「ユニとぴあ」連載記事の
ささやかなレビュー

田岡直博・深川博志

 「ユニとぴあ(ユニトピア)」は、創刊以来10年にわたってユニセフクラブのメンバーの自己表現の場であり、ユニセフクラブのパワーの源であり続けた。このことは、坂野さんが「ユニトピアを元気の出る栄養剤にしたい」と語り、菊地さんがユニトピアを「それぞれがどれだけユニセフクラブから『快』を得ているか、ドンと自慢しちまうチャンス」(No.53編集後記)といったことによくあらわれている。

 そして、時々の編集長の考えによって異なるが、「ユニトピア」の意義・役割はたとえば次のようにも語られてきた。「@ユニセフクラブの活動を記録し、AThe Unitopiansの問題意識を表明する場である」(別府さん)ことに加え、B情報提供の3つがユニトピアの役割である、と(西村さん、No.52編集後記)。ここでは、現在のメンバーの活動記録、問題意識を文章の形で記録することにより、知的財産を蓄積し、未来のメンバーの活動に役立てることまで意識されていたと言ってよい。

 けれども、ユニトピアは100号を超える膨大な量に達している。過去の記録を調べたいと思ったとしても、過去のユニトピアをいちからひっくり返して調べ直すのは困難というものであろう。すでに偉大なるOBのひとりである永井さんは、「『ユニトピア』に対する雑感」と題する文章において、特に「ユニセフクラブの知的ストックという機能もユニトピアを通じて充実させることが可能ではないか?」という提言をしていたのであった(No.82)。そして、この提言を現実化するひとつの形が、この100号に掲載した「研究発表レビュー」である。

 とすると次に期待されるのは当然「ユニトピア」の記事のレビューであろう。研究発表のレビューがあるのに、ユニトピアに無くてよいはずがない。ユニトピアには、研究発表とは違った魅力ある文章が、旅行記、エッセイなど様々な形で収録されているからである。

 ここでは、そのような大いなる野望のための小さな一歩となるべく、編集者によるささやかなレビューをお届けしたい。

ただ、あらかじめ次のことをお断りしておかなくてはならない。
・どのような記事を取り上げるかは全く編集者の主観によったこと
・レビューといっても、多くは単なる内容の要約にとどまること
未来のメンバーによって改訂され、さらに充実した内容のものとなることを願いたい。


(分類記号) ■定型文書  □講演録  ○旅行記  ●自由原稿  ◎その他


No.1-49 (1989-1993)

深川博志
加筆修正(*):田岡直博

■ From the Press(創刊号〜)

 新聞記事をもとに自分の考えを記すこのコーナーは、時々途切れながらも現在まで連綿と受け継がれている。創刊号のFrom the Pressでは、ODA評価の充実を訴える朝日新聞社説をもとに、「問題なのはあいまいな援助を許している国民一人一人の意識レベルであろう」と、ひとやすみ氏が述べている。

□ ルベン=アビド氏講演会「病める日本をみつめて―アジアからの視点」(創刊号〜1989年6月号No.2)

 1988年11月12日にユニセフクラブが主催した講演会の、講演と質疑応答の記録。ルベン=アビド氏は、「日本は『世界の癌細胞』で、近くの細胞をどんどん踏み潰してゆき、やがては全体が死に至るという病にかかっている」と言い、フィリピン社会での経験からこの病の症状をみて、処方箋を述べる(創刊号)。6月号には質疑応答が掲載されている。

■ 活動報告(1989年6月号No.2〜)

 京大ユニセフクラブがある限り、このコーナーはなくならないだろう。

◎ 北本氏迷言コーナー(1989年6月号No.2〜1990年3月号No.9)

 5月30日「梅雨は6月中に明けると見たね」→6月某日「梅雨明けは7月10日に延期!」 「GさんはB型、隠しても分かる!」(編註:別に隠してない) 「過激派はB型じゃなきゃやってられないよ!」 「白雪姫の城がなかったらディズニーランドじゃない」 「なんとか日曜までは生きててくれ!あとは死んでもいい!」(シンポジウム「くらし・京都・アジア」とアジア文化交流祭の直前の発言) 「活動家は話がながい!」 「ユニセフの部員は2年目になると絶対うるさくなる」 「時代祭は原始時代から、イヤ生命の誕生からすべきだ」 「二日酔いで教習所に行ったら、すいすい運転できた」 以上、当時のまま採録させていただいた。

□ アムネスティ京都アノミーグループ中国緊急キャンペーン趣意書(1989年6月号No.2)

 京大ユニセフクラブのお友達団体、京都アノミーグループによる、天安門事件のキャンペーン。

● 同時代史としてのユニセフクラブ(1989年7・8月号No.3〜1990年4月号No.10)*

 当時4回生であった永井史男さんによる、「ユニトピア」初期を代表する大型連載。誕生前夜から、4月5日のユニセフクラブ設立を経て、渡辺浩平に部長を引き継ぐまでのおよそ2年間の軌跡を、詳細な資料に裏付けられた緻密な筆致で綴る。その第1回の「まえがき」には次のようにある。

 「私がこれからここに書こうとしていることは、1年間部長を務めたことのある私から、今後もユニセフクラブに関わろうとする人たちへのメッセージである。組織というのは、メンバーが主体的にかかわってこそ、初めて機能するものだということ、4年前に私たちの先輩が、いったい何を考えてユニセフクラブを作ったのかということ、そしてなにより、設立当初の『血』がなお脈々と流れており、その中で今日皆さんが、新しい『血』を日々作りかえているのだと言うことを明らかにすることにある。」

