『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章10

木村書店WEB文庫無料公開

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

太陽神ラー

 地質学者の金子史朗は、1883年の、インドネシアにおけるクラカタウ火山の大爆発の観察資料にもとづいて、つぎのように書いている。

 「大気の上層部に達した火山灰の微粒子は、何ヶ月も何年も大気中にとどまって、光の回折や吸収、散乱などの物理的現象を引き起こす……そればかりでなく、火山灰の遮閉により日射量が減少し(クラカタウ噴火ではそのあと87パーセントに減少)、気候異変の原因となるばかりでなく、しばしば凶作とつながるのである」(『アトランティス大陸の謎』、P.108)

 金子史朗は、プラトンのアトランティス説話に、紀元前1500年頃、エーゲ海のサントリン島で起きた、ミノア火山の大爆発をむすびつけている。また、凶作が起きたのは、ナイル河のデルタ地帯だと想定しており、その凶作を、同じ頃に隆盛をほこった太陽神アトンの一神教の背景だ、と主張している。

 この金子史朗の本は、結論として、アトランティス大陸の存在を否定している。あれはプラトンのフィクションだ、と主張している。従来のアトランティス伝説が、大西洋に「白色の古代文明人」がいたかのように、奇妙な解釈をしているのに対して、金子史朗の推理は、誠に科学的である。プラトンの時代には、黒色のエジプト人やエチオピア人が、最大かつ最古の文明人だった。プラトンは、アトランティス大陸の住民の肌色には、何もふれていない。むしろ、黒色人を想像していたと考える方が、自然である。

 それはともかく、金子史朗は、プラトンがエジプトの神官の話にヒントをえた、と解釈している。ところが、そのつぎに、「エジプトには活火山はないし、エジプト人が火山を知らなかったことだけは事実である」、という考えがのべられている。

 この、「エジプト人が火山を知らなかった」という前提条件には、すでに紹介した、村上光彦のエジプト神話研究が、反論となっている。つまり、金子史朗の論拠は、ここでくずれる。それゆえわたしは、ミノア火山の代わりに、ルヴェンゾリを設定してみたい。

 だが、金子史朗の本によって与えられた示唆は、太陽神のことだけではない。彼は、大洪水伝説の由来をも、火山爆発に結びつけている。この点も面白い、一般には、大洪水伝説の起源地は、メソポタミアの発掘結果によって明らかにされた洪水に、結びつけられている。しかし、河川の氾濫は、金子史朗のいうように、大小の差はあっても、定期的には発生するものだ。むしろ、ナイル河の氾濫は、めぐみとして歓迎されている。ナイル河の水は大量の土砂とともに、サッドの湿原地帯から、緑褐色の有機成分をはこんでくれるのだ。

 しかも、アフリカの神話には、具体的な箱舟伝説がある。これがメソポタミアから伝わってきた、とはいえないだろう。わたしはアフリカの方が本家だと思う。水源地帯には、漁民も沢山いたし、舟が沢山あったにちがいない。

 また、金子史朗は、旧約聖書の『出エジプト記』にでてくる。「昼は雲の柱、……夜は火の柱」というくだりをも、ミノア火山の爆発に結びつけている。しかし、エジプトからサントリン島のミノア火山の、火の柱までみえたとは思えない。わたしは、ルヴェンゾリの大爆発によって、ナイルのみなもとをはなれた人々の記憶が、伝えられたものだと思う。

 では、ルヴェンゾリ大爆発によって、ナイルのみなもとには、どういう事態が発生したであろうか。まず、地図をみていただきたい。

 ルヴェンゾリが爆発し、溶岩が流れ、火山弾が降り注ぎ、火山灰が舞いおりると、ナイルの水系は、半分以上せきとめられる。なにしろ、爆発の規模が大きい。コルヌヴァンによれば、現在のアルバート湖は、エドワード湖とつながっていた。そこへ大爆発が起きて、セムリキ川ができた。現在のセムリキ川は、長さが240キロに達する。ところが、日本最大のビワ湖の長径は、63キロそこそこである。つまり、かつてのセムリキ湖は、ビワ湖の数倍の大きさと考えられる。ビワ湖の数倍の大湖水を埋めたてるだけの、溶岩、火山弾、火山灰とは、一体どれほどの量になるのであろうか。

 しかも、同じことは、四方八方に起きた。かつてのセムリキ湖の、大量の水は、突如として津波と化した。ヴィクトリア湖から流れでる水流も、ほとんどせきとめられた。あたりは一面の大海と化した。『創世記』では、水が地上にあった期間を、「40日」といったり、「150日」といったりしているが、ともかく相当長くつづいた。

 一方、水没しなかった地帯でも、火山灰の影響で、農作物に被害がではじめた。金子史朗の記述を借りると、古代エジプト人は、この記憶をとどめている。

 「エジプトのパピルス文書の中につぎの一節がみえる。

 『太陽は隠され、その輝きを見ることができない。太陽が雲でおおわれれば、だれも生きのびることはできない……また太陽はひとびとの前から消える。かりにそれが輝くとしても、束(つか)の間……』  太陽はあっても月のように弱々しいといった言いまわしがつづいている。」

 人々は、いままでにきいたこともないこの現象におどろき、ひたすら太陽のよみがえりを祈る。とくに、季節的な畠作物にたよっていた人々は、太陽のよみがえりなしには、収穫がのぞめない。畠作物は、日射量が少ないと全滅してしまうのである。畠作農耕民の必死の祈りは、当然、通じたかに思えた。火山灰の影響は、いずれは消えたのである。だが、自分達の祈りを聞きとどけてもらえた、神の許しを得た、と思いこんだ人々にとって、この時から、太陽神ラーは畠作物の神になった。

 太陽神ラーは、記録にのこるかぎりでは、最初は上エジプトの一地方神だった。そして、第五王朝(前2563~2423)になって、エジプト全体の主神(アモン)となり、アモン・ラーとよばれるようになった。わたしは、この事実をつぎのように解釈する。

 まず、ナイル河でも、水量が多く、湿地、沼地がひろがっていた時代には、樹木性農作物が多かった。しかし、乾燥期にはいると、水量がへり、季節的な農作物である畠作物がふえた。そして、畑作物派の農耕民が優勢になると同時に、畠作物の神、ラーが主神となった。つまり、ラーをトーテム神とする畑作農耕民の一派が、政権を握った、と考えたい。

 さて、いずれにしても、ナイルのみなもとの人々は、ルヴェンゾリ大爆発の惨害をきりぬけ、新しい国づくりにはげんだ。そして、いつごろからか、巨人のワッシ民族が出現し、支配階級となった。古代人は、このワッシ民族について、何らかの証言をのこしてはいないだろうか。

(第6章11)マクロビオイへ進む┃