ギリシャ・ローマ時代
ナイル河デルタ地帯に本拠地を持つ第26王朝は、アッシリア人を撃退した。エジプトの独立は、一時回復された。
この第26王朝(前663~525)のあとには、前後2回のペルシャ支配があり、通算約半世紀つづく。
だが、このペルシャ支配の時期も含めて、大勢はすでに、ギリシャ・ローマ全盛期にさしかかっていた、と考えてよい。というのは、ヴェルクテールの表現を借りると、第26王朝の軍事力の中心は、「外国人たち、つまりギリシャ人傭兵たちなのだ。……国内経済すら、ギリシャ人植民地の設立のよって変形されている」。
ローマ帝国時代の北アフリカ植民都市
ギリシャ人植民地の規模はどれほどかというと、すでに紀元前570年頃、現在のエジプト軍をうちやぶるだけの力を持っていた。
ヘロドトスによれば、キュレネへの、最初の植民は、「2隻の50橈船」で送り出された。訳注によると、「50橈船の定員は約80人であったから、移民の数は200を越えなかったわけである」。だが、その後に神託があり、「ギリシャ人が大挙してキュレネに集った結果、多くの土地を削り取られた近隣のリビア人」との間に、紛争が生じた。
リビア人は、エジプトに応援を求めた。しかし、ギリシャ人の植民者に、ギリシャ人傭兵隊をさしむけるわけにはいかない。そこで、エジプト人の正規軍が出動した。ところが、この正規軍が、キュレネのギリシャ人に負け、それを契機にして、ファラオが一将軍から王位を簒奪される、というさわぎにまで発展した。
キュレネに派遣されたエジプトの正規軍の数は、単に「大軍」とされているだけであるが、推定、数万としてよいだろう。そして、キュレネのギリシャ人の戦力も、同程度だったといえる。
というのは、ヘロドトスによれば、この事件以後、「リビア人は交戦してキュレネ軍を破ったが、実に圧倒的な勝利でキュレネ軍7千の重装歩兵がここで戦死を遂げた」。戦死者は、当時の戦争では、何割かであろう。皆殺し戦争というのは、古代では大変な騒動である。何万人かの兵士のうち、7千人が戦死したと考えてよいだろう。
キュレネは、これらの戦争以後も、独立植民都市として発展した。しかも、この衝突以前に、キュレネからわかれて、別の植民地をつくった一派もいる。これらのことから、すでにギリシャ人植民者が、10万人を越えていた、と推定してもいいだろう。
このようなギリシャ人の植民地は、地中海岸の北アフリカ一帯にひろがっていった。ペルシャ支配、アレクサンドル以後のギリシャ支配、ポエニ戦争以後のローマの進出などによって、ギリシャ・ローマ型の植民都市は、ぞくぞくと建設された。
すでにのべたように、これらの植民地は、広い面積をつかう、「乾燥農業」の方式をとっていた。だがそれは同時に、「奴隷制大農場経営方式」でもあった。では、ギリシャローマ型植民地に、大量の奴隷を供給したのは、どの地方であったのだろうか。
ギリシャ・ローマ時代の主要な奴隷は、やはり、アフリカの黒色人ではなかった。たとえばシュレ=カナールは、アフリカ大陸の南方から、黒色奴隷がつれてこられたという可能性を否定しており、つぎのように書いている。
「〈黒人奴隷のキャラバン〉が沙漠を横断してカルタゴの市(いち)へきたという、よくいわれる仮説には、なんらはっきりした根拠はない。これは、奴隷貿易を〈伝統的な風潮〉のごとく見せかけて、それを正当化しようとする、多少とも意識的な試みにすぎない。ローマで黒人奴隷の数がいちばん多かったのは、アントニヌス朝の時代(紀元2世紀)らしいが、その頃でも、貴族のあいだでは、黒人奴隷をもっていることが、格式の高さを示すしるしになった。この程度の〈奢侈〉貿易をまかなうには、サハラの辺境地帯(とくにガラマント族の地方。ガラマント族は〈ベルベル人〉だが、色は黒い)を侵掠するだけで十分だったはずである」(『黒アフリカ史』、P.137)
シュレ=カナールは、ガラマント人またはベルベル人を、白色人系に分類している。この点に関しては、わたしは反対である。しかし、それ以外の点については賛成したい。
ローマ帝国の主要な奴隷供給源が、北方のゲルマーニアにあったことは、だれひとり否定するもののない事実である。たとえばカエサルは、紀元前55年の「北方諸族の討伐」に当って、「百夫長」全員の会議を開いた。それは、つぎの事態が発生したためだった。