資料的にも極めて価値の高い文章であるから、ここで簡単にまとめておこう。

 「第T部 ユニセフクラブの誕生」では、ユニセフクラブが誕生するまで(1985年4月まで)と、実際に活動を開始するまで(9月まで)の2つの時期を扱っている。

 誕生前夜を扱った部分においては、「粟野構想」が、1月27日の「薬袋構想」に、そして4月5日の「京大ユニセフクラブ(凖)設立にあたっての合意事項」にと発展してゆく過程とその間の理念の変遷を明らかにしている。 設立から活動開始まで扱った部分においては、ユニセフクラブ最初の活動として撒かれたビラを素材にして、初期のユニセフクラブが第2次アフリカ飢餓を通じてアプローチを開始したこと、そのメッセージには4つのテーゼ(「飢え」「子供」「ヴォランティア」「自分たちの生活」)が含まれていること、を明らかにしている。

「第U部 アイデンティティを求めて」では、1985年の11月祭を挟んで、ユニセフクラブの担い手が、薬袋・太田から1回生(一矢、北本、永井、真鍋)や林・野村に移っていく期間を扱っている。10月初めに突然告げられた薬袋・太田の引退表明は残された1回生に衝撃を与えたが、そのことはかえって1回生に危機感をもたらし、結束を固めることとなった。その原動力となったのが「1回生読書会」であり、ここにおいて「南北問題」という共通の問題意識が確認されたのだという。

 「第V部 飛躍へのテイク・オフ」では、ユニセフクラブの運営・執行体制(「86年体制」)を基本的に規定することになる一連の経過について扱っている。

ここでは、「知る・伝える・助ける」の3本柱を基礎とした「永井構想」のもと、具体的にどのように新歓活動が展開されたか(講演会、学習会、読書会)、ユニセフ関西市民の集いとの関係どう推移したか(財政問題)、が記述されている。この時期に敢行された「3号BOX乗っ取り・クーデター計画」も忘れてはならない。

「第W部 11月祭への道」では、夏休み明けから11月祭までの期間を扱っている。この年の11月祭では、活力を得たユニセフクラブが全力を挙げて教室展示、模擬店、講演会の3本立てに挑戦する姿が描かれている。

「終部 旅立ちへ」では、永井が中心となってユニセフクラブを牽引した「86年体制」が終わりを告げ、渡辺、尾崎、北本の「トロイカ体制」がスタートする経緯を記述している。永井は8月の「クーデター計画」を失敗を最後に、ユニセフクラブの運営から退くのであった。

 「(第3章)ユニセフクラブの問題状況」は、当時のユニセフクラブの抱える問題を総括的に扱っており、現在の時点から見ても極めて重要な問題提起をいくつか含んでいる。現在のユニセフクラブに関わる人にも、一読することをお勧めしたい。

● サヤ通信(1989年10月号No.5〜1989年12月号No.7)

 美馬真子(みま・なおこ)さんによる、「私がフィリピン大学大学院でジャーナリズムを勉強するかたわら、日本の友人達宛てに書いているものです。「サヤ」はタガログ語で「しあわせ」という意味で、アジアの人々がどんな幸福感をもっているのか、そんなことをテーマにした通信です。」

□ Speech by Mr. NELSON ROLIHLAHLA MANDELA(1990年3月号No.9)

 ネルソン=マンデラ氏が27年ぶりに釈放されたことを記念し、釈放直後に行われた演説の日本語訳を掲載している。

● 資料分類(試案)(1990年4月号No.10)

 永井史男さん作成。当時に比べ、特に書籍が大幅に増えた。ああ、大掃除、やらなきゃねぇ…

■ ブータン通信(1990年4月号No.10)

穂積智夫氏(当時ユニセフブータン事務所勤務)が日本の友人宛に書いていたものを掲載した。

● 続・同時代史としてのユニセフクラブ(1990年5月号No.11〜1991年9月号No.24)*

永井さんのあとを受けて、渡辺さんが執筆した「同時代史」シリーズ第2作。第1部ではトピック別に、第2部では時系列に添って、87年のユニセフクラブの歴史を綴っている。

● ブライトン記(1990年5月号No.11〜1990年11月号No.16)

1988年10月〜翌9月、イギリス南部のブライトンにあるサセックス大学開発問題研究所で学んだ三輪敦子さんによる報告。

● 「くらし・京都・アジア」顛末記(1990年9月号No.14〜1992年1月号No.28)

 1989年10月28日の国際シンポジウム'89「くらし・京都・アジア」がどのような経緯の末に開かれたか、5月の準備段階からシンポ実行後の報告書印刷まで、坂野一生さんが報告している。

● Auschwitz 1940-1945(1990年11月号No.16〜1992年11月号No.36)

 1990年の夏に、別府正一郎さんがアウシュヴィッツを訪れたところ、日本語のガイドブックが置かれていなかった。そこで英語のガイドブックを日本語に訳し、ポーランドに送る企画が始まった、という。この企画の後日談は、裏本さんの私の「アウシュヴィッツ」(1994年11月号No.56)で知ることができる。

□ 松井やより講演会報告(1991年6月号No.22〜1991年7・8月号No.23)

 1991年5月17日の新歓講演会の講演録です。「松井さんは、ジャーナリストとして女性の視点を大切にしながらアジアを歩き、人々の暮らしや思い出と出会ってこられた方で、ほぼ1時間半にわたって"南"の貧困の現状、開発・援助の実態やあるべき姿についてのお話がありました」(記事より)

