞(赤旗記者は取材の際に新聞の赤旗ですが」といっています)文章なのかがよく分りません。

2。一般党員及び読者大衆の「事実を知りたい」という要求に充分に応えていません。

3。『サンデー毎日』1990.3.4.に対する反論:赤旗2.27.及び赤旗評論特集3.5.の緒方靖夫氏名による論文には、特にその特徴が顕著です。その上、大事な争点事実がずれているため、反論として成立しているとはいえません。党規約違反にかかわる問題を主要争点と考えれば別ですが、それを一般読者に要求するのは無理でしょう。ルーマニア情勢についての分析材料が存在したか否かという点に関して、一般読者が双方を読み較べるとすれば、『サンデー毎日』の主張を取る以外にありません。

4。このまま論調を変えないと、いずれは赤恥をかいて、全体に被害が及ぶと思いますので、早急に全面的な検討をして下さい。小生は4.8.声明事件[1965年春闘で共産党中央委員会が公労協のストライキを当局と通じた謀略と判断して党員に中止命令を出し、後に自己批判したが、多数の共産党員が、現在のJR,NTTの労組から除名処分となり、以後の問う活動と労働組合運動に重大な損害を与えた事件]の時に職場の組合幹部でしたが、一度失った大衆の信頼を取戻すのは容易ではないという実感を持っています。

5。ルーマニアの独裁専制支配問題について、少なくとも1979年前後には、かなりの情報が得られたと判断できるので、党は早めに「情報収集の努力不足と分析の遅れについての反省」を発表すべきです。昨年の天安門事件以後の批判では、どうひいき目に見ても遅過ぎたのです。

「過ちを改むるに云々」の論議は失礼と思い、省略します。

主要な個別事実

1。小生にはいささかも宮本顕治氏の責任を云々するつもりはありませんが、赤旗2.8.宮本顕治氏名の論文を見る限り、ルーマニアに赤旗特派員または党の駐在員などが派遣されていたとは判断できず、たとえ不十分ではあろうとも、1979年当時の「ルーマニアの1教師、アムネスティ・インタナショナルに『国家機密』を伝えたかどで告発される」「ブカレストで逮捕されたギリシャ正教司祭救護のアピール」(赤旗評論版3.5に見出しだけ)という見出しの外電が党本部に届いていたと推測することも不可能です。野次馬の第3者が週刊誌風に書けば「隠された事実」という見出しにならざるを得ません。小生も寡聞にして、それ以外に特にルーマニアに関する情報を持っておりませんでした。確かに「秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実」につながる文脈ではあっても、「ルーマニア側のガードは堅く、……事前に知ることは不可能だった」という表現のみが強く印象に残りました。小生も一読して、「今の情報化時代に……。陸続きのヨーロッパで亡命者がいない筈はなかろうに」という疑問を禁じえませんでした。これはマスコミ関係の小生の友人(局長、部長クラスだが決して反共ではない)が一様に昨年来、本気で「心配」していたことでもあります。「なぜ掴めなかったのかな」と、……。

2。『サンデー毎日』は1978年のアムネスティ・インタナショナルの年次報告(内容は省略)を「ほんの1例」として紹介していますが、これが唯一の証拠引用であるにもかかわらず、緒方論文は、この1978年の報告には全く触れていません。つまり、相手側が提出した証拠の信憑性をめぐる反論の体をなしていないのです。チャウシェスク時代には問題はなかったかのような別の年次報告のみを引用し、80年代に入っての記述については「日本をふくむかなりの数の資本主義国からの」訴えもあるという論旨不明の部分をはさみながら、内容紹介抜きに「ルーマニアがとりあげられたことをもって、即人権侵害の国と断定することができないことは明白です」と断言しています。小生は解雇反対で日本テレビと16年争い、裁判闘争を経験していますが、「『明白』と力んで準備書面に書く時はあまり明白じゃないことが多いんだよね」という弁護士の言葉を思出しました。

