ヤムの謎
ニジェール河の下流域、現在のナイジェリアの南部にはいると、一般に熱帯降雨林とよばれるジャングルが多くなる。この地帯ではまず、ヤム(山芋のたぐい)に焦点をあててみたい。
ヤムは写真のように、大変に大型のイモになっている。
(『ニジェールからナイルヘ』より)
西アフリカだけのことではないが、ヤムを主食にする民族は、これを小さく切って、熱湯でゆで、さらに、ウスにいれ、キネでついてモチにしてからたべる。丸のまま焼いてもたべられるのに、これだけ手間をかける理由について、野生のヤムには毒性があるので、その毒ぬき作業に由来するのではなかろうかという説明がなされている。
ほかにも、この料理方法について異説があるが、紹介は省く。わたしは、毒性のある野生のヤムを掘り取ってたべていた農耕以前の採集民が、すでに、このやり方を発明していたと思う。
一方、現在利用されているコメやムギなどの雑穀の野生種には、まったく毒性はない。だから、雑穀を採集していた民族には、毒ぬき作業のやり方を発明する必然性も、チャンスもなかったはずである。このことから論埋的に、ウスやキネをつかってモチをつくる習慣は、ヤム栽培農民、もしくはヤム採集民族から、雑穀を利用する民族につたえられたという可能性が考えられる。この料理方法の追跡も、正月には必ずモチをたべる日本人にとって、大変興味深いものにちがいない。
さらに大きな問題は、ヤムそのものの栽培起源の謎にある。料理する前に、当然、ヤムそのものがなければならないのだが、ヤムの野生種はどこに分布しており、どこで栽培されはじめたのであろうか。
ヤムというよび名は、英語であるが、本来は西アフリカに発している。最初に西アフリカを訪れたポルトガル人は、インハーメとよび、スペイン人はインガーメとよんだ。これが英語のヤムになり、一般に総称として用いられている。だから、よび名はアフリカ起源である。
ところが、ヤムは東南アジア一帯でも、ひろく栽培されている。そして、アメリカの学者が、ヤム栽培の東南アジア起源説をとなえはじめた。これによると、紀元前1000年頃、東アフリカ海岸に上陸したヤムが、アフリカ大陸をぐんぐん横切って、ヤム栽培地帯の横断ベルト(ヤムベルト)をつくり、それから一斉に南下しはじめたということになっている。つぎの参考図のような説明図までつくられている。そして、若干の相異はあっても、ほとんどの学者は、この説にしたがっている。
こういう事情だから、これに疑惑をさしはさむのは、大変なことだが、やはり奇妙な点があるので、指摘せざるをえない。
まず、ヤムの野生種は何か。これが他の場合より数が多いので、当惑してしまう。東南アジア起源を採用している学者や著述家たちは、大体において、野生種のことは何も書いていない。また、栽培種そのものにも沢山の異種がある。ところが、中尾佐助が西アフリカで栽培されているヤムを紹介している本、『ニジェールからナイルヘ』をみると、西アフリカの栽培種は4種であり、そのうち2種は「西アフリカ原生種」、つまり西アフリカの野生種に発しているらしい。しかも、この西アフリカ起源の2種の方が栽培の主力になっている。これはどういうことであろうか。
つぎには、のこりの2種をみてみよう。つまり、アジア原産とされている2種の栽培ヤムのことであるが、このうち、ダイジョという種類は日本の九州でも最近になってから栽培されており、東南アジアの主要な栽培ヤムである。しかし、この種類の真の野生状態のものは、まだ発見されていない。マレー半島から、もっとも原始的な、つまり野生にもっとも近いものは発見されている。だが、その前のことはわからないのである。
一方、中尾佐助によれば、西アフリカで栽培されているダイジョは、「単調な品種群で、変異も少ない」。ヤムは、植物としての性質もあって、雑穀類などよりも、品種改良による変異種が多い。東南アジアのダイジョには、「赤ちゃんの離乳食用の品種、ピクニック弁当用品種、……宴会用の品種などというものができていた」。西アフリカ原産のヤムも、もちろんアフリカの農民によって、相当に品種改良され、巨大なものがある。それなのに、西アフリカのダイジョは、栽培の主力でもなく、あまり品種改良がおこなわれていない。つまり、野生に近いともいえる。
わたしは、それゆえ、ダイジョの真の野生種が、アフリカの熱帯隆雨林のどこかにひそんでいるのではないかという可能性を、考えざるをえない。
ともかく、ダイジョの起源を棚上げにするとしても、西アフリカには原産のヤムがあり、それが栽培の主力をなしている。ヤム裁培の東南アジア起源説では、この現象を、どう説明するつもりなのであろうか。
無理に説明しようとすれば、こんなことしかいえないだろう。つまり、西アフリカには、たしかに野生のヤムは何種類もあった。しかし、アフリカ人は、紀元前1000年ごろまでは、それを栽培していなかった。そこへ、東南アジアから、ヤムの栽培種がつたわってきた。ヤムの栽培方法を知ったアフリカの農民は、ここではじめて、西アフリカの野生のヤムを、東南アジア原産種と一緒に栽培しはじめた。かくして、東南アジア原産種と西アフリカ原産種との間に、農作物としての競争がはじまり、西アフリカ勢が、主力栽培種の地位を獲得した。
果して、こういう説明が、成り立ちうるものだろうか。