シャンポリオン
シャンポリオンは、それなりに誠実な、古代言語の研究者である。だから、誤訳や曲訳によって、古代人の証言を、否認したりはしなかった。
そのかわりに、新しい論理を発見した。つまり、「肌の色が黒く、髪の毛が縮れている」という、この二つの特徴だけでは、黒色人種(ラス・ネグル)と決定はできない、という主張をくみたてた。シャンポリオンは、古代エジプトの記録の解読に成功したと同時に、古代エジプト人は、本来のアフリカ人ではない、と主張しはじめた。それはどうしてだろか。どういう事情の下に、こういう不思議な考え方がでてきたのだろうか。
まずシャンポリオンは、「有名なヴォルネイ」という表現を使っている。すでに紹介した18世紀の旅行家ヴォルネイの主張、つまり古代エジプト人は黒色人種(ラス・ネグル)なり、という主張を無視できなかったわけである。しかも、シャンポリオン自身の文章から察するに、ヴォルネイの主張は、当時のフランスで、ほぼ定説化していたらしい。政治的背景としては、フランス革命がある。ヴォルネイは、古代文明の建設者と同一人種である人々を奴隷にするのは誤りである、という見解ものべていた。また、フランス本国では、いち早く奴隷制度が廃止された。もっとも、植民地では、なかなかどころか、ますますひどくなった。それはともかく、パリあたりの知識人は、科学的な思考方法を身につけていたし、相当程度に人種偏見を克服していた。実際、素直に歴史を考え、事実をみるならば、古代エジプト人がコーカソイド(白色人系)などであるはずがない。
しかし、シャンポリオンは、なぜか、このフランス革命期の、明晰な論理に刃向いはじめた。そして、1892年、次のような手紙を、エジプトのパシャに送った。パシャとは、トルコ帝国の太守の意味だが、事実上、独立王国の君主であった。
「ある見解によれば、古代エジプトの住民は、アフリカの黒色人種(ラス・ネグル)に属するというのですが、それは長期にわたって真実として採用されてきたものの、誤解です。……ヴォルネイはその主張を補強するために、ヘロドトスがコルキス人について考えた時、エジプト人の肌の色が黒く、髪の毛が縮れているのを連想した、という例を引合いに出しています。しかし、この二つの肉体的な形質は、黒色人種(ラス・ネグル)を特徴づけるためには、充分なものではありません。そして、ヴォルネイによる、エジプトの古代住民を黒色人(ネグル)起源とする結論は、明らかに強引であり、認めることはできません。」『黒色人国家と文化』(P.57~58)
なぜ、こういう手紙を書いたのだろうか。シャンポリオンとエジプトのパシャとの関係は、どのようなものだったのだろうか。
これからあとは、状況証拠による推理しかない。こんな事情を書いた本は、全く見つからなかった。最小限いえることは、シャンポリオンの調査活動が、パシャの援助なしには、不可能だったということである。そこで、エジプトのパシャの血統をなす、モハメット・アリ家について、まず追求してみたい。
鈴木八司は、モハメット・アリ家について、つぎのように書いている。
「1805年にエジプトのパシャとしてオスマン・トルコ帝国から独立したモハメット・アリは、その後1830年にはパシャの世襲権を獲得して王朝をたて、専ら富国強兵の目的のために、エジプトにおける経済発達の計画を実施していった。
モハメット・アリはアルバニアの出身であって、プトレオマイオス家の出身地マケドニアと奇しくも同じ地方である。彼自身エジプトの国語のアラビア語を話さず、かつエジプト人を極端に軽蔑していた。また彼の世襲的後継者たちも同様で、エジプト人の民族主義者などは「強い弾圧をうけたのである(『ナイルに沈む歴史』、P.31~32)
つまり、当時のエジプトの支配者は、イスラム教徒とはいうものの、人種的にも民族的にも、ヨーロッパ大陸からきた侵入者であった。アルバニア人は、少し浅黒く、捲毛の形質が多い。それにしても、比較的に色の白い支配者が、相当に色の黒いエジプト人を支配し、しかもお互いに憎み合っていた。
また、アリの軍事力の中心は、例のイェニ=チェリの伝統に立つアルバニア軍団であった。その上、主要敵国には、スーダンの黒色人国家、フング王朝があった。アリの三男イスマイルは、1821年にスーダン遠征を試み、フング王朝を降伏させた。しかし、小堀厳の『ナイル河の文化』によると、遠征の帰途、イスマイルは住民に捕えられ、火あぶりにされた。スーダンの黒色人住民は公然と叛乱を起した。そして、「怒ったモハメット・アリは北部スーダンをおそい、一年の間に、彼の軍隊は約5万人のスーダン人を殺し、通りがかりの村々で掠奪をほしいままにした。」しかし、叛乱はつづいていた。
アリは、エジプト人を軽蔑していたし、それにもまして、黒色人を憎んでいた。想像をたくましくするならば、シャンポリオンたちに、「ヴォルネイのように、古代エジプトが黒色人だったなどという邪説を立てるのであれば、調査は許さぬ」、とまで脅かしたのかもしれない。