3。くだんの元特派員が党に反旗をひるがえしたことは確かでしょうが、それだけでは変節者」だとか「落第者」だとかの断定は、離れた所にいる小生にも、ましてや赤旗の一般読者には、全くなしようがないことです。小生はマルクスの、全てを疑うのが科学的な態度だという考えに賛成しております。また、ソ連や東欧諸国の現実は、党に反旗をひるがえすことの方が正しかったという結果になっており、日本共産党でも副委員長が変節したのはつい先日のことです。幹部の発言だからといって全てを信じるわけにはいかないのです。やはり、常に正確な事実を追及し続けるべきだと考えています。

 赤旗の購読料を払っている立場としては、人件費の無駄使いに抗議したいところです。重要な取材を勝手に放棄していたのなら、普通の企業の場合、上司も「監督不行届き」で処分されかねません。ルーマニアの事実を知り、今後の社会主義の行方を考えたい党員や読者としては、まことに迷惑な話であって、楽屋落ちの醜い泥試合はもう結構という気分になるのではないでしょうか。

 以上、党の規律上の細部は別として、この『サンデー毎日』をめぐる論争経過により、少なくとも1979年前後にはルーマニアの独裁政権を疑うべき材料があったことが「明白」になったと考えます。たとえ敵のスパイがもたらした情報でも、情報であることには相違ありません。すでに「ささいな私用で」「取材を放棄したり」して、「自分の目、耳、足で仕事すべきだ」と「つよく批判された」筈の特派員がそのまま1,2年は重要な任地に止まっていたり、特に誰かがカバーした様子もないらしいのはなぜか、といった疑問も解消しないのです。

 天皇制特高警察の支配下、戦争中の獄舎の中でさえ正しく情勢を分析したと伝えられている先輩に感激して入党した小生としては、非常に残念です。

 党規律の問題に関して一言申上げますと、いきなり「ささいな私用で一時帰国」などと先方が弁解できぬ場での人格攻撃を真向からバッサリ、という論争の始め方はいかがなものでしょうか。読者には「ささいな私用」の内容も任務との関係も全く分りません。裁判でいえば証人の信頼性についての反対尋問に当たるでしょうが、それなら証拠も示さないければなりませんし、本人がその場で弁解できます。このような感情むきだしの文章が出てくると、小生のようなズッコケ人間は恐ろしくてなにも意見が述べられなくなります。

 日本共産党は反体制とはいえ立派な権威であり、潜在的権力組織なのですから、何十年か前なら党組織の防衛という名目が立った「裏切り者へのプライバシー暴露攻撃」もほどほどにしないと、世間常識からかけはなれるのではないでしょうか。もっと穏やかに、論議になっている主題に関する事実で反論してはいかがでしょうか。そうでないと逆効果です。現実には、元副委員長の変節でさえ、それ程の破壊的影響はなかったのですから、元赤旗記者の1人や2人の裏切りで、人様の前でプライバシー暴露を始めるのは、身内としても大人気がないと感じます。もっとも、事実による反論ができないのであれば別ですが。

 小生自身の体験でいえば、職場の労組への分裂攻撃と闘い、小生の裁判の裁判所への署名では、組合員が従業員の半分以下のところ、全従業員の7割の署名を集めることに成功しました。その中には多数の党籍離脱者もいましたし、組合を脱退した元組合員が含まれていたわけです。分裂攻撃との闘いでは宗教でいう「恕」に似た心境が必要です。党と大衆組織や宗教では違うといわれるかもしれませんが、人間が集まる組織の原理は同じではないかと思います。

 なお、1966年の大会決定が論拠として持出されていますが、これも相手の程度による問題があり、拡大解釈をしてはなりません。あの決定の時点で、誰が今日のルーマニア独裁のような残酷な現実がありうると予測していたでしょうか。スターリニズムに反対しているから少しは民主的だろうという前提の上での議論だったのではないでしょうか。戦国時代の権謀術策に近い動きに対しては、今後も厳しい目で見る必要があるのではないでしょうか。敵の敵は味方という政策は社会主義の大道ではないでしょう。程度は違うでしょうが、同じ時期にパナマの独裁者がアメリカの支配に反対していたことを想い起こします。

 以上。

追伸 言葉が過ぎた点もあろうかと思いますが、長期の裁判闘争の癖が抜けませんし、党内の言論の自由が保障されていると信じての上の文章ですので御容赦下さい。また、簡潔を旨としましたので、意を尽くさぬ点は多々あります。その点も含めて、議論の場があれば幸いです。

B。ルーマニア問題・再度の緊急意見 1990.4.9.