● ごみ問題(1991年10月号No.25〜1991年12月号No.27)

 「まもなく処理能力の限界を迎える」京都市は「新たな清掃工場の建設と、ごみの減量を推進する行政機構の設置により、来るべき局面に備えよう」とした。これに関するボックスノート上でのK氏とTAMA氏のやりとりを、児玉英靖さんの手により掲載した。

● 南北問題についての処方箋(1991年11月号No.26〜1993年2・3月号No.39)*

 横田紀彦さんが全8回にわたって連載した、その名も「南北問題の処方箋」である。第1部<パースペクティブ>、第2部<大審問官的に>、第3部<新しい地平>の3部から構成されている。この論考を正しく要約することは編集者の力量をはるかに超えているが、おおまかな枠組みを素描するならば次のとおりである。

 <パースペクティブ>で、従属理論と構造的暴力の概念を用いて南北問題の構造を分析した上で(それは社会そのもの(私たちそのもの)に内在している病理だという)、<大審問官的に>においてその処方箋の作成を試みる(「大審問官」とは『カラマーゾフの兄弟』の中に出てくる挿話の登場人物である)。支配と隷属を決して取り除くことができないのだとすれば、これを前提にした上で、しかし世界中が対等で平和な社会を築くことを考えなければならない。そのための基本モデルとして、横田さんは「沈黙の艦隊」を採り上げる。「やまと」(「沈黙の艦隊」に登場する史上最強の原子力潜水艦)は、南北問題の諸矛盾の根本原因の具象化であり、病理の体現者である。「やまと」が存在する限り安定と平和がもたらされるのだから。そしてこの「やまと」が姿を消すとき(「幻想」となるとき)処方箋は完成するだろう。

 しかし、決して「大審問官」のささやき(「幻想」)に耳を貸してはならない。目指すべきは処方箋の完成ではなく、処方箋の「幻想」を突き抜けることなのだ。「病理とは私たちに内在しているどころではない。私たちこそ病理なのである。」

 それでは、どうすれば幻想を突き抜けることができるのだろうか、病理が私たち自身であることに気づくことができるのだろうか。その答えを示すのが<新しい地平へ>である。

――ここまでで止めておく。後は読んでのお楽しみということにしておきたい。

□ カレンさんを囲んで(1991年12月号No.27〜1992年1月号No.28)

 1991年11月8日のネグロス・キャンペーン京都の公開学習会(カレン・ゴンザレスさんの講演)の記録を、内田晴子さんの翻訳・編集により、機関紙「HANGIN」増刊号から転載した。

● 続々・同時代史としてのユニセフクラブ(1992年1月号No.28、2,3月号No.29)*

 1988年に部長を務めた塩山清隆さんが、永井さん、渡辺さんの後を引き継いで執筆した「同時代史」シリーズの続編。けれども悲しいかな、93年2,3月号を最後にこの記録は途切れている。88年という年が「最も記録を残さなかった年」であったという事情が、作用したのかもしれない。

「その2」に記録されている座談会での皆の発言とそれに対する塩山さんのコメントは当時のユニセフクラブの抱えていた問題を浮き彫りにしていて面白い。

□ 高谷好一講演会「東南アジアが問うもの 森と海の世界の生き方」講演録(1992年2・3月号No.29〜1992年4月号No.30)

 1991年11月22日に行われた講演会の記録。

○ インドよ永遠に(1992年5月号No.31〜1993年4月号No.40)

 岡田邦夫さんのインド旅行記。編集子はインドに行ったことはないのですが、噂通りバイタリディー溢れる街の様子がうかがわれる。

□ チョウドリ氏講演会「国連って?ユニセフって?そして日本人は…」講演録(1992年6月号No.32)

 1992年5月14日の、ユニセフ駐日代表事務所長の講演会の記録。

● かんぼじあ通信(1992年7・8月号No.33〜1993年11月号No.46〜)*

 カンボジアでUNV(国連ボランティア)として働く坂野一生さんの通信を、芦屋カトリック教会の粟田さんのご協力によって転載した。No.43の「18号」「その後...」をもっていったんカンボジアを離れた坂野さんだが、「今度はカンボジアの草の根の共同体作りにほんのいくらかの手伝いをするべく……カンボジアにやってき」た、ということで20号から復刊した。「再発行にあたって新しい名前も考えあぐねたのだけれど、『続・かんぼじあ通信』や『新・かんぼじあ通信』というのもありきたりで芸がないし、『帰ってきたかんぼじあ通信』ではウルトラマンのようなので・・・同じタイトルにしたいと思います」ということである。現在も定期的に届けられている。

● 開発の政治経済学〜その理論的展望(1993年4月号No.40〜1994年1月号No.48)*

 パリ大学社会科学高等研究院に留学した別府正一郎さんによる論文である。
「日本では大学生向けの南北問題の理論書の教科書がな」く、個々の研究者の「研究成果をわかり易く体系的にまとめたものはな」いため、「NGOでの学習活動において、いきおい議論が高まっていかないという実態」を憂えた筆者が、「諸理論の解説をすることにより、今まで貯えてきた様々の問題意識を整理する機会を提供する」ために執筆したのだという(「第一節 今、何故理論なのか」No.40より)。

