地に満ちよ
古代エジプト人は、スーダンの北部を、ター・セティとよんだ。また、この地帯に、セツーとよばれた古代国家もあった。そして、ター・セティが、カセット、クシュと変化したもののようである。クシュ帝国の自称は、まだわからないのである。
セティやセツーは、セムトゥーの変化であろう。そこは、牧畜部族の土地だった。セムトゥは、いろいろな場所にいた。旧約聖書のカナンの地は、おそらくサハラであろう。そして、サハラに永らく栄えていたガラマント王国の名称と、関係があるのではないだろうか。ガラム、カナム、カナン、である。しかし、「カナンの地はききんが激しく」、人々は、「エジプトに下(くだ)るのを恐れてはならない」と教えられた。だが、「羊飼はすべて、エジプトの忌む者」であった。つまり、南国境フィラエには、「家畜を連れてこの国境を越えてはならない」という石碑まで建てられるようになった。人々はそこで、「ゴセンの地に住まわせてください」、とパロにたのんだ。つまり、ナイル河上流域にあったカセット(ター・セムトゥ)、カセン、ゴセンへの移住の許可を、ファラオ(パロはファラオと認められている)に求めたのである。
ユダヤ史学者の小辻誠祐によれば、セム系諸民族は「言語及び人種の特徴」からして、アフリカ大陸からアラビア半島に渡ったものと説く学者が、早くから何人もいた。小辻誠祐の『ユダヤ民族――その四千年の歩み』という本は、すでに1943年に出版された本の改訂版である。詳論はさけるが、いまや、この説以外に成立する学説はありえなくなってきた。わたしは、いわゆる大言語族の系統を、全く別々のもののように説く学説も、近く完全に破綻するものと考える。そして、新しい言語体系は、アフリカ人の学者の輩出によって、バントゥ語に出発点を置いたものとなるであろう、と考えている。
さて、セムトゥは家畜の群と一緒なので、最初の移住範囲は限られていた。だが、ケムトゥとヤムトゥ(ヤ・ムントゥ)とは、身軽だった。たとえば日本列島に、クマソ、クマノ、ケの国、ヤマトという地名がいたる所にあるのは、彼らの移住の証拠ではないだろうか。
一方、人々を意味するバントゥは、ヨーロッパで、マント、マンに変り、アジアで、ピンヅー、ヒンヅー(インド)となり、ヒント、ヒトになった。
レムトゥは、ケムトゥ一般よりも、あとから本拠地をはなれた。だが、彼らは耕地面積を広くつかえたので、有力な部族になった。オリエントには、レバント(シリアの古代名)の国ができた。中国では、レント、レン(人)が、人間を意味するようになった。自分の国をレーベンとよんだ人々もいて、中国人はこれに、日本という字を当てた。
ギリシャの各地には、語尾に「ントス」がつく地名が多い。この意味はギリシャ語ではとけず、先住民のつけた地名だとされてきた。しかしこれも、ムントゥ、ントゥ、ントス、の名残りであろう。たとえばコリントスは、コルン(角)・ムントゥかもしれない。角のあるウシ、ヒツジ、ヤギを飼う人々、もしくは、家畜用のムギ類を主食にするようになった人々ではなかろうか。ドイツ語のケルン(穀物)、英語のコーン(同)は、ともに、コルン(角)と関係がありそうだ。
たとえばエンゲルスは、家畜用の穀草を栽培するのが、農耕のはじまりだったのではなかろうか、と推測した。現在では、農耕文化が先行した、という考え方が大勢をしめている。しかし、エンゲルスの推測は、いったん遊牧化した民族が、ふたたび定着する際に生じた、二次的な農業社会での出来事、という想定に生かされてもいいのではなかろうか。
もっとも、このコルン・ムントゥ、または、コルムトスは、レムトゥの出身かもしれない。ローマの伝説は、ロムルス・レムルスの双生児による、建国をつたえている。しかし、これは後代の解釈であって、レムス、すなわちレムトゥより出でたるロムルスの国であり、ロムルスはコルムトスが、ホロムルス、ロムルスとなまったものではないだろうか。
これとは別に、日本のカミや、アイヌ民族のカムイを、トルコ・モンガムのカム(シャーマン)に結びつけている学者もいる。そのもとは、ケムトゥではなかろうか。それも、ケムトゥが金属精練の秘法を知り、それが、ケムトゥの秘法、アル・ケミアとよばれたこととに由来するのではないだろうか。いわゆるシャーマンは、鉄鍛冶師なのだ。
ふたたび、コトバに立ちかえってみよう。コトバとはなんだろうか。それは単語のことではなくて、思想体系だったのではないだろうか。日本語のコトバを、アラブ語のキタブに結びつける人もいる。キタブは、本そのもののことではなくて、本に書かれた内容、つまり、思想体系としてのコトバの意味である。
わたしは最初、コトバを、人の道、つまりムントゥまたはバントゥの道と考えた。そしてムントゥが、キントゥ、クントゥ、ハントゥを支配するための教えであり、キ・ク・ハの関係を説明したものではなかろうか、と推測した。この可能性もあるだろう。
しかし、より行動的に、ケ・セ・ヤまたは、キ・タ・ヤブの三部族の、協力を説いたものと考えてもよい。そして、それぞれの部族または、その三部族の要素を持った民族集団同志は、お互いにコトバが乱れないように、つねに交流を絶やすな、とおしえられたのではないだろうか。旧約聖書の構成には、どうもそのような気配がある。遊牧民族の伝承のつねとして、農耕にかかわる部分は、かなり抽象化されている、しかし、ユダヤ民族は、セムの子孫なのに、ハムの子孫の系図も、くわしくつたえている。出会った民族と、コトバをあわせる、という習慣があったのではないだろうか。そして、キリスト教のカテキズム(宗教問答)も、キタブ、カテヒ、カテキ、と変化したものではないだろうか。
少ない材料では、これ以上の推測はできない。しかしわたしは、きっと、はじめにコトバがあったのだ、と思いはじめた。そのコトバは、力の哲学であった。コトバによって、人々は力を振いおこし、ある時ははたらき、あるときはたたかった。日本では、その重要なコトバを、ヒミ(秘み)コトバとか、イミ(忌み)コトバとよんだ。秘めると、忌むとは、同じ語源をもっている。ヒミコトバは人格化されて、ヒミコとなり、イミコトバは、ミコトとなった。一方は、女性に結びつけられ、他方は、男性に結びつけられたのではないだろうか。そして、ヤマトタケルノミコトとは、ケムトゥの土地のヤムトゥの秘めたるコトバ、だったのではないだろうか。
わたしの推測は、当を得ていないかもしれない。しかし、これが本当に証明されたら、どんなに素晴らしいことだろうか、と思わずにはいられない。そうすれば、「人間はひとつの家族」というコトバは、抽象的なものから、はっきりと具体的なものになるだろう。
だがそれにしても、最初の意識的な、法則的なコトバをつくったのは、バントゥの中の、どういう人々だったのだろうか。