 小生は3月5日付けで、ルーマニア問題に関する緊急意見を貴機関に提出し回答を求めましたが、未だ回答を得ておりませんし、また、『赤旗』紙面を見る限りでは小生の意見が考慮されたとも思えません。

 ところがその後に発行された月刊『現代』1990.5.に、「元『赤旗』特派員・ジャーナリスト」の「いわな やすのり」氏名の再反論が掲載されましたので、以下、小生の論旨の追加を行います。

1。小生は緊急意見3.5 の末尾で、読者に事実が全く分らない人格攻撃から始めている赤旗』2.27及び『赤旗評論集』3.5の緒方靖夫氏名論文の手法を疑問としましたが、もし、『現代』の再反論のその部分(『現代』1990.5.p. 100~101 )が事実なら、低賃金の『赤旗』記者としては公団住宅の居住権が掛かっていたことになり、決して「ささいな私用」(『赤旗』2.27.及び『赤旗評論集』3.5.)とはいえず、記載のごとくに「外信部長」の承認を得ているのであれば、このことを主たる理由として「落第人物」の烙印を押すのはひど過ぎると愚考します。また「日本の各社の特派員が取材にかけつけた」という中には赤旗』が特約しているはずの時事通信は含まれていたのでしょうか。それでも不十分な重大事件という判断があれば、『赤旗』外信部からカバーに飛んでも良かったのではないか、という疑問もあり、ことはますます重大です。この点をうかがいたい。

2。「使えなかった『目、耳、筆』」(同p. 101~102 )の『筆』に関して、「社会主義の優位性について攻勢的な宣伝を書け」という宮本氏の指示があったという部分は、小生の読者としての経験に一致しますが、その「指示」の事実はあったのか。また、特派員が否定的な記事を送ることが可能だったのか。ルーマニア共産党と友好関係を誇示している時期の日本共産党機関紙特派員が、ルーマニアの反チャウシェスク・グループの実状を取材することが、果たして可能だったのかどうか。

3。当時のルーマニア共産党機関紙『スクンティア』が「東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあった」(同p.102)というが、その点はどうか。もし知りえていたとすれば、規約上国際問題を任されている立場の中央委員会として、どう判断していたのか。

4。上田耕一郎副委員長が「この国はひでえんだな。女房をナンバーツーにしてんだろ」(同p.103)と発言した事実はあるのか。もし事実だとすれば、それを規約上国際問題を任されている立場の中央委員会で議論したのか。もし議論したとすれば、どう対処すれば良いと判断したのか。

5。「(事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者三十数人を党と国家の要職につけ、……)」(同p.103)という部分は事実と一致するのか。もし事実なら、規約上国際問題を任されている立場の中央委員会として、その様なルーマニアの実状を掌握していたのか。もし掌握していたのなら、どう判断していたのか。

6。アムネスティ年次報告に関して、「1987年から89年までの英文……ルーマニア部分……すべて、1,3ページを割き、人権侵害を詳細に報告……。1983年、『ルーマニア:80年代における人権侵害』と題する、全文27ページの英文パンフレットを発行」(同p104~105)とあるのは事実か。もし事実だとすれば、中央委員会はこれを知っていたか。もし知っていたとすれば、どう判断していたのか。

 以上、特にこの問題に関する予備知識を持たない立場としても、大いに疑問を感ずる点が多々あるので、早急に検討と回答を求めます。もし万一、「いわな やすひろ」氏の主張する如く、日本共産党の中に宮本氏の言動に関しての批判を許さないというような実状が生れているとすれば、ことはますます緊急かつ重大であります。

 小生は、日本共産党が戦後の一時期の「家父長制」打破以来、国際共産主義運動中では希少価値ともいえる独裁支配排除の伝統を築いてきたと考えておりますが、その中心に立ってきた宮本氏が晩節を汚すようなことがあれば、それはただの残念では済みません。ルーマニアの独裁支配の実状に関しての判断が遅れたというだけなら、極端にいえば、御免、御免で済むことです。なにも日本共産党が直接に人権侵害をしたり、反対派を虐殺したわけではないのですから。

