サハラ先史美術
フランスの考古学者・探検家のロートは、先史サハラの牧畜民発見のよろこびを、つぎのように記している。
「仕事を継続しているうちに、私たちは代赭色と白とで描かれたすばらしい牛の壁画を発見した。その壁画は65頭の牛が牧人たちに看視されながら群れをなして歩いているところを表わしていた」(『タッシリ遺跡/サハラの秘境』、p.53)
その後の調査によって、サハラの岩壁画には、6000頭以上もの家畜ウシが描かれていることがわかった。また、飼育種のヤギも描かれており、牧畜文化の繁栄がうかがわれる。そして、「牧人たち」は、まぎれもない黒色人種であった。
ロートはさらに、「畑を耕やす女性を表わした」絵も発見したし、「角の上に描かれた穀物畑」から、農業の女神か女司祭と目される人物像をも見出した。
ロートはまた、農耕・牧畜文化の段階にあったサハラ先住民の遺跡について、道具類の残骸が、「いくつかの岩の退避所では、文字どおり地表をおおっていた」と書いている。そこからは、「多数の石臼、粉砕器、陶器の破片、……食料品の多量の残滓、……石のおの、火打石の矢じり、ナイフ、……駝鳥の卵の殻を切った頸飾り用の玉、片岩で作った耳飾りや腕輪などの装飾品の残骸」が出土した。
カーボンテストの結果、この遺跡は、紀元前3500~2500年という年代を示した。
岩壁画に描かれたサハラ農民の生活は、非常に繁栄していたようである。スポーツや祭典の描写もある。円錐形の小屋、石臼で穀粒を砕く女性像などは、定着農業の様相を示している。コルヌヴァンは、このサハラ先史美術をくわしく研究した。また、その後に行なわれたサハラの各地に残る植物の研究にもふれている。そして、つぎのように主張している。
「新石器時代に、毎年の氾濫にひたされていたサハラのどこかの地域には、農耕が発明されるための大きな機会があった」(『アフリカの歴史』、p.59)
つまり、サハラ先史美術の発見は、農耕文化のサハラ起源説までみちびきだした。もちろん、サハラ先史美術、農耕・牧畜・新石器文化の発見についても、ただちに、年代の引き下げ、外部からの影響を論ずる学者は出現した。
たとえば、イギリスの考古学者、アーケルは、すべてのアフリカ文化を、エジプトからスーダンのクシュ帝国を通って伝播したかのように主張する。彼によれば、クシュ帝国の文化の中で、価値のあるもののすべては、エジプト人による征服によって伝えられたということになっている。彼はその時代を、紀元前約1500年という、非常に遅い時期に設定し、つぎのように主張している。
「この時代のエジプト芸術に、アフリカの黒人や猿がひんぱんに表わされていることは、黒人の居住する地方とエジプトとの接触が当時初めてなされたものであることを明瞭に物語っている。それ故、私の考えでは、沙漠地帯以南の岩面絵画のほとんどすべては、紀元前およそ1500年以前にはさかのぼりえないものであり、この時代にエジプト人がクシュの国に築いた神殿の壁の装飾が、アフリカ人に絵を描くという観念をはじめてもたらしたように思われる」(『アフリカ史の曙』、p.17~18)
何という論理の立て方であろうか。このような文章が、「明瞭に物語っている」のは、ことさらに「黒人や猿」と並べて書くような、この学者の思想に他ならない。
一方、コルヌヴアンは、ロートの業績を高く評価しつつ、つぎのように書いている。
「いくつかの遅い年代の作品について、エジプトとか、たとえば地中海とかの影響が指摘されているが、それ以外は絶対にオリジナルな技巧を示しており、その場で生れ、発展したものであり、先史時代のいかなる流派とも、比較することはできない。アンリ・ロートはさらに、つぎのことをも論証した――これはもちろん彼の業績のほんの一部にすぎないが、――すなわち、アフリカ人は紀元前6千年紀もしくは7千年紀と見積ることのできる年代からすでに、この芸術的分野において、創造者[イタリック文字による強調]であったし、ここ30年来しきりといわれてきたような、フランコ=カンタブリック美術の模倣者ではなかったということを、論証したのである」(『アフリカの歴史』、p.42)
文中、フランコ=カンタブリック美術とは、スペインのアルタミラ洞穴の牛の画に代表されるヨーロッパ先史美術である。論争の詳細はわからないが、要するに、アフリカ人の絵はヨーロッパ人の模倣にすぎないという主張を、30年間もしつこく繰り返していた学者がいたわけである。この30年間が、ちょうど、ファシズムの隆盛時代と一致しているのも、偶然のことではない。
まことに残念なことには、サハラ探険がその間、中断されていたことである。これまたファシズムの歴史と表裏一体の関係になるので、一応、探険の概略をつぎに紹介しておきたい。