暮れも押し迫った、(1997年)12月19―21日に予想を裏切って暖かった京都で、Jointミリアムが行われました。予想どおりだった(?)のは参加者数で、20人(女性:14/男性:6)もの大賑わいでした。
12月19日(金)
プログラム開始が夜だったにも関わらず、早朝に京都に降り立ち、徒歩で地塩寮までやってきたつわものをはじめ、北から南から来たお互いを知り合うために、ストーブの前でお見合いのような自己紹介をし、その後、男女別に分れてコーカスを持ちました。
12月20日(土)
京都YWCAの青木理恵子さんから「買売春について考える」と題して講演をしていただきました。始めにみんながどのような価値観をもっているか、幾つかの質問にYes/Noで答えました。そして現在の日本における買売春の現状、国内法、「人は何故人を買うのか?」についての話しを聞き、最初の質問についてみんなで何故そう思ったのか、また何がひっかかったのか話し合いました。過去の歴史(女は資産という考え、「強制従軍慰安婦」、売春防止法などにみられること)から、現在に至るまで、日本は「買春許容社会」であり、その社会に私たちもどっぷりつかっているんだという認識を改めて持ちました。そしてその社会を変えていくためには、「一人一人が社会に対する不満を適当に処理するのではなく、本質を変えるために人とつながり、行動する」ことが大切との青木さんの言葉が耳に残りました。
夜は地塩寮のキャンドルサービスに参加した後、フィリピンで行われたWSCFのリーダーシップトレーニングに参加した新林さんと台湾での女性神学のプログラムに参加した神崎さんから報告を聞きました。特に印象に残ったのは、実際に日本で「売春させられている(それは人身売買といっても過言ではない)」女性の国の人から、「どう考えているのか?」と問われ、本当に私たちはその問いを引き受けることができているのか、という新林さんの問いかけでした。また、女性神学のプログラム中よく耳にしたという「Listen to your body」という言葉が新鮮に聞こえました。
2回目の男女別コーカスでは、緊張もほぐれ(?)それぞれが今回のミリアムで考えたことや、その時の気持ち等を、語り合い、励まし合うことができた…と思います。
12月21日(日)
ルカ7:36−50の聖研を行いました。ここにでてくる罪深い女性とはどういう女性なのか、ということから読みすすめました。この女性は罪(まわりからそうされているだけでなく、自分自身でも縛られている)ゆえに、孤独だったが、イエスに出会うことで、運命が180度逆転していること、またイエスもこの女性の行動によって癒されたのではないか、この女性とイエスは呼応しあっているといえる…と心にビンビンくるような聖研が展開されました。
最後の閉会礼拝では、前夜でた「listen to your body」をキーワードに、みんなで静かに手をつないで、それぞれ自分の心(体)の声に耳を傾け、一人ずつ感想を述べました。
Jointとしては2回目のミリアムでしたが、今回よくも悪くも、参加者のみんなの顔や発言が「しんどいよー」と語っていました。感想でも「きつかった」という言葉があちこちからでてきていました。会の雰囲気としては、インドキャンパーも参加してくれていたり、京都YWCAの岩谷さんが初参加と、にぎやかで楽しかったミリアムでしたが。やはり問われたことをどう受けとめていくのか、また、「性」について語るのに、抵抗や、女性と男性と一緒では語るのがしんどいといったことがそうさせていたのでしょうか?いずれにしても、そのしんどさが次回のミリアムにつながっていくのだと思います。(文責:黒木智子)
『聖書の中の女性と出会う ―共感と想像力から− 』
1月16−17日 東京(於:戸山サンライズ)で、上記のプログラムが行われました。これは、一緒に女性神学のプログラムをやりませんか? とのクリスチャン・アカデミーの方からの呼びかけから、企画されたものです。参加者は、残念ながらクリスチャン・アカデミーの方からはお一人(荒井俊次さん、ありがとうございました)でしたが、学Yからは総勢20名の参加がありました。特に関東在住のシニアの久し振りの参加でミリアムの前身ともいえる女性問題委員会の頃の話なども飛び出し、いつものミリアムとはまた違った雰囲気でした。