 しかし、このまま、「いわな やすひろ」氏のような文章に対する感情的反発にまかせて、事実の分析を曖昧にしたままになれば、「科学的社会主義」の名が泣き、党の存立の基盤自体が崩壊します。小生は今回の8中総[第8回中央委員会総会]に関する意見としても、「対応の遅れ」をもっぱら「下部の不勉強」に帰するがごとき論調に疑問を感じておりますが、ここではその点は論じません。「いわな やすひろ」氏とは違い、あくまで党員として、規約の範囲内で可能な限りの党内闘争を覚悟しての上での意見ですので、事実に基づく回答をお願いします。

 以上。

*****************************

 私は、この意見書を提出した以後に、中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。そこで経験したのは、それ以前の私の想像を上回る官僚主義の壁の厚さであった。

 以上で[1999.2.19.](その8)終り。次回に続く。

(その9)続:もしやの意見書:ルーマニア問題で代々木出頭指示

 以下、前回の「はしがき」に当たる部分と、締めの部分を再録し、続いて、その後の中央委員会の呼び出しに関する3つの意見書を再録する。

以下、前回の一部再録。

******************************

 前々回と前回の続きで、無言の『赤旗』書籍広告掲載拒否に際して、私が、直ちに「もしや」と疑った理由は、数え切れないほどある。その第1が、広告拒否された本に出てくる宮本顕治と非常に関係が深い「意見書」提出の事実である。

 そこで、1989年、昭和天皇が死んだ年の、ルーマニア問題に関する意見書を、順次、若干の事情説明を加えて、発表する。

 以下[ ]内は現時点の注記。その他は英数字、句読点表記、改行以外は原文通り。宛先が空白になっているのは、そこに手書きで氏名、組織名を記入したことを示す。

***************************[中略]

 私は、この意見書を提出した以後に、中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。そこで経験したのは、それ以前の私の想像を上回る官僚主義の壁の厚さであった。

******************************

以下、今回の「はしがき」

 私は、この間、アムネスティ日本支部に赴き、英文、仏文、日本語訳による1978年から1989年間での年次報告のルーマニアに関する部分と、アムネスティ・インターナショナルの特別報告、『ルーマニア:1980年代の人権侵害』(Human Right Viorations in the Eighties.本文27頁)を、すべて全文コピーしてきた。

 以下、3通の意見書を連続して再録するが、文中の「和田」には著書があるので、その奥付によって、経歴を紹介する。和田は、以下の意見書1.に記した通りの「ノーメンクラツーラ」こと、前回予告「私の想像を上回る官僚主義」の典型であった。

『カンボジア問題の歴史的背景』(新日本新書、1992)奥付:

和田正名(わだ まさな)

1929年東京都生れ

1955年から82年まで赤旗編集局。整理部長、外信部長、編集局次長などを歴任

1968年「赤旗」特派員として北ベトナム、カンボジア取材

1982年から90年まで日本共産党国際部。同副部長など

現日本共産党中央委員会顧問

 以上の経歴から判断して、問題のルーマニアと日本共産党の蜜月時代には、宮本顕治の腰巾着を勤め上げたことが明らかである。

 以下、再録。

******************************

意見書1.

 委員会 御中

 352 新座市堀ノ内1~6~38~208 TEL&FAX 0484-78-9979

 木村 愛二(著述業 53歳 党歴26年10ヶ月)

 ルーマニア問題について再度の要請1990.4.19

 小生は別途3.5,4.9,二通の中央委員会宛文書に添書し、貴委員会にも提出しておりますが、その後、中央委員会に呼ばれ、さらに同封の4.13中央委員会宛て、4.16中央委員全員宛て(個人名をペン書きし、個別にB4を8分の1に折り、郵便小包で送る)の二通の文書を提出しましたので、貴委員会におかれましても御検討をお願いします。

