編集長の辛口時評 2006年1月 から分離

薩長の傀儡の天皇制の殺人信仰・靖国神社そのものを拒否する。

2006.1.7(2019.8.21分離)

http://www.asyura2.com/0601/senkyo18/msg/434.html
薩長の傀儡の天皇制の殺人信仰・靖国神社そのものを拒否する。

 このところ、またぞや、靖国云々の投稿が増えているので、一言。

 これは、昨年末の「靖国問題」ロフトプラスワン『創』トークに関する12月29日の投稿への大いなる疑義である。

 以下は、非常に疑義のある不正確なその投稿の抜粋である。わが氏名が記されているが、わが発言の内容の要約紹介が間違っているので、まずは最低限、その部分だけを正す。「賊軍の者も祀ってくれ」などとは、まったく言っていないのである。靖国神社そのものを拒否したのである。


戦犯東條の孫『東條由布子』(反米嫌日戦線)
http://www.asyura2.com/0601/senkyo18/msg/159.html
投稿者 片瀬テルミドール夏希 日時 2005 年 12 月 29 日 06:51:35: x0P0raHFBfKZU
 [中略]
 ロフトプラスワンで行われた月刊『創』トークライブに行ってきた。今回の内容は、森達也、鈴木邦男、山本直樹、綿井健陽などが出演したが、ほとんど司会の『創』編集長・篠田博之さんの独演会になってしまい、ゲストの発言がほとんど無いという消化不良の内容で、少々ガッカリした。しかし、第1部「靖国問題」のゲスト・東條由布子の大東亜戦争自慢話を聴くだけでも価値はあった。
 [中略]
 彼女の主張は以下のようになる。

中国韓国のコイズミ参拝批判は内政干渉。大東亜戦争は「自存自衛のための戦争だった」。国際法で自衛戦争は認められているのであるので東條は無罪。ただ開戦敗戦の国民に対する罪は認める。東條自身は、「7度生まれ変わっても罪を償う」といっているとのこと。
 [中略]
 会場からの質問では、あの木村愛ニ氏が賊軍の者も祀ってくれとヤワラカク質問。彼女はすべての者を靖国に祀ってもらいたいと主張していた。
 [後略]


 まずは、「出演」と記されている「綿井健陽」は来なかったし、欠席の理由の説明もなかった。演題には、「イラク派兵」云々もあったのだが、イラク戦争取材の綿井健陽がこなかったこともあり、イラクのイの字もなくなり、「看板に偽りあり」の出し物となった。

「靖国問題」に関するわが質問は「賊軍の者も祀ってくれ」という主旨ではなかった。東條由布子と、このところ彼女の鞄持ちのごとき西岡昌紀が、主に中国・朝鮮(韓国)からの批判に異論を唱え、いわば排外主義的な短絡思考で、参拝に賛成の主旨の発言をしていたので、「そもそも」から始めて、「靖国神社とは何か」から説き起こし、戊辰戦争での薩長側だけの死者を祀る招魂舎に起源があり、日本人の間に、天皇を傀儡に担いだ薩長側と、幕府側の間に、幕末以来の国論の相違があることを指摘し、それを知った上での意見かと、返答を求めたのである。

 ところが、東條由布子は、ド勘違いの返答をした。幕末ではなくて、明治維新以後の西南戦争における「賊軍」の西郷隆盛の取り扱いに話をすりかえて、鹿児島で「西郷隆盛を靖国に祀る運動をせよ」と言ったなどと、称したのである

 東條由布子は、歴史の知識が乏しいだけでなく、論理的思考能力でも落第である。要するに、イタリアのムッソリーニの孫と同様、単に、東条英機の孫というだけの「珍種」のタレントにすぎない。

 東條由布子が現在果たしつつある役割は、東条英機を「悲劇の主人公」に仕立て上げる無自覚な「目くらまし」である。鞄持ち志願者の激増にも要注意!