今回は、ルカ10:38−42のみを取り上げて読んでみました。最初は講師の大島果織さんから、聖書をどのように読むか(「聖書はともだち」)、また簡単な語彙の説明や、ひとりで読むためのヒントなどを教えていただいた後、一人或いは数人のグループで読みました。その後、大島さんからこの箇所が過去どのように解釈されてきたか、いわゆる伝統的解釈から、80年代、90年代と女性たちにどのように読まれてきたか、実際の解釈文を読み比べ、その解釈をめぐる議論の意味などをお聞きしました。また、大島さんにとってマルタやマリア、イエスはどういう存在であるかなどもお聞きしました。
(参考:以下大島さんの講演レジュメから引用)
「これまでの議論の意味」
伝統的解釈は性差別的解釈。女性に実際的奉仕の役割を押しつけたまま、実際的奉仕を下位に置く。
1980年代の議論は、マルタに共感的、同情的だが「マルタ対マリア」の枠内女性の類型化は、女性の対象化に根を持つ性差別。例、しろうととくろうと、妻と「娼婦」、キャリアウーマンと主婦、など
女性の自己理解…さまざまな側面、性質、役割、特徴などを併せ持つ多面体
1990年代は「マルタ対マリア」を超えて
一晩おいて、翌朝はグループに分かれて、昨夜の様々な解釈を思い起こしつつ、自分たちでもう一度、この箇所を読み直す作業をしました。さまざまな読み方がでてきて、いろんなマルタやマリア、イエス、さらに側にいたであろう弟子たちまでが活き活きと浮かんでくる感じがしました。特に印象的だったのは、全能者イエスと思い込んでいたが、この箇所では性役割を超えられないでいるイエスの限界性が見えてきたことでした。
想像力を働かせて、イメージ豊かに読むということはこれまでの学Yでやってきた読み方でもあるので、お手のものといった雰囲気もしました。が、共感というところは、どうだったかなと思いました。マルタやマリアの葛藤や迷いを受けとめて読むことがどこまでできていたかな、という不満が残りました(全体の感想ではなく終わってからの個人的感想ですが)。それから「分かち合いによる深まりと変化」が聖書を読むことには必要と最初に大島さんの話にありましたが、このこともまだまだこれからの課題かなと思います。シニアの参加が多かったけれども、その人たちの生活のなかから読んだことや、マルタとマリアは同性愛のカップルではなかったか、という読み方を分かち合うことができたのか、ただ、「なるほどそういう読み方もあるのだな」という程度にしか受けとめていなかったのではないだろうか、という反省があります。
聖研は自分を発見する場でもあるが、相手(他者)と出会うこと…というのは、よく聞くし、言う言葉でもあります。特にミリアムが大切にしている「聖書の中の女性と出会う」ということは、そのことで自分自身の生きる元気、そして人と共に生きていく勇気や希望を得ることができるからだと思います。私たちが今手に取っている聖書には、女性はほんのわずかしかでてこない、しかも歪められ、疎外されている。その読み過ごしてしまいそうな小さな存在に目をとめ、想像力を働かせ、活き活きとした存在に読み解く。そして聖書には書かれていないその後の生き様を創っていくこと(物語をつくること)はとても楽しい。その時、その物語をその女性とたどることで、自分も一緒にいわば理想の人生を生きている。だからそれが楽しいし、元気になったりもする。けれど、その幸せ物語を紡ぐ前に、聖書の中で苦悩していることそのものに対して、言葉にだせないでいるその痛みに共感することが、私なりの言い換えでいうと、逃げださずふんばる、辛抱強さがもっと必要なのじゃないかと考えています。
報告と感想が混じってしまいましたが、今回のプログラムはミリアムの聖研にもそれぞれの聖研にもよい刺激になったと思います。一個所をこんなにじっくり読むこともそうだし、これまでの解釈の読み比べというやりかた、そしてこの企画を実現するために動きまわる(特に朝比奈さん、横山さん、おつかれさまでした)中で素敵な出会いがあったこと等、実りのある会でした。
最後になりましたが、この企画を提案していただき、多くのご支援をくださったクリスチャン・アカデミーのみなさま、ありがとうございました。(文責:黒木 智子)