 なお、4.13の説明の最後には、中央委員和田氏より、「あなたは埼玉県委員会の方に所属が移られたようですが、そこで党員の義務を果たされることを期待します」といわれましたが、経過と語調より慇懃無礼で時代錯誤の脅しに他ならないと判断し、強く抗議いたしましたところ、さらに「君が怒ったということを覚えておきます」といわれましたので、小生も最後に「今日は大変に不愉快でした」と御挨拶をしました。小生の仕事の上では「ノーメンクラツーラ」[旧ソ連の党官僚への批判的通称]の実感を得た想いであり、別に無駄足とは考えませんが、これはますます大変な事態であると痛感した次第です。

 その後、[同席していた]東京都委員会の組織部副部長である勝間田氏に「あれは除名の理由になりますかね」と一応確認したところ、笑って「そんなことはないよ」といわれてので、やはり日本共産党は腐っても鯛であろうかと評価しております。もっとも、本当に権力を握ったら心配ではありますが、……

「義務」ということに関しては、現在、自分の仕事を中断しても中央委員会に御注意を申上げていること自体が、それを果たす最も有効な努力であろうかと愚考しております。

 以上。

******************************

意見書2.

日本共産党中央委員  殿

 352 新座市堀ノ内1~6~38~208 TEL&FAX 0484-78-9979

 木村 愛二(著述業 53歳 党歴26年10ヶ月)

 ルーマニア問題についての最終意見1990.4.16

 小生は別途3.5,4.9,4.13、三通の中央委員会宛文書を提出。国際部大沼作人氏に呼ばれ、4.13、和田正名氏(副部長・中央委員)と都委組織副部長勝間田昭氏が同席、本部会議室にて二時間半の説明を受けました。

 しかし、残念ながら小生の質問そのものに対する回答はほとんど得られないばかりか、ますます心配になりましたので、上記文書の存在を前提にして、以下のごとく小生としての心配を要旨のみ記し、伏して御賢察を願う次第です。

1。基本的な心配。: チャウシェスク独裁下の人権侵害・自由抑圧状況に関して、いつから情報を得ていたか否かという証拠論議を、今までの論調で続けていても大丈夫なのでしょうか。

2。判断材料。: 赤旗2.8 宮本顕治氏名論文(以下A)、赤旗2.27緒方靖夫氏名論文要約(以下B)、赤旗評論版3.5緒方靖夫氏名論文(以下C)、朝日4.10「インタビュー どうなる社会主義1」(以下D)、サンデー毎日3.4記事(以下a)、月刊現代1990.5記事(以下b)。

 要旨1。: A「重大な兆候」を「重視した」のは「天安門」以後。「ルーマニア側のガードは堅く、……事前に知ることは不可能だった」。「1966大会」の「意見の相違」は人権侵害と次元が違うと思いますが、……

 要旨2。: a。B。C。によりルーマニアに赤旗特派員が駐在していたことや、1979年当時の「ルーマニアの一教師、アムネスティ・インタナショナルに『国家機密』を伝えたかどで告発される」「ブカレストで逮捕されたギリシャ正教司祭救護のアピール」(Cに見出しだけ発表)という外電翻訳が党本部に届いていたことが、不勉強な小生にも初めて分り、エッとなった次第ですが、……

 要旨3。: 党の規律上の細部は別次元の問題としますが、aは1978年のアムネスティ・インタナショナルの年次報告を「ほんの一例」として紹介。これが唯一の証拠引用であるにもかかわらず、B及びCはこの1978年の報告には全く触れていません。裁判なら、この部分は負けが確実ですが、……

 要旨4。: b当時のルーマニア共産党機関紙『スクンティア』が「東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあった」。国際部は同紙を所持しているという返事(電話)。

 要旨5。: b「事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者三十数人を党と国家の要職に」。国際部は事実と一致するという返事(電話)。

 要旨6。: 国際部はアムネスティ年次報告を所持していなかったという返事(電話)。B及びCの反論の趣旨と矛盾。同報告に関し、b「1974年から89年までの英文……ルーマニア部分……すべて、二、三ページを割き、人権侵害を詳細に報告……。1983年、『ルーマニア┘┐80年代における人権侵害』と題する、全文27ページの英文パンフレットを発行」などとあるのは事実と思われますが、……