「ゲルマーニー人が法外な体格を持ち、信じられないほど勇気があり、戦争にきたえられていると伝えたガリー人や商人……の言葉を聞いたり、それを味方が問いただしたりしているうちに、不意に大きな恐怖が全軍をとらえ、すべてのものの士気、精神を全くかき乱した」(『ガリア戦記』、4巻、P.39)
カエサルは、百夫長たちを痛烈にアジった。彼は自分の演説を再録しているわけであるが、その中で、こう語っている。
「この敵についてはもう先代の頃に経験がある……つい先頃イータリアで我々から実践と訓練を受けて強くなった奴隷の叛乱でもためされた」(同前、4巻、P.40)
「この敵」、つまりゲルマーニー人と、奴隷とが、ここでは同一視されている。「奴隷の叛乱」とは、一時は12万の兵力に達したもので、スパルタクスの奴隷反乱として有名なものである。ローマ人は、この叛乱軍を、ゲルマーニー人と同一視してた。
ただし、正確を期しておく必要もあろう。ローマの奴隷は、ゲルマーニアを主要供給地とはしていたが、ほかからも供給された。古代の奴隷制度は、人種差別をともなってはいなかった。土井正興の『スパルタクス反乱論序説』によると、この他の奴隷出身地には、現在のフランス、ギリシャ、トルコ、シリア、北西アフリカ、スペインなどがある。
土井正興が、数字をあげているのは、1ヶ所だけだが、以下、つぎのようになっている。
「ゲルマン人が大量に奴隷にされたのは、……約15万人……捕虜にされたときであり……ローマ人とゲルマン人との間では、その後も、闘争は継続……その度に捕虜として奴隷がもたらされたであろう。このような、戦争奴隷以外に、前2世紀半ころから、奴隷商人により奴隷として、ローマ人にうられるゲルマン人かなりあったと推定されている」
ところで、北アフリカの植民都市へは、奴隷だけでなく、市民も送りこまれた。たとえば弓削達は、次のように書いている。
「カイサルの植民政策におけるもう一つの注目すべき点はローマの無産市民8万人を海外に送り出したことである」(『ローマ帝国の国家と社会』、P.19)
このカイサル、または、シーザーの時代の植民者の送り先は、よくわからない。だが、これにつぐアウグストス帝の時代の植民者は、「大部分が退役兵によるものであり、全体で30万人の植民者がアフリカ、シチリア、マケドニア……に送り出されたという」。ここでは、「アフリカ」が筆頭にあげられている。また、「退役兵」とあるが、これは奴隷の出身者を大量に含んでいる。ローマ帝国は、スパルタクスの叛乱に学んで、強壮な奴隷を兵士にとり立て、軍務が終れば自由民にする、という制度をつくっていたのである。
材料はまだ少ない。ゲルマン人の奴隷が直接アフリカに送られた、とわたしは考えるのだが、奴隷に関する資料は、大体、とぼしいのだ。それでも、おおまかな動きは、北ヨーロッパからイタリアへ、イタリアからアフリカへ、と流れていたのはたしかである。
一方、黒色の、本来のアフリカ人は、むしろ同盟者として、アフリカ大陸のローマ植民都市の支配層となり、ローマ市民権を獲得した。
さらに、アフリカ人女性(セム系といわれるが?)が生んだ、色の黒い皇帝さえ出現した。セプティミウス=セウェルス(在位193~211)にはじまる、セウェルス朝の3代、42年間は、アフリカ大陸の植民都市群の最盛期であった。この王朝第2代のカラカラ帝は、212年の勅令で、帝国内の全自由民に、ローマ市民権を与えた。
前7世紀ごろから本格化した、ギリシャ人の植民以来、7世紀半ばの、イスラム支配の開始までで、13世紀、前332年のアレキサンダーによる征服以来でも、優に10世紀近くの期間になる。この間、429年には、ゲルマン系のヴァンダル族が北アフリカに侵入し、建国した。
北アフリカ各地に残る、ローマ時代の巨大都市遺跡の研究をすれば当時の人口の推定は可能であろう。そのころの北アフリカ一帯は、むしろ穀倉地帯であった。農業奴隷の数と、出身地も、いづれ、正しく確定されるであろう。
さて、ローマ時代に繁栄した北アフリカの植民地としては、約10都市が挙げられている。アテネの総人口が約50万人であったことからすれば、全住民数は約5百万、おそらく1千万人は越えていたであろう。優に、ナイル河谷の住民数に匹敵するものである。そして、北アフリカの住民とエジプトの住民とは、アラブ時代の、新しい秩序の下に、かきまぜられてしまった。