編集長の辛口時評 2006年12月 から分離

イラク「内戦」はアメリカの「計算違い」か実は「狙い目」か

2006.12.01(2019.9.4分離)

http://asyura2.com/0610/war86/msg/568.html
イラク「内戦」はアメリカの「計算違い」か実は「狙い目」か

 2006年11月末現在、イラクの状態を「内戦」と見るか否かが、アメリカ国内でも国際的にも議論の的になっている。

 以下の記事は、その最新の状況の報道である。


http://www.asahi.com/international/update/1129/010.html
イラク駐留、1年延長 アナン氏「内戦状態」

2006年11月29日12時59分

 国連安保理は28日、米軍などの多国籍軍によるイラク国内の駐留期限を07年末まで1年間延長する決議案を全会一致で採択した。

 米国や英国、日本など5カ国が提案。「イラク側の要請があれば駐留期限を短縮できる」としている。多国籍軍の駐留については、イラクのマリキ首相と米国のライス国務長官がそれぞれ、延長を認めるよう求める書簡を安保理議長にあてて、送っていた。

 米国のボルトン国連大使は「ブッシュ大統領とマリキ首相が会談する直前に採択できた」ことを歓迎した。

 一方、国連のアナン事務総長は同日、記者団に対し、イラクがほぼ内戦状態に至っているとの認識を示した。また、イラク新戦略をまとめている米国の「イラク研究グループ」のメンバーと27日に電話会議を行い、国連がより大きな役割を果たすことなど「かなりの数の提案をした」ことを明らかにした。

 また米国がイラン、シリアと直接対話をすることについて「両国には果たすべき役割があり、解決策の一翼を担うべきだ」と強く支持した。

 

 内戦は悲惨である。しかし、アメリカにとっては、これも「狙い目」なのかもしれない。アメリカの中東支配の常套手段は、現地の仲間割れ、抗争を狙う謀略である。

 アメリカは、第二次世界大戦後、イランの石油利権を支配するために、石油の国有化を図ったモサデク政権をクーデターで倒し、亡命中のシャー、パーレビによる帝政を復権し、1979年にはホメイニ革命で敗北を喫した。その翌年、イラン・イラク戦争が始まるのである。


http://www.jca.apc.org/~altmedka/gulfw-27.html
『湾岸報道に偽りあり』
隠された十数年来の米軍事計画に迫る
第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実

「侵略主義者」サダムはイラン「征服」を狙ったか

 サダムは「侵略主義者」であり、クウェイトばかりかサウジアラビアまで狙っていた。それがなにより証拠には、クウェイトの前にはイランを侵略したではないか、という趣旨の論評があった。テレビ解説などは、これが確定的な事実であるかのように論じていた。サダムが「イラクと隣接するイランの油田地帯フゼスターン州の併合」を狙っていたというまことしやかな説もあり、これなどは「クウェイト侵攻の狙いと一致する石油支配戦略だ」とされていた。

 だが本当にサダムは、イランを占領し続け、隣接の油田地帯を支配下におくつもりだったのであろうか。この歴史的経過を実証的に調査した報道は、私の知るかぎりでは、皆無であった。皆が皆、他人の台詞の猿真似でしゃべっていたのである。いわくヒットラー並の「侵略主義者」、いわく「日本の大陸侵略と同然」、いわく「覇権主義」、といった具合だった。

 ここでもまず第一に確認しておきたいのは、アメリカの二枚舌、ダブル・スタンダード問題である。アメリカは、イラン・イラク戦争に際して、「イラクの侵略」を国連に訴えたりしなかった。ラムゼイ・クラークらが組織した「国際戦争犯罪法廷のための調査委員会」による「告発状」の「背景事実」は、その事情を次のように鋭く要約している。

「イラン国王が倒され、テヘランのアメリカ大使館人質事件が起こってから、アメリカは、イランとの戦争において、ソ連、サウジアラビア、クウェイトおよび大部分の首長国と同様、イラクに軍事援助と支援を与えた。一八八〇年から八八年までの悲劇的な八年戦争における合衆国の政策をおそらく最も巧みに要約しているのは、ヘンリ・キッシンジャー(当時、米国務長官)がその初期に述べた次の言葉であろう。『彼らが互いに殺し合うことを希望している』

 事実、この戦争中にアメリカのトップとCIAは、イラン・コントラゲート事件として表面化した際に明らかにされただけでも、イスラエルと組んでイランに二千数百基ものミサイルを売却していた。それらはイラクに降り注いだのだ。
 [後略]


 ローマ帝国以来の「分割し、統治せよ」の定石通りのことが、今も続いていると見るべきではないか。