 要旨7。: D「はっきりした資料がなかった」

 要旨8。: 上記4.13の説明では、肝腎の証拠論議のポイントについては直接の言及がなく、和田氏より小生に対して「お分りでないから」と、すでに赤旗紙面で何度も読んだのと同じ国際問題の基本方針(小生異論なし)、「いわなは党破壊の攻撃をしている」(だから小生もいらざる心配をしているのですが)、「誤りはない」等の説明とともに「勉強して下さい」「(権利ばかり主張せずに)党員の義務を果して下さい」とのご注意がありました。

 要旨9。: 大沼氏の説明の中で戦後のコミンフォルムの日本共産党に対する批判、分裂の苦い経験から、他国の国内問題への介入は慎重を期すことにしている旨の説明。これはD「他党を……批判……」と論理を同じくします。しかし、戦後のコミンフォルムと日本共産党の関係と、今の日本共産党とルーマニア共産党の関係とでは次元が違いますし、Dの朝日新聞の質問も「最近まで友好関係を保っていたのはなぜか」であり、「批判しなかったのはなぜか」ではありません。小生も同様で「なぜ批判しなかったか」などとは主張していませんので、質問と回答のずれが甚だしいと感じました。世間一般にもよく経験することですが、この原因を深く考えて戴きたいのです。

 以上

******************************

意見書3.

 委員会 御中

 下記文書を中央委員会宛てに提出しましたので、貴委員会においても御検討下さい。1990.5.3.

 堤防はアリの穴より崩れるとか。破局は突然訪れるかに見えますが、実は必ず前兆があるものです。

……………………………………………………………………………………

日本共産党中央委員会 御中

 一党員 352 新座市堀ノ内1~6~38~208 TEL&FAX 0484-78-9979

 木村 愛二

 ルーマニア問題で再度唖然 1990.5.2深夜

 小生は別途、四通の中央委員会宛て及び中央委員全員宛て文書を提出。

 ひたすら伏して御賢察を待っておりましたが、本日夕、昨日付けの赤旗1990.5.1を広げ、「国際連帯についての日本共産党の基準とルーマニア問題」を拝見。

 国際部長交代。しかし、再び唖然。

 ジョージ・オーウェル描く『1984年』の世界に迷いこんだかのような恐怖に襲われ、このままでは眠りに付くことは不可能と思い定め、再び旧式ワープロを引き出しました。おかしいと感じたことを口に出さざるを得ない政治的愚者の一人としては、日本1990年、言論による失命率ゼロの安堵を覚えつつ、……

 ただし、最早、自分の仕事を放り出して長い文章を綴る積りはありません。一点だけに止どめます。

 同論文の三の項に共通する特徴は、ルーマニアに関して1977「ジョリオ・キューリー賞」以外の日付が1967,68,88,89に限られ、20年間空白。外電、アムネスティ報告には一切言及せず。

 これでどうして、党員,読者、世間が納得するとお考えなのでしょうか?

 都合の悪いことに触れないというのは、巧妙な嘘の一種なのですよ。

 マスコミ機関は赤旗を必ず購読して参考にしているのですよ。

 これは知性への侮辱です。

 ヒトラーのやから、ゲッペルスの「嘘も百万遍言えば」の類いです。

 野球の試合「経過」で1回と9回しか載せない新聞を誰が買い、誰が「十分明白」になったと信ずると思っているのですか。

 我々下部党員が血と汗で獲得したせっかくの「信頼」(あいつは馬鹿だが、嘘はつかない)までが失われます。

「道理」のすべてが疑わしく思われかねません。「軽蔑」への転落です。

 唯一の論理的な説明は「政治的」幕引きだけです。しかし、それが「理性の勝利」を目指した近代革命の現段階における到達点だとすれば、百年河清を待つの想いです。

 なお、規約にもとずく「文書回答」が得られないことは小生の実体験による「経過」から「十分明白」だと存じておりますので、あえて要求しません。

 以上。

******************************

 以上で[1999.2.26.](その9)終り。次回に続く。

99.3月分合併号へ

号数別バックナンバーに戻る

連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言へ

週刊『憎まれ愚痴』連載別一括リンクに戻る

週刊『憎まれ愚痴』総合案内に戻る

基地の出城の大手門高札に戻る