 ここでは、論文のおおまかな目次立てを示しておこう。

第1部 近代学派
 第1章 近代学派の背景
 第2章 近代学派の諸理論
 第3章 近代学派への批判と新しい展望

第2部 従属理論
 第1章 従属理論の背景
 第2章 従属理論の諸理論
 第3章 従属理論諸説への批判と新しい展望
 第4章 ウォーラーステイン(Wallerstein)の世界システム論
 第5章 内発的発展論

 ちょっと難しすぎるという人には、絵入り「番外編」もあわせて読むことをお勧めしたい(No.44)。

● 近未来小説「試案」(1993年4月号No.40〜1993年9月号No.44)

 門脇甲太郎さんによるラジオドラマ風文体の小説。「HIV感染者と非感染者が社会の中で共にどう生きていくか、についての1つの考え方を表したものです」(プロローグ)

● 私の英国滞在(1993年4月号No.40〜1993年10月号No.45)

 約1年間英国に滞在した鈴木亜希子さんの執筆。

◎「絵を見て考える」シリーズ(1993年4月号No.40〜1993年10月号No.45)

 途上国のメディアに載った、南北問題についての風刺漫画を表紙に掲載。


(分類記号) ■定型文書  □講演録  ○旅行記  ●自由原稿  ◎その他


No.50-99 (1994-1998)

田岡直博

● 1年目が過ぎて(1994年4月号No.50)

 当時、ユニセフクラブの代表に就任し、同時にユニトピア編集を務めていた西村宣彦さんが、2回生の4月を迎えるにあたって、「この一年の成果みたいなんをまとめてみたい」として、述べたものである。ユニセフクラブの意義についても考えさせられるところの多い後半部分をそのままの形で引用しよう。

 「ユニセフクラブは何のサークルかというと、原則的に『南北問題という問題をいかにして解決するか』について考え、勉強するサークルである。しかし、南北問題の解決策なんてものがあるのだろうか?『少なくとも55億人が日本人的生活をするのは無理に決まってる。』『じゃあ、解決できないのか?』『もちろんできる。日本人やアメリカ人がぐぐーっと生活水準を落とせばいいんや』『そんなもん不可能に決まってるやないか』『じゃあ、どうしたらいいんや』『まあ難しい問題っちゅうことやね』でおしまい。議論はそれ以上すすむはずもなく、(日本人には)すすめる必要もない。まあ、そら、そうだ。実現可能な解決策が『はい、これや』って出てくるようなら、こんな問題、とうの昔に誰かが実行し、解決している。それがないから、いまだ解決されていないのである。

 もうこのような実りのない議論をするのには飽きた。一般論をして、個人の無力さを『実感』して、結局なにもしない。(このへんは、1年前の自分を批判している)問題なのは、『自分』がどう考え、『自分』が何をするのか、ということ。(中略)『ユニセフクラブ』は、頭で考えている問題意識に関して何かするきっかけを与えてくれる場だと思う。何かやってみて、はじめて『理解』できるってものも、やはりある。少なくとも、あと2年ぐらいはこの場を利用したい。」

● 雑談再び・・・(1994年4月号No.50)、私がなぜ雑談をするのか?(1994年6月号No.52)、雑談余録(1994年7,8月号No.53)、返ってきた雑談(1996年2月号No.69)

現在高校の教員をしておられる児玉英晴さんによる、歴史にまつわるよもやま話である。イザナギとイザナミの間に最初に生まれた2人の子ども水蛭子と淡嶋は障害児であったという逸話、邪馬台国はなかったという本に衝撃を受けた話、高校で教育実習をした際の体験談や貿易ゲームの実践報告など。

● JCILの事務所開きに寄せて(1994年6月号No.52)

 現在もユニセフクラブと関わりの深いJCILであるが、その事務所開きを記念して長谷川さん、児玉さんからメッセージが寄せられている。

■ 編集後記(1994年6月号No.52)

 編集後記こそ、まさしく編集長の独壇場である。表紙とともに、その時々の編集長の色が強く反映される。まったくの印象論ではあるが、大きな流れを見れば、編集長は、だんだん非政治的、専門技術的、芸術的な職業へと移り変わっていっているという傾向が認められようか。現在では、表紙と編集は別の人間が担当するに至っている。

 1994年6月号では、当時編集長であった西村さんがその職を辞するにあたり、ユニトピアの役割を語っている。西村さんは、4代前の編集代表であった別府正一郎さんの言葉「ユニトピアは、@ユニセフクラブの内容を記録し、AThe Unitopiansの問題意識を表明する場である」をひいた上で、「私はこれにB情報提供を加えた3つがユニトピアの主な役割だと思います」と述べている。

 最後に、もうひとつだけ、西村さんの言葉をひいておこう。

 「別府氏は昨年度末にこうも言っていました。『別に、やりたくなかったら、ユニトピアを発行する必要はない。やりたいからやる、ということを忘れずに。』私はやりたかったから、1年弱編集代表を務め、N.K.さんがもっとやりたそうなので(?)彼女に譲りました。『ユニトピア』の一層の発展を祈ります」

 

■ New Face(1994年6月号No.52)

 この年の4月に新しく加わった岡本美哉さん、山田暁子さん、芦立秀朗さん、島戸圭輔さん、(No.52)、鈴木亮さん(No.53)らによる、「ユニトピア」定番の自己紹介である。New Faceのコーナーの編集を担当した島戸さんの弁。「気が付いたらここの担当になっていました。気分はまるで欠席した翌日、学級委員になっていた小学生のようです」。その島戸氏、No.60からはユニトピアの編集長をつとめることになる。その人柄故に、であろうか。