アリ王家は、近代のヨーロッパ列強と同様の位置にあった。つまり、白色のヨーロッパ人こそが、すべての文化をつくりだしたのだ、という現代神話を必要としていた。エジプトの原住民や、黒色のスーダン人は、被支配者にふさわしい、劣等な人種なのだ、と宣伝する必要があった。
そのようなアリ王家の政治的意図と、シャンポリオンの研究が、なぜ合致してしまったのだろうか。もっともシャンポリオンは、相当に矛盾したことを口走っている。彼は同時に、「縮れ毛と球状毛の頭髪は、黒色人種(ラス・ネグル)の明確な特徴である」、とも書いている。このような矛盾を抱えこみながら、シャンポリオンは、何を求めていたのだろうか。単に、アリ王家の援助を受けるための口実として、人種分類法をねじまげたのだろうか。
わたしは、もうひとつの理由の方が、重要だと推測する。つまり、シャンポリオンは、古代エジプト文明の驚異を、ヨーロッパの近代文明諸国に紹介したかった。古代エジプト史の研究を発展させたかった。だから、古代エジプト人を、当時のヨーロッパ人に、「受け入れやすい」形で紹介したかった。すでに当時のヨーロッパは、反動期にはいっていた。フランス革命は、ブルジョワ革命としての使命を果し、新しい資本主義の秩序が、うちたてられていた。フランス本国では奴隷制度が廃止されたものの、新大陸アメリカへの奴隷貿易は、この時期、最高潮に達していた。フランス人の奴隷商人も、イギリス人に負けず劣らず、この商売をやっていた。
黒色人種は、やはり、19世紀のヨーロッパ人にとって、奴隷の種族であり、劣等人種でなければならなかった。この「現代神話」なしには、ヨーロッパ列強の支配体制は維持できなかった。シャンポリオンが、古代エジプト人は黒色人であった、とこの時に宣言していたら、歴史は少し変ったかもしれない。しかし、シャンポリオンは健康も害していたし、いささかあせってもいた。そのような宣言をすれば、古代エジプト史の研究は、一時頓挫のやむなきにいたったであろう。
そこへ、人類学者のラリイがあらわれた。そして、シャンポリオンは、つぎのように書いた。
「ラリイ博士は、エジプト人そのものの、この疑問に関して、風変りな探索を行いました。彼は沢山のミイラの皮をはいで、その頭骨を研究し、その基本的な特徴を認識した上で、エジプトに住んでいるいろいろな人種の中に、それと合致するものを捜し求めました。彼には、アビシニア人が、すべての点で結びつき、とりわけ黒色人種(ラス・ネグル)は、比較の対象から排除できるように思われました。アビシニア人は、眼が大きく、眼差しは好ましいし(アグレアーブル)、……肌色は銅色にすぎません。」(同前、P.63)
ラリイが分析したミイラは、明らかに王族のものにちがいない。平民のミイラは、よほどの条件がなければ、みつからないからだ。どの時代のものかも、全く不明だが、すでに王族の混血や、都会化による人種形質の変化について指摘をしたので、ここでは再論はしない。
興味深いのは、「好ましい(アグレアーブル)」という表現である。実際には、眼球が大きいのが、いわゆるネグロイドの特徴のひとつなのだが、ここでは、「眼差し」という、後天的な習慣による印象が、重視されている。そして、生物学的な人種形質の評価とは全く関係のない、「好ましい(アグレアーブル)」という表現がでてくる。これはどういうことなのだろうか。
わたしは、アグレアーブルの原義が、「賛成できる」(英語のアグリーと同語源)であり、「受け入れやすい(アグレアーブル)」の意でもある、という点を指摘したい。
古代エジプト人は、アビシニア人と同一視されることによって、ヨーロッパ系の諸国に「受け入れやすい(アグレアーブル)」印象をあたえられた。アビシニアのキリスト教徒の問題は、すでにのべた。彼らはまた、古代のエチオピア人(アィティオプス)の直系にすりかえられた。
以上のような、奇妙な人種分類学への道は、シャンポリオンの、ヒエログリフ解読の裏面にひらかれた。しかし、シャンポリオンはすぐれた言語学者ではあったが、生物学者でも、人類学者でも、本来の意味での歴史学者でもなかった。彼の錯誤をとがめず、訂正せず、むしろ、極端なエスカレーションに発展させたのは、専門の人類学者であり、歴史学者であった。
しかし、わたしが採用しているエスカレーションという単語は、ヴェトナム戦争によって、新たな概念を獲得した単語である。それは、つくろいきれぬ破綻を、無理押しで解決しようとする戦法であり、さらに決定的な破綻へとつきすすむ道である。
では、この場合の決定的は破綻とは、なんであろうか。わたしは、このエスカレーションの破綻に確信を持ったとき、また、思いもかけぬ謎が解け、秘められた過去への扉が開かれるのを知った。