『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章12

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

二重王国

 『イーリアス』の続編をなす、『オデュッセウス』には、アイティオプス(エチオピア人)について、さらに具体的な描写があらわれる。

 オデュッセウスに敵対する、海神ポセイドンのエチオピア訪問中に、ゼウスたちは、オデュッセウス救援の策をめぐらす。文中、かの神とは、ポセイドンのことである。

 「だが、かの神は、遠くに住まうエチオピア人、世の果てに、日の神ヒュペリオーンの沈む所と登る所に別れて住むエチオピア人の所に、牡牛と牡羊のさかんな犠牲(いけにえ)をうけようとて、赴いていた。そこでかの神が座をしめて、宴(うたげ)をたのしんでいる間に、ほかの神々はオリュンポスなるゼウスの宮に集まっていた」(『オデュッセイア』、1巻、P.22~24)

 ここでいわれているように、エチオピア人は、東西に別れて住むものと考えられていた。ヘロドトスも、子午線が西に傾いている方角では、エチオピアが人の住む世界の涯てになる」、と書いている。さらに、紀元前2300年頃のハルクーフは、「ヤムの首長がテメーを天の西端まで打ちこらしめるべく、テメーの国へ出かけるところを見た」。このことからしても、どこかに、「天の西端」と考えられたところが、あったにちがいない。そして、この場所は、当時の人々には、別に説明の必要がないほど、よく知られた場所だったのではないだろうか。

 ところで、地図を見ていただきたい。ヴィクトリア湖をはさんで、ほぼ赤道直下に、東にはケニア山(5149メートル)があり、西にはルヴェンゾリ山(5125メートル)がある。つまり、ケニア山とルヴェンゾリ山とは、位置も、その高さも、まことに対照的な姿をみせている。

 しかも、この二つの高山は、かつて、活火山であって。このふたつの活火山の中間に住む人々には、世界、または宇宙が、どのように見え、どのように解釈できたであろうか。太陽は、火を吐くケニア山の山頂からのぼり、そしてまた、火を吐くルヴェンゾリ山の山頂に沈んでいくのだ。赤道直下であるから、北半球の日本で、夏至、冬至といわれる時期には、太陽の軌道が、あるいは北に、あるいは南に、すこし傾く。しかし、春分、秋分には、真上にくる。

 わたしは、この光景が、実に荘厳なおもむきを呈したにちがいないと思う。人々は、きっと、自分たちが宇宙の中心にいる、と信じたにちがいない。「日の神ヒュペリオーンの沈む所と登る所に別れて住むエチオピア人」を想像するのに、こんなにぴったりの場所はない。

 では、ここに、東西相対応する古代遺跡が、残されているだろうか。

 わたしはすでに、そのふたつの遺跡を紹介しておいた。ウガンダ西部の「巨大な土塁」と、ケニア白人高地の、「灌漑農場」の遺跡である。しかも、ほぼ同じ地点には、ルヴェンゾリ大爆発に埋もれた、イシャンゴ文明があり、ケニアのナクル文明があった。この地帯は、先進的なところであった。

 さて、二重王国制は、古代エジプトの上下二王国制をはじめ、ルアンダ=ウルンディ二重王国など、沢山の例がある。アフリカ社会の二重主義という思想によるもの、と説明されている。

 たとえば阿部年晴は、かつて南部アフリカ一帯に覇をとなえ、大ジンバブウェを首都にしていたこともあるロズウィ人の王国について、つぎのように書いている。

 「王は、中央集権的に構成された……諸組織の共通の頂点であるが、その権力は双分的な色彩を濃く帯びている。  たとえば『真の都』と称される王都は南北にひとつずつある。王は『北の都』の宮廷に住み、『南の都』の宮廷には第一王女が住む。これら2つの王都は同じ構造をもち、同じ形の国鼓、王室舟艇、かい、槍などをもつ。2つの都の評議会も同じように組織されている」(『アフリカの創世神話』、P.139)

 この二重王国制の起源は、もしかすると、双分氏族制の強固な伝統の上に、成り立ったものかもしれない。しかし、もうひとつの、後代の起源も考えられる。それは、ルヴェンゾリ大爆発、大洪水の教訓である。たとえば、「王室舟艇」というのは、箱舟を思わせる。

 大惨害を経験した民族は、一族または王国の存在を期するため、つねにその中心地を二つに分け、同じ文化を伝えうるようにしたのではなかろうか。ルヴェンゾリの大爆発の時には、イシャンゴ文明はほろびた。しかし、対岸のナクル文明はのこっていたのである。このような現実の土台なしに、二重主義という思想だけが生れるはずはない。

 二重王国制は、もしかすると、ヴィクトリア湖の東と西にわかれて住む、エチオピア人の王国にはじまり、アフリカ大陸全体にひろまったのではないだろうか。わたしにも漠然とした想像しかできないが、この謎ときも面白いものではないだろうか。

 さて、いよいよ古代エジプトの建設者が、黒色のアフリカ人であったかどうか、という核心にせまることになる。しかし、ナイル河をふたたびくだる途中のスーダンには、すでに何度も引合いにだしたクシュ(エチオピア)帝国の古都がある。一体この国と、古代エジプトとの関係は、どういうものだったのであろうか。

第七章:ナイル河谷へ進む┃