「自衛戦争」云々も噴飯ものの論理だが、マッカーサーの戦後の米議会での証言の一部のみを利用する手品の一種にすぎない。「A級戦犯」がアメリカの日本支配のための猿芝居、東京裁判の判決であると称し、免罪を画策するのは、大変な政治犯罪である。日本人として、もっと厳しく罰すべき「軍事官僚」だったのである。ヒトラーは(疑義があるとしても)自殺したし、日本でも、近衛文麿が服毒自殺したが、東条英機は、確実に死ねる方法、拳銃を耳元または口の中での発射を避け、心臓に向けて、自殺にも失敗(わざとの疑いあり)した卑怯者でしかない。

 以下は、東條の自殺に関して、簡単に出てくる電網(インターネット)検索情報である。


 東條の自殺は、最高の戦争犯罪者(責任者)のそれとしては、「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」との遺書を残して割腹自殺を図った阿南とあまりにも対照的であった。敗戦から1カ月近くたった、しかもGHQによって逮捕命令がだされ、逮捕寸前にアメリカ官憲の前でしかもピストルでの自殺未遂を、日本国民は実に冷やかに受け止めた。


 以下も、電網(インターネット)検索で簡単に得られる「靖国神社の創祀」に関する知識である。


幕末の殉職者 ベリー艦隊が来航してから徳川政権下の国内情勢は緊迫し、安政の大獄や尊皇攘夷思想に対する幕府の弾圧による殉職者があいついだ。さらに王政復古の後に勃発した戊辰戦争の戦死者などが、国事、王事に殉じた幕末維新の殉職者とされた。

殉職者を慰霊する 朝廷は、安政の大獄以後の国事に関連した死没者を殉職者と認め、その赦免を幕府に命じ、幕府はこれら殉職者の墓碑建立を許可した。これを受けて諸藩の志士達は京都東山の霊明舎に集い殉職志士の弔祭を行った。

有志の招魂祭 津和野藩の福羽美静を中心とする国学者や志士たちは、京都東山での祭典につづき、祇園社の境内に小祀を設け、安政の大獄、桜田門外の変における殉職志士の霊を合祀した。これが招魂舎の始まりとされる。

私祭から公の祭りへ 長州藩では高杉晋作が提唱して下関桜山で奇兵隊殉職者の弔祭を行い、社殿建設をはじめた。これには奇兵隊をはじめ各隊や一般男女の奉仕があった。よがて長州藩はこの桜山招魂社をはじめ藩内各郡に招魂場を設け、春秋二季に祭典を執行することを命じた。

楠公祭と殉職志士の慰霊 志士たちのなかには南朝の忠臣、楠木正成を敬慕して祭典を行う者もあった。この楠公祭にあわせて同志の殉職者が祀られた。長州藩では藩主が楠公祭を行い、藩出身の殉職者も祀った。王政復古ののち尾張藩主徳川慶勝は「楠公社を建立し、その境内に維新殉職の招魂社を設けること」を朝廷に建白する。後年この建白は別格官幣社湊川神社の創建につながっていく。

戊辰戦争-諸道の招魂祭 官軍が江戸に入城して、東征軍大総督は陣没者の招魂祭執行を布告した、参戦各藩には戦没者の名簿を作成して、すみやかに提出するよう示達された。戦没者名簿を作成するということは、のちに靖国神社の祭祀の基本をなすこととなる。

国家による維新殉職者の慰霊 東征軍総督府は江戸城にて招魂祭を行った。そののち、京都、新潟、箱館でも招魂祭か行われた。さらに政府は維新殉職者を、また戊辰戦争戦没者を祀る社をそれぞれ京都に建立する旨布告した。国事殉職者、戦没事変の死没者慰霊を、国わ挙げて政府が主宰することがはじめて表明された。

東京招魂社の創建 戊辰戦争が終り、明治2年(1869)、さきに京都に創祀されることになっていた招魂社が遷都により東京に建立されることになった。

招魂社の祭日 戊辰戦争の戦没者を祀る東京招魂社の祭日は鳥羽伏見の戦いの起こった一月三日、上野の彰義隊潰走の五月十五日、会津降伏の九月二十二日、箱館落城の五月十八日に定められた。

明治天皇の御親拝 明治七年一月二十七日、太陽暦一月三日。戊辰戦争開戦日を記念する例大祭に、天皇がはじめて招魂祭に行幸された。

幕末殉職者合祀の布告 戊辰戦争以前の幕末殉職者の慰霊について明治初年に布告されたが、未だそのことは行われていなかった。明治八年、東京招魂社への合祀が布達され、幕末殉職者の名簿完成が各府県に指示された。


 なお、私は、「わが先祖は小倉の小笠原家の家臣であり、小笠原家、または小倉藩は、長州に攻め込まれて、小倉城を焼き払い、山の中の豊津藩として明治維新を迎えた。先祖代々、天皇は薩長の傀儡と言い伝えてきた」という立場を、明確に語ったのである。