『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第2章3

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

美味なインジェラ

 オリュラ、またはゼイアについて、『歴史』の日本語版訳者は、「よくわからないが、ヒエかキビのたぐいではなかろうか」、と注記している。

 しかしわたしは、これを、現在のエチオピアの北部で栽培され、主食にされているテフではなかろうかと考えている。まず、テフからつくられる独得のモチのようなものが、インジェラ(ゼイアと発音が似ている)とよばれている事実がある。

 わたしの想像が当っているかどうかは、保証のかぎりではない。しかし、エチオピアの北部、つまりエジプトに近い地方で、インジェラづくりが早くから行なわれているので、この可能牲は高い。エチオピアのハイレ・セラシエ1世大学で、3年間教職にあった地埋学著、鈴末秀夫によれば、インジジェラづくりの起源は非常に古く、「後代の記事ではあるが、紀元前100年にはすでにあったという」(『高地民族の国エチオピア』、p.122)。

 では、インジェラとは、どんなものであろうか。これについてはやはり、エチオピア皇室の女官として3年間滞在した日本女性、松本真理子と福本昭子が、共著の本の中で、つぎのように書いている。実物を何度もたべた2人の女性の証言であるが、これによると、相当に美味なものらしい。

 「主食はインジェラという、桜餅の皮を大きくしたようなものである。原料のテフはひえのようなこまかい穀物。黒と白の2種類ある。それを粉にして水でドロドロにとき、発酵させておく。……かまどに、シナ鍋をもっと大きく、もっと平たくしたような鉄鍋がかけられる。……

 「鍋があつくなってくると、いよいよインジェラ焼きにとりかかる。発酵したドロドロのテフを小型の片口[かたくち]にとり、トロトロトロトロうずまきを描きながら流して、直径50センチほどの円型のおやきを形づくる。特大の土鍋のふたがかけられ、4、5分たってあけてみると、桜餅の皮のような肌のインジェラが、ホカホカ湯気をたてて焼きあがっている。……

 「2種類のテフを、それぞれ精製して作ったインジェラは、チョコレート色と白で、適当な大きさに切って盛りつけられると美しい。私たちには、この2種の味のちがいはわからなかったけれど、皇后陛下は、白よりもチョコレート色のインジェラの方がお好きなのだそうだ。……味はちょっとすっぱみがあるけれど、慣れるとおいしい食べ物である」(『裸足の王国』、p.157~158)

 やはり女性だけに、観察がこまかい。実は、この「すっぱみ」が、曲者らしいのである。鈴木秀夫によると、「発酵にかける時間の違いによって、甘く芳香のあるもの、少し酸味のあるもの、非常に酸っぱいもの」ができるし、この非常にすっぱいインジェラを、とくに好む人もいるのだそうである。テフに2種類あることといい、それが一緒に盛ってだされる、チョコレート色と白色のインジェラになることといい、つくり方によって味加減が違うことといい、なかなかに美食家の民族のたべものである。

 では、テフの栽培と、オオムギなどの栽培とでは、どちらが先だったのであろうか。

 まず、テフの野生種の分布だが、この研究も相当におくれている。ある学者は、エチオピア高原にしかないと書いている。しかし、鈴木秀夫は、「ケニア、南アフリカ、オーストラリアにもある」と書いている。さらに、コルヌヴァンは、フランス人の植物学者、シュヴァリエの研究を紹介しており、それによると、テフはサハラにも野生している。おそらく、この他の地帯にも可能性があるだろう。相当に広い分布を示しているにちがいない。

 つぎに、テフはともかく美味なのであり、一方、オオムギなどはまずいのである。ここでは、古代人は意外に美食家であったと考えなければならない。人類は、栽培という作業をはじめる前に、何万年にもわたって、野生の植物を採集し、たべつづけてきたわけだから、経験的にすぐれた鑑識眼をもっていた。ともかく、たべられるものはなんでもたべて、生きのびてきたのである。

 テフはさらに、美味なだけにとどまらない。栄養の面からみても、高い評価があたえられている。鈴木秀夫は、テフについて、「各種鉱物の含有量は麦などに比べて圧倒的に多く、きわめて健康的であり、世界的な食糧になる可能性を秘めている」とまでほめちぎっている。

 こんなにすばらしい穀物が、大変早くからエチオピアで、そしておそらく古代エジプトで栽培されていたとすれば、どうして、世界中にひろがらなかったのであろうか。

 惜しいかな、テフは、単位面積あたりの収穫量が少ない。つまり、生産性が低い。そして、「穂はほとんど籾ばかり、穀粒は長径1ミリ幅0.5ミリ位で、探し出すのが困難なほど小さい」。

 それゆえわたしの考えでは、古代のテフ栽培は、むしろ衰退しさえした。というのは、へロドトスのエジプト滞在はペルシャ支配ののちであったが、この時すでに、オオムギ・コムギなどを主食にするギリシャ人の植民地が、エジプトとリビアの国境付近にも設立されていた。エジプトの農業はナイルの灌漑を唯一のたよりとしていたが、小量の雨が降れば成育するムギ類は、乾地農業として、従来は牧草地だったところに成立した。

 中尾佐助は、この乾地農業の方式は、単位面積あたりの収量は少なくても、水利に制約されないから、広い面積を使用できると説明している。そして、この農業方式の優越性こそが、アレクサンドルのエジプト・オリエント制覇の原動力だと書いている。最初の植民は、ギリシャ人たちが、エジプト人の許しを得て、用辺の牧草地を使用するという形ではじまった。その代償として、ギリシャ人は、エジプトの傭兵隊を編成したのである。やがて、ギリシャ人植民地が強化され、傭兵隊もエジプト軍の主力とさえなってくる。その情勢のもとにおいてこそ、アレクサンドルの軍事的天才が発揮されたわけである。

 ギリシャが勝利したということは、それゆえ、ムギ裁培が勝利したことでもある。支配民族の主食であるムギはナイルの潅漑農地にもなだれこんだ。そしてテフは現在のエチオピアに撤退した。これがわたしの推理である。傍証としては、現在のエチオピアに、古代エジプト以来の風俗が沢山残っている事実があげられる。エチオピアは1937年から5年間だけイタリアに占領されたけれども、それ以外は2000年間も、ほぼ同じ支配体制を保ってきた。だから、古いしきたりが残っている。この国で、キリスト教といわれているのは、キリスト単性説という古い形式のもので、古代エジプトの正統をつたえるコプト人のキリスト教と、同じものであった。わたしには果せなかったが、コプト教徒またはコプト人の食料の中に、テフがみつかると面白い。ただし、彼らが宗教的迫害をのがれて、上エジプトに移住したのは、すでにローマ支配の時代だから、彼らが現在、テフを持っていないとしても、私の推埋を撤回するわけにはいかない。

 ともかく、オリュラまたはゼイアが、テフであるか否かは別としても、その謎は深い。この謎をとかないかぎり、古代エジプトの農業起源は、安易に説明してはならないであろう。

 さて、コルヌヴァンは、テフがサハラに野生していることをも根拠にして、農耕文化のサハラ起源をとなえている。だが、サハラには、テフのほかにも、新しい、そして日本人なら、おどろかずにはいられない植物もあった。それはまず、アフリカ稲である。

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