● フィリピン・スタディーツアーより(1994年9月号No.54. 10月号No.55, 11月号No.56)

 1994年の7月〜8月に、スタディーツアーに参加した海老沢さん、岸田さんによる「報告記」である。報告記というのは、報告と旅行記があわさったようなものということだろう。岸田さんの独特の表現に包まれて、ジプニーに揺られる気分を追体験できる。

○ なつやすみのおもいで(1994年9月号No.54, 10月号No.55)

 「1年7組20番しまとけいすけ」さんが、1994年の夏に挑んだ北海道旅行の記録である。その旅のルールというのが、@必ずひとりでいくこと、A主として鉄道を用いる、B宿には泊まらない、というかなりハードな内容。大雨には降られるは、夜は眠れんわ、美瑛の丘のてっぺんで自転車のハンドルが抜けるわと、散々な失敗談ばかりで、よくもまぁこんな面白い旅して来たな、というようなものになっている。

○ 私のアウシュヴィッツ(1994年11月号No.56)

 アウシュヴィッツの日本語ガイドブックを作ろうという計画が持ち上がったのは4年前のこと。2年にわたったその連載を最終的に担当したのが裏本さんであった(「Auschwitz 1940-1945」1990年11月号No.16〜1992年11月号No.36)。その裏本さんのもとに、ある夜舞い込んだ電話の内容は、「いや、今度ねアウシュヴィッツに行くからね、もっていこうと(児玉さん)」というもの。あわてて予定の形にして児玉さんに渡したという。

 結果的には、その当時には既に日本語のガイドブックが存在していたために、その単行本が役立てられることはなかったようである。しかし裏本さんは言う。

 「正直、少し拍子抜けしたが、今回このように過去の連載をいわば単行本化した作業は無駄ではなかった(と思いたい)。このガイドブックを通読したことのある人は現在の、あるいは過去の読者の中にも少ないだろうと思うが、一部読んだことのある人も全く初めての人も、是非通読してみて欲しい。百聞は一見にしかず。その足でかの地を歩き、その目で見る時の感動には所詮及ばないかもしれないが、あなたにいくばくかの想像力があればきっと心に響く者があるだろう。この書は今はBOXの本棚の片隅で、静かに陽の目を見る日を待っている。」と。

● わたしが19になった日(1994年11月号No.56, 12月号No.57, 1995年2,3月号No.59)

 当時19歳の誕生日を迎えたばかりの山田暁子さんがそれまでの自分史を綴ったもの。出生から、幼少時代、小学校時代を、印象的なエピソードを交えつつ綴っている。ちっちゃな頃はかなりやんちゃで小学校でも有名人?だったらしいが、「やっぱり人は年をとるにつれ丸くなっていくようで、今ではこんなに平和的な性格になっている」ということである。けれども同時に「自分が本当に『許せないこと』に対してはあの頃と同じように断固譲らない自分でいたい」とも。

○ エジプト旅行記(1995年1月号No.58, 2,3月号No.59, 4月号No.60, 5月号No.61, 6月号No.62, 7月号No.63, 8月号No.64, 12月号No.67, 1996年1月号No.68, 2月号No.69)

 おそらく旅行記としてはユニトピア史上最長の連載であろう。1995年の1月から1996年の2月まで実に1年にわたって連載された、鈴木亮さんの旅行記である。エジプトに行くことになったきっかけがまた面白い。

 「2年ほど前、私の祖母と祖父と2人でギリシャ・エジプトの旅に行く計画を立てていたらしいのだが、結局祖父が行きたくないと言いだしたためその計画はお流れになってしまった」(中略)「しかし、祖母のエジプトへのあこがれは果てず、『やっぱりやっぱりエジプトに行く』と決意したのである。しかし、祖父がリタイアしてしまったので同行する人がいない。さすがにひとりは心細い・・・。そこで、私に白羽の矢が立った」というのである。元気なお祖母さんに脱帽である(ただ本文ではあまり登場しない)。

● 釜ヶ崎越冬報告(1995年1月号No.58, 2,3月号No.59, 5月号No.61, 6月号No.62, 1996年1月号No.68)

「文:早坂直也(略してきしけん)、絵:ありむら潜」による、釜ヶ崎の越冬報告。一度見たら忘れられないイラストと、きしけんさんの文章が印象的。

□ NF講演録(1995年2,3月号No.59・未完)

 1995年11月20日に催された大野和興氏の講演録。テープ起こしは、菊地、西村さんが担当したようである。が、わずか1ページの原稿の末尾に「次号に又掲載します」という言葉を残して、次号以降のユニトピアに原稿の続きはない。

● 神戸は呼んでいる(1995年2,3月号No.59), 神戸と私(1995年6月号No.62)

 1995年1月28日に発行された1月号(No.59)は、その直前に起こった阪神大震災がユニセフクラブのメンバーにも大きな衝撃をもたらしたことを生々しく伝えている。「巻頭言」(西村さん)、「編集後記」(菊地さん)、「緊急報告震災後の西宮から」(芦立さん)と震災に関する原稿が並べられている。表題の文章は、西村さんによる震災ボランティアの記録とそこで考えたこと。

 西村さんの巻頭言から次の言葉を抜粋しておきたい。

「たくさんのものがこわれ
 たくさんのひとがしんだ

  ・・・ ・・・

 ものやひとを失うという事に
 どれだけ大きく心が動くかは
 それが存在していたときに持っていた
 愛情の大きさに比例するものだと思う
 私の心の震度が比較的ましだったのは
 私周囲の被害がましだったおかげだと思いたい

