電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館 2001年5月

歴史教科書を巡る左右激突らしき議論もメビウスの帯を知らずんば場末のドタバタ喜劇でしかない

送信日時 : 2001年 5月 9日 水曜日 0:42 AM

件名 :[pmn 14729] 歴史左右激突もメビウスの帯を知らずんば

 本日、『創』(2001.6)が届きました。かつて、日本テレビ在籍中には毎月のように筆名でメディア業界の内幕を寄稿し、争議解決後にもしばらく実名の寄稿を続けていた関係で、寄稿しなくなった今も無料で届く雑誌の内の一つです。ただし、「元赤軍・重信房子の娘の激白!」などは、先にも、商売とは言え、「いい加減にせえ!」との意見をあえて発表したところですが、これと並行して、教科書「左右」問題がありました。

 いわゆる「右」は、伝統右翼の元護国団の団長、旧知の石井一昌さんからは「蝙蝠」と呼ばれる他称「新右翼」、一水会の現顧問、旧知の鈴木邦男さんのコラム、「鈴木邦男主義」、いわゆる「左」は、これも旧知の出版労連のわが個人加盟組合ネッツの仲間、旧知の俵義文さんの「つくる会」批判です。自分で企画する時間の余裕がないので、中国人を父に持つ旧友、康芳夫に留守番電話で、ロフトプラスワンでの対決を企画しないかと、申し入れておきました。

 さて、ところが、日本の「戦争責任」とかの教科書問題、または、むしろ、日本人にとっての「いわゆる歴史」には、私の知る限りでは、今までに誰も指摘していなかった重大かつ基本的な「メビウスの帯」の錯誤があるのです。

 この帯の一番分かりやすい問題点は、歴史が世界史ではなくて、欧米の世界侵略が欠如しているのに、日本の近代の侵略行為の記述のあるなしだけが、いきなり論争の争点になっていることなのです。この一つの原因には、日本独特の「日本史」「東洋史」「西洋史または世界史」の学閥争いもありますが、それだけではないのです。

 歴史教育は、常に、その時代の支配者の神話の要素を基本とします。明治政府は、「修史局」を設置して、天皇中心の日本史を構成すると同時に、前代、つまりは自分達が倒した徳川幕府の時代を暗黒の政治として描きました。ところが、実は、明治時代の方が、年貢の率が高かったのです。

 戦後の「いわゆる民主主義教育」の日本史教育は、簡単に言うと、アメリカ王朝による政治的な「修史」の要素を帯びていたのであって、世界共通の歴史の政治的利用の枠から、それほど離れてはいなかったのです。ドイツの場合は、アメリカ・シオニスト王朝と考えれば、分かりやすくなります。日独両国は、「無条件降伏」したからこそ、しかもすでに、外国の王朝支配が流行ではなくなった時代だったからこそ、前代未聞の摩訶不思議な歴史教育の「メビウスの帯」を課せられたのです。

 このことを、実に分かりやすく指摘してくれたのが、日中混血でカナダで育ったホイさんという女性でした。彼女は、民衆のメディア連絡会の数年前の年末集会にもきて、土屋豊さんの天皇問題の記事を英字紙に発表したことがあります。ホイさんは、いわゆる「自虐史観」が話題になりはじめた時、「日本人は今、大変難しいことをしてるのよ」と言いました。「カナダでもアメリカでも愛国教育をしてるのよ」というのが、彼女の指摘でした。

 日本人は、アメリカの占領下で、「民主主義万歳!」、天皇は象徴として祭り上げ、悪いのは軍だったと教えられ、すぐに逆転、警察予備隊、保安隊、自衛隊、形だけの独立、経済大国、目まぐるしく立場が変わる半世紀を経て、ソ連崩壊、あら、どうしよう、そうしよう、かつては、いわゆる左が、「民族の自由を守れ!」、「決起せよ、祖国の労働者、栄えある革命の伝統を守れ!」と怒号していたのに、今度は、「民族派」は右だといわれ、まさに右往左往しているのです。

 先の「欧米の世界侵略が欠如している」問題点は、アメリカ王朝の歴史編纂だったからなのであって、普通の日本人には、非常に不公平な感じを持たれます。裸の猿は、自分が損な立場に置かれるのを嫌います。ですから、でたらめが多くても、いわゆる自由主義史観の方が国内では優勢になるのです。

 以上のような、地球規模、人類史全体を見渡した視点からの議論が必要です。本日、わが電網宝庫に、下記の記事を入れました。悠久の一万年に想いを馳せて、気宇広大な議論をしましょう。

『日本経済新聞』(2001.5.7.夕)
「あすへの話題」欄

タッシリ文明

松浦 晃一郎(ユネスコ事務局長)

 二月にアルジェリアを訪れた際、サハラ砂漠の真ん中にあるタッシリ国立公園をまず訪れた。この公園は八万平方キロメートルの面積で(日本の五分の一強)、ユネスコに世界遺産として登録されている。

[中略]

 地元の考古学者の説明によれば一番古い彫刻は紀元前一万一千年のもので、これは旧石器時代の最後にあたる。新石器時代が紀元前一万年から始まり、それから約一万年にわたる彫刻や岩絵が一万五千点以上、タッシリに存在するという。

 この地の遺物は紀元前六干年以降と従来言われていたが、それよりもさらに五千年さかのぼる。時代測定がより正確になり、以前言われていたよりも古いことが判明したということであった。

[中略]

 全文は、以下です。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-10-huroku.html  


電子手紙2001年5月分の目次へ
電子手紙文書館の目次に戻る
『憎まれ愚痴』総合案内へ
基地の出城の大手門高札に戻る

雑誌憎まれ愚痴 バックナンバー 目次一覧 連載記事一括 時事論評&投稿
憎まれ愚痴入口 テーマ別発言集 木村書店 亜空間通信 亜空間放送局