  ・・・ ・・・

 理性が感性を食べ尽くし、
 悲しみを失ったことに悲しむ姿の悲しさに気付いたのは、つい最近のことだ」

□ アジアの中にニッポン、ニッポンの中のアジア(1995年4月号No.60)

「1995年3月26日の、京都・大阪自由学校合同プレ企画において行われた講演を要約し、話体に戻した」もの。芦立さんの記録による。講演者は、金香百合(ECPAT関西、大阪YWCA)、高正臣(在日韓国民主人権協議会)、中田豊一(元シャプラニール)、村井吉敬(上智大学、IACOD)の4人である(役職は当時)。

● Let's 介護 with きしけん(1995年4月号No.60, 6月号No.62, 7月号No.63, 1996年9月号No.75, 1997年3月号No.79, 4月号No.80, ユニトピア新歓増刊号'97)

 「釜ヶ崎越冬報告」と並んで有名な、岸田さんによる長期連載。木村さんを介助する模様を詳細にレポートしている。これは読んでいただくほかない。ここでは、岸田さんが介護について語った次の言葉を引用しておくことにしよう(「ユニトピア新歓増刊号'97」)。

 「介護の在り方、それはかくあるべしと明示できるものではなく、頭だけで理解できるものでもない。非常に曖昧な言い方だが、それは結局のところ人と人との関係性かな、と僕は思っている。(中略)しかし残念ながらそのような関係性は今の日本の社会状況からは必然的には生まれてこない。そこに一歩踏み込んで欲しい。百聞は一見に如かず。きっと今まで見えなかったものが見え、新しい視点と関係性が生まれるはずだ。そして介護は常に必要とされている。例え月一でもローテでない不定期でもかまわない。何かの都合で偶々空いてしまったローテの空きコマを埋める臨時の介護も大切だろう。もちろん一度も介護をしたことがなく、どうも一歩を踏み出せない人もいるだろう。そんな人こそ僕に声をかけて欲しい。まさに『Let's 介護 with きしけん』である。僕と一緒に介護に入ろう。」

○ 夏の旅行記特集'95 増刊号

 95年の夏に、国内へ海外へと思い思いの地へ飛び立った5人による旅行記だけを収載した増刊号。北アルプス単独縦走の記録を収めた「ヨーツンヘイムの巨人達」(岸田)、11日間のマレーシア旅行の記録である「マレーシア体験」(藤田)と「南十字星を求めて」(細谷)、広島−福岡−長崎−熊本・水俣−鹿児島と国内を西へ南へと走った「8月の日々」(益山)、父の単身赴任先の訪問を兼ねてベトナムを旅したという「笑顔の国ベトナム」(衣斐)。全31ページのボリュームである。

 当時の編集長島戸さんの言葉。 「夏のゆにとぴあで『みんなの(旅行の)報告が楽しみです』と欠いたときには、休み明けのゆにとぴのネタ不足にならずにすみそうだ、という程度の軽い気持ちでした。ところが休みが空けてみるとネタ不足どころかそれだけで一冊のユニトピアができてしまいそうな量の旅行記が集まってしまったのでした。それならいっそ一冊のゆにとぴあをつくってしまえと(そこまで乱暴ではないんですが)「増刊号」の発想が浮かんだ・・・」 ということである。

 

ユニトピアに掲載される旅行記は多い。それだけでひとつのカテゴリーができてしまうほどである。特にこの95年頃は増刊号ができるほどに旅行記が飛躍的に増加した(それに反比例するかのように、その他の自由原稿の連載は減少している)。過去に例を見ない1学年13人という95年入学のメンバー数の増加がその一因であろうか。

 ここで、残念ながら掲載することのできなかった旅行記をまとめて紹介しておこう。

 菊地さんの「韓国旅行記」(1994年4月号No.50)、永野さんの「私のミンダナオ」(1994年5月号No.51)、児玉さんの「50日間世界一周」(1995年2,3月号No.59)、藤田さんの「水俣を訪ねて」(1995年4月号No.60)、「越南の風邪に吹かれて」(1996年3月号No.70)、岡本さんの「私のフィリピン旅行」(1995年4月号No.60)、竹中さんの「隣国旅行記」(1995年11月号No.66, 1996年1月号No.68, 2月号No.69)、福田さんの「8月1日マニラにて」(1997年4月号No.80, 1998年8,9月号No.93)などである。「四国紀行〜秘境祖谷を行く」(1997年1,2月号No.78)というのもあった。

● 96年ユニカフェ計画(1996年4月号No.70, 5月号No.71, 6月号No.72, 7.8月号No.73, 11月号No.76)

 96年のユニカフェ]は、「環境に優しいユニカフェ」がテーマ。有機、無農薬野菜、鶏肉などについて、浅井さんがユニトピアに発表した一連のレポートである。

● 日本人という言葉について(1996年9月号No.74, 11月号No.76, 1997年3月号No.79)

 最近のユニトピアで最も話題になった記事の1つ。片田 孫 朝日さんによる、「日本人」とは何か、そして「在日朝鮮人」とは何か、というテーマを扱った一連の考察である。

 まず、「@−日本人と朝鮮人のはざまから−」では、「日本人」という言葉は現在の日本社会ではどのような意味で使われているのか、について考察を加えている。そのきっかけとなったのは、片田さんの母が「日本に帰化した在日朝鮮人」であることによるという。いわゆる「普通の日本人」でもなく、いわゆる「普通の在日朝鮮人」でもない。それでは、「日本人とは何なのだろうか、朝鮮人とは何なのだろうか」、「母の存在を適切に言い表す言葉は何か」という疑問を抱いていたのだという。

 ここでの片田さんの結論を要約して示すと、次のとおりである。

 現在の日本社会では「日本人」という言葉は国籍/民族/人種(レイス)をごちゃまぜなままに表現するものとして使われている。このような曖昧な用法を許している一番の原因は日本社会の人種的・文化的同質性である。そして、その同質性は日本が島国であるという事情によって自然発生的に生じたのではなく、明治以降日本国家の一貫した外国人に対する排外政策と国民に対する同化政策のいわば人為的な所産なのである。

 このように述べた上で、片田さんは、『○○系日本人』という言葉が使われるようになることを希望すること、そのためには日本人という言葉を日本国民(シチズン)の意味において用いるべきであることを提案する。なぜなら、そのことが「自分を日本人という一言だけでは実現しえない存在だと了承することであり、同時に、日本国民の中に自分とは違った様々な肌の色や文化的要素をもった人がいることを確認していく作業になると思う」からだ、という。

 次の「A−さまざまな境界線−」は、10月号に掲載されていた岡本美哉さんの「日本を離れて」という文章に示唆を得て書かれたものである。岡本さんはその文章の中で「外国を一人で旅行しているとき、日本人と会うと『ほっ』としました」という表現を用いていた。けれども、そこで「日本人」という言葉で表現されているものは何だろうか、と片田さんは深く掘り下げてゆく。

 そこでいう「日本人」という言葉は、「民族的出自(ルーツ)」を意味するものではなく、「日本語圏の人間」の意味で用いられているのではないか。にもかかわらず、なぜ「クニ」が基準となってしまうのか。それは日本人の同質性という半神話、半現実を敷衍しているからではないか。

 そして片田さんは、「(日本人という曖昧な言葉で語ることをやめて、)現実に注意深く、具体的な場所や関係の中で変化していく自分の位置を(そして相手の位置を)意識し、語る言葉を選ばなければならないだろう。その作業は、1つの国というものにいつのまには引き込まれていく自分、言い換えれば、固定された抽象的なものへ一体感をもってしまい、そこに縛られていく自分を押し止めてくれるだろう」とまとめる。

 最後の、「B−朝鮮人が日本語を話すということ−」では、在日朝鮮人が日本語を話すという現象について考えるための初めとして、過去の歴史をひもといてゆく。現在日本に在住している在日朝鮮人がどのような経緯で日本に渡り、そしてどのような過程を経て日本語を身につけていったのか。そして、見落としてはならないのは、日本語を習得する過程は「植民地という現象」の一部であったことである、と片田さんは強調している。

 

 ただ惜しむらくは、これらに続いて連載されるはずだった最終稿がユニトピアに掲載されなかったことである。片田さんは最後に、「民族学校の話を中心に、戦後から現在までのスパンで、在日朝鮮人が日本語を話すことについて考えたい」と述べていたのであった。

 片田さんが民族学校テーマを扱った原稿として、「在日朝鮮人と民族学校、そして京都大学」(ユニトピア新歓増刊号'97)を紹介おきたい。

■ 巻頭言(1996年10月号No.75)

 数ある名言集の中から、特に印象的な島谷繭子さんの巻頭言を紹介しておきたい。

「鰯雲 弱い魚が鰯なら 弱い人とは私だろうか」

―1年10組国語の時間より―

◎ ヒマ人カミヤの誰が読むんかい!?中国古代史(1996年12月号No.77, 1997年1.2月号No.78,11,12月号Mo.86, 1998年1月号No.87, 2月号No.88, 3,4月号No.89)

 中国古代史に詳しい神谷厚毅さんが、ユニトピア誌上に発表した一連の論考。編集は歴史に疎いので正当な評価を下すことはできないけれども、彼の性格からしてかなりマニアックな内容のものとなっているのではなかろうか。歴史愛好家の方々の評を待ちたいところである。

● <ゴミ>から考える(1997年1,2月号No.78)

 京都市が、左京区静市に建設予定の清掃工場の建設を強行したことについて、河野雄一郎さんが当時思ったことを書いてある。河野さんは、この後も環境に関する原稿を連載予定であったのだが、残念ながら1回きりで終わってしまった。

○ 8月1日マニラにて(1997年4月号No.80, 1998年8,9月号No.93・未完)

 その存在感のわりには意外にユニトピアに原稿を書いていない福田健治さんの、「活動記録ノートから」と副題のついた連載記事の「その2」「その3」から。「その1」はバタンガス港の話であったが、未完である。

 内容は旅行記風であり、Miguelというフィリピン人に連れていってもらったストリップの話が何といっても面白い。福田さんは、その場所では、自分はいやおうなしに「日本人」「男性」であるという規定から逃れられなかったことに強い違和感を覚えたという。そして、その違和感を振り払うかのように、私はそのようなカテゴライズされた福田健治ではなく「The 福田健治」であると、そのような存在としての個人を相互に認めあえるような人間関係を築きたいのだと、熱く語っている。

● 再考、合成洗剤と石けん(ユニトピア新歓増刊号'97)

 1997年の4月には、新入生向けに広く配布する新歓パンフとは別に、ユニセフクラブのメンバーの問題意識を伝えるまとまった内容の原稿を集めた「新歓増刊号」が企画・発行された。

 この記事は、福田健治さんによって執筆された。結論だけを要約して述べると、「一般には合成洗剤よりも石けんの方が環境に優しいと言われている。しかし、かといって合成洗剤をやめて石けんに代えればすむのだろうか。問題は、洗剤の使用量自体の異様な伸び方にある。洗剤の使用量自体を減らすようなライフスタイルこそが求められているのではないだろうか。」というものである。

● 国籍のない子どもたち(ユニトピア新歓増刊号'97)

 下向智子さんの執筆による。表題の「国籍のない子どもたち」とはいわゆるジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン(JFC)のことである。下向さんは、マリアンさんのケースを例に挙げて、「なぜ日本に住みたいと願う人が日本で住めないのだろうか。なぜ子どもまでが収容所で過酷な生活を強いられ、自由を奪われるのだろうか」という疑問を抱かざるをえないとして、「少なくとも子どもたちが国籍や権利を持つことが当たり前になるように努力していくことは大切だと思うのです」と述べている。

● 「熱帯林問題」とは何か(ユニトピア新歓増刊号'97)

 環境問題に長く取り組んでおられた河野雄一郎さんの執筆によるものである。

大きく分けると、熱帯林問題の特徴、熱帯林破壊と日本との関係、問題解決に向けての3部から構成されている。まず「熱帯林問題」の特徴としては、@その生物の多様性が失われること、A洪水調整機能と土砂流出防止機能が失われること、B先住民の生活基盤を奪うこと、を挙げている。そして、そのような熱帯林破壊が日本とつながっていることを示すために、日本がどこの国から輸入し、そしてそれを何に使っているのかという木材貿易の説明と、それに対する取り組みとしてのNGOの活動を紹介している。最後にまとめとして、問題解決のためのひとつの方向性として「日本の林業に活気を取り戻し、そこで持続可能な森林経営を模索していくこと」が必要だと主張している。

● ダム問題を見る視点(ユニトピア新歓増刊号'97)

 ダム問題について関心を持って活動を続けておられる西村宣彦さんの執筆によるものである。

 ここでは扱われているテーマはかなり幅広く、徳島県木頭村の細川内ダムを例にとって、ダムは地域を活性化させるか、洪水対策や水資源の確保といった目的に合理性はあるかを検証し、意思決定のプロセスそのものを問い直すことで、最終的には世界規模での開発の在り方そのものへの疑問を投げかけるとったものである。その結果、ダムをめぐる様々な問題を総括的に示した内容になっている。

 「ダム!だむ!唾無!堕無!」(1997年1,2月号No.78・未完)も参照されたい。

○ さぬきうどん探究記(1997年6月号No.82, 7月号No.83, 8月号No.84・未完)

 福田、安藤、神谷、田岡の4人が、香川の奥地のうどん屋を尋ね歩き、さぬきうどんを朝から晩まで食べ回った、珍道中の記録である。「ユニトピアにこんな原稿を掲載していいのか!?」という疑問の声と、「田岡のまともな原稿よりよっぽど面白い」という賞賛?の声の両方が寄せられた。

○ 中国朝鮮旅行記(1997年11,12月号No.86, 1998年3,4月号No.89, 5月号No.90, 6月号No.91, 7月号No.92, 12月号No.96, 1999年1月号No.97)

 中国語を自在に操る井上雄介さんが、中国、北朝鮮に渡った1997年の長い旅の記録。印象的な冒頭文をここに引用しておく。

「はたしてこの路でよかったのか。この路を歩き出してもう、しばらく経つが、通り過ぎる人たちばかり。誰ひとりとして同じ方向に歩いていく人には会わない。誰もがみな思い思いの方向に猛進しているように思われて鳴らない。寄ってくるのは、何とかこいつを利用してやろうという奴ばかり。こちらを見て罵る奴がいる。連れ立って歩く友人もいなければ、もちろん恋人もいない。ひとり、ただひとり歩いて行く。信じられるものは何もない。自分自信でさえ怪しいのだ。太陽と磁石がだいたいの方向を教えてくれるが、地図は私を惑わす。人に路をたずねても、彼はまず、嘘を教えてくれる。旅が問題を解決してくれるというのはまやかしだ。旅に課した課題が問題解決であるなら、私は生きている間は旅を続けなくてはならないだろう。しかし、だからといって旅が逃避だとは思わない。むろん、時として逃避の性格を帯びることはある。だが、旅は、それでも旅は――――――――――。」

○ パプアニューギニア訪問記(1998年11月号No.95, 12月号No.96・未完)

 河野雄一郎さんが、マレーシア・ボルネオ島のサラワク州と、パプアニューギニアに1ヶ月半滞在したときのエピソードを綴った訪問記。初めて熱帯林の伐採現場を見た河野さんは強烈なショックを受けたという。そこに横たわる現実の悲惨さと自分の無力感、そして自己嫌悪。「結局、少し寝込んだ後、何とか立ち直り旅の後半に臨むことができた」と最後には綴られている。

◎ 「私とユニセフクラブ」「ユニセフクラブと私」(1999年3月号No.99)

 1999年3月に卒業された山田暁子さん、衣斐友美さん、下向智子さんが、卒業に際してユニトピアに寄せた文章。それぞれのユニセフクラブに対する想いが綴られている。


(分類記号) ■定型文書  □講演録  ○旅行記  ●自由原稿  ◎その他

100号の目次へ